ラッキー・ルチアーノ PartⅡ: 第2次世界大戦における「アンダーワールド作戦」とそれからのイタリア

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シチリア上陸、「ハスキー作戦」

さて、1943年ごろになると、ルチアーノが勾留されたグレートミドウ刑務所には、ギャングマフィアだけでなく、米海軍の大佐たちまで多くの人々が頻繁に通っていたそうで、彼らの名前が記された訪問名簿はハッフェンデンが厳重に管理し、ペンタゴンにも秘密にされました。

その頃ルチアーノの命を受けたギャングたちは、まるで愛国者のように誠実に働き、ファランヘ主義者(スペインの)やファシストたちが秘密裏にオフィスとして使っていたビルは、清掃人に変装したソルジャー(マフィアの下部メンバー)たちに厳重に監視されていたそうです。

やがて連合軍がシチリアに侵攻するために北アフリカまで到着すると、シチリア出身イタリア系移民は、情報源として貴重な存在となりました。侵攻前に、シチリアに関するできるだけ多くの情報を集めるために、海軍情報部ではチームが組まれ、ハッフェンデンはそのチームにもルチアーノを巻き込んでいます。

「海軍は、シチリアの港、運河、川、水源が分かる地勢図が必要としている。そしてそれ以上に、海軍に協力してくれる信頼できる住人が必要だ」

ハッフェンデンがルチアーノにそう伝えると、最近米国に移民したばかりの、シチリア出身のイタリア系移民たちが海軍情報部に続々と現れて、それぞれの故郷の村の特徴を語り、シチリアで漁師の経験がある移民たちは、シチリア沿岸にあるや、あまり知られていない運河、道路の情報を伝えたのです。そしてその情報を基に、米国海軍はシチリアの詳しい地形図を作成していきました。

と同時に、海軍情報部はシチリア・マフィアの情報をも収集しますが、ナポリ出身のジョー・アドニスが、過去に資金援助をしたことがあるシチリア出身のマフィアたちに、シチリアで勢力を持つマフィアの情報(と言っても、ムッソリーニ抑圧されていた時期です)を提供するよう動いたそうです。またこのとき、「マーダーインク」の幹部であったヴィンセント・マンガーノも膨大な情報を提供したと言われます。

こうしてアドニスが集めリスト化された重要なシチリア・マフィアたちのうち、「ボスの中のボス」であったドン・カロジェロ・ヴィッツィーニが、英米軍のシチリア上陸「ハスキー作戦」の最中、特に大きな助力をしたとされ、そのドン・カロジェロが、米軍からヴィラルバ市長任命されたときには、彼が同盟軍を助けたことに対する見返りだ、との囁きがシチリア中に満ちたそうです。

いずれにしても、アドニスが収集したと言われるこのリストが本当に存在したのか、あるいは伝説に過ぎないのか、と現在でも議論され続けるわけですが、たとえば戦後のイタリアを代表する作家レオナルド・シャーシャも、リストの存在を確信する人物のひとりです。また、元パレルモ検察局長で現在上院議員であるロベルト・スカルピナートは明確にではありませんが、次のように述べています。

イタリア政府議会アンチマフィア調査委員会は、英米軍のシチリア上陸が、それまでムッソリーニに弾圧されていたマフィア再生起源と定義している。また米国組織犯罪調査委員会の記録にもルチアーノは収監中に海軍情報部と15~20回のセッションを行ったと書いてある。さらにクリントン時代に公表された機密書類によると、海軍がシチリアに上陸したのち、北上するためにシチリアに重要な基地を残さなければならなかったが、その際、現地の者にまかすか、2000人ほどの兵士を残すか、海軍上層部は迷っているのだ」

「つまり、そのころの米海軍は、シチリアを高級マフィア(裕福な権力者)、及びその下部組織が牛耳っていることを理解していたし、その1年後に見つかった書類には、米国海軍情報部がマフィアのボスたち、具体的にはカルタニセッタでドン・カロジェロ・ヴィッツィーニ、パレルモカロジェロ・ヴォルペ(政治家・高級マフィア)に会った、という記録もある」

なお、パンタレーネの説には、英米海軍がシチリアに侵攻した際、「L」と書かれたハンカチが、ドン・カロジェロ・ヴィッツィーノが住む地域に飛行機から投下され、それを見つけたドン・カロが「Lucky Luciano」からのサインだ!と即座に理解し、すべて了承した、という話がありますが、このエピソードには何の裏付けもなく、信憑性はありません。また、シチリアに英米海軍が侵攻した際、ルチアーノがこっそり同行していた、とする説もあるようですが、これもまた、根も葉もない神話、ということになっています。そもそも9歳でシチリアを離れたルチアーノは故郷のことなど知らないに等しく、シチリア・マフィアのボスたちとは何の面識もなかった、と考えるのが妥当です。

こうして1945年パルチザンたちの執拗なレジスタンスムッソリーニ完全失脚し、イタリアが解放されたのち、AMGOT(Allied Military Government of Occupied Territories=占領地連合軍政府)は、強力な「アンチファシスト」として、マフィアのボスたちをシチリアの市長公職に任命(ドン・カロジェロはヴィラルバ市長に、ジュゼッペ・ジェンコ・ルッソムッソメーリ公的支援総監に、ヴィンツェンソ・ディカルロ穀物徴発地方事務所責任者に)するわけですが、それからマフィアのボスたちは小麦をはじめとする食物流通独占し、闇市莫大な稼ぎを得て、瞬く間にムッソリーニ以前、いやそれ以上権力、そして政治力を取り戻すことになります。また、そのボスたちを公職に任命したのは、ヴィート・ジェノヴェーゼと親密な関係にあったチャールズ・ポレッティ大佐であったことも、忘れてはならないでしょう。

疑問に思うのは、マフィアも確かに「アンチファシスト」ではありますが、イタリアにはパルチザンという徹底した「アンチファシスト」が存在していたわけですから、「なぜ米軍が、わざわざマフィアにシチリアにおける政治権力を与えたのか」ということです。実際、AMGOTのこのときの決定に、イタリアの戦後を読み解くが隠されているように思いますし、イタリアの戦後から『鉛の時代』まで、時代の背景として張り巡らされたグラディオの原点なのでは? とも考えます。そして多くのイタリアの人々も同じように考えるからこそ、戦争中に米軍に協力したルチアーノを、歴史上の人物として認識はしても、米国TIME誌のように、20世紀の資本主義に勝利した人物、などと肯定的に捉えることはないのです。

1943年7月10日、英米軍はシチリアに侵攻した

1943年7月10日、160kmにわたるシチリア南部沿岸に、180000人もの兵士が侵攻した「ハスキー作戦」は、初日の上陸作戦に関しては(2日目からはノルマンディ上陸の規模の方が大きくなります)史上最高の規模でした。なお、英米軍は全シチリア制圧に39日しか要していません。

もうひとつ重要な動きとして、イタリアがAMGOTの占領下にあったこの時期と前後して(具体的には1942年からその萌芽がありました)、裕福な大土地所有者である高級マフィア地域のマフィアボスたち極右勢力(王政主義)の政治家たち、たとえばAMGOTからパレルモ市長に任命されたルーチォ・タスカ・ボルドナーロ男爵やフリーメイソンが結託し、「イタリア国家から独立したシチリア王国を創立する」と銘打った「シチリア独立運動」が巻き起こっています。

というのも、この頃のシチリアでは、農民たち共産主義および社会主義運動が活発になりはじめたため、その運動を抑え込むためにドン・カロジェロ、ジュゼッペ・ジェンコ・ルッソ、ミケーレ・ナヴァーラ、フランチェスコ・パオロ・ボンターテらマフィアの大ボスたちが「シチリア独立運動」に積極的に参加したわけです。これらマフィアのボスたちは公職による利権を最大限利用し、家畜泥棒や強盗、食料の密輸で大きな利益を上げ、農民たちの生活を徹底的に圧迫していました。

また、この「シチリア独立運動」は、イタリアからシチリアが独立するだけでなく、アメリカ合衆国ひとつの州に組み込まれることが目標という、いたって米国寄りの運動で、武装勢力をも組織し、1945年以降は一部の「キリスト教民主党」議員とも結託しています。

なお、ロベルト・スカルピナート元パレルモ検察局長は、この「シチリア独立運動」を構成したマフィアと極右政治家、およびフリーメイソンの合体が、『鉛の時代』に起こった、たとえば1969年の「フォンターナ広場爆破事件」や、1970年ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ率いるファシスト・グループ(Fronte Nazionale)が起こしたクーデター未遂(「コーザ・ノストラ」が関与し、ほぼ成功しかけた瞬間、突然中止)からはじまり、1992年ジョヴァンニ・ファルコーネ検事パオロ・ボルセリーノ検事殺害事件、そして現在に至るまで果てしなく継続する勢力基盤である、と見ています。

その最初の顕著な例として、1947年には、パレルモのポルテッラ・デッラ・ジネストラで、農民や労働者たちが「メーデー」を祝ってフェスタを開いていた際、サルヴァトーレ・ジュリアーノ率いる盗賊団に急襲され、11人の犠牲者と多数の重軽傷者を出す虐殺事件が起こりました。

共産主義者を忌み嫌う、このジュリアーノという男が、「シチリア独立運動」に参加するマフィアのボスたちの用心棒でもあったため、ポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺事件は「独立運動」に関係する何者かから主導された疑い、あるいは何らかの米軍の関与(虐殺に使用された武器が米軍のものであったとされ)が根強く語られますが、ジュリアーノ本人が暗殺されたため、真相は闇の中に葬られたままです。なお、このボルテッラ・デッラ・ジネストラ虐殺事件は、グラディを背景に持つ『鉛の時代』の事件すべての「」と見なされます。

1992年、自動車の爆破で「コーザ・ノストラ」に暗殺されたジョヴァンニ・ファルコーネ検事は、「第二次世界大戦中の連合軍のシチリア上陸から、ボスたちの市長の任命に至るイタリア解放後まで、『コーザ・ノストラ』が、シチリアのすべての重要出来事関与している、とわたしは信じている。 政治分析をするつもりはないが、特定政治グループが、明らかに利害一致するために『コーザ・ノストラ』と手を組み、両者にとって不都合な人物を排除し、まだ未熟な民主主義を撹乱しようとしていたのだ」との言葉を残しました(Mafia-fare memoria per combatterla/Antonio Balsamo)。

1946年、2月10日、ニューヨーク・デイリーニュース紙は、ルチアーノの強制送還の船上で、友人たちが集まってパーティが開かれた、という記事を掲載しました。rarenewspapers.com

そうこうするうちに、ニューヨークのグレートミドウ刑務所に収監されていたラッキー・ルチアーノは、米国海軍情報部への貢献が認められ、1946年国外追放を条件に釈放されることになりました。30~50年の刑期が一気に10年弱となり、それまで米国の市民権を獲得していなかったルチアーノは、自動的イタリアへと送還されることになります。ルチアーノがニューヨークの港からエリス島に移送され、強制送還の手続きを行った出発前夜、ルチアーノを乗せた船上では、マイヤー・ランスキー、フランク・コステロをはじめとするファミリーの仲間たちとの豪勢なイタリア料理のディナーが、賑やかに開かれたそうです。

ところで、ルチアーノが海軍情報部に協力するきっかけとなったフランスの客船「ノルマンディ号の火災」は、アルバート・アナスタシアの弟、アンソニー・アナスタシアが「ルチアーノを解放するために指示した破壊工作」、とルチアーノ主張していますが(ラッキー・ルチアーノの遺言/マーチン・ゴッシュ)、ノルマンディ号に関する公式調査では、破壊工作の証拠は何ひとつ明らかになっていないどころか、単純な事故だった、との結論が出されています。このようにマフィアが関係する事象(場合によっては国家が関係する事象も)は、何が真実で、何が嘘なのか明確な答えが出ることはなく、常に曖昧な推測で語られるため、いつしか伝説へと変遷していくことになります。

また、デ・マウロによると、ある寒い夜、ナポリで何人かのジャーナリストたちと、ニューヨーク時代のゴージャスな浪費生活などをルチアーノが話していたときのこと。ルチアーノが刑務所から釈放されたのは、海軍情報部に貢献したからだ、という説は米国のメディアが打った広告に過ぎず、「君たちがそれを信じるとは」と皮肉を込めた感謝を示し、「まったく世間知らずも甚だしい」と憐憫の情を込めて言ったそうです。「スパイ? カウンタースパイ?大西洋沿岸警備?みんなでたらめだ」

「なぜ誰も、トーマス・E・デューイが、あのあとニューヨーク州知事になれたかを分析しないんだ。ニューヨークに住む、140万人イタリア系移民のおかげだよ。俺がダンネーモラとグレートミドウの壁を突き抜ける、いくつかの命令を届けた、というのが真実だ。デューイに投票しろ、それが俺のboysへの命令だった。そういうわけで、ほら、俺はここナポリにいるわけさ」

つまり、1938年にニューヨーク州知事に出馬したデューイのために、ルチアーノファミリーが選挙資金を融通して票を集め、その恩義からデューイがルチアーノの釈放のために動いた、ということです。この背景として、「禁酒法」時代から、政治家を不正に巻き込むことを役目としていたフランク・コステッロマイヤー・ランスキーが、デューイのために多額選挙資金を援助していたことが明らかになっていますが、1938年落選1943年に再び出馬して大勝しています。その後デューイが、ランスキーが設立したマネーロンダリングのための投資会社重役にまでなっているところを見ると、何をか言わんや、ということでもありましょう。

▶︎ルチアーノの帰還とハバナ会議

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