アンチマフィアの抵抗、ペッピーノ・インパスタート
このように、実際に多くの人々が一目見てマフィアの仕業と分かる残虐な方法で殺害され、あるいは誘拐されたまま失踪しているというのに、マフィアの存在については人々の口の端に上らず、数少ない証言、証拠もいつの間にか警察内部の誰かによってかき消されていきました。
あるいはピエトロ・スカリオーネのように、大々的にマフィア捜査に乗り出した検事は、まるで見せしめのように、人通りに多い大通りで派手に銃撃されたにも関わらず、「その事件を見た」と証言する者は、ひとりもいないのです。また、ルチアーノ・リッジョがミケーレ・ナヴァーラを殺害した際、リッジョの所有していたアルファ1000の車内に、ナヴァッラが乗っていた車のガラスの破片が見つかりましたが、裁判中、そのガラスの破片がいつの間にか別の車の破片とすり替えられ、リッジョは証拠不十分で無罪となっています。
「A megghiu parola è chiddra ca nun si dici→La migliore parola è quella che non si dice→最善の言葉は口には出さないものだ」
これは現在でもよく使われるシチリアの諺ですが、シチリアの人々のマフィアを巡る反応を表現する、最も分かりやすい諺かもしれません。たとえば1世紀前、米国に移民した人々は、リトル・イタリーに忽然と現れた「コーザ・ノストラ」の前身、「マーノ・ネーラ」という凶暴な犯罪組織の脅迫や放火、あるいは殺人を目の当たりにしても、必ず遂行される仕返しを恐れ、沈黙を貫きました。あるいは「マーノ・ネーラ」の捜査にシチリアを訪れた当時の英雄ジョセフ・ペトロシーノがマフィアに殺害された時、その棺が港に運ばれるのを、シチリアの人々が英雄に何の敬意も払わず、帽子も取らず、ただ沈黙して見送っていた事実も印象深いエピソードです。
確かにこのシチリアの人々の態度は、どこか薄気味悪くもありますが、地域のすべての人々を知り、監視する「コーザ・ノストラ」の突然の仕返しに怯える善男善女の気持ちも、日本人であるわたしにはよく理解できます。
しかも長い期間、「シチリアにはマフィアなんて存在しない。人々の想像力が作り上げた伝説だ」という言説が政治家、司法関係者、警察関係者の上層部にまで蔓延っていて、たとえ市民がマフィアによる犯罪を訴えたとしても、公権力からは保護されることもなく、最悪、自殺か他殺か分からない方法で殺害されるか、行方不明になるのがオチだという意識が、地域社会に植えつけられていました。一説によると、マフィアの存在が確認された1830年代から1960年代の初頭までの、マフィアの被害者は2376人、マフィアのメンバーも加えると5000人を超える、とされています(Wikipedia)。
ところで、1960年代半ばの警察、および裁判所のマフィアに関する認識を示すエピソードとして、マフィアの改悛者、レオナルド・ヴィターレに対する、当時の警察、裁判所の驚くべき対応が記録されています。
「コーザ・ノストラ」のメンバーだったヴィターレは何がきっかけだったかは定かではありませんが、ある日突然に警察に出向き、コルレオーネのトト・リイナ、「コーザ・ノストラ」の金庫番だったピッポ・カロ、コルレオーネ出身でパレルモ市長にまでなった政治家で、マフィアと政治の仲介人だったヴィート・チャンチミーノのことなど、10人以上のボスの動向を一方的に語りました。
ヴィターレは淡々と、マフィア内部の力関係、犯罪の一部始終を暴露しますが、警察はそれらの話をまったく信じることなく一笑に伏し、相手にしていません。また「マフィアは決して喋らない」との先入観を持つ裁判所は、ヴィターレが正気だとは判断せず、そのまま精神病院に送っています。時が経ち、ヴィターレが話したことがすべて真実だったと判明した時は、ヴィターレはすでに何者かに殺害された後でした。
とはいえ、当時のシチリアには、マフィアについて調査を継続し、糾弾したレオナルド・シャーシャ、あるいはミケーレ・パンタレオーネなどの作家や歴史家なども存在します。たとえば戦後の大ボス、ドン・カロジェロと同郷で、「L’Ora」のジャーナリストだったミケーレ・パンタレオーネは、50年代後半に「政治とマフィア」という革命的な著書を上梓し、当時のベストセラーとなっています。
このパンタレオーネの説として特に有名なのは、映画にもなった「Il sasso in bocca(口に詰め込まれた石ー1969年公開)」で、これはAMGOT(連合軍政府)とヴィート・ジェノベーゼ、そしてラッキー・ルチアーノ、ドン・カロジェロの関係(多少想像も含まれますが)や、非道なマフィアの世界観など、当時のマフィアの詳細をドキュメントした作品でした。マフィアを糾弾し続けたパンタレオーネは2002年に亡くなるまで、マフィアに関する14冊の本、11冊の小冊子、イタリアの主要紙に5000以上の記事を書いています。
さらに、マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督の映画「I Cento Passi (ペッピーノの100歩)」で描かれた、ペッピーノ(ジュゼッペ)・インパスタートに関しては、彼の死後から45年以上が経った現在でも、アンチマフィアのシンボルとして、多くの人々が語り継ぎ、命日には必ず主要メディアがインパスタートの勇気を称賛する記事を掲載します。インパスタートはシチリアで、マフィアを巡る沈黙を豪快に破り、アンチマフィア運動を活発化させた青年です。
映画「ペッピーノの100歩」では、そもそも古くから、マフィアの中核を成す大ファミリーに支配されていたパレルモのチーニジで、親族すべてがマフィア、という家族に生まれながら、共産主義、社会主義に傾倒し、自らラジオ局を立ち上げ、全力でマフィアと闘ったペッピーノの短い生涯が描かれますが、登場人物はすべて実在した人物です。
映画の冒頭、米国へ移民した親戚の結婚祝いで、家族の長として君臨するペッピーノの叔父チェーザレ・マンゼッラは、米国帰りのチーニジの大ボスで、1957年に米国、シチリア両「コーザ・ノストラ」との合同会議が開かれたあと、シチリアに創設された「コミッション=クーポラ」の、最初のメンバーともなったマフィア界の大物のひとりでもありました。
そのチェーザレ・マンゼッラは、「クーポラ」の他のメンバー、サルヴァトーレ・グレコ、アンジェロ・ラ・バルベーラが組織し、自らも資金を出していた、ヘロインの米国への大量密輸でトラブルが起こったため、前述した第1次マフィア戦争に巻き込まれ、1963年にマフィアがはじめて使った自動車爆弾ーアルファロメオ・ジュリエッタに詰め込まれた爆薬で吹き飛ばされて亡くなることになります。
そしてマンゼッラの死後のチーニジを支配したのが「ターノ叔父さん」と呼ばれるガエターノ・パダラメンティであり、この大ボスがこの時代、前述したルチアーノ・リッジョ、ステファノ・ボンターテとともに「三頭政治」体制で組織を支配した「クーポラ」の中心人物でした。つまり幼い頃に自らの大叔父を殺害されるのを目の当たりにしたペッピーノは、まさにマフィアの抗争の中で成長したわけです。
映画で描かれたように、機転が効き、素直なペッピーノは、マンゼッラから特別に可愛がられていました。マフィアの世界では、メンバーに相応しいと認められた子供は、成長過程で、家族、親戚から観察され、ある時期になると本当にマフィアに適しているか、試されるのが常でしたから、マンゼッラが殺害されなかったならば、インパスタートは社会主義に傾倒することなく、マフィアの有力メンバーになっていたかもしれません。
しかしながら叔父マンゼッラの凄まじい爆死は、インパスタートにマフィアに対する怒り、強い不信を刻みつけ、やがてチーニジの新しいボスとなったパダラメンティとリッジョが推進する、パレルモのプンタ・ライシ空港(現ファルコーネ・ボルセリーノ空港)の増設に反対する、共産主義、社会主義運動へと導くことになります。前述した通り、インパスタートが心酔した共産主義、社会主義運動は、マフィアおよび「シチリア独立運動」時代(運動自体は50年代前半に終わりを告げていましたが)から続く地下ネットワークの利権を妨害する仇敵でした。
やがて、恐れをまったく知らない、行動力に優れたインパスタートは、チーニジの若者たちすべてを巻き込むアンチマフィア運動のカリスマ的存在となっていきますが、ここで重要なのは、ペッピーノが若者たちの中心となってチーニジを変えようとしていた時代は、まさに、イタリアの各地で市民戦争が繰り広げられていた『鉛の時代』だった、ということでしょう。シチリアにはイデオロギーを狂信するテロリストたちは存在しませんでしたが、マフィアという『鉛の時代』の謀略と強く結びついた、もうひとつのきわめて厄介なテロが存在していたのです。
いずれにしても、映画「ペッピーノの100歩」からは、ボスに支配された街のジレンマ、そしてマフィアに逆らうことの意味のみならず、シチリアの70年代を生きた若者たちの躍動が痛いほど伝わります。最近4kに修復されているので、観ていない方にはぜひご覧になっていただきたい映画です(日本ではPrime Videoで配信されています)。
*2000年に公開されたマルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督の映画ですが、少しも古びない映画です。最近もう一度観返して、かつて観た時と同じ憤りを感じました。現在は4kで修復され、よりヴィヴィッドにシチリアの70年代が押し寄せてきます。
そのペッピーノが何者かに襲われ、亡くなった当初は、警察もまったく捜査することなく、「遺書が見つかった」として、案の定、「自殺」と片付けられました。80年代にパレルモに創設され、次の項に詳細を書く予定している、パレルモの検察官、警察官で構成されたアンチマフィア・プール(反マフィア特別捜査本部)の初代責任者だったロッコ・キンニーチが、インパスタート殺害の「主犯はパダラメンティだ」とはじめて、そしてようやく断定することになります。
偶然なのか故意なのか、インパスタートが殺害されたのは、アルド・モーロの亡骸がローマのカエターニ通りで発見された1978年5月9日。あらゆる謀略が白日の元に晒された現代から振り返るなら、シチリアの「コーザ・ノストラ」と政治の中枢の繋がりが暗示される、象徴的な事件でもありました。
しかしながら、インパスタートの死は決して無駄になったわけではなく、今まで沈黙の中に生きてきたシチリアの市民たちが大挙してペッピーノの葬儀に参加したことで、葬儀は一種の政治集会と化しています。何代にもかけて、マフィアに支配されたシチリアでこのような現象が起こるのは、はじめてのことで、そのとき若者たちが主張した「インパスタートは理想として生き続ける」とのスローガンはやがて現実となり、次第にシチリアにおけるアンチマフィア運動が広がっていくことになります。そもそも社会は演劇の書き割りのように、あっという間に変わることはありませんが、必ず変える、と信じる気持ちが尊く、重要であり、やがて共感を広げるのだと思います。
なおバダラメンティは、その後米国へ渡り、ピッツェリアを隠れ蓑に麻薬の密売をしていた、件のピッツァ・コネクションの首謀者であることが発覚したため、FBIに踏み込まれ、米国の刑務所に長期間収監されたあと、2004年に獄中死しました。また、1979年に殺害された雑誌「OP」の創設者であり編集長のミーノ・ペコレッリ殺害については、アンドレオッティから「コーザ・ノストラ」に直々に要請され、バダラメンティが、ピッポ・カロとともにオーガナイズした殺害だ、というのが、(司法からは見逃されたとしても)ほぼ確定的な事実です。ペッピーノ・インパスタートの死に関しては、のちイタリアの最高裁が、バダラメンティに終身刑を宣告することになりました。
to be continued…..