「フォルマ1」とタピエとの出会い
ローマに落ち着いたアッカルディとサンフィリッポは、フラミニオ通りの「オステリア・フラテッリ・メンギ」に足繁く通ううち、やがて志を同じくする若い画家たち、ウーゴ・アッタルディ、ピエトロ・コンサーグラ、ピエロ・ドラツィオ、ミーノ・グェリッリ、アキッレ・ペリッリ、ジュリオ・トゥルカートらと出会うことになりました。
当時の有名無名の芸術家たちが集うオステリアで、意気投合した若い芸術家たちは、1947年、「Gruppo Forma1(グルッポ・フォルマ・ウーノ)」を結成。たった1冊だけ出版された雑誌「Forma(フォルマ=形式)」に、彼らが持つ共通の詩学=芸術的意図である「Manifesto Formalista(マニフェスト・フォルマリスタ(形式主義宣言)」の詳細を著します。そしてこの雑誌のタイトルが若い芸術家グループの名前の由来となりました。
「フォルマ1」のメンバーたちは、そのマニフェストで、過去20年のイタリア絵画との連続性を否定するのみならず、それを凌駕する抽象主義を毅然と宣言します。「(われわれは)形式主義者であり、と同時にマルクス主義者であり、マルクス主義と形式主義は両立する、と確信している」と断言し、「構造化されてはいても、写実的ではない芸術ー具象でもなく、物体を抽象化したものでもない抽象主義」を支持。彼らは形と記号を、その本質的基盤へと還元し、純粋な形の調和を重要視しながら、あらゆるシンボリックな、あるいは寓意的な見せかけを作品から排除することを目指したのです。
まず彼らは、抽象主義と写実主義に明確に分離した、当時のイタリア美術において相反する表現が歩み寄ることを提案し、抽象、具象の特徴をあわせ持つ、直感に基づく芸術を客観的な方法で表現することで、過去のイタリア絵画との連続性を否定しようとしました。また同時に、鑑賞者による作品における物語的な解釈をも拒絶しています。
この「フォルマ1」のコンセプトについては、「19世紀末から1930年にかけて熱烈に支持されたにも関わらず、スターリンによって弾圧されたロシアアバンギャルドの動きから影響を受けている」と見る批評も散見されました。
こうしてアッカルディは、サンフィリッポとともに「フォルマ1」が目指すプロテスト・アートの潮流へと身を投じることになるわけですが、1978年あたりのアッカルディの創作周辺からは、あらゆる政治的、イデオロギー的活動が消失したとしても、少なくとも戦後すぐの時代においては「芸術を高度に政治化されたツールとみなす世代」のひとりだった、ということです。
「フォルマ1」のメンバーであったピエトロ・コンサーグラの記憶によると、若いアーティストたちにとっての終戦は素晴らしい祝賀会であり、1947年、「フォルマ1」を結成した若いアーティストたちは、特権的であると同時に、美術界に寛大な歓迎を受けたそうです。いずれにしても、こうして戦後のイタリアの芸術運動の流れを追っていくと、20歳代前半の若いアーティストたちの、互いに影響しあう躍動的な実験の軌跡が垣間見え、瓦礫の中から表現の世界に希望を見出し、若者たちがひたすら突き進むことができる時代があったことを羨ましくも思います。
余談ではありますが、自らをマルクス主義と名乗った「フォルマ1」が、抽象主義、形式主義を標榜していたため、メンバーたちが参加していた当時の「イタリア共産党」党首パルミーロ・トリアッティからは、表現から具象芸術を切り離すことは「日和見主義」だと反発されています。そのときのトリアッティは具象芸術作品を創作しない、という「フォルマ1」の決定を認めず、政治家たちと画家たちの間ではちょっとした諍いが起こったようです。特に、のちに上院議員になった「共産党」を代表する具象画家で、「イタリア共産党」のシンボルをデザインしたレナート・グットゥーゾからはかなり痛烈に非難されています。
この頃の「フォルマ1」のメンバーたちは、「芸術の大衆化」という大原則を持つバウハウスに共感し、さらにイタリア未来派(ジャコモ・バッラ、ブルーノ・ムナーリなど)、ロシア・アヴァンギャルド、パリ派、モンドリアン、カンディンスキーのファンでもありました。この若い画家たちの「すべての人に新しい視覚的地平を提供する」という方向性、バウハウス的「芸術の大衆化」を、当時の「イタリア共産党」が肯定しなかったことには矛盾を感じますし、たとえ芸術家たちが党員であったとしても、従属する政党が、個々の芸術活動に干渉することなど現在では考えられないことです。このような経緯もあったせいか、アッカルディ自身はその後1956年に「イタリア共産党」を離れ、次第に政治的なイデオロギーからは遠ざかっています。
また1950年あたりには、「フォルマ1」に参加しながら、ブルーノ・ムナーリが所属していたミラノのMAC(Movimanto Arte Concretaー具体美術運動)にも、アッカルディはときおり参加するようになっていますが、「フォルマ1」の方向性とは多少の距離がある、「幾何学性を追求しながら、形の象徴的解釈を切り離して、『具体的』な抽象主義を追求する」MACに、完全に所属することはありませんでした。
こうして「フォルマ1」のメンバーたちは、1947年に初のグループ展を開催し、続いてプラハ、ローマやフィレンツェなど、多くのグループ展で成功を収めたのち、1951年に解散します。その後、アッカルディを含め、「フォルマ1」のメンバーたちは、それぞれの道を模索しながら、いずれも戦後イタリアを代表する重要な画家となりますが、記号と形という「フォルマ1」の形式主義のコンセプトを継承しながら、縦横無尽に発展させたのは、アッカルディだけだった、と言えるかもしれません。
時が進むにつれ、幾度となく実験を繰り返し、表現そのものを大きく変容させたアッカルディの、その創作の根本を突き詰めるなら、「フォルマ1」が提唱した「形と記号の本質的基盤への還元」です。また、グループのメンバーの中で、アッカルディだけが、現代アート界が過大評価してきた「創作→展覧会→市場→名声」という神話の危険性について、「一定の明確さを持ってそれを認識していた」ともトニ・マライーニは明言しています。
そのアッカルディは、1950年にフィレンツェの画廊「ガレリア・ヌメロ」で開いた初の個展ののち、1953年から1954年にかけては、記号とモノトーン(白・黒・グレー)に還元された抽象画、解読不能な形態の追求に取り組んでいきます。その色彩を強調するために、珍しい素材であるカゼイン(ミルクペイント)を用いるようにもなりました。
このモノトーンの作品群は、現代においても新しい、と感じさせる独特の有機的な動きが特徴で、白と黒の強いコントラストで、光が強く意識されています。「色彩以上に、わたしは常に構成と、そこから発せられる光の発散を愛してきました。モノトーン時代でさえ、光のコントラストはトラーパニの母である塩田のようで、まばゆいばかりだった」(カルラ・アッカルディの証言。societadelleletterate.it)
この時期のアッカルディの作品を、「フォルマ1」時代の仲間である抽象画家ジュリオ・トゥルカートは、「女性画家は常に繊細でなければならないという考えを払拭し、アッカルディはむしろどの画家よりも力強く思考を表現し、形に対する判断を下すことができる」と評しています。実際、アッカルディの創作は、芸術における繊細さと女性的だと考えられる特徴との結びつきを消滅させたい、という願望に基づいており、この時期に、解読不能な形態に取り組むことを決意していました。
1955年には、ローマの「ガレリア・サンマルコ」で開いた個展で、美術評論家であると同時に、国際的なキュレーターとして有名なミシェル・タピエと、アッカルディは出会うことになります。そしてその出会いから、パリで開かれた国際展覧会「individualità d’oggi (今日の個人ー個性)」を皮切りに、タピエのキュレーションによって、国内外で開かれる多くの展覧会に招かれることになり、海外でも知られるイタリアにおける最初の抽象画家のひとりとして、高く評価されるようになったのです。
ちなみに「アール・アンフォルメル(不定形芸術)」をコンセプトに、現代アート界に旋風を巻き起こしたミシェル・タピエといえば、当時の日本のアート界にも大きな影響を及ぼし、たとえば前衛画家である吉原治良が率いる「具体美術協会」とも重要な関係を結んでいたことは有名です。
当時、タピエが提唱した「アール・アンフォルメル」とは、「モダニズムを含む、秩序と構成に関するあらゆる伝統的な概念からの根本的な脱却であり、その潮流にあるアーティストは即興性、形式の緩やかさ、非合理性の追求を強調する」芸術で、この時代、「アンフォルメル」は抒情的抽象とされ、構成主義的な幾何学抽象が「冷たい抽象」と呼ばれるのに対し、「熱い抽象」とよばれたそうです(美術手帖)。ただし、イタリアで「アール・アンフォルメル」と関連づけられる作家は、エンリコ・ドナーティ、ルーチオ・フォンターナであり、時代が進むにつれ、表現を変化させることになったアッカルディは、数年でタピエからは離れています。
「時代における現代性とその意味を探求したい」との言葉を残したアッカルディは、その後も非偶像性を保ったまま、時代に応じて急進的な選択をし続け、ひとところに留まることはありませんでした。このように、常に新しい段階へと導く実験を繰り返すことにより、表現を再定義していくのが、アッカルディの創作の特徴であり、われわれ鑑賞者にとっての見どころでもあるわけです。
▶︎光彩と色彩、そしてフェミニズム