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Teatro Valle 情熱のゆくえ

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そういうわけで、マテオ・レンツィ首相は、ヴァッレ劇場の文化モデルは認可できないと就任そうそう発表したわけですが、その発言に関するヴァッレの占拠者たちの反応を、 La Repubblica紙が取材しているので、その記事を参考に、以下にまとめておきたいと思います。

ファブリッツィオ・ジフーニやファウスト・パラヴィディーノという華々しいキャリアを持つ俳優たち、またあの著名な法律家、ステファノ・ロドタまでが支持するヴァッレ劇場の、演出家、俳優、舞踏家で構成された占拠者グループにとって、フィレンツェの市長から、たったの一夜イタリアの首相に変身、あれよあれよと躍り出たマテオ・レンツィの発言は、爆弾のようなものであった。占拠者の一人が言い放った。

「われわれと彼の文化モデルは完全に違うものだからね。イタリア劇場協会に属するペルゴーラ劇場は、古典的な手法でもある公共機関の、単なる民営化でしかないし、その理想はフィレンツェをルネサンス・ディズニーランドにしようというものでしかないよ。公共財産を市民から奪い取って、ブランド化しようとしているだけだ。われわれヴァッレ劇場は、市民によって構成された社会と法律の間に横たわる問題を革新的に変化させながら、質の高い文化を提供し、多くのプロジェクトを実験的にリアライズしようとしているんだ。われわれが想像するのは、市民が参加し、それぞれが役割を持つひとつのアルタナティブな基盤、直接民主主義的、全ての市民に平等に豊かさを分かち合う独立した政治体系の実現なんだ」

しかし、結局、市政にはその言い分は聞き入れられず、繰り返し立ち退きを命じられた。
「つまり、僕たちが立ち去ることによって、ヴァッレ劇場が再び悪魔の手のなかに舞い戻るというわけだ。これは市民の公共財産コンセプトにとって、深刻な問題だよ。公共財産というものは、それを利用して金儲けするためのものじゃない。これはステファノ・ロドタ、ウーゴ・マッテイ、パオロ・マッダレーナ、サルヴァトーレ・セッティス、マリア・ロザリア・マレッラ、それにノーベル賞受賞者、エリノール・オストロムとともに念入りに整理、解釈しなおして得た結論なんだ」

「ローマには、ヨーロッパの核ともなる、芸術文化の巨大な価値があることを忘れてはいけない。それなのに、ローマの文化はいまやカタストロフに直面している。テアトロ・インディアの休止(遺跡のなかにつくられた劇場で、交通は多少不便でも、そのユニークさで人気のあった劇場)、ローマ・ヨーロッパフェスティバル(ローマで開かれる演劇、ダンスのインターナショナルファエスティバル)の予算削減、公共財産管理局の方向感の欠如、年に一回開かれる演劇コンペで生き抜かなければならない演劇界の混乱。文化は憲法で定められているように全ての人々の基本的な権利だ。それなのに文化と呼ばれるものが、一部の金満家、エリートの特権となろうとしている。文化は民間会社が保有して、そこから利益を得る手段であるべきものではないだろう? 利益の論理だけでは、文化は継承できないよ

わたしは彼らの主張に共感します。何もかも市場、生産効率で巡る社会にうんざりもしています。もちろんお金は社会の血液のようなもので、それが循環しなければ、誰もが生きていけない世の中ですから、お金とはなるべく仲良くしたい、と考えるのは当然です。が、はじめから内容はどうあれ、「お金」のことしか考えない、という「売れる」「売れない」「法律の網をくぐりぬけ人をあざむいてもお金」という価値基準は、人の感性を鈍化させる、と、あたりまえに考えます。

ディズニーランドは、架空の世界の現実化だから面白く、楽しめるのであって、現実がディズニーランド化、つまり架空化、幻想化することは、なんというか、プラスティックで人工的な現実を生きているようなものです。しかもそのディズニー化されつつある世界の裏社会には、マフィアだの、ゼネコンだの、政治家の私利私欲だの、諜報だの、謀略だの、嫉妬だの、憎悪だの、敵意だのが渦巻いていて、大人である限り、やっぱりそれらがちょっとした瞬間に垣間見えるわけですから、困惑もします。そしてこの、現実のエンターテインメント化は、ISISのプロパガンダ映像の有り様をも、リフレクションさせるテーマかもしれない、とも最近では考えてもいます。

何はともあれ、結局、ローマ市長から強制退去を命じられたヴァッレ劇場の占拠者たちは、2014年の夏に劇場を出て行かなければならなくなってしまいました。そしてその期日は8月の10日。その最後の夜、わたしも友人たちと連れ立って劇場を訪れましたが、予想に反して、悲壮感のまったくない意外と明るい、相変わらず自信満々の雰囲気でした。ロビーには何人かのミュージシャンが集まって、即興で唄ったり、踊ったり、賑やかな笑い声に満ちてもいました。

 

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朝方になるまで人通りが絶えなかったTeatro Valle  occupato前

 

劇場の前の通りの人垣のなか、やはり皆も気になったようで、知っている顔に多く出会いました。「信じられないよ。恥ずべきスキャンダルだ。これだけの実績を上げたのに、ローマ市ときたら何を考えているんだか」「まったく、これから何処に行けばいいんだ。せっかくいい劇場ができたのに、しかも夏だというのにね」と支持者たちのほうが、がっかりした感じでもありました。

また、多くの人々の関心を集めたテアトロ・ヴァッレの退去時、Palazzo Montecitorioにある下院議会プレスルームでも、占拠者たちによる記者会見が開かれました。

※「わたしたちが望むのは、ローマ市、ローマ劇場協会などが提案している事柄について、確実に、明確に、参加型の劇場として、いかに仕事を進めていくかを話しあう、オープンな会議なんです」「テアトロに参加した者たちはみな、公共に奉仕する、公共に公共財産を返却する、という本質的な気持ちがある。それはすべての劇場、そして文化機関に本来あるべき精神のはずだ。だからその枠組みに沿った建設的な話し合いこそが、強制退去にまつわるさまざまな疑惑を払拭するのだと思う」「劇場と引き換えに他の場所を提供する、という提案に対しては、わたしたちは完全に拒絶します。わたしたちは自分たちが独占する場所が欲しかったわけではなく、劇場を守りたかった。劇場のなかで過ごすことで、われわれはイタリア劇場システム、文化について熟考し、その考えを形にしてプロデュースしてきたのです。このアイデアが今後の話し合いの中心になるのなら、われわれは劇場から物理的に退去します」

さらに2014年11月27日には、1日限り、シンボルとして再びテアトロ・ヴァッレを占拠。その際の、彼らの主張の前半(後半は今後のミーティングプログラムなどなので)を要約して、引用してみます。

劇場がどんどん閉まっていく街なんて、悲しいー上を向いて、闘いを変革しよう。

目の前に広がるパノラマには憂鬱になってしまう。ローマの文化シーンは虚脱状態だ。長い間、民間経営であり、公共予算の支援を受けていたテアトロ・エリゼオは、公共支援が滞り、財政困難で閉鎖されることになった。ローマで唯一、国際的に重要な位置にあるローマ・ヨーロッパフェスティバル(世界じゅうのコンテンポラリーダンスの粋を集めて開かれる、ローマの秋の一大イベント)の本部は、テアトロ・パラディウムから移転を余儀なくされ、実現が難しいプロジェクトを抱えたまま窮乏状態に置かれている。

クイリーノ地区にあった、そもそもヴァッレと同じように公共財産であったETIは、カオティックで、透明性のない経営の民間企業に譲渡されてしまった。テアトロ・インディアは修復を理由に、倉庫以外のすべてのホールを閉鎖。オペラ座もプロジェクト及び財政管理のディレクター不在で混乱し、劇場の最も重要な財産である楽団員たちは、二度とストライキはしない、と約束する絞首刑のような契約書にサインしなければならなくなった。このようにすべての劇場が、非常に危険な状況に直面している。占拠されていた映画館、シネマ・アメリカも強制退去となってしまったし、その他にも10館ほどの映画館書店が閉鎖された。

中央右派の前市長から中央左派の現市長に変わって、この空気が少しは変わるかと期待していたが、いったいどこに文化、社会に関する政治方針があり、参加したいプロジェクトがあるというのか。民主的、現実的にアーティストたちの成長を支え、文化予算を捻出するために必要な手段はなんなのか。ローマの文化予算はもはや「ゼロ」。郊外見捨てられた状態ともなり、その文化の空白は人々を苛立たせ、レイシズムをも誘発している。20代、30代、40代のわれわれの生活は、日に日に不安定になっている。

そんななか、文化の世界で提案され続けるのは、大金をかけて、巨大な箱を作り、仕事なのかシステムなのか見分けがつかない、たとえばEXPOのような巨大イベントだ。そのイベントに関わった企業、政治家たちが、数々の癒着と横領スキャンダルに塗れていたという事件が暴かれても、なにもなかったかのようにEXPOは進行している。そのイベントでは何万人もの大学の新卒生をボランティアとして働かせる予定だが、それは、しかし搾取ではないだろうか?(Milano-EXPOでは実際に多くの大学生、新卒生がボランティアで参加しています)。

2014年の8月、ローマ市文化評議員にとって、ヴァッレの問題はローマ市における、最も重大な懸念のようだった。テアトロ・ヴァッレの若いアーティストと市民のコミュニティは劇場をマネージし、機能させ、質の高いプログラムで毎日劇場を解放、他の社会活動をしているグループとも絆を作り、イタリアだけでなく、ヨーロッパ全体のアーティストやオペレーターを巻き込んでもいったが、その劇場が懸念であるとは・・。劇場の修復(何年も先送りにされている)に関しては、占拠者たちが退去した8月から着工するはずだったのに、まだ始まってもいないし、修復プロジェクトにさえ着手していない。テアトロ・ヴァッレはいまだに閉鎖されたまま。それも厳重に封鎖されている。その場所で行われていた演劇、ワークショップ、プロデュース、創作、教育すべてが、取り消されてしまったのだ。文化評議員が懸念したヴァッレの状況は、問題ではなく、文化の解決策ではなかったのか。

テアトロ・ヴァッレ文化財団はすでに三年間の実績があり、芸術的にも、政治的にも、また社会的にも認識されている。われわれはテアトロ・ヴァッレを、公共財産として、その運営に参加し、オープンで民主的な実験をしていく場として残ることと切に願っている。

Milano-EXPOに関して、横領発覚、ゼネコン問題は犯罪組織も絡んでひどいものでしたが、それはそれとして、わたし個人としては、まあ楽しみな(夜に行くと入場料は5ユーロ、出店の料理も美味しいと話題です)、イタリア経済が多少息を吹き返す『お祭り』ではないか、とも思います。しかしローマ市の見え透いた口実で、活動の場を奪われた彼らにとっては、あらゆる商業的イベントに湯水のように使われ、無意味な機関にも流れる莫大な予算は、憤懣やるかたない『バビロンシステム』でしかないのでしょう。そして確かに彼らの言う通りなのかもしれないとも思います。

現在、ヴァッレ劇場をローマ市、文化管理局に引き渡して拠点を失った後も、若い演劇人たちは、アンジェロ・マーイSpin Time Labsをはじめとする他の占拠グループとも協力、スペースを借りて何度も会議を開いては、今後の活動を模索しています。通告時、マリーノ市長が約束した、文化財産省のコンペはいまだに実行されないまま、また文化評議委員との会合も、なかなか前に進まず膠着状態です。

とはいえ、3年間の確実な実績と支持で自信を得た若いアーティストたちは、演劇への思いを決して断ち切ることなく、また社会を覆うシステムに絶望することもなく、皆で徹底的に議論しあい、その情熱の行き先を、自分たちの手で切り開こうとしています。そろそろ退去から10ヶ月、わたしも何回かミーティングに参加し、テアトロ・ヴァッレの会議のためだけに、わざわざ北イタリアから訪れた法律家、ウーゴ・マッテイの意見には、感動もしました。なかなか次の方針は決まりませんが、彼らには、まだ時間がたっぷりあります。今後も、公開ミーティングには積極的に参加して、彼らの情熱の行き先を、追いかけていきたいと思っています。

*なお、強制退去後に彼らが立ち上げたテアトロ・ヴァッレ財団2022年に解散しましたが、それぞれの役者、舞台関係者たちは、各分野で活動し続けています。たとえば、オスカーの最優秀外国映画賞にノミネートされたマテオ・ガッローネ監督の映画『Dogman(ドッグマン)』に主演したマルチェッロ・フォンテは、テアトロ・ヴァッレの占拠者のひとりです。

 

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