カステッランマレーゼ戦争
さて、ロススタインの元、アルコールの密輸に大々的に着手したマンハッタンのルチアーノたちは、組織を強化するために新たなメンバーをリクルートしはじめます。その時に組織に加わったのが、ヴィート・ジェノヴェーゼ(ナポリ出身)、アルバート・アナスタシア(カラブリア出身)、ジョー・アドニス(カンパーニャ州)ら、非シチリア出身者の、多くのマフィア映画の登場人物ともなったメンバーです。
この新組織では、ランスキーとバグジーが「バグ&マイヤー社」を創立してアルコールの密輸を担当。物腰が柔らかく、包容力があるコステッロがアルコールを熱望する政治家や警察を「アルコールの密輸、密売を見て見ぬふりをするよう」賄賂で懐柔するスペシャリストとなりました。この時代の世間知らずの政治家や警察は、1度ギャングに関わることは魂を売ることと同じだとは知らなかったのです。
また、恐喝一般をジョー・アドニスが担当し、若き凶悪犯ヴィート・ジェノヴェーゼは、ルチアーノの副官、No.2となりましたが、ルチアーノに忠誠を尽くすアナスタシアとは違って、この男が無慈悲な曲者であることを、この頃のルチアーノは気づいていなかったようです。いや、映画「ゴッドファーザー」の台詞、「友は近くに置け、敵はもっと近くに置け」のように、ある程度気づいていたからこそ、No.2の権力をジェノヴェーゼに与えたのかもしれません。
ルチアーノの新組織は、こうして誰からも邪魔されることなく、自由に、膨大な利益を上げ続けましたが、1928年、ロススタインがいかさま博打で莫大な借金を背負い、その借金の支払いを拒絶したため銃殺され、それまでロススタインが支配していた違法ビジネスの統制は、たちまちのうちに崩れてしまいます。
しかも、このロススタインの死を境に、ルチアーノたちは自分たちの組織の身の振り方を考えなければならなくなり、それを知るシチリア権威主義の「マーノ・ネーラ」のマッセリーア、マランツァーノ両ボスが、ルチアーノの組織を懐柔しようとあの手この手で近づきました。ルチアーノたちは全員で会議を開き、どちらのボスの配下になるかを話し合いますが、もちろん全員がマランツァーノの方が優秀なボスであることは認識しながら、信頼できない、狡猾な人物だということをも同時に認識していたのです。
*1991年の映画「モブスターズ、青春の群像」では、ルチアーノ、ランスキー、コステッロ、シーゲルの4人を中心に、ロススタインとの関係を含め、そのサクセスストーリーが描かれています。かなり脚色されてはいても、ルチアーノの考え方そのものはリアルだったかもしれません。PartⅡで言及する、フランチェスコ・ロージ監督の「ラッキー・ルチアーノ(邦題 コーザ・ノストラ)」と比べると、米国とイタリアで、ルチアーノという人物の捉え方が大きく違うことが印象的です。
1929年5月には、アトランティック・シティとサウス・ジャージーの犯罪組織のボスであり政治家のイーノック・ジョンソンが、所有するホテルの宿泊、食事、娯楽に全米各地のマフィアのボスたちを招待し、同時に警察の干渉を受けないことを保証したマフィア会議が開かれています。
これはのちに全国犯罪シンジケートに発展する全米マフィアの顔合わせとも言える会議で、マッセリーア、マランツァーノを除く、ランスキー、ルチアーノ、シーゲル、トッリオ、コステッロ、アドニス、ジェノヴェーゼ、アナスタシア、ルッケーゼ、アル・カポネなど数十人の全国のボスたち、主要マフィアたちが招かれました。この会議では、ギャング間の輸入酒と密造酒の利益を巡る絶え間ない抗争、禁酒法が終了した場合、アルコールビジネスをどうするか、ギャンブル事業への投資の拡大、またシカゴの暴力問題(アイルランド系ギャングとの抗争)など、いくつかの重要な議題が話し合われています。
ところで、ルチアーノがその後「ラッキー・ルチアーノ」と呼ばれる所以となった、とされる事件が、アトランティック・シティ会議が行われた1929年の秋に起こっています。ルチアーノは、突然3人の男に銃を突きつけられるとリムジンに押し込まれ、スタテン島の倉庫に吊るされ、殴られ、アイスピックで刺され、右耳から左耳までざっくりとナイフで切られる拷問を受けたのち、スタテン島の砂浜に捨て去られました。あと少し遅ければ、命を失っていたところでしたが、運よくその場所をパトロール中だった警官に見つけられ、病院に運ばれて九死に一生を得たのです。
病院に見舞いに駆けつけたランスキーとコステッロは、「なんて運がいい奴だ」と感嘆し、その強靭な生命力が風の噂でギャングたちの耳に届くと、その時から誰もが「ラッキー・ルチアーノ」と呼びはじめることになった、というのが定説です。では、なぜファーストネームのルカーニアがルチアーノになったかというと、20回以上、警察に拘束された経緯のあるルチアーノなので、いつの時代かは定かではありませんが、逮捕された際、警察官が書類にルカーニアを「ルチアーノ」と書いた間違いが気に入って、そのままチャールズ・ルチアーノと名乗ることにしたそうです。
この瀕死の重症を負ったとき、ルチアーノは誰にやられたかを「オメルタ=沈黙の掟」を厳守して、決して口にすることはなく、何十年も後に「レッグス・ダイアモンドを探していた麻薬捜査官にやられた」などと話していますが、あらゆる映画やドキュメンタリーでは、マランツァーノが仕組んだ残虐な脅し、というシナリオになっています。確かに組織に組み込まれることを拒んだルチアーノへの、マランツァーノの「脅し、あるいは仕返し」という筋書きは分かりやすくはあっても、何ひとつ犯人の証拠は上がっておらず、やはり真相は闇の中、と言わざるをえないでしょう。
そうこうするうちに、1930年には、マッセリーア、マランツァーノ間で激しい抗争、前述した「カステッランマレーゼ戦争」が起こるわけですが、その組織間戦争が「違法ビジネスにとって何の利益ももたらさないどころか、妨害にしかならない」と考えるルチアーノに、のちにニューヨークの5大マフィアファミリーのボスとなるジョー・プロファーチ、ジョー・ボナンノ、カルロ・ガンビーノ、トーマス・ルッケーゼらも賛同するようになりました(イタリア語版Wikipedia)。
しかし、もはやどちらかのボスにつかなければ収拾がつかなくなったルチアーノたちは、結局マッセリーアの配下となることを選びます。というのもマッセリーアが支配する、マンハッタン中心部の縄張りが、ルチアーノたちにとって魅力的だったからです。また、この時のルチアーノたちは、ビジネスを中断させるだけの「カステッランマレーゼ戦争」に飽き飽きしていたと同時に、かねてから抱いていた「全員に有利なビジネス展開」のための一種のチャンスとも捉えていたのです。
そこでいったんマッセリーアに忠誠を尽くす約束をしながらも、ルチアーノはマランツァーノに極秘で接触し、副官として組織のNo.2になることを条件に、マッセリーアを消すことで合意を結びます。この経緯については、1963年当時ジェノヴェーゼ・ファミリー(ルチアーノファミリーからコステッロへ引き継がれ、ジェノヴェーゼがボスとなったファミリー)のソルジャー=下部メンバーで、FBIに協力し、米国ではじめて「コーザ・ノストラ」の存在を明かしたジョー・ヴァラキの、米国上院議会での公聴会の際にも語られています。
余談ではありますが、この公聴会が開かれたのはロバート・ケネディが司法長官だった時代で、着任した時は、共産主義専門捜査官が400人いたのに対し、犯罪組織捜査官はたったの4人という甚だしい手薄さにケネディは驚いたそうです。そこで任期中の4年間、ケネディは警察当局の活動を強化・指揮し、従来は各州の管轄に委ねられていた組織犯罪の捜査を連携させ一元化、司法省に若い官僚を動員して機構そのものを若返らせています。
なお、ジョン・F・ケネディの暗殺は、この公聴会の1ヶ月後に起きていますが、ジョンとロバートの父親が、密造酒販売で財を成し、マフィアと親密な関係を結んでいたことから、JFKの大統領選挙戦にマフィアの資金が流れ込んでいたらしいことは、周知の事実でもあります。父親はマフィアの取り締まりを強化するロバートに、首席法律顧問の座を降りるよう忠告しましたが、正義感が強い息子は耳を貸さなかったそうです。
さて、1931年4月、ブルックリン、ロングアイランドのレストランで起こったマッセリーア殺害の一般的に流布しているシナリオは、次のようなものです。
その日、マッセリアとの食事を終えたルチアーノが、ふたりきりのカード遊びの途中、トイレに立った数秒後、アナスタシア、ジェノヴェーゼ、アドニス、シーゲルらがレストランに押し入り、銃(あるいは機関銃)でマッセリアを蜂の巣にして逃走しました。現場にいたルチアーノは、何食わぬ顔で警察に状況説明をした、とも言われています。
しかしながらヴァラキは、かねてからマッセリーアを消すことを決断していたマランツァーノが、自分のソルジャーたちではその計画を実行することができず、結局マッセリーアは、自分のファミリーの者たちに殺された、と発言し、ルチアーノ、ジェノヴェーゼ、チーロ・テラノーヴァが、その殺害において重要な人物たちだ、としか語っていません。また現場には、他にも多くのキラーたちがいたようです。
こうしてマッセリアを殺害したのち、ファミリーの縄張りと違法ビジネスを引き継いだルチアーノは、約束通り、マランツァーノのNo.2になりました。このときマランツァーノは、ニューヨークのイタリア系シチリア・マフィアを、プロファーチ、ボナンノ、トム・ガリアーノ、ヴィンセント・マンガーノ、そしてルチアーノをボスとした5大ファミリーとして再編し、マランツァーノ自身、すべてのファミリーを支配する「The boss of all bossesーボスの中のボス」として、権力の頂点に立つことを宣言します。また、それぞれのファミリーのボスの下に、副官、幹部(caporegime)、ソルジャー(下部メンバー)という階級を作り、ピラミッド型の組織を構築しました。
ところがマランツァーノの栄光は、それほど長くは続かないのです。自分の仲間であるユダヤ系ギャングであるランスキーやシーゲル、そしてカラブリア出身者であるコステッロを、決して仲間とは認めない、マランツァーノの古臭いシチリア権威主義と権力欲を、ルチアーノは憎悪しており、誕生したばかりの「ボスの中のボス」をできるだけ早く始末しよう、と仲間たちと共に着々と準備を進めていたからです。というか、ルチアーノがマッセリーアを選んだ時点から、「ふたりのボスを消す」というシナリオは構築されていたのかもしれません。ちなみはヴァラキは、この時マランツァーノのボディガードとして雇われていたそうです。
同時にマランツァーノもまた、自分の副官であるルチアーノが最も危険であることを悟っており、秘密裏にルチアーノの殺害の準備を進めていましたが、ルチアーノはルチアーノで、ランスキー、シーゲルの助けを借り、マランツァーノを襲撃する周到な計画を進めていました。または、マランツァーノがルチアーノを狙っていることを知った他のボスたちが、ルチアーノに耳打ちした、とも言われます。
1931年9月、いたって警戒心が強く、最強の警護で部屋に閉じこもって隙を見せないマランツァーノに近づくために、ランスキーたちは税務捜査官に変装させた4人のキラーを、セントラルステーションの上階にある「ボスの中のボス」のオフィスに送り込みました。まんまと騙されたマランツァーノをひとり部屋に閉じ込め、はじめは音を立てないようにナイフを使いましたが、マランツァーノの抵抗が激しかったため、最後は銃で息の根を止めています。この計画のために、ランスキーたちは、キラーたちが完全に税務捜査官に見えるよう、夏の間中、服装から話し方、動き方まで演技指導を行うほど念の入った殺害でした。
またこの日の夜、マランツァーノを支持する全米のボスたち40人が一斉に粛清され、「シチリア晩鐘の夜」とも呼ばれる大虐殺が行われたという説がありますが、現在では数人が殺害された事実はあっても、実際はあとから作られた伝説に過ぎない、という歴史家の声が多いようです。
▶︎全米犯罪シンジケートの設立