『同盟』『五つ星運動』イタリア第3共和国、忍び寄るファシズムの悪夢

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『5つ星運動』ディ・マイオ経済発展省大臣のメディア攻撃

わたし個人は、『5つ星運動』の快進撃を面白い現象だと思っていますし、今後の活躍を期待している議員も何人かいます。しかしマテオ・サルヴィーニ内務大臣兼副首相の、人の気持ちをあざとく操る不適切発言やフェイクニュースに引きずられるように、ルイジ・ディ・マイオ経済発展相兼副首相までが、軽々しく特定のメディアを名指しで攻撃したことには、正直なところがっかりしました。

『国家予算案』を巡る怒涛の毎日、来年の欧州議会選挙も控え、いまだアクティビスト気分が続く若い副首相は、自分が権力の座にいることを明確に自覚できていないのかもしれません。国家権力がメディアを攻撃することは、多様性を保証する民主主義の基本である『報道の自由』の大きな侵害であり、トルコや中国、ロシア、その他の独裁政治のあり方を彷彿とする全体主義的な行為です。あるいはディ・マイオ副首相は米国大統領風の、ショー的なメディア攻撃を踏襲することで、『同盟』に押され気味の『5つ星』の存在感を際立たせたかったのかもしれません。

10月6日、ディ・マイオ副首相は、そもそも『5つ星』とはソリが合わなかったラ・レプッブリカ紙、レスプレッソ誌を運営するGEDIエディトリアルへの攻撃を、Facebookに投稿。「イタリアの日刊紙、webニュースのリーダーでもあるGEDIグループを牽引するレスプレッソ誌が、2年も前から機能していないことは無視できないことだ。いつまで経っても彼らには本物のニュースと作り話の違いが分かっていない」と述べたあと、さらにビデオ投稿で追い打ち。

「幸運なことに、われわれ『5つ星』のメンバーも多くの市民たちも、すでに新聞の作り話とフェイクニュースにはすっかり飽き飽きしている。実際のところ、たくさんの新聞がいまや死に体で、そのなかにレスプレッソ・グループも入っているということだ。働いている人々のことを思うと残念に思うよ。ニュースを変質させ、事実を報道しない新聞を誰も読まなくなったから、いまやレスプレッソ内部では解雇の動きが起こってるらしい」

確かに最近の、通常の新聞の売り上げは総じて下降気味ですが、ラ・レプッブリカ紙、レスプレッソ誌を発行するGEDIエディトリアルは、紙媒体ではコリエレ・デッラ・セーラ紙についで全国売り上げ2位、Webでは売り上げ1位の、イタリアの今を語り続ける伝統あるメディアです。

さらに、50年前にカラビニエリのクーデター計画をすっぱ抜いた、伝説のエウジェニオ・スカルファリの精神を引き継いだレスプレッソ誌が、数年前にはローマ市政とマフィアの癒着を執拗に追い、「マフィア・カピターレ」と呼ばれる大事件の発覚に貢献したことは記憶に新しい出来事でもあります。そしてその記事を書いたジャーナリストは、幾度もローカル・マフィアから狙われ、警察の護衛がついての不自由な活動を強いられているのです。さらに元を正せば、『5つ星運動』がローマ市長選大勝利を飾ったのは、右派、左派に関わらず、市政に関わる政治家たちすべてが取り調べを受け、逮捕者を出したその衝撃事件のせいで、市民たちが既成の政治に信頼を失ったからに他なりません。

今回のディ・マイオ副首相の、特定の新聞社を名指し、その「死」を熱望するかのような攻撃に、ラ・レプッブリカ紙、レスプレッソ誌も猛反撃。ラ・レプッブリカ紙のマリオ・カラブレージ主幹は、2面、3面を裂いて長文の宣言文で応戦しました。マリオ・カラブレージは、『フォンターナ広場爆破事件』『ジャンジャコモ・フィルトリネッリ爆死事件』の担当刑事、72年に不審な死を遂げることになった『鉛の時代』の主人公のひとり、ルイジ・カラブレージのご子息で、優秀な硬派ジャーナリストとして名を馳せる人物です。

「われわれはベルルスコーニ政権の時も、レンツィ政権の時も、徹底的に批判を貫いている。われわれは『真実』のみを追っているからだ」「ベルルスコーニ政権時には、今よりもさらに辛辣に過激に批判したが、ベルルスコーニがわれわれのことを潰しにかかるようなことはなかった」「ジェノバの橋が崩壊した際、『5つ星』のブログにインフラ・交通相のダニーロ・トニネッリが『ベネトン(モランディ橋を管理していたアウトストラーダの大株主)』は、ラ・レプッブリカの主要株主』、と書いた時は泣きそうになった。なぜならそれは嘘だからだ。ベネトンが本紙の株主だったことは、過去も現在も一度もない」「われわれは、ジェノバの報道において、アウトストラーダやベネトンに加減して書いたことはない。重大な虐殺事件の責任の所在の追求のための捜査を求め、ジェノバを忘れるべきではないと大きな声をあげ続けている」「われわれは政党ではない。したがって合意を求めることもない。さらに公金で生活しているわけではない。われわれは毎朝、エディコラで新聞を買ってくれる読者、Webを読んでくれる読者のおかげで生きているのだ」「たくさんの人々が、われわれに対して共鳴を示してくれたことに胸を熱くした。心から感謝したい」「繰り返すが、われわれは心配している。しかし恐れてはいない。そしてわれわれには、さらに紙面を充実させるより他にできることはないと考えている」

この一件を受け、スタンパ紙、イル・ジョルナーレ紙、IlSole 24ore紙、イル・メッサッジェーロ紙、さらにはかねてから『5つ星運動』に肩入れをしているイル・ファット・クォティディアーノ紙に至るまで、ラ・レプッブリカ紙との強い連帯を表明しています。つまり各紙ともに『表現の自由』を、権力が妨害する危険に警鐘を鳴らすという姿勢を明らかにしたわけです。世界中のジャーナリストたちが国家権力から弾圧を受け、投獄のみならず、死に至らしめられるほどの事件が頻発する昨今、ディ・マイオ副首相の暴言は、民主主義におけるジャーナリズムの役割を問う機会ともなりました。

「新聞社が閉鎖されることを願うことは、あらゆる批判的な、自分とは一致しない考えを消してしまいたいと願うことであり、だからこそ、このような態度は危険なことなのだ。政権の高い地位にいる者が、そのような考えを持つということは、さらに深刻な問題だ」ラ・レプッブリカ紙は痛烈にディ・マイオ副首相に批判を返しています。

チョムスキーが言うように、「広告媒体」でもあるメディアが、経済界、政界と強い絆を維持しながら「嘘をつき」「真実を伝えず」「民主主義を操縦しやすい世論」を形成しようとする、いわゆる『大本営現象』もありうる、と考えますが、イタリアの平時の新聞に関していえば、左派も右派も、それぞれがそれぞれの視点で事件を報道するため、分析も意見もまちまちで、同じ事件を取り扱っていても取り組みが変わる。そしてその姿勢こそが自然なことだと考えます。

特に今回の騒動で、なるほど、と納得したのは、「ディ・マイオは、フェイクニュースで政府に悪意を抱かせるよう、新聞が『陰謀』を企んでいると考えているようだが」という問いに答えた、イル・ジョルナーレ紙主幹の「確かにそんなことが可能な時代もあったかもしれないが、紙媒体がどんどん売れなくなった今、新聞そのものに陰謀を企てるほどの影響力はなくなった」という言葉でした。これはおそらくテレビというメディアについても同様だと考えます。

つまり、もはやメディアがフェイクを流す時代は終わりを告げようとしており、ヴァイラルとなったSNSの投稿が、個人ひとりひとりにフェイクを拡散する時代となった。ロシア・スタイルというか、スティーブ・バノン・スタイルというか、政治家もまた、支持者とネット上でダイレクトにコミュニケーションを取りながら、平気でフェイクを流す時代になったということです。

結局のところ、何が『真実』なのか、今も昔も藪の中であるには違いありませんが、気軽にネットで情報を得られ、裏の取れないニュースが絶え間なく流れてくる現在、何を基準に情報を選ぶかが課題となってきたようです。さらにいまや主流となった、SNSで政治家がダイレクトに有権者にメッセージを送る、というスタイルは、一見民主的なように思えても、ジャーナリズムによる批判、あるいは意見という介入がなければ、簡単に洗脳されやすい状態になるかもしれません。

レスプレッソ誌のマルコ・ダミラーノ主幹がその懸念について、非常に興味深い文献を引用をしながら、現在の政府の有り様を辛辣に批判しています。引用したのは1947年、ユダヤ人言語学者Victor Klempererが、ナチス「第三帝国の言葉」について、その暗黒の時代に彼が綴ったメモ、日記について語った内容です。ダミラーノは博士号を持つ、近代史のエキスパートでもあります。

ドイツをナチスが席巻した時代、「『国民(popolo)』という言葉が、書くときも喋るときも、メインディッシュに使われる塩のように、非常に頻繁に使われた。あらゆるすべてにひとつまみの『国民』(という言葉)が使われるのだ。たとえば国民祭り、国民の同朋、国民のコミュニティ、国民の隣人、国民には属さない者、国民から出現した者など・・」1933年、ヒトラーが44歳のときに、Klempererはこのようなメモをしている。「大切なのは、彼らの代表者ではなく、あらゆるすべての国民ひとりひとりと、ダイレクトに接点を持つことである。さらにこのコンセプトは過去に遡ることができ、やがてルッソー(ジャンジャック)に突き当たることは避けようがない。ルッソーにとって、国政に手腕を見せる政治家とは、市場のある広場に集まった市民に向かって話す者だった。それが、市民の集合体の一翼を担うスポーツの大会であろうと、文化的な催しであろうと、そこには政治機構が構築され、プロパガンダのためのツールとなる、そうルッソーは考えていた」

ダミラーノは「われわれは国民に選ばれた」「国民のための政府である」と、いつ、どの場面でも「国民」を強調する『同盟』『5つ星運動』による政府を、ナチスのボキャブラリーと比較。さらにドイツ『第三帝国』で何度も繰り返され、強調された「歴史的」という形容詞を、現政府が劇的な場面で多用することをも指摘。現政府が過去の暗い時代に特徴的な言葉を繰り返すことを例にあげながら、『報道の自由』という批判精神が民主主義にとって、いかに重要であるかを主張している。そしてレスプレッソ誌もまた、どの政党にも属さず、役割を逸脱することなく、読者のために報道をすることを宣言しました。

『報道の自由』などという贅沢を、われわれは許さない、と風刺を効かせたレスプレッソ誌表紙。そっくりで笑いました。

民主主義における主権者であるわれわれは、ヴィクトル・ユーゴーが言う、国民(popolo)群衆(folla)の違いを明確に意識する必要があるようです。かつて人々が集まった広場(イタリアでは今も集まりますが)は、現在はネット上のヴァーチャル広場へと移行しつつある。

いずれにしても、ディ・マイオ経済発展相兼副首相が、自分に利益にならない、気に入らない批判報道をするGEDIエディトリアルを「フェイク」と決めつけ、完全に敵に回したことは、『5つ星』のイメージにとって賢明なパフォーマンスだったとは言えないかもしれません。

さて、こんなことが次々と起こる10月の後半は、毎日のようにイタリア各地で、「アンチファシズム」抗議集会が開かれる予定です。ちょっと驚いたのは12日、イタリアの各都市で、6万人という高校生たちが「国家予算に学校に関する予算が盛り込まれていない!」と大きな『反政府』デモを繰り広げ、トリノでは、サルヴィーニ内務相兼副首相とディ・マイオ経済発展相兼副首相の顔写真を貼った人形を燃やす、という暴力的な抗議を行ったことです。さらにトレンティーノの『同盟』事務所では、何者かが仕掛けた紙爆弾が爆発するなど、だんだんに抗議が過激化しつつあるのは心配です。

1日も早く、のんびりしたいつものイタリアが戻ってくることを思い描いているところです。

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