いよいよイタリア共和国憲法の改革を問う『国民投票』の日を迎えました。イタリアのマスメディアは、過熱するだけ過熱し、フィナンシャル・タイムズやウォールストリート・ジャーナルなどのグローバル経済各紙も、今回のイタリア国民投票の結果が、イタリアのみならず、欧州、そして世界に及ぼす影響を分析しています。「市場の反応はかなり悪い状況になりそうだ」と煽ったり、「いや、イタリアの政治不安は今にはじまったことじゃないから、Noー不承認が出ても市場は何も変わらない。イタリアの悪化した金融機関の状況は悪化したまま進んでいく」などと、好き勝手に報道しています。
しかし正直なところ、今回のイタリアの国民投票の結果は、間接的に見れば未来への暗示となるかもしれませんが、国民投票の内容そのものは、直接的にはまったく市場に関係なく、『国民投票』を機にかまびすしくなったグローバル経済各紙の報道に、少なくともわたしの周囲の誰もが違和感を感じています。そしてそれらグローバル経済各紙がまことしやかに書き立てる、最も短絡的な不安要素、ここ数年で支持者を急激に伸ばした『5つ星運動』というイタリアにおけるポピュリズムの今後の台頭、それに伴う大きな危険を、日常的に実感することはありません。
つまり、今回の『国民投票』が否決、非承認となったならば、「#IODICONOーわたしはNO」キャンペーンを張っている『5つ星』が急激に躍進、「ユーロ離脱」にイタリアが一歩近づき、やがては脆弱な欧州通貨を破綻に導くかもしれない、と恐怖を煽るシナリオです。しかし、確かに『5つ星』は相変わらずアグレッシブに突き進んではいても、政府崩壊とともに来年早々総選挙、即刻政権を担う勢力と躍り出て、ただちに「ユーロ離脱」の国民投票が行われる、という流れになるのはなかなか難しいのではないかと思います。
『鉛の時代』という血まみれの政治闘争の時代を経たイタリアには、たくさんの古狸、若狸、極右狸、極左狸が有象無象に蔓延っていて、今のところ、その、あらゆる産業セクターとコネクションを持つプロの策士たちが、そうそう簡単に新参の『5つ星』に政権を獲得させるとは思えない。もし万が一、えっと驚くスキャンダルや不正の発覚などでいじめ抜かれてもなお、『5つ星』がしぶとく政権を獲得、「ユーロ離脱」の国民投票までこぎつけ、しかも国民が絶対離脱!(今の状況からはありえないことに思えますが)と承認したとしても、どのような方法で新貨幣を構築するか、それとも(国内、欧州内で)二重貨幣にするかなど、さんざん研究され、交渉が繰り返され、合意がなかなか得られず、ひたすら長い年月がかかるだろう(しかもイタリアですから、ああでもない、こうでもない、と他の国の2倍以上の時間を要して)、と考えるのが妥当です。
したがって国民投票→政治不安→ポピュリスム台頭→ユーロ離脱→ユーロ崩壊→ハルマゲドンというのはあまりリアルでない、短絡的に恐怖を煽るヘッジファンド的な報道のあり方だと、わたしはみなしています。とはいえ一寸先は闇、ありえないことが実際に起こる世界ですから、1億万分の1ぐらいの確率として、そういうこともあるかもね、ぐらいの気持ちで、呑気に成り行きを見守るつもりです。それよりもイタリアには移民問題、マフィア問題、格差問題、教育問題など、何より優先して解決しなくてはならない問題が山積みですから、まずこれらの問題を早急に解決していただきたい。さらには1日も早く中東、紛争地の戦火が消えてなくなることを何より願っています。
さて、本題の『国民投票』。今回の国民投票の主な内容は、イタリア共和国憲法に明記されている、Bicameralismo(上院、下院、二議会制)の見直しを、承認・非承認のいずれかで国民に問うものです。そこで、今まで読んだことがなかったイタリア共和国憲法をパラパラとめくってみることにしました。
以前、聞きに行った市民カンファレンスで、憲法裁判所の元メンバーという学者が、ローマ法とイタリア共和国憲法の強い関連を示唆、国民主権、そして市民の共有財産の保護の重要性を力説していましたが、実際、Art.1(第1条)から並ぶ基本のディシップリンは、日本国憲法に負けないくらい美しく、決意と勇気に満ちています。多くの人が「イタリアの憲法は、世界一美しい」と自慢するのも、納得がいきます。法律の専門用語の知識のないわたしが訳してしまうと、言葉が崩れてしまい、あまりインパクトがなくなってしまうのですが、第1条、第3条の意味は、こんな感じでしょうか。
Art.1 L’Italia è una Repubblica democratica, fondata sul lavoro. La Sovranità appartiene al popolo, che la esercita nelle forme e nei limiti della Costituzione.
イタリアは、労働を基盤とする民主主義共和国である。主権は憲法の形式と制限に則る国民に所属する。
Art.3 Tutti i cittadini hanno pari dignità sociale e sono equali davanti alle legge, senza distinzione sesso, di razza, di lingua, di religione, di opinioni politiche, di condizioni personali e sociali. E compito della Repubblica rimuovere gli ostacoli di ordine economico e sociale, che, limitando di fatto la libertà e l’eguaglianza dei cittadini, impediscono il pieno sviluppo della persona umana e l’effettiva partecipazione di tutti i lavoratori all’organizzazione politica, economica e sociale del paese.
全ての市民は同等の社会的尊厳を持ち、法の下に平等である。性別、人種、言語、政治的な意見、社会的、個人的条件で区別されることはない。共和国の役割は、市民の自由と平等を脅かす事象を制限、人間的成長を阻害する経済的、社会的秩序における障害を取り除き、全ての労働者が国の政治的、経済的、社会的組織に参加するための実務を行使することである。
そして、この素晴らしいイタリア共和国憲法の「共和国の制度」の章、第75条に、『国民投票』に関する条項があります。すなわち5万人の有権者、あるいは5人の地方議会の代表者が、法律の全文、あるいは一部分を廃止することを望んだ場合、『国民投票』を行使しなければならないことが憲法で定められています。また、イタリアはスイスに次ぐ『国民投票』国家、つまり国民の意志が直接政治に関わる、いわば民主主義のシンボルとも言えるイベントが頻繁に行われる国でもあります。最も記憶に新しい国民投票は、2011年の「原子力発電の再開発」の中止に関するもので、時期がちょうど夏場であったため、ビーチに繰り出す人々の間にも「今日は国民投票日。ビーチから直接投票に行こう!」と、手書きのプラカードが並ぶという現象も見られました。
しかしながら、この『国民投票』というイベントは、国民の意志がダイレクトに国政に影響するという「聖域」でありながら、その実、対立する政党の「政争、駆け引きの場」となることが往々にしてあります。特に今回はその動きが顕著で、中央左派の一部(PD『民主党』の一部)、中道右派(Forza Italiaー『フォルツァ・イタリア』など)、極左(Partito Democratico della Sinistraー『民主左翼党』、反議会主義、占拠スペースを運営する人々など)、極右(北部同盟、カーサパウンドなど)、前述の『5つ星運動』がNOを突きつけ、各党の思惑が入り乱れて国を挙げての騒乱となり、一体何のための『国民投票』が行われようとしているのか、焦点がぼやけるほどです。
『民主党』のマテオ・レンツィ首相が就任早々に憲法改革を宣言して2年、今年の4月に下院で信任されてほどなく、次期政権の獲得を狙う『5つ星運動』によるイタリア全国#IODICONO(わたしはNO)キャンペーンが繰り広げられ、夏から秋にかけて、現在のマテオ・レンツィ首相率いる『民主党』の内部で、反レンツィ派の旧勢力が造反、NOー非承認をオフィシャルに宣言しました。と同時に、極右勢力『北部同盟』、ベルルスコーニ元首相率いる中道右派『フォルツァ・イタリア』が、わらわらと、どこからともなく多勢で湧き上がり、各マスメディアでNOを連呼しはじめます。今回の国民投票で非承認が出れば、首相の座を降りる、と自信満々に大見得を切ったレンツィ首相を、与党の少数派を含む、野党総出で引きずり降ろそうと、手を替え品を替え、延々とNOの理由を述べ立てるポリティカル・リアリティ・ショーとなっています。
しかし、こんな状況に陥ったのも、元はと言えばレンツィ首相の作戦ミスでもあるのです。国の基盤を担う重要な憲法の改革を問う国民投票に、自身の進退を賭け、改革をパーソナライズしすぎたせいで、まるでレンツィ内閣信任投票のような空気となり、「あまりに傲慢」という非難が集中しました。そもそもレンツィ首相は選挙で選ばれて首相になったわけではなく、同じくPD『民主党』、レッタ前政権の空白を突いて、騙し討ち的な経緯で、フィレンツェの市長から、あれよあれよという間に国政に躍り出た人物で、あまり信用がおけるタイプではありません。トータルイノベーションのアイデアを掲げ、女性も含める若い議員中心に、鳴り物入りで中道右派との連立内閣を組閣し、その経緯が、民主党内の反レンツィ派ー旧勢力に、怨恨ともいえる大きな禍根を残すことにもなりました。
驚いたのは、重大な心臓の手術後でもあることだし、現在は療養中と、その登場を予期していなかったベルルスコーニ元首相が、突然メディアに露出しはじめたことです。また、元首相のその不死身もさることながら、欧州議会に参加しつつ、のんびり余生を送っている、とばかり思っていた元首相マッシモ・ダレーマまで参入しての口角泡飛ばす政争に発展しました。「これほど大がかりな政争になるとは」と、イタリアにおける「権力」の座というのは、よほど魅力的で、一度味わったら忘れられないポジションなんだろう、と感心した次第です。
今回の国民投票でSiー可決承認が得られることで、『民主党』レンツィ派の安定を強固にすることは、古株の彼らにとっては如何ともしがたい、許せない状況なのだと思います。また、非承認となり政治空白が生まれ、その混乱に乗じることができれば、野党にも大きなチャンスも巡ってくるかもしれません。特筆すべきイタリアのメンタリティのひとつ、Protagonismo(プロタゴニズモ)「わたしが主人公主義」は、老境をも惑わす、政治家たちのIndole(本質的な性格)のようです。
いずれにしてもイタリアの政治不安は今にはじまったことでもなく、印象としては、常に崩壊と背中あわせ、政治家たちが「我も、我も」と自己主張、大騒動を繰り返しながらギリギリの線の綱渡りで、国家を揺るがす「スリルとカオス」を楽しんでいるようにも思えます。むしろイタリアの政治家たちにとっては、刺激のない「秩序と安定」という退屈な未来の訪れをイメージするほうが、よほど不安を感じるのかもしれない、などとも勘ぐるぐらいです。そして市民はといえば、そんな政治に対抗し、「イタリアは国民主権!」とデモだのストライキだの、あらゆる手段を使って反旗を翻し、たまには警察との激しい衝突をも辞さず、果敢に自らの主張を貫きます。ローマに住みはじめた頃、はじめて市民デモの大混乱に出くわした時は、さすがにびっくりしました。
さて、グローバル経済紙が、国民投票の結果如何で、イタリアが欧州を揺るがす火種になる、と報道するのは『5つ星』の躍進による「ユーロ離脱」の可能性のみではありません。フィナンシャル・タイムズが、「今回の国民投票が、不良債権で喘ぐモンテパスキ・ディ・シエナをはじめとするイタリアの8つの銀行が破綻に追い込まれるきっかけになるかもしれない」という記事を書いたことがイタリア中にショックを与え、各マスメディアでも、大きな議論となりました。
しかしイタリアの各銀行の不良債権の状況は、かなり悪化しているとはいえ、ECB(欧州中央銀行)の金融緩和が続き、さらに不測に備えてイタリア国債の買い支えをECBが準備しているという報道もあり、ピンポイントで巨大ヘッジの投機爆弾が落とされない限り、ただちに銀行が破綻に追い込まれ、それが雪だるま式に連鎖、というシナリオは想定できません。希望的観測も含めてはいますが、わたしはそう考えます。
同様に「フィナンシャル・タイムズが指摘したイタリアの8つの銀行はモンテ・パスキを筆頭にそもそも過酷な危機状態にあり、たとえ国民投票で承認でも、非承認でも、それが大きく変わることはない。事態は深刻なんだ。起こってはならないことだが、いつ破綻してもおかしくない状況でもある。しかしながら今回の国民投票と、銀行の未来は関係がない。国民投票に絡めて、名指しで報道するなんて、これじゃまるで、バンク・テロリズムだ」というのが、現在までの、イタリアの大方のジャーナリストの反応でした。
イタリアの経済紙 il Sole 24 oreは、国民投票を控えた今週月曜、イタリア株がいったん大きく下がり、国債スプレッドが上昇した現象を(現在は安定していますが)、市場による、イベントの結果が出る前の「恐怖を煽る脅迫」と表現しています。場合によっては重大な危機を招きかねないこのイベントの結果を、ギリシャ危機、中国危機、ブレグジット、米国大統領選挙を例にヴォラティリティ・インデックスから分析もしています。
「もちろん、何が起こるか、数日先のことも全く予測できない未来、市場の一部が待ち構えている『ハルマゲドン』が起こる可能性は皆無とは言えないが、天使の背後に存在した『サブプライム』の例があるにしても、イタリアに関しては、今までのデータから不吉な未来を予測することはできない。確かにイタリアが抱える銀行の不良債権問題は、強力な投機チャンスとなりうるが、短期の混乱が過ぎたあと、市場は落ち着く、と見ている。さらにフィナンシャル・タイムズのようなグローバル経済紙が流布する情報は、ヘッジファンドのポートフォリオを膨らませるだけだ」と非難しています。かつての金融危機でマリオ・モンティ暫定政権が樹立。当時の緊縮政策がいまだに尾を引いているイタリアは、市場の投機爆弾テロにはかなり敏感です。
また、「恐怖を煽る脅迫は、プロのトレーダーたちの投機チャンスでもある」とも明記し、「市場は量的なアプローチのみを重視し、今回の憲法改革によってどのような結果が導かれるか、というリアルなファンダメンタル要素はほぼ考慮に入れず、0か1かというコンピューターの法則に沿って動いている。危機に陥るか、陥らないか、の判断だけが、市場では重視されるのだ」と書いています。
ちなみに、過去のアグレッシブな投資の代償として、深刻な債務危機に陥っているモンテパスキ・ディ・シエナは、現在のところJPモルガンが投資、救済するという流れともなっています。1ヶ月ほど前に「国民投票で非承認が出れば、海外の資本がイタリアから逃げる」というアメリカ大使の発言がありましたが、ここにきて、なるほど、と何となく納得がいくようにも思いました。アメリカの政治方針が大きく変わった今、この発言が効力を持つかどうかは怪しくとも、政府が変わったところで、グローバル金融システムが変わるわけではないので、大きな事情の変化はないかもしれません。
したがって今回の『国民投票』は、イタリア国内の政争の混乱、さらには市場に蠢く声なき指揮官に虎視眈々と狙われるなか、イタリア国民の意志が問われるということです。そしてこのような状況であっても、わたしが会うローマの人々、特に若い世代の人々が、日に日に大音響になっていく雑音にも関わらず「何が問われているか、しっかり見極めて自分の意見を投票に反映させる」ときっぱり答えるのを頼もしくも思います。
さて、ここでわたしが把握している限りの12月4日の国民投票の内容について、ざっくりとまとめておきたいと思います。
2016年4月に下院を通過し、今回『国民投票』が実現することになった、レンツィーボスキ(憲法改革省大臣)改革とも呼ばれる、この憲法改革の最も大きな変革は、現在、ほぼ同等の機能、効力を持つ、下院(Camera 630議席)、上院(Senato320議席)による2院制を見直すというもの。イタリアでは法令の制定、あるいは信任を行うためには上院、下院を、同等に通過しなければなりませんが、例えば上院で、法案の一部見直し、となれば、再び下院に戻り、下院で見直しとなれば、再び上院へ戻る、と法案が行ったり来たりと何年も信任されない状況が続き(この現象はピンポン、あるいはNavetta parlamentaleー議会往復バスと呼ばれる)、なかなか決定しない。その遅々として進まない裁決を、上院の権限を削減することで、効率化するのが目標です。
そのために、まず上院の議員数を大幅に削減、上院機能を根本的に変革させる。また地方議会の役割、大統領選挙の方法、国民主導による法令削除の発議、今後開かれる国民投票のルールも見直されます。さらには無用と見なされるCnel(Consiglio nazionale dell’economia e del lavoro-憲法99条に定められた経済を研究する機関)、Provincia(イタリアの地方はRegioneー州、Provincia(県)ーComune(市)と分割されています)が廃止されることにもなる。Provinciaは、すでに一部廃止されていますが、完全に廃止されているわけではありません。
なお、通常の国民投票はQuorum が適用され、有権者の50%以上が投票しなければ、その国民投票は効力を持ちません。しかし今回の憲法改革に関する国民投票ではQuorumは適用されず、たとえ投票率が過半数に達さなくても、Si(承認)、あるいはNo(非承認)、と過半数を超えたいずれかが効力を持つことになります。
では、もし、レンツィーボスキ改革が国民に承認された場合、具体的に、何がどのように変わるのか。
上院の320議席(うち5席は、終身上院議員)を100議席(うち5席は終身上院議員)に削減。今までは普通選挙で選ばれていた議員を、74議席が地方議会の代表者、21議席が地方議会が選んだ議員で占められ、現行の法案に関する信任という役目はなくなります。したがって今後は、憲法、EU関係、地方議会の法令関係、恩赦、減刑の裁決などの例外を除いては、下院のみで信任が行われるということです。この改革で今まで平均504日かかっていた上院、下院による信任プロセスは推定約40日と短縮、スピード裁決が可能となります。また上院議員の給料は従来の2万ユーロから、0になります(新上院議員は、地方議会から給料が出るため。さらにその地方議会予算も大幅に削減される予定です)
ちなみにイタリアでは、たとえ逮捕状が出ても国会議員は保護されるという特権があり、上院議長、下院議長の介入なく(つまり両議会の承認を得られなければ)逮捕されることはないのですが(例えばベルルスコーニ元首相はこの特権のために、何度も逮捕を免れていますし、古くは『赤い旅団』との関わりが疑われたトニ・ネグリは、急遽Partito Radicale 『革新党』の議員となり、逮捕されることはありませんでした)、今回上院の役割が変わっても、この議員特権には変化はありません。
大統領選挙に関しては、下院、上院の議員だけで選挙が行われ、従来は投票に加わっていた59人の地方議会代表者は参加しなくなります。また、大統領は下院を解散させる権限を持ちますが、上院を解散させることはできなくなります。さらに大統領が不在の際、従来は上院議長が代行していましたが、今後は下院議長が代行することになります。
憲法71条、市民主導の法令廃止の提案は、従来、有権者50000人の署名が集まれば政府に提案することができましたが、今回の国民投票が承認されれば150000人の署名が必要になります。さらには国民投票のQuorumの仕組みも若干変化、現在5万人の市民の署名、あるいは5人の地方議会の代表者が必要な国民投票の条件はそのまま残しつつ、8万人の市民の署名を集めれば、現状のQuorum、つまり有権者の半分の投票は必要なくなり、前回の総選挙に参加した有権者数の半分の承認で可決されるという項目が加えられます。これは今まで必要だった有権者50%+の票から、37.5%+の票を集めれば承認となる、ということです。
また、憲法裁判所の裁判官5名の任命の方法も変わり、現行の上院、下院の議員による共通選挙が分割され、3名が下院から、2名が上院から選ばれることになります。さらにはProvinciaー県を廃止することで、3億2千万ユーロを節約、CNELを廃止することで、二千万ユーロの節約、65人のメンバーの解雇となります。また行政権に関して、下院において信任期日を設け(70日間)、その期間に信任が成立しない場合は、政府に決定権が委譲される、という条項が加えられます。
以上が、大まかな今回の憲法改革における国民投票の内容です。今まで時間ばかりかかって、非効率だった国政をスピーディに、シンプルに合理化、予算を削減し、さらに国政と地方議会との間の絶え間ない葛藤を、地方議会の代表者が上院議員を兼務することで軽減させる、というのがレンツィ首相ーボスキ大臣の主張です。
ただ下院と政府に、権限が集中、地方議会も上院として国政に取り込まれるわけですから、今までのようにゆっくり時間をかけて、国民の多様な意見を統合していくという過程は踏まれなくなります。さらに上院議員は、今までのような普通選挙で選ばれるわけではないので、国民の意志が、上院では全く反映されなくなるとも言える。上院議員となる地方議員も、もちろん地方選挙で選ばれるわけですが、選挙の規模、有権者の数は大きく異なります。
わたし個人は投票権がないこともあり、正直、イタリアの未来にとって、どうあることがいいのか、まだよく理解できていません。善政であれば、シンプルになればなるほど効率的に国民に有効な政治が行われるとは思いますが、逆に専制的な人物が政権を握れば、権力が一極集中してしまう可能性もあるシステムなのではないか、という危惧もあります。11月に開かれた最終段階の世論調査では承認46.9%、非承認53.1%、未定が26.4%と、NOが優勢。自分の周囲を見渡しても、ほぼ世論調査に呼応した割合で答えが返ってきます。いろいろ考えた末に「行かない」あるいは「白紙投票する」という声もちらほら聞こえ、それが意志表示という人々もかなり存在するかもしれません。
数日前、ある銀行の管理職の人に「あなたはSi、No、いずれに投票しますか?」と尋ねると(銀行不良債権問題で市場の動きには敏感なセクターなので当然Siの返事を期待していたのですが)、「民主主義的見地から捉えて、私はNoを投票する。上院に民意が反映されず、権力が一極集中する可能性があるのはとても不安。グローバル経済紙は、何かと不安を煽るけれど、それはスペキュレーションだ。今回の国民投票の性質は、市場とはなんら関係がない」ときっぱり断言され、まさか銀行勤務の人物が、市場混乱をも予想されるN0に投票するとは・・・とイタリア国民の、組織との関連を全く重視しない個人の主張、意見の明確さをも感じたことを付け加えたいと思います。
レンツィ政権は日を追うにつれ、憲法改革に非承認が下された場合、政局の混乱に市場が反応して混乱、その時はかつてのモンティ緊急暫定政権のような、テクニカル・ガーバメントを想定せざるを得ない、もしそのような事態になれば、国民の毎日の暮らしは強烈な税金地獄に見舞われる、と主張し、不安を煽る発言が次第に多くなりました (The Economist紙などは、Noが出て暫定政府ができたほうがイタリアには良い、などという意地悪な記事も書いています)。一方、『5つ星』は、ブレグジット、米国大統領選挙と同様に、市場には大きな混乱は起こらない、と強調している。
ベルルスコーニ元首相に至っては、「Noとなっても心配無用。それにレンツィ首相はたとえ非承認になったとしても辞任しないだろうし(イタリアにおいては、ありそうなことです、ご自身ならきっとそうすることでしょう)、このまましばらく『民主党』の政権が続く(世論調査では、いまだ支持率が最も高いため)だろう。しかし本当に彼が首相を辞めて、政界から退くというのなら、Media Sette(元首相の所有するTV局)でスカウトするよ。彼は派手なプレゼンテーションがうまいから、リアリティ・ショーの司会者なんかがいいかもしれないね」と、ケロッとした顔で発言していました。つまりNoを主張する側はタカをくくって、根拠なく、わりと無責任に放言している、という印象です。
世界がグローバリズムの反動で国境を閉じはじめ、ポピュリズムが台頭、保護主義に向かっている、といわれる傾向も、確かに物流の面ではそうなりつつあっても、グローバル金融市場では相変わらず、国境なく、メタフィジックにお金が動き回っているわけですから、マテリアルな保護主義、ナショナリズムの台頭はむしろ、巨大金融資本に投資、あるいは投機材料を与えるだけのような気もします。もはや我々の生活は市場の下にあり、フィジカルにはお金をコントロールすることができず、伝統的な「労働」が美徳とはみなされない世界に生きていることは覚えておきたいとも考える。現代の政治というものは、市場という、実態がつかめない、善悪を超えた「神のようなもの」をサポートするシステムに過ぎないのかもしれません。
そういうわけで、12月4日のイタリアの『国民投票」の後、Posto Referendumーポスト・リファレンドゥムが嵐に見舞われるのか、何も起こらないのか、まったく見えない状況で、イタリアは少し不穏な空気に包まれています。国民主権のシンボルとも言える『国民投票』が、政争や投機に利用され、変質を余儀なくされる、ということは、まったくもって理不尽なことではありますが、しかしこれが今回感じた、率直な『国民投票』のリアリティです。ローマの人々が、今回の『国民投票』を巡る状況に、憤る気持ちも理解できます。
いずれにしても、今は静かに、イタリアの国民の未来のため、良い結果が出ることを願っているところです。