そこで、ここで少し、イタリアではCrac Sindona(シンドーナ銀行破綻事件)と呼ばれる、イタリア最大の金融事件を簡単に追ってみたいと思います。
話は戦時中に遡ります。
1943年、まずシチリアに上陸した米軍は、シークレット・サービス、つまり諜報のみならず、シチリアをルーツに持つニューヨークマフィアのボス(ラッキー・ルチアーノ)をも送り込むという作戦をとっています。このオペレーションを起源に、シチリアの裏社会における主要な権力を、かの有名な『コーザ・ノストラ』が、長きにわたり(現代に至るまで)握ることになるわけです。
当時、シチリアで会計士をしていたシンドーナは、この時代に米国シークレット・サーヴィスのエージェントや「コーザ・ノストラ」、つまりイタリア系米国人であるマフィア+シチリアのローカルマフィアと付き合いはじめ、その関係を踏み台にのし上がっていきます。米国にもたびたび渡って、政治界(ニクソンの財務長官デヴィット・M・ケネディなど)、金融界に知古をえて、60年、70年代には、武器産業、あるいはドラッグなどマフィアの地下ビジネスで動く資金をマネーロンダリングし、投機を繰り返し、ミラノにプライベート・ファイナンシャルバンクを設立。インターナショナルに巨大な資本を動かすようになりました。
また、カトリック信者であるシンドーナは、のちに教皇パオロ6世となる、当時のミラノ枢機卿ジョバンニ・バッティスタ・モンティーニとも懇意で、やがてヴァチカン銀行(後述のポール・マルチンクスが総裁)の運営をもまかされることになります。本人は常に「わたしがヴァチカンを助けた」とも豪語していたそうです。
72年には米国で20番目の銀行として重要な位置にあったフランクリン・ナショナルバンクの株25%を所有、事実上の運営者ともなり、米国メディアでも「国際金融界の魔法使い」としてもてはやされるようになりました。また、シンドーナはDC(当時政権を握っていた『キリスト教民主党』)、イタリアの内務省諜報局SID、さらにはリチャード・ニクソンにまで資金を提供していたことが明らかになっており、イタリアのみならず、米国の政界とも金銭的な絆を持つに至っています。
その頃、ボルゲーゼのクーデターをオーガナイズしたSID司令官ヴィート・ミチェッリからリーチオ・ジェッリに紹介され、シンドーナはP2に入会しています。また、P2絡みのもうひとつの巨大銀行破綻、米国出身の大司教ポール・マルチンクス(ヴァチカンへ潜入していたCIAのエージェントと言われる人物。資金を洗浄するためIOR-L’Istituto per le Opere di Religioneを設立しています。)と共謀してヴァチカン銀行の資本を操作、タックス・ヘブンを駆使して幽霊会社に融資しながら巨大化したアンブロジアーノ銀行の頭取、同じくP2のメンバーであるロベルト・カルヴィとは、ジェッリを通じて知り合っています。カルヴィはシンドーナ破綻のあと、ヴァチカン銀行の資本運営に関わるようになりました。
また、シンドーナが、1967年のクーデターで樹立したギリシャの軍事政権、南米の軍事専制国家に、NATOから要請を受けたジェッリを通して、資金を供給していたという事実も明るみに出ています。
そのシンドーナが74年に急転直下。ミラノのプライベート・ファイナンシャルバンクを破綻させ、と同時に、米国のフランクリン・ナショナルバンクなど買収した金融機関をも巻き添えにしたことで、米伊の「コーザ・ノストラ」にも(おそらく)大損失を負わせています。実際、当時『銀行再生』を狙っていたシンドーナの不正調査をしていたジョルジョ・アンブロゾーリには、マフィアからの脅迫と思われる電話がたびたびかかっており、その電話の主は「われわれはシンドーナのためでなく、偉大なアンドレオッティのために動いている。アンドレオッティはすでにすべてをオーガナイズした(銀行再生)と言っていた。なぜなら、これは彼の案件だからだ」と早口で言う、謎深い言葉が盗聴され、今でもYoutubeなどで、この一連の脅迫電話を聴くことができます。
P2のリーチオ・ジェッリと非常に親しかったアンドレオッティとマフィアの関係は、のちの大ボス(トト・リーナ)を巡る取り調べの証言、あるいは盗聴証拠もあり、たびたび取り沙汰される公然の秘密であり、シンドーナの背後にジェッリと共にアンドレオッティの存在があったことは、この電話からも明らかです。そういえば、「コーザ・ノストラ」をテーマにしたフランシス・コッポラの「ゴッド・ファーザー」は、72年からシリーズで公開されますが、この映画をきっかけにイタリアのマフィア・イメージが世界に定着したことは、今から思うなら、イタリアの騒乱時と重なる絶妙な時期だった、とも、P2を調べながら、ふと考えました。
いずれにしても、巨万の富と名声という野心に駆られ、ブラックマネーを駆使して世界の注目と権力の座を熱望した銀行家シンドーナ、また、アンブロジアーノ銀行カルヴィは、ともにーこんなことを書くと語弊があるのかもしれませんがーある意味、真っ暗闇に蠢くさらに巨大な野心に利用されるだけ利用され、破綻したのちに消されてしまった、と考えられるかもしれません。シンドーナは自作自演の誘拐事件など、派手な逃亡劇(この際もP2メンバーが関与しています)を繰り広げ、米国の刑務所で服毒死。カルヴィは、逃亡先のロンドンの橋で無残な宙吊りで見つかり、いずれも自殺か口封じの暗殺か判然とはしない(基本、暗殺と考えられていますが)非業の死を遂げています。
さて、本題のロッジャP2は、1877年にGrande Oriente d’Italia(イタリア大東社)を母体に形成された伝統的なプロパガンダ・マッソーニカ(フリーメーソン・プロパガンダ)として、戦後発展した比較的新しいロッジです。ファシズムが台頭した戦時中、フリーメーソンは活動を禁じられていましたが、戦後、復興を助けるという名目で米国フリーメーソンのメンバーがイタリアに流入、イタリア大東社は、彼らの助けを借り再興されることになります。
のちにP2のグランドマスターとして君臨するリーチオ・ジェッリは、1963年にLoggia Romagnosi(ロッジャ・ロマニョージ:ローマをベースとする、Grande Oriente d’Italiaのロッジ)のメンバーとして加入。ジェッリは自分の加入を機に他のメンバー、特にシークレット・サービス、例えばSIFAR(軍諜報部)の司令官 アッラヴェーナ、SIOS (軍諜報部)の司令官だったミチェッリ、また SIDの司令官などをフリーメーソンに加入させ、やがてその存在を完全に秘密裏としたロッジャP2を形成していきました。こうしてイタリアのフリーメイソン組織、Grande Oriente d’Italia、Loggia Romagnosiは、ジェッリの入会によって大きく変質していくことになります。
このリーチオ・ジェッリという人物は戦時中、フランシスコ・フランコの義勇兵としてスペイン内戦に参加したという経緯があり、イタリアに戻ってからもファシストとして活動、ムッソリーニとも面会する機会を得ています。「ムッソリーニに会い、抱擁された時は、大変に感激した」「自分はファシスト以外の何者でもない。一生ファシストとして生きる」とのちのインタビューでも語っていますが、マフィアを忌み嫌い、フリーメーソンを禁じたムッソリーニの厳格なファシズムと、フリーメーソンのメンバーであり、マフィアとも親交を持ったジェッリの柔軟なファシズムは。その質がかなり異なっているのは確かです。
そして迎える終戦、ファシズムに心酔していたジェッリは、戦犯として投獄されることになりますが、その間、近づいてきた諜報に、ムッソリーニに協力していたドイツ人、イタリア人を50人ほど告発するという、裏切りというべき行動もとっており(さらにその裏ではドイツ軍部、元ゲシュタポたちの、アルゼンチンへの逃亡幇助も行っている)、仇敵であるはずのパルチザンの活動を助けたり、諜報、カラビニエリと協力し、CIAに情報を提供する役割を果たすなど、極めてフレキシブルに立ち回ってもいるのです。
当時ジェッリ自身がCIAの一員であったという説もありますが、確証はなく、CIAと緊密な関係にあったイタリア人グループと、非常に懇意にしていた、というのが確かなところのようです。また63年、ジェッリがフリーメーソンに加入を希望した際、過去、活発にファシスト活動に従事していたことを理由に、いったんは入会を拒絶された、という経緯もあったそうです。