ラッキー・ルチアーノ以降、戦後イタリア「コーザ・ノストラ」の激変と巨万の富

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マフィアの近代化とコルレオーネ・ファミリーの台頭

「マフィアは1点の染みもない布にできた汚点ではない。無数庇護者犯罪者情報提供者、さまざまなタイプの債務者、社会で怯えて暮らす下流から上流まで多様階層の人々と緊密な共存関係にある」(ジョヴァンニ・ファルコーネ)

これまで記してきたように、マフィアはテレビや映画で見るような、家族関係と個人的な繋がりで維持されシチリアの特定の地域に根付く、小規模で独立した犯罪集団ではありません。

たとえばレオナルド・シャーシャの「il giorno della civetta (真昼の梟ー1961年)」に描かれた、公権力共謀し、強大な影響力を暗示したドン・マリアーノ・アレーナのような人物が、マフィアの原型古典的なマフィア像と言えます。つまり❺章までに記したように、自分の縄張りに住む地域の農民から、地方政治レベルの政治家、司法関係者、警察、軍部、さらには国家レベル(あるいは国際レベル)の公権力、ヴァチカン、企業、金融界と緊密な共存関係にある犯罪組織だ(だった?)、ということです。実際、お金の動きを見るだけで、マフィアの広範な分野とのコネクション(間接的ではあっても)が浮き彫りになるはずです。

そもそも第2次世界大戦前後の伝統的なマフィアは、自らの縄張りとする地域のさまざまな問題の仲介者としての役割があり、その地域に何らかの問題が起こったならば、あらゆる手段を駆使してその問題を解決していました。繰り返しになりますが、その解決手段は恐喝からはじまり、しばしば殺人にまで及ぶ「暴力」であるため、マフィアを知る人々は、自分、あるいは家族に危害が及ぶのを恐れ、マフィアのことは絶対に口にしない、という状況になるわけです。マフィアのことさえ喋らなければ平和な日常が送れる。これは政府、公権力のことさえ口にしなければ平和に暮らせる、専制主義、全体主義国家のあり方と似ています。

しかも、マフィアの存在が「利益をもたらす」、と考える市民がいまだに存在するのも事実です。2023年、「コーザ・ノストラ」最後の(?)大ボスと言われ、1993年から逃亡していたマッテオ・メッシーナ・デナーロが逮捕された際、蜂の巣を突ついたような騒ぎの中、「メッシーナ・デナーロのおかげでわれわれは生きているんだ。なんてことをしてくれたんだ!」と主張する人々が複数存在し、「今もなお、このようなことを言う人々が存在するとは」と衝撃を受けた経緯があります。

さらに、指名手配中のメッシーナ・デナーロが自分の生家がある地元に、偽名を使っていたとはいえ30年(!)もの間潜伏し続け、不治の病を患ってボスの地位を継続できなくなった途端に逮捕される、という奇妙なタイミング不自然にも感じました。事実、「逃亡中、確かに何らかの保護があったはずだ」との声が多くあったにも関わらず、その声が広がることはなかったのです。

実は2023年の3月、「パオロ・ボルセリーノ爆破殺害事件」を担当するなど、アンチマフィア捜査に多大な功績がある検察官、ニーノ・ディ・マッテオ、ジークフリード・ラヌッチ、アンドレア・プルガトーリ、サヴェリオ・ロダートら著名ジャーナリストが出席する講演会に出かけたのですが、登壇者全員の認識は「逮捕はまったく絶妙のタイミングだった。つまりきわめて怪しいということだ」というものでした。それは「オーガナイズされたメッシーナ・デナーロの逮捕」を、暗に仄めかす口ぶりでした。

コルレオーネ 1958年 L’EUROPEO LE RADICI DI GOMORRA/Luglio 2010より一部を引用。

さて、ここからは70年代に急成長したコルレオーネ・ファミリーを核に、戦後のシチリア・マフィアの変遷を、追っていくことにします。

前述したグランドホテル・デッレ・パルメの会議で、サルヴァトーレ・グレコらが米国「コーザ・ノストラ」と密に連携したのち、忽然と現れたのが、パレルモの丘陵地に位置する小さい村、コルレオーネのルチアーノ・リッジョです。

リッジョはそもそも大農場カンピエーレ(警備隊ー現在のマフィアの由来のひとつとされる)で、トト(サルヴァトーレ)・リイナベルナルド・プロヴェンツァーノとともに徒党を組む「ならず者」から、やがて当時コルレオーネのボスだったミケーレ・ナヴァッラが牛耳るファミリーの殺し屋となった男でした。

ちなみにミケーレ・ナヴァッラは、ブルジョワ階級の家庭に生まれ、パレルモ大学の工学部、医学部を修了した後、コルレオーネの地区医に任命されて村に戻った変わり種のマフィアです。当時「シチリア独立運動」に参加したことから、ヴィッツィーニジェンコ・ルッソら、当時の大ボスたちと知古を得、AMGOTが放棄した軍用車両を使ってバス会社を立ち上げた企業家でもあります。のちにそのバス会社は、自らが総支配人として残りながら、シチリア州売却しています。

また、ナヴァッラは政治家たちにとって、マフィアと連帯する理由として最も魅力的なメリットである「票集め」を担う、『キリスト教民主党』に票を誘導する選挙管理委員長を務めていました。つまりナヴァッラは、俗にいう「Borghesia Mafiosaー高級マフィア」だったわけです。

ところで「ポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺」が起こった翌年の1948年、コルレオーネでは、地元の労働組合書記長だったプラチド・リゾットが誘拐されるという事件が起こっています。事件後しばらくして、「リゾットの遺骨が発見された」と公表されましたが、2009年(!)に真正の遺骨が発見され、以前に発見された遺骨は人違いだったことが判明。その後、当時のイタリア共和国大統領ジョルジョ・ナポリターノも参加して、改めて荼毘に付されました。

このプラチド・リゾットという人物は、実質的にはマフィアであるガベロッティ、カンピエーリに管理される封建領主の所有地のうち未耕作地占拠して、農民分配するために闘う「農民運動」の強力な推進者で、「シチリア独立運動」の大敵でした。そしてもちろん「リゾット誘拐・殺害」の主犯は、「シチリア独立運動」のメンバーであったナヴァッラ実行犯ルチアーノ・リッジョであり、事件を目撃し、その場で錯乱した羊飼いの少年は、病院に運ばれ、投薬と見せかけた毒物の注射で中毒死しています(ナヴァッラは医者ですから)。事件を巡る捜査の結果、ナヴァッラは逮捕され、刑務所に収監されますが、有力者保護を受け、当然のようにまもなく出所、という展開となりました。

なお、リッジョという男は、生まれながらにマフィア気質だったようで、17歳の自分が読み書きができないことが今後の人生に支障をきたすことに気づくや否や、学校の教師に電話をかけ、「猶予期間を1ヶ月間与えるから、その間に俺にあらゆるすべてを教えろ」と難題を突きつけ、もしそれが実現しなかったら「おまえの家を焼き払う」と脅迫した、というエピソードがあります。あるいはマフィアが要求するみかじめ料を払おうとしない農民の処へ出向くと家に火を放ち、それでも農民が抵抗すると、農民の3歳息子を連れて火の海に近づいて、「まだ抵抗するなら、この子を火の中の投げ込む」と脅し、農民を黙らせたそうです。

このリッジョが生前のミケーレ・ナヴァッラとともに、田舎の因習に囚われたコルレオーネ・マフィアの変革牽引し、徐々にパレルモ都市部他の州活動範囲を広げ、農村マフィアから、より現代的な新興マフィアへの変革の基盤を作ることになります。また、ナヴァッラを殺害する以前から、リッジョは盗んだトラック12台で運送会社を設立し、コルレオーネの自身の家族が運営する牧畜会社にも参加。盗んだ家畜を売りさばいてを築く、ちょっとした企業家でもあったのです。

やがてリッジョは、コルレオーネを離れパレルモに定住するようになり、チーニジのボスであるガエターノ・パダラメンティの息子と、パレルモのプンタ・ライシ空港(現ファルコーネ・ボルセリーノ空港)建設資材のトラック輸送サービスを立ち上げ、その後も他のファミリーと次々に提携し、建築投機、麻薬、煙草の密輸など、多岐にわたる違法ビジネス進出することになります。

また、野心家だったリッジョは、当時パレルモトラパニアグリジェントに跨る16万ヘクタールの土地を灌漑するベリーチェ川のダム建設に必要な資材の輸送を一手に引き受けようともしていました。しかしその土地の「」の価格を決定していたグレコ・ディ・チャクッリ(サルヴァトーレ・グレコのファミリー)が、コルレオーネのボス、ナヴァッラにダム建設中止要請したため、リッジョはナヴァッラ、およびナヴァッラと古くから協力関係にあったボスたちと激しく対立することになります。

このような経緯で1958年、リッジョはナヴァッラに暗殺されかけ、しかしその数ヶ月後、今度は自らのボスであるナヴァッラを待ち伏せて、銃殺するに至ります。そしてその後のリッジョが、コルレオーネのボスへと上り詰めていくのです。

そうこうするうちに、のちに頻繁に使用されるようになる、車に大量の爆薬を仕込む「自動車爆弾」がはじめて使われた第1次マフィア戦争(チャクッリの虐殺まで継続ー1963年)が勃発。これは米国「コーザ・ノストラ」との間で合意した麻薬の売上金の分配、そして公共事業への参入権を巡るシチリア・マフィアのファミリー間で繰り広げられた熾烈な利権闘争で、「チャクッリの虐殺」ではカラビニエリ4人、兵士2人、警察官1人を含む夥しい数の犠牲者を出し、パレルモは血に染まることになりました。この抗争はイタリア全国でスキャンダルになり、数百人(2000人説も)のマフィアが逮捕され、刑務所に収監されています。

ちなみに「Traditoreーシチリアーノ・裏切りの美学」で、主人公として描かれたトンマーゾ・ブシェッタは、そもそもパレルモ中心街をはじめとする広域を縄張りに持つ大ファミリー、ラ・バルベーラ・ファミリー(サルヴァトーレ、アンジェロ兄弟)の殺し屋で、チャクッリの虐殺事件における実行犯のひとりと見なされていました。

しかし、のちにジョヴァンニ・ファルコーネの協力者となった際、「第1次マフィア戦争は、サルヴァトーレ・グレコが統率する『クーポラ』に反感を持つ他のボスたちで企てられた陰謀であった」と供述し、自分は実行犯ではない、と主張しています。ブシェッタは、第1次マフィア戦争中にラ・バルベーラを裏切り、ミケーレ・グレコ(クローチェヴェルディ・ジャルディーニのグレコファミリー)に寝返ったあと、米国ブラジルへと逃亡し、麻薬を巡ってふたつの世界を股にかける大ボスとなっていました。

この第1次マフィア戦争については、新興マフィアと、旧勢力権力闘争という見方もありますが、たとえば歴史家サルヴァトーレ・ルーポは「今日でも、われわれは新旧のマフィアについて語り続け、前者には社会における均衡のとれた、あるいはいずれにせよポジティブな機能(…)が見られるとし、後者にはその代わりに、前者の退廃から派生した組織で、無節操で冷酷で血に飢えた暴力という特徴があるとする。しかしながら、マフィアそのものが組織犯罪の異常な形態であり、公共生活経済生活毛細血管にまで湿潤し、時に血まみれの暴力が爆発する、多くの環境での息苦しい抑圧を鑑みるなら、新旧マフィアの区別は特に危険有害である」と言っています。つまりマフィアは古くても、新しくても所詮マフィアにすぎない、ということです。

いずれにしても、「クーポラ」のメンバーのひとりとして、その抗争にまつわる数々の犯罪に加担し、警察に追われ逃亡していたルチアーノ・リッジョは1964年にコルレオーネの隠れ家で逮捕されますが、なんと、リッジョが発見されたのは、16年前に殺害した労働組合員プラチド・リゾットの婚約者の家でした。レオルチーナ・ソリジという名の、写真で見る限り、清楚な美女であるその女性が、リゾットとどのような関係にあったかは不明です。

プラチド・リゾットの婚約者、レオルチーナ・ソリジ。Citta Nuova Corleoneのサイトから引用。

そして多分に漏れず、第1次マフィア戦争の主人公となった各地域のファミリーのボスたちは、逮捕されながらも証拠不十分無罪。リッジョは9件の殺人、8件の殺人未遂で起訴されながら無罪になりました。その裁判の間、そもそも疾病を抱えていたリッジョは当局の監視下で病院を転々とし、いったんコルレオーネに戻って治療する、との当局との合意を破ってローマの病院で手術を受けたのち、性懲りもなく再び姿をくらましています。

また、この時リッジョをはじめとするボスたちを尋問したチェーザレ・テラノーヴァ検事は、それから15年の歳月を経た1979年トト・リイナ殺害されますが、検事の殺害を重く見たパレルモ裁判所が、マフィア捜査を本格化するきっかけともなっています(次項)。

やがてリッジョは密かにパレルモに戻り、コルレオーネのトト・リイナ、ベルナルド・プロヴェンツァーノ、その他のファミリーのキラーたちで構成されたコマンドを形成し、マフィア第1次戦争で敵対していたパレルモのボス、ミケーレ・カヴィタイオ(コルト・コブラと呼ばれるこのボスが、第1次マフィア戦争の煽動者とされます)のオフィスに押し入って血祭りにあげています。

1969年に起こった、「ラツィオ通りの虐殺」と呼ばれるこの殺害事件は、当時「クーポラ」の、30歳前後のステファノ・ボンターテ(サンタ・マリア・ディ・ジェズのボンターテ一族の若頭)らボスたちによる決定でもあり、つまりマフィア第1次戦争後、「コーザ・ノストラ」内部には、明らかに世代交替があったということです。1969年といえば、『鉛の時代』に突入するきっかけとなった「フォンターナ広場爆破事件」が起こった年でもあります。

この時期、リッジョをはじめとするボスたちは、前述した1970年の「ボルゲーゼのクーデター未遂」に、マフィアがどのように関与するかを決定する「クーポラ」会議のために、チューリッヒ、ミラノ、カターニャを訪れ、話し合いの末、結果的には未遂に終わったクーデターに4000人ソルジャーを送り込んでいます。また、この「ボルゲーゼのクーデター」には、『P2』メンバーであり、神とマフィアの銀行家、ミケーレ・シンドーナからの多額資金援助があったことも、のち、明らかになりました。

こうしてシチリアで、血で血を洗う抗争が行われたのち、「コーザ・ノストラ」はサルヴォ・リーマヴィート・チャンチミーノサルヴォの従兄弟たち仲介者を通じて政治との協力関係を強化し、『鉛の時代』の国家的謀略に参加していくわけです。

なお、この時の会議で、リッジョはパレルモの大ボス、ステファノ・ボンターテガエターノ・パダラメンティとの「三頭政治」を築き、「クーポラ」を再編成しています。また、高級品を身につけ、常にシックな装いで、パレルモの上流階級が通うサロンに出入りしていたステファノ・ボンターテは、『キリスト教民主党』のアンドレオッティ派と密接な繋がりを持つと同時に、『P2』と緊密な関係にあるメーソン・ロッジメンバーでもありました。

というのも、「コーザ・ノストラ」にとって『P2』加入、あるいはそれと緊密に繋がるロッジに出入りすることはきわめて重要な事案で、その理由は、1981年に発見された『P2』リストを見れば一目瞭然です。実際、逮捕されたマフィアたちがことごとく証拠不十分で無罪となった背景には、警察、裁判所の重要人物、軍部諜報幹部が多く所属する『P2』の助けがあったと推測されます。さらにはマフィアに友好的な企業に建築・インフラを巡る契約を受注させるなど、組織の目的を達成するためには、『P2』に所属する専門家、判事、政治家とコンタクトをとる必要がありました。

また、『鉛の時代』に突入した1970年には、シチリアのジャーナリストでラッキー・ルチアーノに関する著作もある、マフィア調査のエキスパート、マウロ・デ・マウロ失踪(「コーザ・ノストラ」が誘拐し、殺害)する事件が起こります。デ・マウロが失踪したのは、当時事故として片付けられた、イタリアの主要エネルギー会社Eniの総帥エンリコ・マッテイ飛行機爆破事件(1962年)にマフィアが関与していることを突き止め、フランチェスコ・ロージの映画「Il Caso Mattei(マッテイ事件) 邦訳ー黒い砂漠」(1972)の脚本に協力していた時期でした。

さらに「チャクッリの虐殺」事件を捜査し、「コーザ・ノストラ」数百人の逮捕に成功したピエトロ・スカリオーネ検事を、リッジョ、トト・リイナらが殺害(1971年)する事件も起こっています。

*フランチェスコ・ロージ監督の「Il caso Mattei(黒い砂漠)」のワンシーン。アングロ・サクソン勢力に牛耳られる国際原油市場をイタリア独自の外交で開拓しようとしたマッテイの姿勢が、アラブの砂漠をバックに語られます。ちなみにイタリア現政府は、このマッテイの姿勢を踏襲し「Piano Mattei」と名付け、アフリカの人々が難民としてEUを訪れなくてもいいよう、アフリカ諸国の経済発展を援助する計画を立てていますが、今のところ効果はあまり感じられません。

ポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺」捜査にも関わった経緯があるスカリオーネは、殺害される前には、デ・マウロ失踪事件捜査の指揮をとっており、驚きべきことに、その頃のピエール・パオロ・パソリーニは、スカリオーネの殺害、デ・マウロの失踪とEniの総帥エンリコ・マッテイが乗っていた飛行機爆破が、相関するシナリオの中で起こっている事件だと、すでに考察していたのです。

そしてそのパソリーニの推理は完全に的を得ていた、と言わざるをえないでしょう。現代では、エンリコ・マッテイが乗った飛行機に爆弾を仕掛けるようマフィア(サルヴァトーレ・グレコ)に依頼したのは、アングロ・アメリカンに独占される原油市場を打破し、イタリア独自のマーケットを獲得しようと尽力したマッテイの仇敵、『P2』のの創立者と目されるエウジェニオ・チェフィス(親米派)だとされています。マッテイの死後、チェフィスはEniの総帥の座に上り詰め、パソリーニは1975年、明らかに不自然な状況で、ローマの海岸線オースティアの水中翼船置き場で殺害されました。

デ・マウロが執筆していたシチリアの日刊紙「L’Ora(ローラ)」の同僚によると、マッテイの事件を調べていたデ・マウロは裁判所へ出かけ、スカリオーネ面会したその日永遠に失踪したのだそうです。

1974年、最終的にリッジョが投獄され、その長い逃亡の間に、コルレオーネではトト・リイナ、ベルナルド・プロヴェンツァーノがリッジョの代行をしていましたが、やがてトト・リイナが、プロヴェンツァーノを補佐に、コルレオーネの指導権を握っていくことになります。

▶︎アンチマフィアの抵抗、ペッピーノ・インパスタート

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