レジスタンス
「そもそもピニェートという場所は、ローマの典型的な庶民の街角で、またパルチザンたちのレジスタンスの地でもある。政治的な闘争が数多く繰り返されてきた街でもあるんだよ。ピエール・パオロ・パソリーニの『アッカトーネ』はもちろん、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』が撮影された場所だということは有名だよね。サン・ロレンツォ、テスタッチョとともに、ローマでも数少ない、真正のローマの庶民のアイデンティティを持ち、その『魂』を体現する人々が今でも多く生活している。例えばバールなんかで75歳以上の人々と話すと、戦時中、米国に爆撃されたこの地区が、戦後どんな風に再建されたかを、喜んで話してくれるよ。そして、あくまでも庶民的に外から訪れた者たちを歓迎するのが、ピニェートという街のメンタリティだと思う」
「確かに80 、90年代には、ローカルマフィアの犯罪の舞台になったこともあって、僕がはじめてーまだとても若い頃の話だけれどーベースを習うためにピニェートに通っていた頃は、困窮した、暴力的で危険な場所だった。ひとりでは来れないような雰囲気だったんだ。ところが2007年、再びピニェートに戻ってきて、この街角に『革命』が起こったと感じたんだよ。僕は、イタリア各地をディスクのディストリビューションで移動したのちローマに戻ったばかりで、その頃のピニェートの街角は、まるで発酵するようにアーティストたちのグループが集まり、いまや伝説のクラブとなった『Fanfullaーファンフッラ』の胎動がはじまった頃だった。その頃からピニェートは、多分ローマで最も質の高いプログラムのライブが見られる地区に成長していったんだ」
「音楽というアスペクトがピニェートの顔を変えていったとも言えるね。たくさんの若い子たちがこの地区に越してきて、外国人たちも多く住むようになった。たとえばベルリンのノイケルン、クロイツベルグが最もエネルギッシュだった15年前あたり、あるいはパリのアンダーグラウンドの雰囲気をも漂わせていたんだ。やがて物書きや画家、インディペンデントの映画監督たちが続々と集まり、地区そのものがアートへと向かっていった。バールで朝食をとっているときに偶然会った誰かと、なんとなく話すうちにプロジェクトが生まれるというナチュラルさで、何の圧力もない、自由なプロジェクトが次々と生まれるという感じかな」
「つまり、ローマの既成のアカデミズムの枠にはまらず、またチネチッタなどの映画産業からも距離を置いて、ストリートという、人々のリアリティからアートが生まれた。音楽界にも映画界にも、また作家、ジャーナリストにも、ピニェートからはじまってイタリア中でポピュラーになったアーティストたちがたくさんいるよ。正直にいうなら、最近はその、当時の迸るようなエネルギーが停滞している感じはするけれどね。ピニェートには新しい世代の新しい循環が必要だとは思う。ブームに乗って、新しいバールやカフェやクラブが続々出来て、はっきり言って、投資で新しく造られる店には『文化』はまったくないよね」
「そもそものピニェート文化の最も強いキャラクターは、すべての既成概念へのアンタゴニズムというもの。あらゆる全てに立ち向かう、という傾向が特徴かな。ここにはアヴァンギャルドなアプローチで音楽を追求するアーティストたちが大勢いる。ポップ、フォーク、実験音楽、ジャズからエレクトロニックまで、あらゆるジャンルの音楽を聴くことができるしね。この15年間、ローマではどんな音楽の波が起こったか知りたければ、ピニェートに来れば、だいたいの輪郭は捉えることができると思うよ。また、ピニェートがどれほどイタリアの音楽に影響を与えたかをも知ることができるはずだ」
「ぜひピニェートで演りたい、というアーティストたちが大勢いるんだ。最近シカゴ、ニューオリンズをツアーしたばかりのインターナショナルなグループ、僕の友人でもあるRoots Magicや、イタリアの古いエスニックなディスクから音を再録する実験音楽のHeroin in Tahitiとかね。彼らも欧州全域で認められるアーティストだ。そして近年、最もセンセーショナルなケースがカルクッタだよね」
※カルクッタの新しいアルバムから、『Pestoーペースト』。
カルクッタ
「僕はカルクッタ(エドアルド・デルメ)の成長過程をずっと見てきているし、よく知っているんだけど、はじめの頃の彼はファンフッラで15人とか25人とか、少数の観客を前にギター1本でシンプルに演奏してたんだ。はじめはカセットテープを売ったりしていたけれど、やがて僕のとても仲のいい友人であるアントニオのミクロレーベル(geographissues.blogspot.com)から、50枚ほどのボリュームでCDをリリースするようになった」
「そうこうするうちに、ある日のこと、僕らのところに一種のマネージャーというか、タレント・スカウトみたいなことをはじめた男の子がやって来てね。それがダヴィデ・カウッチ(Bomba dischi)なんだけれど、なかなか可愛いのは、その仕事をする前の彼は、レストランでカメリエレをしていたんだよ。その彼が、今ではアンダーグラウンドだけではなく、イタリアのメジャー音楽産業界に影響を及ぼす人物のひとりになったわけだけどね」
「彼は僕らに『カルクッタを売り出そうと思っているんだ』と言うんだ。僕たちが『彼は君が考えているようなタイプのアーティストじゃないと思うよ』と答えると、『すでにアレンジャーを見つけて、バックバンドもオーガナイズした。ローマからイタリア全国に、大々的に発信する』と言うので、『じゃあ、やってみればいいよ』ということになった。そしてはじめてカルクッタがYoutubeにリリースしたビデオクリップ『Cosa mi manchi a fare(僕がやらなくちゃならないこと)』が、奇跡を起こすことになったんだ。Do it yourselfで、アンダーグラウンドなビデオクリップ、耳に心地よい音だったからラジオにも向いていた。これが少しづつ成長して、最終的に大爆発したというわけさ」
「そのアルバム『mainstream』を僕らのレーベル、ディストリビュートで、2ヶ月で3000枚余りを売ったところで、ソニーがやって来て、CDの版権を売って欲しいということになったんだ。そしてソニーがそのアルバムを二枚組のCDとして再リリース、その年のヒットチャート上位5位内にカルクッタは食い込むことになった。それがアンダーグランド音楽界のひとつの『現象』として注目を浴びることになったんだよ。彼は、他のポップアーティストのために作曲もするようになって、著作者、カンタウトーレとして、ソニーとは、ふたつの契約を結ぶことになった」
「彼は一瞬のうちに爆発したけれど、現在のカルクッタは、そういうわけで僕にとってはインディとは言えず、完全にメジャーでポップなアーティストになってしまった、と言わざるをえないかな。正直なところ、デヴュー当時の面白さはなくなったように思うよ。ピニェートで歌っていた頃は実験的に粗いつくりの歌も歌っていたし、テキストもよく練られて面白かったけれど、メジャーになることでオリジナリティ、彼自身の個性が薄まったかもしれない。いまや7000人、8000人の観衆の前で歌う彼の音楽はマスが対象だから、表現がシンプルで直接的になってきたのかもしれないね。彼のこの変革は、僕はあまり好ましく思っていないな。もちろん、彼はアンダーグラウンド・ミュージックとは絆の深いカンタウトーレだから、彼のこれからの幸運を心から祈っているけど」
※Youtubeで爆発したCosa mi manchi a fare
インディとメジャー、つまりメインストリームとの間に、かなりの距離があった過去とは大きく変わり、最近はYoutubeやSpotifyなどのネット上のストリーミングで、インディがたちまちのうちにメジャーを追い越してしまいます。その『カルクッタ現象』の出現で、インディとメジャーの間に差がなくなりました。インディもメジャーももはや関係なく、すべてが『ポップ』と括られ、イタリアではその中でもインディ・ポップと呼ばれるジャンルが大勝利した、と言われています。かつてはインディのアーティストがヒットチャートに上ると、エポックメーキングなことだと捉えられましたが、現在イタリアで人気のある新しいアーティストは、ほとんどインディからネットでブレイクしたアーティストたちです。
統計によると、音楽を聴くのが日常、と答えた人はイタリア人の56%が、15歳から24歳に絞ると、75%から80%と途端に数値が跳ね上がります。また人口の60%が日常的にSNSを使い、13歳から17歳に絞ると、これも86%という数値に跳ね上がる。若い世代の子たちは、普段はSportifyやYoutube、SNSを通じて音楽を聴き、以前のようにディスクが何枚売れたか、という表現は使われなくなり、デジタルでどれだけ消費されたか、何回再生されたかが、消費の指標となって久しい時代となりました。
また、かつては音楽そのものがリアルな『仲間』を構成していましたが、現在では音楽そのものが、ネット上で共有、共感するネットユーザーたちのヴァーチャル『コミュニティ』となり、音楽のあり方、消費形態そのものが完全に変わってしまった。しかしながらイタリアでは、その反動のようにVinile(LPレコード)の消費が、若い世代においても年々伸びているそうです。そういえば、最近うちの近くにも中古のターンテーブル専門店が新しく開きました。
いずれにしてもピニェートという地区は、2018年の現在でも音楽がリアルに『仲間』を形成し、フィジカルに五感を通して互いが互いを刺激し合うカルチャー・スポットでもあります。かつてピニェートに通いつめたカルクッタのライブは、観客がカルクッタと一緒に大声で歌い、その一体感が凄まじいという評論も読みました。残念ながら、わたしはカルクッタのライブを聴いたことがないのですが、彼の楽曲やビデオクリップにはイタリアの若い世代の感情生活や美意識、ソーシャルなセンスが反映されているようで、興味深いと思っています。
カンタウトーレ
「いわゆるカンタウトーレという存在は、70年代に強く出現してくるんだけれどね。イタリアの70年代といえば『鉛の時代』。ストリートや大学、そして高校に政治的抗議や衝突が溢れていて、カンタウトーレのテキストも社会に向けられたものがほとんどだった。そしてそのテキストが、当時の若者たちのガイドとも言えるものだったんだ。もちろん、そもそもはフォークのアイデアから生まれた音楽ジャンルで、ルーツは遠い過去にあるんだけれど、その頃はどんなカンタウトーレを聴いているかで政治的なポジションがはっきりと示された」
「たとえば、『アモーレ』にまつわる、ありふれた物語を歌ったクラウディオ・バリオーニを、当時の左翼の若者たちは、「qualunquista(なんでも主義/社会・政治に興味を持たない無関心主義)」と見なして聴かない、という具合だったし、一方、レジスタンスの流れを受け継ぐフォブリツィオ・デ・アンドレは、重たい歴史を歌に託し、左翼の若者たちの人気をさらったという感じだよね」
「ローマにも伝統的に重要なフォーク・スタジオがあって、それはアントネッロ・ヴェンディッティ、フランチェスコ・デ・グレゴーリが作ったスタジオなんだけど、彼らがローマの70年代を表現する重要なカンタウトーレの例となったんだ。ヴェンディッティの初期のテキストは、社会を意識した政治的なものだったにも関わらず、急進的な左翼からは「軟弱」だとかなり非難されたという経緯もある。一方、デ・グレゴーリは、ボブ・ディラン、ジャクソン・ブラウンなどと方向性が同じで、米国モデルのカンタウトーレとも言っていいと思うんだが、素晴らしい詩人だったよ。こんな風にイタリア中がカンタウトーレに溢れていた。特にイタリア共産党が生まれた土地であるレッジョ・エミリアからトスカーナあたりのカンタウトーレは、きわめて政治色の強い楽曲で、多くの人々に強い影響を与えていた」
「言ってみればこの時代から、カンタウトーレには、非常に政治社会的なものと、ポップなものとふたつの方向性に分かれていたんだけれど、その枠を超えたところに、世界的にも有名なLucio Batistiールーチォ・バッティスティがいるわけだよね。そもそも僕は若い頃から英米のロックやヘビーメタルとか、かなり極端な音楽を聴いていたから、彼の曲を、当時はほとんど聴いていないんだ。それに友達と海へ行くと、焚き火を囲んでアコースティック・ギターを奏でながら、皆がバッティスティを歌いはじめる、というようなシーンが繰り広げられて、大嫌いだった。本当に嫌だった」
▶︎ルーチォ・バッティスティ