イタリアでは2022年5月にPart1、6月にPart2が劇場で短期公開、11月に国営放送RaiでTVシリーズとして放映されて「最高傑作!」との絶賛を浴び、2023年のイタリア映画祭で公開された、巨匠マルコ・ベロッキオ監督の『Esterno Notte(夜の外側)』が、2024年8月9日からBunkamura ル・シネマ渋谷宮下を皮切りに、全国で順次公開されます。当時のイタリアで最も政治的影響力があった『キリスト教民主党』党首アルド・モーロが極左武装グループ『赤い旅団』に誘拐されたのは、『鉛の時代』まっただ中の1978年3月16日。その日から55日間というもの、イタリアは緊張と恐怖に打ちひしがれ、混乱し、翻弄されました。ローマのカエターニ通りに駐車された赤いルノー4のトランクで、モーロの亡骸が見つかったのは、誘拐から55日を経た5月9日のことです。『Buongiorno, notte(夜よ、こんにちわ)』から20年を経て、ベロッキオ監督が再び「アルド・モーロ事件」をテーマに、6つのエピソードで構成した、この330分のオムニバス超大作映画の背景を探ります。個人的には劇場で観て、TVシリーズで観たあと、Raiplay(イタリア国営放送Raiオンラインサイト)で連続して2回観返すほど夢中になった映画です。
フィクションであるからこそ際立つ、悲劇のリアリティ
45年を経ても、イタリアの社会にその傷口が塞がらないほどのトラウマを残した「アルド・モーロ誘拐・殺害事件」については、現在でも歴史家、ジャーナリスト、検察・司法関係者、作家たちの飽くなき追求が続いていますが、ベロッキオ監督は『夜の外側』で、虚構と現実が見事に融合する高次元の視点から、われわれ鑑賞者をカタルシスへと導きました。それは映画でしか実現できない「多元的」なリアリティの創造であり、事件への芸術的アプローチだと認識しています。
イタリアの70年代の分析において定評ある歴史家ミゲール・ゴトールは、「モーロ事件」を『鉛の時代』における『緊張作戦(la strategia della tensione)』の中でも、最も洗練された「作戦」だとみなしています。ところがそのゴトール がアドバイザーとしてチームに加わる『夜の外側』の細部には、史実が散りばめられてはいますが、いくらか暗示らしきシーンがある以外、3回にわたる「政府議会モーロ事件捜査委員会」や夥しい数のジャーナリスト、司法関係者が調べ上げた謀略の存在の可能性に迫る詳細は、ほとんど反映されていないのです。
6つのエピソードの最後には、「すべての登場人物と実際に起きた事実への言及は、すべて制作者の芸術的、創造的解釈により再構成されたものです。本シリーズで言及されている人物、組織、新聞、政党、TV番組、行政、そして一般的な公職、あるいはプライベートな登場人物の役どころは、ドラマの構成のために自由に再解釈されました。実在した、あるいは実在する人物との関連は、明示的に特定していないため、純粋に偶然にすぎません」との但し書きが入り、たとえすべての登場人物が、実在した、あるいは実在しない人物であったとしても、この映画はあくまでもフィクションだ、と定義されているのです。
つまり、この映画は史実に基づいてはいても、いまだ明らかになっていない事件の真実を追求しているのではなく、「オペラー作品」である、と断言しているわけです。いずれにしても、そもそもあらゆるすべての歴史上の人物、その背景は、映画作品、あるいは小説として表現された時点で、もはや現実ではなくフィクションであるには違いありません。
にも関わらず、ベロッキオ監督が、数々のインタビューで「これは再構築されたフィクションだ」、と繰り返し発言しているのは、事件が起きた時代を生きた経緯のある人々にとっては強い痛みを伴う記憶であり、この46年間、いまだ真実が明かされないまま、若い世代を含める多くの人々が、歴史の空白を埋めるかのように、背景を調べ上げて構築した数多くの仮説が存在するからでしょう。
実際、大絶賛の影に「史実とは異なる」との批判がいくつか湧き上がったようで、そのうちのひとつである、わりと著名なジャーナリストの批判記事を読んでみましたが、当時首相だったジュリオ・アンドレオッティやフランチェスコ・コッシーガ内相など個々の人物描写やモーロ殺害時の銃痕の有り様が、史実ではない、など現実主義的視点での、作品を芸術としては捉えない批判でした。
と同時に、『夜の外側』における登場人物、『イタリア共産党』党首のエンリコ・ベルリンゲルの、やや冷酷な人物描写、脇役的扱いに不満を述べる向きもあったようです。ある世代の左派にとってのベルリンゲルは、イタリア独自の「ユーロ・コミュニズム」を推し進め、『イタリア共産党』の不動の地位を築いた英雄的存在です。
しかしながらベロッキオ監督は、「この映画は(『赤い旅団』の視点から捉えた)『夜よ、こんにちわ』のようにイデオロギーを表現したわけではない。そもそも(事件を巡る、終わりが見えない夥しい数の調査、捜査のような)神経症的なストーリーには興味がなかった。新しい形で事件の物語(narrativo)を語ろうと考えた」との主旨の発言をしています。
※このトレイラーを観た際、ファブリツィオ・ジフーニがあまりにアルド・モーロに似ていることに驚きました。ジフーニは、マルコ・トゥリオ・ジョルダーナの『フォンターナ広場、イタリアの陰謀』でもモーロを演じていましたが、近年はモーロの獄中からの手紙、及びのちに発見された書類「メモリアル・モーロ」の、劇場での朗読をライフワークにしています。
では『夜の外側』は、どのような映画なのか。
たとえばアルド・モーロを演じたファブリツィオ・ジフーニは、「ベロッキオは事件の周囲の人物たちの、(モーロが誘拐されていた)55日間の周囲の人物たちの心理、精神を壮大なフレスコ画として描くことに成功した」と語っていました。そして、この「壮大なフレスコ画」という、いかにもイタリア的な美しい表現が、330分の大作を最も的確に言い当てていると感じます。
また多くのメディアが、シェークスピア的、あるいはギリシャ悲劇的である、と表現しましたが、わたし個人は、そもそも『モーロ事件』そのものが、イタリアに現実に起こったシェークスピア的な悲劇だと考えていて、このように複雑な要素が絡み合った演劇的な事件は、おそらく他の国では起こらないのではないか、とも思うのです。
ベロッキオ映画独特の、重厚な、暗い色彩に彩られる映像、虚構と現実が入り混じる、巧みな構成の6つのエピソードからは、46年前、イタリア全土で共有された悲劇をリアルに体感でき、事件の背景の詳細、疑惑を、多少知っているにも関わらず、別の次元から、モーロが誘拐されていた55日間を追体験するような感覚を抱きました。なにより、6つのエピソードで語られるそれぞれの主人公、あらゆる登場人物への理解と呼ぶべきか、愛情と呼ぶべきか、決して善悪では割り切れない人間の性への深い尊重を感じます。
ベロッキオ監督は『夜の外側』を『夜よ、こんにちわ』のリヴァース・ショット(controcampo)と定義しており、もともと「モーロ事件」を再びテーマにするという考えは、まったくなかったと語っています。ところが事件から40年目のメモリアル(2018年)を機に、あらゆる新聞、TV番組が事件を取り上げ、新しい書籍が次々に出版されると同時に、「政府議会モーロ事件調査委員会」の調査結果を含めるさまざまな角度からの事件の仮説が公然となり、今までは注目されることがなかった事件の周囲の出来事、人々がフォーカスされた際に、その考えを変えることになります。
その際、新たに浮き彫りにされた事件の詳細は、概して権力の不明瞭さが強調される、不信と怒りをかきたてるものがほとんどでしたが、ベロッキオ監督は、それらの情報とはまったく異なるアプローチで紹介された写真に強く心を打たれたそうです。それは、モーロが水着姿の子どもたちやその両親らとともにマッカレーゼの砂浜で一緒に映った写真で、モーロだけがひとり、ダブルのダークスーツにネクタイ姿という、監督がそれまで知らなかった、モーロの人間性を物語る写真、そして、勇ましくモーターボートを操縦するモーロ夫人の写真でした。
そのインパクトが原点となり、監督は、家庭人としてのモーロ、そしてモーロ夫人(エレオノラ・キャヴァレッリ)、フランチェスコ・コッシーガ内相、教皇パオロ6世など、『夜よ、こんにちわ』では表現しなかった事件の周辺にいた人物像へと興味が広がり、再びこのテーマに戻ることが重要だと感じたそうです。
やがて、それぞれの人物を主人公にした「(起こった)悲劇を尊重しながら、自然な形」の6つのエピソードでシナリオを作りはじめるうち、人物像のデフォルメ、たとえば帰宅して、コンロのガスを閉めたかどうか心配するモーロ(1章)、あるいはポールに絡まった国旗を広げるフランチェスコ・コッシーガ内相(2章)の行動などに魅力を感じるようになった、と語っていました。
このように『夜の外側』は、あくまでも「オペラー作品」として、今まで数多く発表された「モーロ事件」をテーマとする映画とは、まったく違う形で表現された映画とはいえ、監督はシナリオを作成するにあたって、グラディオ下における事件の詳細の検証を含め、あらゆる情報を網羅するにとどまらず、実際に、事件当時の『赤い旅団』のリーダー、マリオ・モレッティに取材していたことまで明らかになっています。
なお、事件から現在までの45年間の調査では、たとえばンドゥランゲタ、あるいは『秘密結社ロッジャP2』、軍部、そして内務省インテリジェンス、米国、国際諜報との関連が疑われる『ヒペリオン』など『赤い旅団』以外の何者かの関与が、ほぼ確実と考えられる証言、形跡が多く残っているにも関わらず、司法で裁かれた主犯、実行犯は、あくまでも『赤い旅団』のメンバーのみです。
イタリア人100人に「モーロを殺害したのは誰か」と尋ねると、90人までの人々が『赤い旅団』以外の、国家、アンドレオッティ、米国、『キリスト教民主党』などを挙げるそうですが(ゴトール談)、『夜の外側』は『夜よ、こんにちわ』同様、事件の犯人は『赤い旅団』に絞られており、監督はその理由として、その他の要素の関与に確固とした証拠が司法に認められていないこと、『赤い旅団』の自白が存在しないことなどを挙げ、「大筋にはあまり重要ではない」と、モーロが解放されなかったことこそがイタリアの悲劇なのだ、とも取れる発言をしています。
ところでベロッキオ監督が訪ねた、現在セミ・リベルタ(監視を受けながら、ほぼ自由に生活している)のマリオ・モレッティは、親愛に満ち、なごやかに振る舞いながら、「この事件には『赤い旅団』以外の要素はまったくない」と、従来の主張をまったく曲げなかったそうです。
いずれにしても今回の作品は、事件の捜査とは一線を画し、45年前の事件当時の、登場人物それぞれの人間的苦悩と非情な運命で構成されているわけですから、事件のその後の捜査の経緯はあまり関係なく、むしろわれわれ観客は、複雑な情報に煩わされず、重大事件に直面した周囲の人々の心情に、直截的に、そして自然に感情移入できるように思います。そしてそうあることこそが、悲劇の真髄でもあります。
まず、脇も含め、それぞれの章を演じた豪華俳優陣の巧みな演技が尋常ではなく、特にファブリツィオ・ジフーニは、モーロとうりふたつの演技で、モーロを実際に知っている年代の人々からは「モーロが蘇ったようだ」、との声も聞かれました。
参考)『鉛の時代』: 「蛍が消えた」イタリアを駆け抜けた、アルド・モーロとは誰だったのか
▶︎旅団に感謝する:インキピット(incipit)としてのモーロの言葉