『鉛の時代』:「秘密結社ロッジャP2」グランドマスター、リーチオ・ジェッリ

Anni di piombo Deep Roma Eccetera Storia

戦後、ジェッリは、極右政党MSI (Movumento Socialista Italiana:イタリア社会運動)と繋がりを持つ、マットレス会社フロシノーネ支部の責任者、「企業家」として、同じ年に生まれたアンドレオッティと知り合い、以後、緊密な交際をすることになりました。さらにニクソン政権時代には、国家安全保障問題担当大統領補佐官であったヘンリー・キッシンジャー周辺の人物たちと交流南米反共主義勢力軍事独裁政権下ウルグアイパラグアイボリビアチリアルゼンチンブラジルとも深い関わりを持っています。

特にアルゼンチンとは特別な絆を結び、76年クーデターに続くその後の軍事独裁政権資金援助など多く協力。また戦後から親交が続くファン・ドミンゴ・ペロン元大統領からは、イタリアにおけるアルゼンチン大使とも言える役割をも担っています。これら南米の軍事独裁国家には、ギリシャ同様、シンドーナ銀行を通して武器購入資金を供給していたとされ、その活動の不透明性から、ロッジャP2は76年、イタリア大東社から実質的に分離を迫られることになりました。しかしその時期からメンバーはいっそう団結を強め、「独立性」を極めていくことになりました。

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Lucio GelliとJuan Domingo Peron

リスト発覚から1年経った82年には、ジェッリが中心となって76年に作成したPiano di rinascita democratica (民主的再生のための計画書)、民主主義下において理想とする権威主義的国家の構築をデザインした(政治システムの改変(米国的な左右二大政党を核とした)、コリエレ・デッラ・セーラ紙をはじめとする具体的な新聞の名を挙げたマスメディア(国営放送であるRaiも含める)の統制、司法のコントロールプログラムなどを記した)有名なドキュメントも発見されています。それは、ジェッリの娘国外へ持ち出そうとしているところ、空港で取り調べを受け、二重になったスーツケース裏地に縫い込まれていているのが見つかった書類でした。

このドキュメントの言う、「真の権力はマスメディア所有者の手の内にある」、つまりメディア統制というコンセプトにおいては、90年代、一挙に政治のスターダムにのし上がったメンバー、シルビオ・ベルルスコーニ元首相が継承したと言われ、2008年にはジェッリ自身が「イタリアが現在の危機を乗り越え、Piano di Rinascita(再生計画)を実現できるのはベルルスコーニしかいない」と断言しています。また、イタリア最極右政党の『北部同盟』はこのプログラムを座右の銘としているそうです。しかし民主主義という政体において、権威主義的に市民を管理する計画書を作るとは、そもそも支配を目的とする「権力」の座にある者たちには、「市民主権」という概念など存在しないのかもしれません。「目的を遂行するためには、手段選ばず」と言うマッキャベッリの言葉を思い出しもします。

実際のP2によるメディアオペレーションは、当時のイタリアの新聞市場の40%の読者をもつ最大主要紙であるコリエレ・デッラ・セーラ紙への巧みな介入、のちにP2のメンバーとなったアンジェロ・リッツォーリによる、1974年の新聞社の買収計画からはじまっています。

リッツォーリは、ENI、Agepなどエネルギー主要会社の総帥エウジェニオ・チェフィス(62年、当時ENIの総帥だったエンリコ・マッテイの飛行機事故、それを調査していたマウロ・デ・マウロの失踪、さらにピエール・パオロ・パソリーニの殺害事件において、常に疑惑の中心にいる人物で、P2の真の創始者と言われる人物です)の強い勧めにより資金繰りのメドがつかないまま、買収を決意。この有名な出版社(リッツォーリ)は、それがどういう方向へと進んでいくのかまったく認識せぬままに、ジェッリの融資(ロベルト・カルヴィのアンブロジアーノ銀行とバチカン銀行頭取の大司教マルチンクスの持つIORを主な財源とした)を受けることになりました。

やがてコリエレ紙は、買収に関わった人物たちの圧力に屈し、左派的な編集方針を貫いていた編集長ピエロ・オットーネを解雇、ジェッリの意のままに動くフランコ・ディ・ベッラ(P2メンバー)をそのポストに据えざるをえなくなっています。 なお、以前にこのサイトで紹介した、パソリーニ伝説の記事「僕は知っている」は1974年の12月にコリエレ紙で発表されていますが、P2の動きを知ったのちに読み返すと、かなり差し迫った時期に、強烈な挑発を詩的にメタフォライズした詩人と、編集長の勇気に、改めて強い感銘を受けます。

さて、ジェッリの死亡記事とともに、『鉛の事件』の代表的な事件としてイタリアの主要紙が主に取り上げたのは、いずれも未解決の、以下のような事件でした。なお、ヴァチカン銀行のマルチンクスが関与したと推察され、いまだに人々の関心を惹き続ける、教皇ヨハネ・パオロⅠ1978年、在位33日間で急死した事件に触れている主要新聞はなかったようです。

1970年:ネオファシスト、Fronte Nazionale( フロント・ナチョナーレ)のリーダー、貴族ボルゲーゼ家の『黒い君主』ヴァレリオ・ジュニオ・ボルゲーゼが軍部とともに内務省を占拠したクーデター未遂事件(コード:Tora Tora)のオーガナイザーのひとりにジェッリが存在していたことを、のちにSIDのラブルーナ司令官が明らかにしました。

このクーデターは、マフィアも動員して、当時の大統領ジョゼッペ・サラガドを拘束することまで計画されていましたが、クーデターの最中、何らかの不都合でボルゲーゼが中止を決定、数時間の占拠に終わりました。クーデターそのものをP2が計画したとも言われています。暗殺されたP2メンバー、ジャーナリスト、カルミネ(ミーノ)・ペコレッリの残した記録によると、当初の計画ではマフィアも動員して(4000人もの)、内務省のみならず、外務省、カラビニエリ本部、警察本部、外務省、防衛省、上・下両議院、国営放送RAIを占拠する綿密な予定だったことが明らかになっています。

1978年:いまだに新事実が次々と明るみに出る、極左テロリスト・グループ『赤い旅団』による『アルド・モーロ誘拐・殺人事件』では、誘拐の55日間、問題解決のために編成された捜査チームの責任者のほとんどがP2のメンバーであったことから、ジェッリが関与していたことは間違いない、と言われています。アルド・モーロの55日間の監禁の間、解放のチャンスがあったにも関わらず、故意の見逃し、あるいは捜査の妨害もあったというシークレット・サービス内部の証言もあるのです。当時選挙で大躍進した『イタリア共産党』の議員を内閣に迎えることに積極的で、とりあえず、Appoggio esterno(与党には属さず、外部から与党と連立)の合意を共産党と結んだモーロを、アンドレオッティをはじめ、煙たく思う勢力があったことは周知の事実です。また事件の裏にはBanda della magliana(バンダ・デッラ・マリアーナ)、ndrangheta(ンドゥランゲタ)などマフィアの存在も見え隠れしています。*ケネディと親交があり、ケネディ暗殺後、キッシンジャーなど米国首脳と対立していたモーロの事件については、さらにリサーチして、いずれ詳細をまとめたいと考えています。

1979年:P2のメンバーであり、常にジェッリの傍にいたジャーナリスト、カルミネ(ミーノ)・ペコレッリが、「真実の記録と偽の記録」というタイトルで『アルド・モーロ誘拐・殺害事件』におけるアンドレオッティの動向を分析する記事を、自身が創立者である軍事雑誌に書いた数か月後に殺害される。P2の秘密をあまりにも知りすぎたこのジャーナリストの死を巡っては、アンドレオッティ主犯として、また最近ローマを賑わしたマフィア・カピターレの主人公、極右グループとも深い関わりを持つBanda della Magliana(バンダ・デッラ・マリアーナ)のボス、マッシモ・カルミナーティが実行犯として起訴されたが、いずれも「無罪」となっています。

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ジャーナリスト ミーノ・ペコレッリ

1980年:いまだに人々の心に大きな傷跡を残す、85人の死亡者、200人の重軽傷者を出した『ボローニャ駅爆破事件』。実行犯である極右グループのテロリスト(NAR)を実行犯に、爆発を計画したとしてジェッリ、SISMIの司令官ピエトロ・ムスメキジョゼッペ・ベルモンテ(いずれもP2メンバー)、プランチェスコ・パツィエンツァが起訴される。ジェッリは「爆発はタバコの吸殻が誘発したもので、爆弾ではない」と主張しました。

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ボローニャ駅爆破事件を報じるコリエレ・デッラ・セーラ紙。「ボローニャでアポカリッセがはじまった 76人死亡、147人重軽傷ーかつてない大惨事、仕掛けられたのか、それとも大事故なのか」『アポカリッセ』という世紀末の混乱を暗示するタイトルがセンセーショナルすぎて、あらゆることが明るみに出た現在に読むと、不快です。

81年、リストが発見とともにP2に捜査の手が伸び、ロッジャに関するあらゆる書類が押収されると(極秘中の極秘として、厳戒態勢で保管された)、ジェッリは偽造パスポートスイスに逃亡。いったんは逮捕され、Champ Dollonの刑務所収監されています。しかしそのスイスの刑務所からある日突然消え、いとも簡単にアルゼンチンに高飛びすることになります。「扉に鍵がかかっていなかったので外に出たら、玄関に車が停車していた。その車で空港まで行ったんだよ」とのち、TVのインタビューでその時の様子を、それほど驚くべきことではない自然なこと、とでもいうかのように、ジェッリは淡々と語っていました。

余談ですが、Youtubeに数多くアップされているジェッリのインタビューを観ると、揺るぎないというか、不動というか、すべての質問に淀みなく、饒舌に語る姿にうんざりもします。最近では、移民についての救援センターの創設についての質問に「移民には救援センターではなく、『強制収容所』が必要だ」など、とんでもなく乱暴なことを当然だとでもいうように語っていました。

一般にはロッジャP2とは、冷戦下、欧州の共産主義化を「地中海沿岸諸国を不安定化する」ことにより阻止するため、CIA、NATOにより張り巡らされたグラディオ作戦ー(Stay BehindイタリアにおいてはStrategia della tensione『緊張作戦』として実行されました)における中枢機関であり司令塔、あるいはCIA、NATOの作戦下、アンドレオッティにより国内独占管理を実行するためのスペシャル・フィクサー・チームであったと解釈されています。

しかしあるいは1000人あまりのエリートで、権力とお金と権威を独占支配するために編成された、大がかりな詐欺集団でもあったのかもしれません。実際のところ、P2とはいったい何であったのか。冷戦の終結から長い時間が流れ、国際情勢が激変した現在も、その正体を正確に知ることはできませんが、その存在が確認され、あらゆるメディアで語られたにも関わらず、『鉛の時代』に起きた数々の事件の裁判で、P2という秘密結社の重要性はまったく告発されず、また議論されることもなく進められたのは不思議なことです。ジェッリはアンブロジアーノ銀行破綻、国家機密漏洩などの裁判でいくつかの有罪判決を受け、短い間でも刑務所で服役したこともありますし、脱税容疑でヴィッラが一時差し押さえになるという騒動もありましたが、結局は自宅軟禁という、実質的にはほぼ自由の身のまま、生涯を過ごしています。

最後に、YoutubeでP2に関するビデオをあれこれ見るうちに行き当たった、1990年にRaiのTg1(テレビニュース)が元CIAの諜報メンバー、Richard Brenneke(リチャード・ブレンネク)に敢行したインタビューを少し訳したいと思います。

これは2013年、国営放送Rainewsが当時制作にあたったジャーナリストのインタビューも加え、当時大問題となったインタビューを再編集して、放送したものです。Tg1(TVニュース)のインタビューで、ブレンネクはためらうことなく「69年からP2のことを知っていて、80年まで交流を持った。米国スイスの銀行を通して、P2に毎月1000万ドル資金を提供していたんだ。自分がそれを担当していたから間違いない」「その資金は、ドラッグや武器の購入のために利用されたが、特にイタリア国内を不安定化するために送金された」と証言しました。

また、「ジェッリはP2の真の代表ではなかった。ジェッリの上にスーパーP2が存在した。その名前は知らないが、70年、80年代、ジェッリはスイス、あるいは米国にいる人々から指令を受けていた」などともさらっと語っています。ジャーナリストがブレンネクに、「あなたが、P2以上の存在、『P7』と呼んでいるシステムは今でも存在するか」と尋ねると、「もちろん今でもP2は存在し、70年代の方法を使って、同様の結果を引き起こすよう使われている」とも答えています。

「ジェッリとはフォークランドを巡る戦争中、あるいはそのちょっと前にアルゼンチンで会った。その際の議題はふたつ。ひとつめは、イタリア国内でのオペレーションを進めるために資金の供給の継続について、もうひとつは、幾つかの武装勢力への武器の供給についてだった。その面会の際、ナチスのバルビ*もともに立ち会った」

*クラウス・バルビはドイツ元ナチス親衛隊で、ジェッリの助けを得て戦後、アルゼンチンへ逃亡。フォークランドの戦いで使われたのはジェッリが供給した資金で購入した武器だと言われています。

当時、政府、つまりDC『キリスト教民主党』のコントロール下にあるとされていたTg1のディレクターは、責任をすべて自身で引き受けて、この元CIAの諜報員という人物のインタビュー放送を決行しています。ちなみにブレンネクはインタビューの後運転中で撃たれていますが、道路に開いた穴で一瞬車が揺れたたため、さいわい急所を外れて無事でした。このインタビューの放送直後、Raiの放送は「全くの虚偽」とジェッリから1億リラという法外な損害賠償を請求され、ディレクターは解任、時の大統領フランチェスコ・コッシガもRaiを名指しで糾弾しています。

その後、アンドレオッティ首相は、TG1を「親交国である米国がイタリアの不安定化を狙ったという、出どころが明確でない深刻な挑発」と国会で言及したため、当時のコリエレ・デッラ・セーラ紙は中傷的なタイトルで、ブレンネクの発言はでたらめであると報道しました。米国当局も、ブレンネクがCIAの諜報員であったことを、証拠提示して定し、イタリア当局も最終的には虚偽の情報であったと断定しています。それでも放送に関わったジャーナリストたちは、当時の自分たちの判断、放送を決行したことは正しかったとの信念を、現在も貫いています。

いずれにしても90年に入り、第1次イラク戦争がはじまると、人々の目は国内から世界へと向けられ、P2のことはあまり語られなくなり、過去の謎として置き去りのまま時が過ぎていきました。

しかし、緊迫した冷戦下とはいえ、ロッジャP2のような想像を絶する秘密結社が存在した事実は、劇場国家であるイタリアならではのことなのか、それとも命知らずの判事やジャーナリストが多いイタリアだからこそ、本来なら隠されるべきネットワークが次々に暴かれ、衝撃的なスキャンダルとして国家を震撼させたのか、残念ながら、何が真実で何が作り話なのか、わたしにはまったくわかりません。

実際のところ、シークレット・サービス(諜報)というのは、その存在と謀略が秘密であるからこそシークレット・サービスと呼ばれるわけですが、イタリアの明るい地中海の太陽は、本来秘密であるべきことにも光に当てずにはいられない、さらにそれをドラマティックに語らずにはいられない衝動を誘うのかもしれない、と無難な事を考えるぐらいです。いずれにしても、P2のメンバー、例えばベルルスコーニ元首相などが、こんな秘密結社のリストに名を連ねていたにも関わらず、Piano di rinascita(再生計画)のコンセプト通りにマスメディアを買収、瞬く間に躍り出て、20年もの間、滑稽ともいえる原始的なキャラクターで、上滑りの明るさを振りまきながら権勢を極めたこともイタリアの謎です。いや、イタリアだけではなく、そんな状況こそがわれわれが住む世界の、謎に満ちたリアリティなのかもしれません。

ジェッリのお葬式はアレッツォの教会で、100人ほどの親類、知人が集まっただけでひっそりと行われ、「人形遣い」という異名を持つほど、かつては国の首脳クラスを操った人物だというのに、著名な政財界人ひとりも現れませんでした。ジェッリは「」を多く書き、批評家からも高い評価を受ける「詩人」としても名高い人物で、ネットでも彼の詩のいくつかを読むことができますが、お葬式でも「善悪を超え、種を植えることのみを目的とした人生」を謳った彼の詩が朗読されています。

私が遺した種は果実を実らせるだろう。憎しみも愛情も捨て、私の記憶とともに私が投げた種が果実となることを熱望する

その、恐ろしい一節のあと、集まった人々から、パラパラと疎らな拍手がいくつか上がったということです。

 

 

 

 

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