ニコリーニはパソリーニに共感していた?
ニコリーニはパソリーニとはまったく違う環境に生まれ育っているから、一概に深い共感があったとは言いがたいかもしれないね。しかし、その感性には共通項があることは否めない。彼もまた、ローマ郊外に住む、困窮した若者たちにおおいに共感していた。しかしニコリーニの父親は、有名な建築家で、イタリアの建築の権威でもあるアカデミア・ディ・サン・ルカのメンバーでもあるんだ。建築家として大きな功績がなければ、アカデミアのメンバーにはなれない。そんな建築家の息子であるニコリーニは非常に裕福な、恵まれた環境に生まれ育った人物だ。
Estate Romanaを発案する以前の彼を、大学構内や、街角で見かけては、僕はかなり反感を抱いていたんだ。そのころの彼はエレガントな緑のコートを粋にはおり、書類を入れる新品の皮革の鞄を小脇に抱え、颯爽と闊歩していた。憎たらしい奴だと思ったよ。当時の僕は、怒れる若者たちで形成した極左のグループに属していたから、彼は「敵」でもあった。僕ら極左の革命家にしてみれば、ニコリーニが属していたPC、『イタリア共産党』は「敵」、だったからね。われわれから見れば、PCは「保守」、「右翼」とも言える政党で大嫌いな存在。その政党に出入りするチャラチャラした奴らは全員、大嫌いだったんだ。
われわれ革命家を目指したグループは、弱者、困窮者、家のない人々、ひどい労働条件でこきつかわれている工員たちが、なんらかの改革で新しい生き方をオーガナイズできるような環境をつくりたい、と切望していた。たとえば空いている公共の建物を占拠する、というのはこの発想から生まれたもので、われわれもいくつか公共の建造物を占拠したよ。
イタリアの顕著な経済ブームというのは60年代に起こって、67、68年には工員の給料が上がりはしたが、その代償に奴隷なみの労働条件になる、という現象が起こってね。73年に原油危機(オイルショック)が起こり、欧州全体が危機状態となって、イタリアはあっという間に深刻な経済危機に見舞われた。この危機は2、3年続いたが、この数年の危機が、工員や若者たちに「希望がない」と思わせ、極端な極左ムーブメントに走らせたんだと思うね。「資本主義にもはや希望はない。未来はない。われわれが革命を起こさなければならない」とね。
その時代、もちろん自分はその背景を読んで行動していたわけではなく、周囲の学生たちの流れに単純に乗ったということだと、今になれば思うよ。そのころの学生たちは『イタリア共産党』の方針にはまったく賛同していなかったから、違う道を歩まなければならない、と考えていたんだ。そのころの『イタリア共産党』は、政府や右派、他の中央左派、つまり当時の権力、『キリスト教民主党』などと、合意を得ようと政治的なオーガナイズに余念がなかった。彼らは他の政党と合意することにより、資本家たちと手を結び、経済ブームを再来させる、という戦略を選んだというわけだ。したがってそのころのわれわれ学生は、共産党と言ったって、結局は資本主義的、キャピタリストじゃないか、と定義し、怒り狂っていた。
しかし成長していくうちに、他の欧州の国々と同じ道、つまり中央左派、中央右派との合意は、市場、資本家を巻き込んで、経済を機能させるために最上の策であったのかもしれない、と考えるようにもなったけれどね。一方あの頃のわれわれには、確固としたアイデアというものがなかったから。この危機からどのように脱出して、生き抜いたらいいのか、具体的な社会保障案を提議することもできなかったわけだし。
ニコリーニはいわば、既成の、あるいは伝統的ともいえる『イタリア共産党』の流れからやってきた男で、われわらの集会、工員のストライキにも参加したことがない。ところが急に共産党のなかで力を持つようになり―というのも当時、ローマの市長戦で共産党が勝利を飾り、市長の座を獲得したペトロセッリに、評議委員に任命されたからだが―そのころからニコリーニは、いままでのパーソナリティを180度変換させた。大抜擢だよ。三十代そこそこの経験のない若者を文化評議委員に抜擢するなんてね。ペトロセッリにはたいした先見の明があったということだがね。
そのころの若者たちは、文化のイノベーションを志してはいたが、それを実行する力、財力がなかった。それに『鉛の時代』の真っ最中、あらゆる可能性が閉ざされてもいた。暴力でしか、それを打破できないんじゃないか、とまで若者たちに考えさせるような時代だ。そんな不幸な時代、ニコリーニは若者たちのなかに眠っていた才能や、アイデア、情熱を引き出し、それを実現しようとしたんだ。彼は社会主義の政策における社会主義的環境で、Teatro Socialeをどのように表現できるか、ということを実験的に実現しようとしたんだと思うよ。
具体的には、どこで自分を表現したらいいのか、と道を探していた大道の役者たち、ミュージシャン、クラシックの音楽家、詩人たち、画家たちに表現の場を提供し、何処に出かければ出会いがあるかを知らなかった若者たちに行き先を提示した。彼のイベントの大成功は彼の実験の思わぬ大成功、偶発的なものではあったんだ。後年、彼も「まさかこんな大騒ぎになるとは思わなかった」と言っている。
今から過去を振り返ると、われわれの時代にはイノベーションが必要だった。Teatro Sociale、Vita sociale(個の生活に対応した社会生活)が必要だった。ローマという街はとても豊かな街だ。巨大な建造物、広大な広場、美術館、教会、何でもある。そしてそれはすべての人々、ローマ市民のものでもあるんだ。それをニコリーニは惜しみなく、平等に、人々に解放した。そのイベント、フェスタに参加したアーティストには有名な人々もいたが、無名のダンサー、音楽家、ストリート・アーティストが大半で、Estate Romanaをきっかけに才能を開花させ、重要なアーティストになった者たちが多くいるのも事実だ。ニコリーニは彼らに自分たちの作品を表現する機会を与え、彼らはその「場」で成長していったというわけだね。
ニコリーニはイタリア国外でも評価が高いですよね。
彼のカルチャー・イノベーションはヨーロッパじゅうで有名になったんだよ。新しい文化のスタイル、われわれが今まで知らなかった真正の社会主義的な文化の流れだ。こんなことが起こったのはローマ以外になかったんじゃないかな。この流れに魅了されたパリが、ニコリーニを招聘して、アドバイスを仰いだりもしたぐらいだよ。
世界中の有名アーティスト、イベントオーガナイザーが、報酬は一切いらない、一緒に仕事をしたい、とニコリーニに声をかけてもきた。ニコリーニと仕事をすることが、彼らのステータスになったわけだね。
彼はもちろん政治家ではあったが、建築家であったことは重要なことだと思うよ。彼は建築家としてローマという街の機能を知り尽くしていたんだから。それにただむやみに、思慮なく、ローマの中心部を市民に解放したのでもない。彼はローマの中心部が、そもそも「劇場」、スペクタクルの場であったことを知っていたんだ。彼が歴史に精通していたかどうかは定かではないが、直感的に、その事実を理解したのだと思う。ローマの古代からの都市計画を調べると、ローマの広場、建築物のデザイン、噴水のある場所などでは、つねにフェスタが行われていたことが分かる。力のある教皇、貴族、あるいは枢機卿が、市民に場を解放して、誰もが参加できるフェスタを開催していた。これは1800年後半まで続いたと言われているが、ローマの街はもともと、Teatro Socialeを形成するデザインになっているんだ。ローマの街並みそのものが劇場なんだよ。
街にはその記憶が残っている。時の教皇、貴族、枢機卿は死んでいなくなり、社会システムは変化するが、壁、石畳を形成する石、街はほとんど変化しないのだからね。ニコリーニはその街の記憶を読みながら、プロジェクトを練ったんだ。そしてローマという街は、いまだにTeatro Socialeの舞台となるために、美しいシノグラフィーを持ち、機能的であることを証明した。
実際のニコリーニはどんな人だったのですか?
非常に論理的なインテリだったが、と同時に直感的な人物だった。また背景に広大な文化を持った人物でもあった。彼の演劇の授業や、建築理論、歴史などのカンファレンスに行くと、その深淵な知識に度肝を抜かれた。スーパープロフェッサーだったよ。しかしやはり、それは彼の直感により導きだされた内容の講義でもあったけれどね。
たとえば彼のオフィスに、その日暮らしの若者が現れて「自分は偉大な音楽家だ、天才でもある」と言うと、彼は直感で彼が本物であるか、そうでないかを見分けることもできたんだ。これは、現在著名なオルガニストになった女性から、実際に聞いた話だけれど、彼女はかつてニコリーニのオフィスに直談判に行ったことがあるらしい。彼女はそのころ、奨学金をもらう貧しい音楽学校の女生徒で、しかも前の晩、友達と飲み明かして二日酔いのまま、ひどい格好でオフィスのドアを叩いたのだそうだ。「わたしには夢があるんです。ボロミーニがデザインしたキエザ・ヌオヴァにある、あのオルガンを弾いてみたい」ニコリーニの顔をみた途端、彼女はそう訴えた。そのオルガンは600年代に教会に設置されたもので、大変に貴重な教会の宝でもあるオルガンなんだけれどね。もちろん、普通は自由に弾けない代物だ。
ニコリーニはそれを聞くと、非常に軽い調子で「いいよ。ローマの管理局に言っておく。君に鍵をあげるよ」と言って、すぐに鍵を手配してくれた。「君の夢を実現させるといい」彼女は、その時の演奏で、大きな喝采を受け、それをきっかけに才能を開花させ、今では毎年ローマで開かれるオルガンフェスティバルを開催するまでの重鎮になったんだ。
ニコリーニは権力を持つ人物だったが、その力を誰にでも、分けへだてなく与えた。もし、今、ローマの文化評議委員に「劇場を貸してほしい」と言ったとしよう。彼は「君はいったい誰なんだ。どこの政党を支持しているの? 家族は? 誰か紹介状を書いてくれるような人物を知っているのかい?」といちいちうるさいことだろう。これが俗物、普通の権力者だ。選挙の票になるか、あるいは何らかの利益を得るか。それが権力者の仕事だと勘違いしている。ニコリーニにはまったくそんなところがなかったよ。
彼と時代を共にしたわれわれにとって、ニコリーニは大変に魅力的な人物だし、政治家のモデルともなる人物だとも思う。彼は常にふたつの世界を行き来していた。お金がなくとも、若くて野心的な芸術家、夢多きアーティスト、エネルギッシュな未知数を持つ人々の世界、しかし彼は政治家であり、大学の教授だったわけだから、オフィシャルな顔をも持つ必要があり、アカデミックなインテリ、あるいは政治家たちの世界とも交流していた。彼はまったく自然に、そのふたつの世界を自在に行き来し、その相容れない世界を調和させるキャパシティを持っていた。そこには、ほんの少しも葛藤はなかったんだ。
彼がいなくなったことは、僕にとっても、ローマにとっても、世界にとっても大変な損失だと思う。なかなか出てこないよ、あんな人物は。時代は変わっても、僕は彼のアイデアの本質が、世界じゅうで実践されることを、いつも願っているんだ。