ラッキー・ルチアーノ以降、戦後イタリア「コーザ・ノストラ」の激変と巨万の富

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金融界の寵児、ミケーレ・シンドーナとマフィア、そしてヴァチカン

イタリアの60年、70年代におけるマフィアのマネーロンダリングといえば、米国、シチリア両「コーザ・ノストラ」の巨額の収益の洗浄における中心的役割を負った、ミケーレ・シンドーナの存在を忘れるわけにはいかないでしょう。シンドーナはのちに秘密結社『ロッジャP2』のメンバーとなるシチリア、メッシーナ出身の銀行家です。

時代の寵児と称賛されながら、最終的には犯罪者として終身刑の判決を受け、自殺か他殺か判然としないまま獄中死したシンドーナについては、『P2』の項で触れているので、多少重複する部分があります。しかしこの人物の周辺を眺めることで、米国「コーザ・ノストラ」およびシチリア・マフィア国家中枢にいる政治家たち、ヴァチカン、『ロッジャP2』、軍部諜報CIAの関係が浮かび上がるため、改めて探ってみようと思います。

イタリアのみならず、国際金融界を揺るがした、このシンドーナという人物は1920年、花輪を専門とする花屋の息子として生まれています。幼い頃は引っ込み思案で寡黙な少年で、イエズス会で学びながら、自らの学費を稼ぐために14歳からタイピスト、会計士補、税務署事務員として働いていたそうです。

1942年、メッシーナ大学を卒業後、シンドーナが地元の法律事務所で働いていた頃に、連合軍がシチリアに上陸するわけですが、AMGOT(占領地連合軍政府)が形成されるや否や、シンドーナは米軍の将校に近づき、食料品の密輸に便宜を図ってもらうよう取り入って、小金を稼ぐようになりました。

終戦後の1946年、シンドーナはミラノに居を移し、税務コンサルタント事務所を開設。多くの企業の会計士として活動するうち、1950年頃には最も人気のある会計士のひとりとなっています。この時代のシンドーナは、特に税務計画を専門とする資本国外移動、およびタックスヘイブンエキスパートとなっており、リスクの高い銀行業務を通じてイタリアアメリカ両国で、すでに多額の資金調達することに成功していました(Wikipedia)。

その小賢さと狡猾さがラッキー・ルチアーノに気に入られた、と言われるシンドーナは、1952年、ルチアーノの助力で米国に渡り、ガンビーノファミリーをはじめとする米国「コーザ・ノストラ」のファミリー、米国諜報機関米国の金融機関フリーメイソンに私的な人脈を作ったとされます。シンドーナとルチアーノがどこで知り合ったかは不明で、ひょっとすると、共通項であるAMGOTにそのヒントがあるのかもしれない、とも考えますが、このあたりの事実関係は謎のままです。

しかしシンドーナが初期の頃から、すでに「コーザ・ノストラ」と密な関係を結んでいたことは確かであり、たとえば1956年に米国から追放され、イタリアへと帰国したジョー・アドニスは、麻薬密輸の販売ルートを開拓して得た収益洗浄のために、イタリアのどの高級ホテル、スーパーマーケットを買収すればよいか、シンドーナに助言を求めています。また、1957年のグランドホテル・デッレ・パルメにおける米国「コーザ・ノストラ」とシチリア・マフィアの会議では、シンドーナがジョー・アドニスの隣席に座っていたそうです。つまりシンドーナは、この会議に出席するほど、すでに米国、シチリア両「コーザ・ノストラ」に信頼されていた、というわけです。

やがてシンドーナはリスクの高い金融投資を通じ、1961年、自身にとって最初の銀行となるBanca Privata Finanziaria(プライベート・ファイナンシャル・バンク)を買収しただけでなく、飛ぶ鳥を落とす勢いのまま、イタリア企業や外国企業の株式大量所有するようになりました。と同時に幼少期、イエズス会に通っていた経緯があるシンドーナは、のちに教皇パオロ6世となるジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニ枢機卿と知古を得て、IOR(Istituto per le Opere di Religioneー教皇庁運営のための資金調達・管理をするヴァチカン銀行内の機関)の金融パートナーになっています。

ところで、IORは『鉛の時代』の後半になるにしたがって、たびたび名前が上がるヴァチカンの金融機関で、いまだに解決の糸口が見つからない「エマニュエーラ・オルランディ失踪事件(1983)(参照 Netflix 「バチカン・ガール」にも大きく関わっていると見られています。そもそもIORは、ピオ7世によって創設されたヴァチカン銀行内部の金融機関ですが、1971年、米国人大司教ポール・マルチンクス(CIAの協力者、あるいはエージェントと言われる人物)が総裁となった頃から怪しい動きをはじめ、神の金庫であるIORは、あろうことか、いつのまにかマフィア資金洗浄積極的に行うようになっていったのです。

事実、マルチンクスと共謀したシンドーナが、IORを通じて米国、シチリア両「コーザ・ノストラ」の麻薬密輸産業、武器売買などで得た違法収益を洗浄し、南米、カリブ海諸国にさらなる金融投機を繰り返していたことが、のちに明らかになっています。IORはまた、シンドーナのBanca Privata Finanzialeの株24.5%を所有する筆頭株主でもありました。

以前の『ロッジャP2』の項に載せた図を再掲します。P2を中心にこのように資金が循環していたと考えられています。オルトラーニ(Umberto Ortolani)は『P2』のあらゆるアイデア、例えば南米の軍事政権にヴァチカン銀行総裁マルチンクスが総裁を務めるIORを利用して資金を供給することを『P2』グランド・マスター、リーチォ・ジェッリに勧めたと言われる人物。BAFISUDはオルトラーニが南米ファイナンスのため、創立した銀行です。図は社会派映画監督G・Ferraraの長編、「P2ストーリー」を参照しました。

ここでは詳細を省きますが、マルチンクスはCIAのみならず、『P2』のグランド・マスター、リーチォ・ジェッリ、ジュリオ・アンドレオッティとも親しく、在位後33日で突然亡くなった教皇ヨハネ・パオロ1世の死(毒殺の疑いが根強く語られます)や、ローマ神学校における性的虐待などの背景に名前が上がる人物です。なお日本語版Wikipediaには、『P2』の会長と書かれていましたが、イタリア語の資料ではそのような事実は見当たりませんでした。

このマルチンクス大司教と密に交流していた時期のシンドーナは、まさに破竹の勢いで、シカゴのコンチネンタル・イリノイ銀行(CIAの秘密捜査に資金提供をしていた銀行で、総裁のデイヴィット・ケネディはポール・マルチンクスと親交がありました)、および国際的に重要なロンドンのハンブロス銀行のパートナーともなり、買収したBanca Privata Finanziariaでは代表取締役に上り詰めています。

ちなみに、シンドーナが短期間のうちに金融界の寵児となった背景として、生前のラッキー・ルチアーノが、最初の金融資金として200万ドルを渡した、というエピソードがあります。このエピソードの発端は1979年に暗殺された『P2』メンバーのジャーナリスト、ミーノ・ぺコレッリが1975年に自身が創刊した雑誌「OP」(Osservatore Politico)に書いた記事なのですが、残念ながら記事の確実な裏付けは見つかっていません。

しかしペコレッリが残した『鉛の時代』のあらゆる事件に関する記事は、現在から振り返るなら、ほぼ確信をつく情報、あるいはヒントとして高く評価されていますから、あながち作り話ではないのでは?とも思う次第です。

ミーノ・ぺコレッリが創刊した「OP」の表紙はかなり衝撃的です。「モーロ事件」の号のタイトルは、「わたしの血はコッシーガとザッカニーニの頭に滴る」と、モーロの手紙の一節をもじっています。また、覆面を被った法衣を纏う人物も強烈です。

このペコレッリというジャーナリストは『P2』に所属していた経緯から、どこか薄暗いイメージがつきまといますが、『P2』内部だけで知ることができるあらゆる事件の真実を掴むための、決死の潜入であった、と現代のベテランジャーナリストたちは見ているようです。

実際、ペコレッリは「アルド・モーロ誘拐・殺害事件(1978年)」ののち数ヶ月後に発見され、極秘にされた、『赤い旅団』の人民刑務所の中でモーロが書き続けた「メモリアル・モーロ」の一部(「緊張作戦」の黒幕たちの動向を記した)を読んでおり、さらにヴァチカン内部の隠された動きをも察知していたようで、掴んだ真実を自らの雑誌で白日のもとに晒そうとしたために1979年に殺害された、と見なされています。

なお、複雑な背景、人間関係がある「ペコレッリ暗殺事件」を簡単にまとめるなら、ペコレッリからその不正を攻撃され続けたジュリオ・アンドレオッティが、シチリアのサルヴォの従兄弟たちに相談したのち、ステファノ・ボンターテに話が伝わり、ガエターノ・パダラメンティピッポ・カロがローマのローカルマフィア(Banda della Magliana)に依頼。ローカルマフィアのメンバーでありながら極右グループNARにも属していたマッシモ・カルミナーティ、さらに「コーザ・ノストラ」からはアンジェロ・ラ・バルベーラ(インゼリッロ・ファミリー)が実行犯としてペコレッリを殺害したことが、その後の捜査で推察され、なんと、事件の20年後に裁判に発展しています。

しかしながら、1999年からはじまった「ペコレッリ暗殺事件」の裁判では、1審は事件に関わった全員が無罪、2審でアンドレオッティおよびパダラメンティに懲役24年の有罪判決が下ったにも関わらず、2002年、最高裁(大審院)によって2審の判決が破棄されました。このように『鉛の時代』、アンドレオッティが関わったと目される事件に関するあらゆる裁判で、アンドレオッティが有罪になることはなかったのです。

また、シンドーナとラッキー・ルチアーノの関係については、米国、シチリア両「コーザ・ノストラ」のマネーロンダリングの動きを追っていた米国メディアのイタリア特派員、ジャック・ベーゴンが、ルチアーノ本人から「自分がシンドーナを見そめた」と聞いた、と証言しています。このジャーナリストは1973年、米国「コーザ・ノストラ」ではないか、と推測される男たちに誘拐されながら、突然解放されるという事件に巻き込まれ、騒ぎになりましたが、のちにこの誘拐事件狂言だったことが暴かれました。したがってルチアーノに関するベーゴンの証言が、全面的に信用に足るものであるかどうかは判然としません。

いずれにしても、国際金融界に躍り出たシンドーナは、といえば、1972年ともなると、米国で20番目に重要な銀行「フランクリン・ナショナルバンク」の25%を所有することに成功し、事実上経営者になりました。やがて米国メディアにも「国際金融界の魔法使い」としてもてはやされるようになり、1974年にはイタリア駐在の米国大使から「マン・オブ・ザ・イヤー」に選出されます。その時ジュリオ・アンドレオッティは、シンドーナを「リラの救世主」、と手放しで大絶賛したのです。

この頃のシンドーナは、米国、およびシチリアの「コーザ・ノストラ」のボスから流れる莫大な違法収益を金融ネットワークを駆使してIOR(ヴァチカン銀行)や自らの息がかかった海外の金融機関へと移動させており、さらには不動産に投資して資金洗浄するだけではなく、『キリスト教民主党』、国内外諜報機関、さらにはリチャード・ニクソンにまで資金提供していたと言われます。

つまりシンドーナは、『鉛の時代』に謀略を企てた地下ネットワーク、すなわち国政の中枢にいるアンドレオッティをはじめとする一部の『キリスト教民主党』の議員たち、国内外諜報機関、『ロッジャP2』、極右勢力、米国、シチリア両「コーザ・ノストラ」(およびヴァチカン)の、振ればお金が降り注ぐ魔法の杖として利用されていた、ということです。またシンドーナが動かした富の動きを追うことで、マフィアが国家の一部、『P2』、極右勢力、米国(IORを通じて)と密に連携していたことが明確になることと思います。換言すれば、マフィア資本が『鉛の時代』の謀略の主な資金源であった、と言えるかもしれません。

戦後の経済ブームの時代には、確かに一気に財を成した金融の冒険家たちが多く存在しましたが、その成功者たちの背後には、たとえば大企業、政治権力者、あるいは軍事産業との絆がありました。しかしシンドーナはどこからともなく現れ、国際金融界のトップに突然上り詰め、その生涯において、無形資産、情報、出所がよくわからない金だけを生み出し、それを売買することによって蓄財するペテン師的銀行家でした(Wikipedia)。しかしながらよく考えてみると、金融投機の世界は、ある種マネーゲームというペテンで成立している、と言えないこともないかもしれません。

▶︎シンドーナの失墜と『P2』スキャンダル

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