ラッキー・ルチアーノ以降、戦後イタリア「コーザ・ノストラ」の激変と巨万の富

Anni di piombo Deep Roma Società Storia

シチリアにおける戦後マフィアの登場と政治

「わたしは第2次世界大戦中の連合軍シチリア侵攻にはじまり、解放後マフィアボスたちの市長就任に至るまで、シチリアにおける市民生活のあらゆる重要出来事には『コーザ・ノストラ』が関与していると考えている。政治分析をするつもりはないが、一部政治家グループが『コーザ・ノストラ』と同盟結んでいないとは思わない。明らかに利害一致しているからだ。両者によって不都合人物排除することによって、いまだ成熟していない民主主義撹乱しようとしている」

これは以前の項でも引用したジョヴァンニ・ファルコーネが残した言葉です。ファルコーネはイタリアの歴史上はじめて「沈黙の掟(オメルタ)」を破った、米国、南米とシチリアを結ぶ「ふたつの世界のボス」トンマーゾ・ブッシェッタ、別名ドン・マシーノの協力を得て、主要なボスたちを含むマフィアの大量逮捕に成功。そのボスたちを「マキシ・プロチェッソ(大裁判ー1986年)」に持ち込んだ、パレルモ裁判所のアンチマフィア・プール(反マフィア特別捜査本部)の有能な検察官でした。

しかしながら、このイタリア史上最大の裁判、「マキシ・プロチェッソ」ののちの92年5月、警察官の車両に警護されたファルコーネ検察官と夫人フランチェスカ・モルヴィッロが乗るフィアット・クローマは、シチリアの高速道路A29のカパーチ地区を走行中に起こった大爆発で、吹き飛ぶことになります。原因は、事前に仕掛けられた高性能爆薬トリット500kg(!)によるもので、ファルコーネ夫妻と警護の方々3人が死亡、23人が負傷する凄惨な事件となりました。

イタリア全土の人々を悲しみと深い恐怖に突き落とし、アンチマフィア運動を激化させた「ファルコーネ爆破暗殺事件(カパーチの虐殺)」の、現在も継続する捜査の詳細は先の項でまとめる予定ですが、一連のエピソードを映画化し、2019年に公開されたマルコ・ベロッキオ監督の「Traditore(シチリアーノ・裏切りの美学)」は記憶に新しいことと思います。

この事件のわずか2か月後に同じく大爆発によって暗殺された、ファルコーネの親友で、同じくアンチマフィア・プールの検察官、パオロ・ボルセリーノとともに、後代のアンチマフィア検察官たちの拠り所であり、模範となったファルコーネがここで指摘するように、ファシスト時代に徹底的に弾圧されたシチリア・マフィアが、不死鳥のように再生するのは、ラッキー・ルチアーノが協力した、米英軍のシチリア侵攻「ハスキー作戦」からです。侵攻に特に大きな助力をしたヴィラルバ地区の大ボス、ドン・カロジェロ・ヴィッツィーニは、AMGOT(占領地連合軍政府)からヴィラルバ市長に任命されています。

というより、表面的にはムッソリーニに弾圧され、弱体化したように見えていたマフィアたちは、実は地下に潜ってひっそりと再生のチャンスを狙っていた、と理解するのが正しいかもしれません。また、ドン・カロジェロだけでなく、ジュゼッペ・ジェンコ・ルッソ、ヴィンツェンツォ・ディカルロなど、シチリア各地のファミリーのボスたちにもAMGOTは重要なポストを任せ、そのボスたちは食物やその流通経路、戦後の闇市を独占することで莫大な稼ぎを得るようになります。つまりAMGOTが戦後のマフィア公権力最初の富を与え、その力を回復させた、ということです。

余談ではありますが、ドン・カロジェロ(ヴィッツィーニ)という人物は、フランシス・コッポラの映画を彷彿とする「最後のゴッドファーザー」として語られることもあります。「(ドン・カロの地元ヴィラルバの)周囲には泥棒や盗賊、1000リラのために人を殺す男たちがいた。法律もまったく機能しなかった」「しかし幸いなことにドン・カロがいた。窃盗、恐喝、強盗など、何かが起こると誰もがドン・カロのところへ行った」、ドン・カロジェロは「人々を震え上がらせる恐ろしい存在」ではあっても「彼は真にゴッドファーザーのような役割を果たした。安心させ、盗まれた品物を返させ、何より人々の怒りを鎮めた」「彼はローマの男たち(国家に携わる人物たち)にさえ尊敬される術を知っていた。実のところ、誰もがドン・カロの言いなりになっていた」(L’EUROPEO/LE RADICI DI GOMORRA  2010)

つまり、マフィアのボスは無法者ではあっても、地域の人々にとってはある種の「正義」の担い手であり、弱者を苦しめる賊たちに制裁を加え、地域の不正を正す慈悲深い者たちだ、という言説です。もちろん時代が変わり、マフィアの性質が大きく変わるにつれ、このような言説は希薄になっていきますが、常に他国、あるいは他民族の植民地であり続けた、複雑な歴史を持つシチリア封建制が残る、戦後初期の農村カオスにおいては、みかじめ料と引き換えに安全を保証し、村のいざこざの調停をするマフィアのボスには、そのような一面があったかもしれません。

しかしながら、官僚と事務官という新しい階級が生まれた1947年の地方政府発足、1950年の農地改革、また、その後の好景気でシチリアから北イタリアへ多くの人々の移住が進むと同時に、シチリア経済には大規模な第三次産業化が起こり、農村過疎化していきます。それと同時にドン・カロジェロのような農村マフィアは世代交替を経て、経済が発展する都市へとその活動を移していくことになるのです(Wikipedia)。

なお、再び以前の項と重複しますが、いまだ大戦中の1942年頃(時期的にはムッソリーニによるマフィア弾圧が繰り広げられていたにも関わらず)には、シチリアの裕福な封建領主の一部、あるいはガベロッティとして大土地所有者に成り上がった者たちの一部で形成された高級マフィア(Borghesia Mafiosa)、およびそれぞれの地域を支配する大小のファミリーのボスたちと王政主義を掲げる極右勢力政治家たち、そしてフリーメイソンが結託して、「シチリア独立運動」を立ち上げています。

これはイタリアからシチリア島独立させ、アメリカ合衆国一州に組み込む、という、現代から振り返るなら、かなり奇抜な発想の運動で、1945年からは一部の『キリスト教民主党』の政治家たちもこの運動に加わりました。そして、このとき独立運動に加わったシチリア出身の『キリスト教民主党』の政治家たちの流れが、戦後、国政と「コーザ・ノストラ」を繋ぐ役目を果たした、と推測されているのです。

この「シチリア独立運動」の存在を暗示する事件は、1947年5月1日に起こっています。

その日、パレルモから3kmほど離れた山岳部にあるポルテッラ・デッラ・ジネストラの野原で、約2000人の農民労働者たちが集まり「メーデー」を祝って集会を開いていた際、丘の上から群衆に向かって多数の弾丸が発射され、幼い子供を含む11人死亡27人負傷する(この時の傷のために亡くなった人々もいます)虐殺事件が起こります。

1948年、「ポルテッラ・デッラ・ジネストラ虐殺事件」の翌年開かれた政治集会。vivi.libera.itより。

1944年、封建領主領土未耕作地占拠許可する法律が可決され、農民を優遇する収穫の分配が約束されたにも関わらず、伝統的な封建領主たちと密につながるマフィアの支配下にあったシチリアにおいては、現状維持を切望する支配者と、労働者たちのせめぎ合いが社会動乱の原因となっていました。

当時の捜査で、このときの犯人は「シチリア独立運動」の傭兵を担っていた山賊の首領、サルヴァトーレ・ジュリアーノをはじめとするならず者たちだったことが判明しますが、このジュリアーノは、山賊の首領とはいえ、マフィアのイニシエーションを受けた「Uomo d’onoreー名誉ある男(マフィアのメンバー)」でもあったことを、のちにトンマーゾ・ブシェッタを含む数人のマフィアが告白しています。

ちなみに、当時のマスコミに注目され、事件について多くを語ったジュリアーノは、事件から3年後、不可解な状況下で殺害されました。実行犯は「ポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺」に関与したジュリアーノの副官ガスパレ・ビショッタとされ、後述するコルレオーネ・ファミリーのルチアーノ・リッジョの何らかの関与が疑われていますが、いまだにその詳細は明らかになっていません。また、調子に乗ってマスコミにあれこれ話すジュリアーノが、そのうち主犯を明らかにするのではないか、と恐れた当時の国政レベルの権力者が、マフィアに依頼した暗殺だった、との仮説もあります。

そもそも、この「ポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺」が起こった直接の背景としては、その年のシチリア州議会選挙で『キリスト教民主党(DC)』が20%も議席を減らし、連携した『イタリア社会党(PSI)』『イタリア共産党(PCI)』が、90議席のうち29議席を獲得したことだ、と考えられています。つまり、その選挙結果に大喜びしてメーデーの団結集会を開く農民や工場労働者たちを脅し上げるための、現状維持派「シチリア独立運動」による「見せしめ」だと捉えられているのです。その説を受け、当時『イタリア共産党』地方議員が、主犯と目された権力者たちを告訴していますが、すべて検察に棄却されました。

また、「ポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺」からイタリアの「グラディオー緊張作戦」がはじまった、と見る識者も多く存在し、この時からすでに、冷戦の枠組みにおける米国からの干渉があった可能性も指摘されています。余談ですが、サルヴァトーレ・ジュリアーノは、それがどれほどの効力があったかは定かでなくとも、シチリアにおける「反ボルシェビキ戦線の形成」を伝えるために、ハリー・S・トルーマン米国大統領手紙(!)を送っていたことが明らかになっています。

*1962年制作、フランチェスコ・ロージ監督が、ジュリアーノの死を巡るマフィア、警察、カラビニエリ、政治の複雑な関係性をネオリアリズムで描き、ベルリン国際映画祭「銀熊賞」を受賞した傑作。なお、法廷で暴露をはじめたビショッタは虐殺の政治的煽動者について喋る、と約束したのち獄中で毒殺されています。イタリア語ですが、フルムービーはこちらで観れます。

現代においては、元パレルモ検察局長で現上院議員であるロベルト・スカルピナートが、「シチリア独立運動」を構成したマフィア、極右政治家(『キリスト教民主党』を含め)、一部のフリーメイソンロッジ、極右グループの合体が、『鉛の時代』のはじまりを告げた「フォンターナ広場爆破事件」(1969年)、および「黒い君主」と呼ばれるファシスト時代英雄ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ率いるファシストグループ(Fronte Nationale)が起こしたクーデター未遂事件(Golpe Borghese、1970年)へと導いた勢力基盤だと見ていることは以前の項に書いた通りです。

イタリアにおいて、軍部による国家転覆が、いつ起こっても不思議ではなかった『鉛の時代』の本質を象徴するこのクーデター未遂事件は、日本軍真珠湾攻撃の際の合図「トラ・トラ・トラ」を開始の合図として採用したため、「トラ・トラ・トラの夜」とも言われます。しかし国会、国営放送Rai占拠し、あわやクーデター成功、というその時、ボルゲーゼ自ら中止を命じることになりました(現在も、その理由は明らかではありませんが、ボルゲーゼよりさらに高位の存在から指令が下ったと推測されています)。

イタリア市民がいまだ「グラディオ」を知らなかった1987年、その存在を最初に告白した極右テロリスト、ヴィンチェンツォ・ヴィンチグェッラは、このクーデター未遂には、イタリア軍部、連携する極右グループ(Avanguardia Nazionale, Ordine Nuovo)、秘密結社『ロッジャP2』、CIA、SID(軍部諜報部)などの関与があったのみならず、「コーザ・ノストラ」が4000人ものソルジャーを投入した、と発言しました。

さらに、このクーデター未遂への協力から、本格的に「コーザ・ノストラ」が、国家中枢要人(主に『キリスト教民主党』アンドレオッティ派、軍部諜報部、P2、極右勢力)たちが関わる謀略、「緊張作戦」に加担した事実を、のちにジョヴァンニ・ファルコーネ検察官に協力した改悛者、トンマーゾ・ブシェッタが詳細を告白することになります。また、「ポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺」に、ボルゲーゼの傭兵隊「X’mas」が関わっていた事実を指摘する研究者も存在します。

「イタリア(の真の)歴史は、本質的に陰謀、暗殺、謀略、不正取引、合法的権力とマフィアという非合法権力との共犯関係、および他の同様の権力者との共犯関係で成り立っているのだろうか・・・」(サルヴァトーレ・ルーポ)

▶︎戦後マフィアの原点、ラッキー・ルチアーノ

RSSの登録はこちらから