『鉛の時代』かけがえのない記憶 P.Fontana Ⅳ

Anni di piombo Deep Roma Società Storia

結果的には、2004年、『フォンターナ爆破広場事件』における裁判の最終判決で、主犯、実行犯ともに「有罪者」がひとりも出なかったことで、35年の歳月をかけて取り調べられ、構築されたリアリティは、表面的には、まるで砂でつくられた楼閣のように、たちどころに風化し形を失った、ということになるのです。当時の新聞を調べると、遺族たちは「嘔吐をもよおす判決だ」と怒り露わにし、長期間に渡る裁判にかかった費用はすべて遺族負担しなければならない、という結果に、呆然としていらっしゃいましたが、まったくひどい話です。なお、唯一自白して服役したディジリオは、翌年、2005年に亡くなることになりました。

しかし「本当にすべては風化したのだろうか」と考えたとき、いや、きっとそうではない、との確信もあります。多くの市民を巻き込んで、明らかに起こった爆発事件に「有罪者」がひとりも出なかったとしても、長きに亘って行われた捜査、裁判のその全過程はイタリアの市民たちの記憶ざっくりと刻み込まれ、いまだに真相と言われるものが浮かんでは消え、繰り返し語られるのです。たとえば直近では、2015年の5月25日にLa Repubblica紙が『デッラ・ロッジャ広場爆破事件』に関する、服役中のヴィンチェンツォ・ヴィンチグエッラ(多くのテロ事件の背景に、イタリアにおけるグラディオ作戦、『緊張作戦』の存在をはじめて明かしたネオファシストであるテロリストの新たな証言インタビューを掲載し、平和になった今でも、『鉛の時代』は終わることはありません。

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フォンターナ広場爆破事件の犠牲者に捧げられた石碑

また、この事件だけではなく、『鉛の時代』に起こった事件のあらゆる謀略は、司法で断罪されることはなくとも、永遠の秘密になることはありませんでした。気の遠くなるような時間をかけて真相究明され、ヴェールに包まれながらも、そのメカニズムがおおかた暴かれ、新聞、書籍、その他のメディアを通じてパブリックに発表されていることは、実は驚異的なことかもしれません。

その時代、『フォンターナ』広場爆破事件を皮切りに、次々と起こる爆発事件、テロの不条理に怒りを膨張させ、左派の若者たちは先鋭的に政治化、忘我となって暴力的に暴走し、『鉛の時代』は形成されていきました。後年、その時代を生きた、わたしの知っているほとんどの人々は、「まったくひどい時代だったよ」とその青春を冷静に振り返り、「暴力」では何も解決しないことを次の世代へと伝えてもいます。

ところで、わたしが『鉛の時代』を調べはじめようと思ったきっかけは、陰鬱なイタリアの暗部をさらけ出したかったからではありません。さらにCIANATOの国際インテリジェンスが暗躍する、理不尽でドラマチックな政治対立の展開を興味本意に追跡したかったわけでもありません。公に語られることはきわめて稀有なことですが、わたしたちが普通に生きる社会の裏、国境を越えてインテリジェンスが動き回り、今やネットをも駆使して謀略を企てているだろうことは、想像に難くありません。第一それも、インテリジェンスの仕事の一部なのです。

そうではなく、イタリアの検事司法官ジャーナリストたちをはじめとする関係者たちが、「35年」(現在まで数えると50年もの間:2023年追記)という時間をかけて、たゆみなく事件の裏を探り、捜査を続け、その背景を調べ尽くそうとした「バイタリティと執念」をすごい、と思ったからなのです。もし他の国で同じような事件が起こったとしたら、その事件の関係者たちは果たして、これほど粘り強く、「真相」を追求する気力があるだろうか、と疑問に思います。

次から次に新しい事件が起こり、刻々と世界状況が変わる現代、50年以上も昔に起こった事件のことなど忘れてしまうか、忘れずとも、決定的な証拠を探し当てることをやがて諦めてしまい、いつの間にかうやむやになってしまうケースがほとんどなのではないでしょうか。現代を生きるわれわれは、あらゆることをあっという間に忘れてしまいます。

畢竟、2000年を超える歴史を持つイタリアという国の時間のスパンは、他の国とは明らかに違います。その動きは遅々として、間違いをも繰り返しますが、いったん追求を決意すると、その粘りは常軌を逸するものがあります。

『フォンターナ広場爆発事件』に巻き込まれ、犠牲になったのは、この時代の他の爆発事件に巻き込まれたあらゆる人々と同じように、国際政治にはまったく無関係の、たまたま全国農業銀行に居合わせただけの市民たちでした。重症を負い身体の一部を失くしながら、一生を終えた負傷者の方々もいらっしゃいます。

35年という、気の遠くなるような長い裁判のあと、すべての容疑者たちが「無罪」となって終わったこの事件を、市民たちはいまだに忘れることができないのは、どこにも怒りのぶつけようがない、複雑で、納得のいかない事情があるからであり、今思うならば、真相を究明するために延々と続けられた捜査は、巧みにプロジェクトされた理不尽なテロリズムへの怒り、犠牲になった市民たちへのオマージュであったのかもしれません。そして真相を追求し、暴き尽くそうとするその姿勢が、グラディオに操られそうになったイタリア市民の威信であり、プライドでもあったのだとも思う。

しかも、もし万がいち、こののち、さらに続く一連のテロ事件に翻弄された政府が、『非常事態宣言』をどこかの時点で発令していたならば、瞬く間にクーデターが起こり、軍事専制国家が樹立していた可能性もあったということですから、全貌がおぼろげに見える現在から、その危機を振り返ると、歴史の危うさに戦慄もします。70年代にイタリアに軍事政権政府が樹立し、そのままファシズムに逆戻りしていたとしたら、いまわれわれが持つ「明るく呑気で陽気」なイタリア人のステレオタイプは、まったく違うものになっていたことでしょう。

いずれにしても、これほどたくさんの無辜の市民が犠牲になり、恐怖に彩られた不安定な社会状況が続くなか、頑なに「民主主義」という政体を政府が変えることなく、「グラディオは失敗だった」と謀略者たちを落胆させる「優柔不断」で、したたかに守り抜いたイタリアという国の、清濁併せ呑む老獪な柔軟性、狡さと誠実さを兼ね備える多面性には感嘆せざるを得ません。

『鉛の時代』は暗く、悲しく、やりきれない。しかしその重たい時代に、挑発に屈せず、決して専制に走ることなく、イタリアの市民は、できる限り、『市民の権利』を主張しました。もちろん現代のイタリアの政治を含める社会は、相変わらずそれぞれがそれぞれの意見を多様に主張しあい、収拾がつかず、経済状況もなかなか好転しないユートピアとはかけ離れて山積みの『問題』が渦巻く社会です。それでもその不満渦巻く社会の、いかにもわがままで個性的な『人間』のカオスと、底流に流れる『弱きものへの優しさ』こそが、この国の人々の素晴らしさ、だとわたしは思っています。外国人であるわたしが呑気に暮らしていけるのも、善悪を超える多様性を持つ社会の、その懐の深さのおかげでもあるとも感じています。

そしてまた、『鉛の時代』のこんな危うい空気に飲み込まれることなく生きのびた、市民たちのしぶとくパワフルなバイタリティを、尊く思わずにはいられないのです。現代イタリアの市民レベルの政治活動において、熟考され続け、主張される多様な『民主主義』のコンセプトは、このような激しい衝突の時代を経て、ブラッシュ・アップされたものなのだとも思います。

事件の真相を負ううちに、静かに消されたジャーナリスト、作家も多いなか、解決はしなくとも事件の真相らしきものを、捨て身で暴いていこうと弾丸のように時代を駆け抜けた、当時のイタリアのジャーナリズム精神にも頭が下がります。また、妨害され、脅迫されながらも、命がけで果敢に真実を追い求め、正義を貫こうとした司法関係者、検察関係者が多くいたことは、感動を覚えるイタリアの良心です。

イタリアの、この一筋縄ではいかない『鉛の時代』は、白黒がつかないグレイッシュな色のまま、過去の時間に静かにとどまり、後世のわれわれに重要な何かを絶え間なく語っているような気もします。これもまた2000年を超える時を持つ、イタリアの壮大な歴史の遺産のひとつだ、とも思うのです。

*『フォンターナ広場爆破事件』に関して、一気に駆け足で要所と思われる部分を、なるべく演出せずに、出来事のみをまとめてみましたが、複雑で混乱した時代、未熟の由、いままでの記述になんらかの間違い、勘違いなどがあれば、ご指摘いただければ、と思っています。

追記:2015年7月22日、ミラノで開かれた裁判で、 『デッラ・ロッジャ広場爆破事件』の主犯Ordine Nuovoのカルロ・マリア・マッジ、謀略に加担した諜報のエージェント、マウリッツィオ・トラモンテに『終身刑』の判決が下されました。事件から41年目にして『鉛の時代』に起こった爆発事件の容疑者が、初めて『司法』により断罪される、イタリアにとってきわめて歴史的な判決ですが、マッジ、トラモンテの弁護士は、控訴を検討することを表明しています。

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