ロススタインと禁酒法
1917年になると、チャールズ・ルチアーノはフランク・コステッロ、マイヤー・ランスキー、ランスキーの友人でユダヤ系移民のバグジー・シーゲルと組み、小規模なギャング・グループを設立します。このメンバーのうち、ルチアーノ、コステッロ、ランスキーの3人は感情のコントロールが効き、何事にも冷徹に立ち向かうことができましたが、バグジー・シーゲルはその正反対の性格で、瞬間的に怒りを発散するタイプの恐喝向きの男だったそうです。
その頃の4人は、窃盗や強盗を繰り返して資金を蓄積し、それを闇賭博に投資して、その賭場を保護する見返りとしての「みかじめ料」を取り立てることで利益を得ています。この違法ビジネスの成功で、20歳そこそこの若者たちにとっては、数えきれないほどの大金が転がり込んできましたが、本格的な富を得るようになるのは、まだ先のことです。
この若いギャング・グループが特殊だったのは、当時の米国の労働組合からインスピレーションを得て、個人が利益を独占することを禁止し、葛藤のない安定した犯罪組織を形成するために、あらゆることを4人で話し合い、利益を平等に分配するシステムを構築していたことでしょうか。そしてこのスピリットが、のちに創設される全米犯罪シンジケート「コーザ・ノストラ」の中核として、組織の頂点となる「コミッション(委員会)」へと続いていくことになるわけです。
ところで、この時代に彼らの「メンター」となったのが、「華麗なるギャツビー / F・スコット・フィッツジェラルド」の、マイヤー・ウルフシャイムのモデルともなったアーノルド・ロススタインという人物です。ロススタインはユダヤ系ギャングのキング・ピンとして、当時の暗黒街に名を馳せた企業家及びギャンブラーで、ランスキーを通じて知り合ったルチアーノ、コステッロ、バグジーをその配下に置くことになります。このロススタインの配下には、他にユダヤ系ギャングのダッチ・シュルツ、アイルランド系ギャングのレッグス・ダイアモンドなど、のちに暗黒界に名を轟かせたギャングたちもいました。
ユダヤ人アシュケナージの比較的裕福な 家庭に生まれながら、ロススタインはギャンブル狂で、若い頃から闇賭博に入り浸り、やがて自ら賭博場を所有して、高利貸し、競馬場への投資などで30歳までに億万長者になっています。マンハッタンの賭博場すべてを仕切るほか、野球賭博、ボクシング賭博などでも有名で、1919年のワールドシリーズでは八百長を企てた一味に複雑なルートで加担するなど、プロスポーツ界の汚職を組織したことでも広く知られました。しかしながら、大騒動となったワールドシリーズのこの八百長試合には、ロススタインが関与した証拠が何ひとつ残っておらず、大金を賭け、法外な大勝利を収めたにも関わらず、ロススタインは結局不起訴となっています。
「ブレイン=頭脳」と呼ばれ、「組織犯罪をチンピラによるチンピラ的な活動から、会社のように運営される大企業に変え」、「20世紀初頭の資本主義の真理(人々が欲しいものを与えるーこの場合、ギャンブル、アルコール、麻薬)を見抜き、それを支配するようになった」(英語版wikipedia)ロススタインは、ストリートの犯罪で稼ぐ4人のギャングたちに、真の稼ぎ方を教え、特に政治家や裕福な企業家たちで形成された上流社会でどのように振る舞い、動けばいいのか、フォークとナイフの使い方に至るまで、こと細かに教え込んでいます。またルチアーノが生涯、オーダーメイドの服や靴、シルクのシャツを纏い、常にエレガントな紳士として振る舞ったのも、このロススタインの影響です。
この経緯については、英語版のWikipediaに興味深いエピソードがありました。
「1923年、ルチアーノはヘロインの売買でおとり捜査官に捕まった。刑務所に収監されることはなかったが、麻薬の密売人であることが露見し、上流階級の仲間や顧客からの評判は地に堕ちた。評判を回復するために、ルチアーノはブロンクスで開催されたジャック・デンプシーVS.ルイス・フェルポのボクシングの試合の高価な席を200席買い、政治家や一流のギャングたちに配った。ロススタインは、ルチアーノをマンハッタンの高級百貨店に連れて行き、高価な服を揃えさせた。この作戦は成功し、ルチアーノの名声は守られたのだ」
この時、会場でルチアーノを見つけた政治家や一流のギャングたちが、われ先に、と握手を求めて自分に群がったのを見て、「金の力とは、なんとすごいのだろう」とルチアーノは感嘆したそうです。
*アーノルド・ロススタインは、実業家であった父親の仕事の関係から、銀行関係にルートを持ち、その一部から支援を得ていたそうです。また、きわめて広範囲の情報ネットワークを持ち、出所が不明であっても有益な情報提供者には高額な謝礼を払っていました。
さらに、1919年に可決した「アメリカ合衆国憲法修正第8条」ー消費のためのアルコールの製造、販売、輸送を全面的に禁止する、いわゆる「禁酒法」がビジネスになることをいち早く見抜き、裕福な政治家や企業家たちが狂喜した高級酒スコッチを、大西洋を横断する貨物船で、最初に密輸したのもロススタインでした。さっそくランスキー、ルチアーノらもロススタインの配下でアルコールの密輸システムを確立し、あっという間に莫大な富を得るようになります。
そもそもこの「禁酒法」は、人々からアルコールを遠ざけるどころか、むしろ人々に渇望させる法律でした。密造酒、密輸品を求め歩く人々が街を彷徨い、政治家や有力者たちが集まる高級ナイトクラブでのアルコール密売文化を花開かせ、暗黒街を大きく成長させることになった事実は、あらゆるマフィア映画で知るところであります。
なおシカゴに移動し、ジャコモ・コロージモから「アウトフィット」を引き継いだジョニー・トッリオもまた、法律が可決する以前から、「禁酒法」ビジネスを見込んでおり(ロススタインの影響で)、早速シカゴ郊外に密造酒工場を作って、1920年に法律が施行されたと同時に大儲けしています。
そしてそのトッリオがNo.2として選んだのが、このころすでに2件の殺人を犯していたアル・カポネでした。しかしシカゴでアイルランド系ギャングとの抗争が激しくなったと同時に、「自分は暴力には向いていない」とトッリオはカポネに「アウトフィット」を譲ってニューヨークに舞い戻り、再びラッキー・ルチアーノらに協力するようになります。こうしてトッリオがシカゴを去ったあと、「シカゴの真の市長」と謳われたアル・カポネの、高級葉巻とダイアモンドの指輪、そして夥しい虐殺に血塗られた物語がはじまるわけです。
*ロバート・デニーロがアル・カポネを演じた、1987年ブライアン・デ・パルマ監督「The Untouchables」ではエンニオ・モリコーネが音楽を担当。モリコーネはこの映画でアカデミー賞「音楽賞」を獲得しています。エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」のオデッサの階段の乳母車シーンが挿入されるなど、きめ細かい演出で、他のイタリア系監督とは一味違うマフィア映画です。
ところでその頃のマンハッタンのマルベリー通りは、といえば、シチリア・マフィアとしてニューヨークに渡ってきた、保守的なイタリア系ギャング第1世代、「マーノ・ネーラ」のボスたちがいまだに牛耳っていました。相変わらず爆弾、放火、誘拐、恐喝という古臭い暴力でリトル・イタリーを支配し、「シチリア人以外は認めない」排他性、名誉、伝統、儀式の重要性を振り回して、非シチリア出身者の若いギャングたちをうんざりさせていたのです。
ルチアーノはシチリア出身者ではありましたが、「マーノ・ネーラ」の頑なな排他性は、「アイルランド系ギャングやユダヤ系ギャングとの競争に負けるだけで、まったく意味がなく、まずビジネスライクでない。大切なのは、名誉、伝統などではなく、合理的に金を稼ぐことのみ」と考えていましたから、ユダヤ系ギャングのランスキーやバグジー、そしてカラブリア出身のコステッロらとともに新しい形の犯罪帝国を築くため、機が熟すのをひたすら待つことになります。ロススタインに強く影響を受けたルチアーノのそのときの構想は、イタリア系、ユダヤ系、アイルランド系ギャングが資金を出し合い、全員にとって有利なビジネスを展開する、近代的な犯罪組織のあり方でもありました。
一方、その時代のシチリア・マフィアのボスといえば、件のヴィート・カッショ・フェッロの仲間であったジュゼッペ・モレッロからリトル・イタリーの「マーノ・ネーラ」を引き継いで(モレッロを相談役に)、売春宿の経営、リトル・イタリー限定の闇ロト、密造酒の一部を手がける、教養がなく、貪欲で、英語も喋れず、手でスパゲッティを食べるような品位の欠片もないジョー・マッセリーア、そしてマッセリーアに比べると英語も堪能で、「神学校に通い、ラテン語をも学んだ」教養人サルヴァトーレ・マランツァーノのふたりが双璧でした。ちなみにマランツァーノは、ムッソリーニのマフィア撲滅キャンペーンを逃れ、1925年にニューヨークに高飛びしたシチリア、トラーパニのボスです。
いずれのボスも強固なシチリア主義者で、特にマランツァーノは「権力欲が強く、組織の頂点」として、ボスの中のボスに君臨したがっており、このふたりのボスがやがて、多くの(一説には500人もの)死者を出した「カステッランマレーゼ戦争」を引き起こすことになります。ルチアーノはふたりのボスの間に、いずれ抗争が起こることを、かなり前から予見していたようです。
▶︎カルテッランマレーゼ戦争