戦後マフィアの原点、ラッキー・ルチアーノ
マフィアについてまったく知識がなかった頃、まず第一に疑問を感じたのは、マフィアと呼ばれる犯罪組織が、なぜ現代の実体経済、金融経済にまで影響するほどの巨万の富を得るようになったのか、ということでした。
2023年1月、「コーザ・ノストラ」の「ボスの中のボス」と目されたマッテオ・メッシーナ・デナーロが30年の逃亡の末、不治の病に侵された状態で逮捕された週に、マフィアが管理するビジネス、および金融取引の価値を算出したCgia調査事務局(Cgia=ヴェネト州メストレの手工業および小企業アソシエーション)によると、マフィア(カモッラ、ンドゥランゲタ、コーザ・ノストラを総称して)の年間取引額は400億ユーロと推定されました。それはイタリアのGDPの2%以上に相当します(AGI通信)。
また、同じくCgiaの調査によると、マフィア・ビジネスをひとつの「産業」として捉えるならば、Eni、Enel(いずれも主要エネルギー会社)、GSE(イタリア財務省および金融省管轄のエネルギー会社)の収益に次いで、イタリアで4番目の売り上げを誇る「企業」になるそうです。しかもCgiaは、この400億ユーロという数字は、マネーロンダリングにより合法的な経済に浸透したマフィア資本の収益は測定不能なため、確実に過小評価されているだろう、と見ています(ANSA)。
確かに、米英軍のシチリア侵攻、および侵攻後、AMGOT(占領地連合軍政府)への協力の見返りとして、連合軍政府から公権力を与えられたマフィアのボスたちが、人々の生命線である食物(飲料水が不足することがあるシチリアにおいては水も含め)、流通を一手に担って富を蓄えると同時に、大農場の経営及び保護料、地域の住民のみかじめ料、恐喝、大規模な家畜泥棒などの違法行為を収入源としていたことは以前の項に書いた通りです。しかしながら、その頃の「コーザ・ノストラ」はといえば、いまだ農村マフィアの域から脱することはありませんでした。
そのマフィア・ビジネスが突如として大きく飛躍し、シチリア・マフィアの未来を変えることになったのは、1957年、ラッキー・ルチアーノが旧友たちである米国の「コーザ・ノストラ」を招聘し、パレルモの最高級の宿、グランドホテル・デッレ・パルメで開いた会議以降です。その会議には、米国からジョー・ボナンノ、カーマイン・ガランテ、フランク・ガローファロなど10名ほどのボスと主要マフィアが訪れ、シチリアからは、大ボスであるカロジェロ・ヴィッツィーニからその地位を引き継いだジュゼッペ・ジェンコ・ルッソ、ガスパーレ・マガッティーノ、チェーザレ・マンゼッラ、サルヴァトーレ・グレコなど12人のボスたちが参加しています。
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グランドホテル・デッレ・パルメの正式な名称はGrand Hotel et des Palmes。1874年にインガム・ウィテガーの私邸として建造され、リヒャルト・ワーグナーが宿泊していた時期もあります。1906年にベル・エポックの高級ホテルとして改築されて以来、さまざまな歴史の舞台となりました。lasicilia.itから加工して引用。
その会議で、主に調整されたのは麻薬密輸案件でした。というのも1956年、米国で麻薬取り締まりに関する厳しい法律が制定され、麻薬の密輸業者に最高40年の懲役刑が課されることになったため、米国「コーザ・ノストラ」は、麻薬の密輸入をシチリア・マフィアに全面的に任せ、その利益の一部を上納金として吸い上げることにしたのです。
さらに、この時米国「コーザ・ノストラ」のジョー・ボナンノが、シチリア・マフィアに助言したのは、米国全国犯罪シンジケートの頂点となる「コミッションー委員会」と同様の近代的システムをシチリアに構築することでした。
そしてその助言に従って、シチリア・マフィアが米国に倣って構築したのは次のようなシステムです。
シチリア・マフィアのファミリー(コスカ)は、そもそも階層的なトップダウン型の組織であり、基本的に50人から300人のメンバーを有する各ファミリーのボスを選ぶ際は、メンバー(ソルジャー、Uomo d’onore)の無記名投票で決定されます。その選挙で選ばれたボスが副ボス、評議員、1名以上の相談役を決め、メンバーを10人余りのグループに分割したのち、おのおの部隊長を任命。総体的に組織を守ります。これは、ラッキー・ルチアーノらが構築した米国の「コーザ・ノストラ」と、概ね同様の構造で、米国において「コミッション」と呼ばれるマフィアの最高政府は、シチリアでは「クーポラ」と呼ばれます。
またシチリアにおいては、マフィアのメンバーになるためには何年もの間、組織の長老にメンバーとして相応しいかどうかが観察され、密輸、みかじめ料の徴収、武器の運搬、殺人、窃盗などをこなす素質があるかどうか、何度も試されます(シルヴィオ・ピエールサンティ)。そこで認められてはじめてイニシエーション(プンチュータ=右手の指に針を差し、したたる数滴の血を聖像が描かれた紙にたらし、それを手にしたまま、組織への忠誠の誓いを唱える)を受けることになるわけです。と同時にマフィアの掟(codici)が義務づけられます。
⚫︎第三者がそうしない限り、われわれの友人たちに自己紹介してはならない。⚫︎友人の妻を見てはならない。⚫︎警察と協定を結ばない。⚫︎居酒屋やクラブに出入りしない。⚫︎たとえ妻が出産間近であっても、常に「コーザ・ノストラ」のために行動しなければならない。⚫︎約束は絶対に守る。⚫︎妻に敬意を払わなければならない。⚫︎何かを尋ねられたら真実を話さなければならない。⚫︎仲間や他のファミリーの金を横領してはならない。⚫︎近親者が各警察にいる者、家族に感傷的な裏切りがある者、素行が悪く道徳的価値観を持たない者は、コーザ・ノストラに加わることはできない(2007年、逮捕されたボス、サルバトーレ・ロ・ピッコロの捜査時に見つかった十戒)。
いずれにしても、夥しい数のファミリーがシチリア中に存在しており(たとえばパレルモ市だけで30以上の各地域にそれぞれファミリーが存在ーWikimafia)、各ファミリーは隣接する3、4のファミリーの代表とともに県の地区長を「選挙」で選出したのち、その地区の代表たちが州代表を決定。その州代表が州の副代表と評議員を任命するという、いわばマフィア内「民主主義」的システムが構築され、1957年、当時最も力があったパレルモ県チャクッリのボス、サルバトーレ・グレコが、各地方の評議員で構成される「コミッション=クーポラ」を創設、統率しています。この「クーポラ」がマフィアの実質的な政府ですが、実際にどこに存在するのかは明らかにされません。
なおパレルモ市のように、地域ごとに大きなファミリーが存在する大都市では、各ファミリーはそれぞれの代表者の中から、さらに代表者を選出し、その代表者が副代表、評議員を任命。その他のシチリアの各地方の代表者とともに「クーポラ」に参加します。
と、そのシステムを書いていくと、統制がとれた、民主主義的な選挙で選ばれたボスたちによる、少なくともマフィア間ではトラブルのない組織のようでもあり、事実「クーポラ」の創設意図のひとつとして、シチリア全体に存在するファミリーの間に生じる葛藤を、平和的(?)に解決する(裏切り者の処分の決定も含め、組織の法を決定する場でもあったため)というのが前提でした。
しかし実際のところは、ファミリー間の紛争は無くなるどころか、60~80年代にかけてますます熾烈になり、血塗られた裏切りが繰り返され、多くのボス、メンバーたちが銃弾に倒れ、酸で溶かされ、セメントに埋め込まれることになります。また、シチリアマフィア独特の、ロマン・ノワールなイニシエーションや掟の存在は、最も暴力的で非人間的と言われたトト・リイナ(自らの部下からもそう評されます)が「クーポラ」の実権を握ってからは、ほとんど形骸化してしまいました。
この、ファミリー間の紛争のそもそもの火種は、1957年の米国「コーザ・ノストラ」とのグランドホテル・デッラ・パルマでの合同会議以来、シチリア・マフィアに麻薬の密輸が任され、「大手を振って、アメリカという大市場に麻薬を持ち込めるようになり」、なだれ込んだ巨額の収益です。収益が上がれば上がるほどマフィアの社会的影響力は増大していくとともに、収益の分配過程でファミリー間の葛藤が起こり、新興マフィア、旧勢力マフィアの間で凄まじい闘いが繰り広げられるようになったのです(後述)。
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1960年代のパレルモ。「マフィアの時代をわれわれに後悔させないでくれ」とのプラカード。2018年5月5日付「La Repubblica紙」パレルモ版より引用。シチリアの地方紙「L’Ora」のアーカイブからセレクトした「パレルモ60年代の怒号」と名付けられた展覧会が開催されました。
1970年代半ばには、シチリア・マフィアがオーガナイズする麻薬が流通する米国、ヨーロッパの大都市はヘロインを求める人々で埋め尽くされ、一方イタリアはヘロインの過剰摂取による死亡の世界記録のみならず、一般的な犯罪件数でも世界記録を保持するようになります。1969年、イタリアが『鉛の時代』に突入した年、「コーザ・ノストラ」は米国とのヘロイン取引だけで、年間3億ドルもの収益を上げており、ジャーナリスト、シルヴィオ・ピエルサンティによると「マフィアが1ユーロの金を動かすと、その金は1000ユーロに化ける」とも言われるそうです。
またその時代、多くのシチリアの「Uomo d’onore(名誉ある男)ーマフィアのメンバー」たちが、麻薬ビジネスを直接管理するために米国へ渡り、売買の隠れ蓑としてピッツェリアを経営していたため、麻薬取引が発覚した際、米国のマスコミは、それを「ピッツァ・コネクション」と名付けています。
それらの麻薬、および外国煙草の密輸は、「コーザ・ノストラ」のみならず、ナポリの密輸組織(カモッラ)とも連携して進められ、その巨額の収益は、すでに協力関係を築いていた政治家たちに助けられ、やがて建築分野の投機へと移動していくことになります。そしてこの建築分野への投機がマフィアたちをさらに超え太らせることになるわけです。
たとえば、のちに欧州議員となった『キリスト教民主党』のサルヴォ・リーマがパレルモ市長時代の1958年、公共事業担当参事官だったヴィート・チャンチミーノは、マフィアに不正許可を連発して、マフィアたちが建築業界に食い込む後押しをしたことで、自身も莫大な利益を得ていました。コルレオーネ出身のチャンチミーノは、アンドレオッティ派と密な繋がりを持つのみならず、準軍事作戦「グラディオ」の「グラディエーター(秘密戦士)」リスト(!)に名を連ねるうえ、次の章で述べるIOR(ヴァチカン銀行)にも投資していた、政治家というよりは、もはやマフィアの一員と言うほうが相応しい、多くの政治殺人の背景に名前があがる有名な人物です。
また、国政と「コーザ・ノストラ」を繋ぐ最も強力なパイプとして、あらゆる交渉の仲介に帆走したのはサルヴォ・リーマであり、そのリーマが市長時代にパレルモ市の徴税契約を許可した、イグナツィオ・サルヴォ、その従兄弟アントニーノ・サルヴォもまた『キリスト教民主党』と強い絆を持つ、トラーパニのサレミ・ファミリーに属する純然たるマフィアのメンバーでした。このサルヴォの従兄弟たちは市民の税収で起業したうえ、地域農業省、欧州共同体が拠出した巨額の公金を受け取って、それを元手に高級ホテルを経営するなど観光産業に進出。シチリアきっての金満家となっています。
このようなグレーゾーンに蠢く人物たちの助けを借りた「コーザ・ノストラ」の、無思慮で見境いのない建築投機のせいで、牧歌的なシチリアの風景には新しいビル群が立ち並び、特にアグリジェントとパレルモの景観は見事に破壊され、その破壊と比例して、マフィア資本はさらに膨張していくことになります。
*レオナルド・シャーシャの「Il giorno della civettaー真昼の梟」を原作に、1961年、ダミアーノ・ダミアーニ監督により制作された映画の一場面。このシーンでは殺人を犯しても決して有罪にならないドン・マリアーノ・アレーナの勝利とマフィア・ファミリーの強かさが凝縮されまています。クラウディア・カルディナーレが言語を絶する美しさで登場する、イタリア語のフルムービーはこちらから。
もちろんマフィアの収入源は、麻薬、外国タバコの密輸、建造物への投機に留まらず、恐喝、みかじめ料の徴収、ダム、高速道路、病院建設などのインフラ土木工事を巡る公金横領、民間への高利貸しなどがあり、その収益はレストラン、ホテル、銀行、運輸、船舶業などの多岐にわたる事業、金融投資を通して、洗浄されるわけですが、「コーザ・ノストラ」はそのために利用できるポストにいる政治家のみならず、銀行員、税関の検査官などを、じわじわと買収していきました。あるいはサルヴォの従兄弟たちのように、マフィアそのものが、常に利用できるポストにいる、というケースもあったのです。
一方、ヘロインの密売で財を成した金融マフィアの代表は、映画「ペッピーノの100歩」の舞台となったチーニジ地区のボス、ガエターノ・パダラメンティでした(後述)。ニューヨークの5大マフィアのひとつである、ブルックリンのガンビーノ・ファミリーの親戚にあたるサルヴァトーレ・インゼリッロ、デトロイト・ファミリーと強い繋がりを持つパダラメンティが、件の「ピッツァ・コネクション」の中心人物でもあります。
マフィアたちは、それらの違法ビジネスで得た巨万の富を守るため、シチリアの金融機関にもがっつり浸透しており、当時失業率が高かったトラーパニだけで150の金融機関、89の銀行支店、120の金融会社が存在したそうです。その数はミラノの金融機関の数をはるかに凌ぎます。そういえば、かつてトラーパニを旅した際、「この街にはマフィアの金があるから、基本、抗争は起こらないんだ」という話を、地元の人から聞いたことがありました。
▶︎金融界の寵児、ミケーレ・シンドーナとマフィア、そしてヴァチカン