欧州で再び猛威を振るいはじめたCovid-19への不安が高まるなか、9月20日、21日の両日、6つの重要な『州選挙』とともに開催された『国民投票』は、事前の議論がいまひとつ盛り上がらなかったように思います。選挙が行われた州とそうでない州では、投票率に10%から20%の差が出ましたが(たとえばローマがあるラツィオ州では45.68%、シチリア州は35.39%)、それでも最終的には全国で53.84%(コリエレ・デッラ・セーラ紙)と、まずまずの数字となった。その結果、上院議員315人を200人へ、下院議員を630人から400人へ削減する、憲法改正の『国民投票』に69.96%の市民が賛成することになりました(写真は1946年、当時の市民たちが希望に満ち、イタリアの国体を決定した『国民投票』の様子。女性たちがはじめて有権者となった重要な国民投票でもあり、このときの女性の投票率は89.2%でした。gayposto.itより)。
再び感染が広がりはじめたイタリア
おそらく世界中が感じている気分だと思いますが、Sars-CoV-2という未知のウイルスの存在は、たとえさまざまな障害が待ち構えていたとしても、これから普通に続いていくはずだった個々人の生活に多くの制限を課し、あらゆる判断を鈍らせようとします。
ただでさえ不確実な未来への不安が、音もなく、色もなく膨張し、気持ちよく晴れ渡るローマの秋空にゆらりゆらりと漂っているかのようです。
思い起こせば去年の12月、木枯らし吹きすさぶある日のこと。日本から持参したマスクをかけて歯医者さんに出かけると、扉を開いた途端、受付の女の子にあっと驚く顔をされました。「いったいどうしたの? マスクなんかかけて。道ゆく人に怪しまれなかった?」と珍しそうにじろじろ眺められ、歯医者さんにも笑われたことが(ご本人はかけていたのに)、まるで違う時代の思い出のようでノスタルジックな気分になります。
今となっては、ローマの街ゆく人々がひとり残らずマスクをかけ(ラツィオ州では早々に条例化もされ)、他人と距離をとってよそよそしく歩く、フレンドリーなイタリアにおいては不自然極まりない状況ですから、自分を巡る世界の常識は意外と簡単に、あっけなく変わるのだ、と緩やかに驚いている次第です。
たった10ヶ月前までは、マスクをかけているのは(特に黒いマスクの場合)「不審人物」か「過激なデモ参加者」と勘ぐられる状況で、日常の場面で「顔を隠す」ことは異様なふるまいでもありました。その原因としては、長く、深刻なイタリアの『鉛の時代』のテロリズム、さらには数年前に欧州を震撼させた連続テロ、また、ここしばらくは静かでも、全身黒一色、黒マスクのブラック・ブロックがどこからともなく現れて、通常のデモが一面火の海となるような出来事があったからだと思います。
さて、懸念のCovid-19はといえば、現在のところフランスやスペイン、英国ほど規模の大きな感染第2波には至っていないイタリアですが、それでも感染者の数が日々、確実に増加しつつある心配な状況です。学校が再開されたこと、これから冬に向かいインフルエンザが流行しはじめること、密閉空間にいる時間が長くなることなどで状況が悪化するのは必至で、戦々恐々とした空気が漂っています。
1日の感染者数が、2500人±から一気に4458人(10 月8日)まで増えたここ数日、州レベルの条例だった屋外でのマスク着用が、イタリア全国で義務づけられ(必要ない場所でも持参が義務で、マスクなしだと400ユーロから1000ユーロの罰金です)、モヴィーダやパーティ、演劇やコンサート、スポーツ観戦も人数を制限。街中を軍が監視(!)することになりました。10月15日までの予定だった『緊急事態宣言』は、2021年1月31日までの延長と決定されています。
ところで、ちょっと前のことですが、英国の議会で「英国の感染がここまで拡大しているのは、ドイツやイタリアのように充実した検査を行わず、医療体制が整っていないからではないのか」という質問がボリス・ジョンソン首相にぶつけられたという出来事がありました。
するとジョンソン首相は、「英国の市民は伝統的に、のびのびとした自由を愛する市民だからこそ感染が広がったのだ」という主旨の、まるでドイツとイタリアが隠れ全体主義だと言わんばかりの回答をし「それじゃ、イタリア市民が自由を愛していないみたいじゃないか」と、反発の声があちらこちらから上がったという経緯があります。
そこにすかさずセルジョ・マッタレッラ大統領が登場し、「イタリアの市民は自由を愛するが、それと同時に、まじめであることをも心から愛するのです」と切り返し、「それ見たことか」とイタリア市民の溜飲を下げた次第です。
ともあれ、この先はまったく予想できずとも、今のところイタリアで感染の拡大が他の国ほど急激でないのは、他の国よりもロックダウンの期間がかなり長かったこと、クラスターが発生した際、感染の足取りを追いかけることに、今のところは成功していること、空港や長距離バスの停留所などでの水際対策を含めて、検査体制が充実しはじめたこと(しかし、英国やフランスに比べると検査数は少なく、週末以外は1日10〜12万件です)などが挙げられるでしょう。
さらに、夏休みにすっかり気が緩み、多くの人々が羽根を伸ばしてバカンスやモヴィーダを謳歌したことで、再びドッと感染が広がった痛い経験から、マッタレッラ大統領がおっしゃるように、イタリアの市民ひとりひとりが、かなり注意深く、慎重に暮らすことを習慣にしはじめたのも事実です。
身近なところで言えば、たとえばスーパーマーケットで買い物の品定め中、ちょっと気を抜いて、隣の婦人と距離が近くなると「1mがルールよね。そうよね」と、きっぱり注意されます。
また、Covid以前は夜になると毎日のように出かけていた近所の大学生は、ほとんど出かけないうえ、「ひょっとしたら大学で知らないうちに感染しているかもしれず、家族にうつすといけないから」とずっと部屋に閉じこもっているそうで、お母さんが「健康的なのか、不健康なのか、まったく判断できない」とこぼす立ち話にも遭遇しました。
夢見がちで優柔不断、食べて歌って恋に溺れる、どこかロマン派なステレオタイプで語られることが多い(まあ、そういう人もいますけど)現代のイタリアの人々ですが、一般的に見て、実は自分が属する社会に対する責任感が強く、特に生命に関する問題には敏感に反応する、という事実を実感できたことは、貴重な体験でした。何が起こるかわからない不確実な未来に、正しく臆病であることは、リスクヘッジの基本でもありましょう。
それでも日々、集中治療室に入院しなければならない方々が増え続け、サッカーの選手やジャーナリスト、政治家たちの感染も報告されていますから、このまま他の欧州の国々のように、ドラスティックに感染が急増することがないことを願うばかりです。
▶︎『州選挙』と同時に実施された『国民投票』