真夏の夜の夢、アンダーグラウンドで静かに語り継がれるローマの亡霊伝説 Part2.

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ローマに残るオーソドックスな亡霊伝説

ローマに残る最も有名な亡霊物語は、以前の投稿でも触れたことがある、ベアトリーチェ・チェンチの亡霊の話でしょうか。グイド・レーニがその肖像画を描いて、大評判となったベアトリーチェ・チェンチは、権力を濫用する凶暴で吝嗇家の貴族である実父に暴行され続け、同じく陵辱され続けた継母と兄弟、恋人と目される使用人と共謀し、父親を殺害します。

父殺しで処刑されることになったベアトリーチェは、その父親があまりに残酷非道であったことを認めていたローマの人々の同情を一心に集め、サンタンジェロ城前の処刑場には、最後の最後まで情状酌量を訴える、市民の怒号が響き渡ったそうです。それから現代に至るまで、その処刑が執行された9月11日から12日にかけて、浮かばれないベアトリーチェの亡霊が自分の首を抱え、サンタンジェロ橋を彷徨い歩くと言われており、かつて、わざわざ見にいったことがありますが、残念ながらベアトリーチェに出会うことはできませんでした。

また、亡霊ツアーに参加した際は、ベアトリーチェ同様、サンタンジェロ橋、あるいはポポロ広場、カンポ・ディ・フィオリに現れるという、マストロ・ティッタが暮らした家を見学に行きました。マストロ・ティッタ(ジョヴァンニ・バッティスタ・ブガッティという人物は、映画、演劇でも多く描かれる教皇庁処刑人で、1796年から1864年までの間に516人(!)の処刑を執行し、当時のローマの人々に恐ろしがられる存在だったそうです。そのマストロ・ティッタが一生暮らしたのは、サン・ピエトロ教会からすぐ側の路地にひっそりとある、鉄格子に閉ざされた石造りの家で、言われてみれば不気味な雰囲気が漂っており、周辺は明るくモダンな店が増えたというのに、その路地だけが薄暗いまま、人通りがほとんどないのが印象に残りました。

伝説によると、夜半過ぎ、赤い頭巾付きのマントを羽織り、サンタンジェロ橋やポポロ広場で、キャラメルかタバコを差し出す男に出会ったら、絶対に受け取ってはいけない、と言われます。それは罪人に最後の慈悲を施すマストロ・ティッタであり、それを受け取ることは死の宣告と同義だということです。しかしながらサンタンジェロ橋もポポロ広場も、もはや不夜城と言ってもいいほど、明け方まで若者たちが溢れているので、ガイドだった歴史研究家の女性も「伝説です」と笑って話していたのには、多少がっかりした次第です。いずれにしても現代のローマでは、赤いマントは目立ちすぎではあります。

 

普段は鍛冶職人をしていたマストロ・ティッタは、処刑人の仕事がある時にはこの赤いマントを羽織ってサンタンジェロ橋を渡り、処刑場であるカンポ・ディ・フィオリやポポロ広場まで歩いて行きました。68年間もの間、処刑人を務めたマストロ・ティッタは、恐ろしがられはしても、意外なことに人気があり、多くの文学や映画でも描かれ、マリオ・モニチェッリ監督の『グリッロ伯爵』の処刑の場面にも登場します。犯罪博物館所蔵。

 

さらに嵐の日ピアッツァ・ナヴォーナには、教皇イノケンティウス10世を操って大金を得た、「希代の悪女」としてローマで嫌われる、パンフィーリ家の後妻、オリンピア・マイダルキーニ、またの名をピンパッチョ無数のサタンを従えて火の馬車に乗って現れるそうです。しかし、やはりこちらもいつでも人出が多く、嵐に見舞われることも滅多にないため、実物を見るのはなかなか難しそうです。

あるいはコレ・オッピオには、古代ローマ皇帝クラウディオ(クラウディウス)の、35歳も歳が離れた妃ヴァレリア・メッサリーナの亡霊が、身体中宝石を纏い、ジャラジャラ音を立てながら夜な夜な現れるのを、多くの路上生活者が目撃している、とまことしやかに囁かれています。ちなみに、当時のローマで最も美しかった、と言われる、このメッサリーナはきわめて奔放で、夫の目を盗むでもなく、手当たり次第に誰とでも関係を持ち、大胆にも偽名を使ってスブッラ(古代ローマの下町)の売春宿で客を取っていた、という逸話まであります。さらには「一晩に何人の客が取れるか」という売春宿コンテストでは25人もの客の相手を成し遂げて、優勝したそうです。

豪勢な生活宝石を好む、このメッサリーナという女性は浪費も凄まじかったらしく、妃の地位を利用して、好き勝手に他人の財産まで押収、あるいは気に入らない者は次々に処刑する、という有り様でしたが、突然真心に目覚め、奴隷から自由民となった元老院議員、ガイオ・シリオ(ガイウス・シリウス)という男との恋に落ちます。しかも思い込んだら歯止めが効かないメッサリーナは、皇帝の妃であるにも関わらず、オースティアで豪華絢爛な結婚式まで挙げ、その後、皇帝には目もくれず、新郎新婦然として、ピンチョの丘にある真珠貝で飾られた豪邸へと転居してしまったのです。

それを知った皇帝は激怒しましたが、それはどちらかというと、嫉妬に狂った、というわけではなく、メッサリーナとシリオによって、権力を奪われるのを恐れたからのようです。実際、メッサリーナとシリオが激しい恋に落ちたのは、皇帝を失脚させるための陰謀を企んでいたときだと言われています。皇帝は、メッサリーナの空前絶後のわがままな行動を、表向きは気にしていない風を装いつつ、着々と計画を練り、まずシリオ、そしてメッサリーナと、結局ふたりは処刑されることになりました。伝説によれば、メッサリーナを処刑した行政官は「おまえの死を、おまえのすべての愛人たちが泣き悲しむだろう。つまり、ローマすべてが嘆き悲しむ、と言うことだ」と叫んだ、とも言われています。紀元40年あたりのエピソードです(ファブリッツィオ・ファルコーニ)。

欲望のままに生きる美しい悪女、ヘドニズムのモデルのような、この女性の悲劇は、今まで17本の映画になっていて、かのティント・ブラスも『カリギュラ』でメッサリーナを描いています。しかしこの映画を観るのはどうも気が進まず、結局、1951年に制作された仏伊合作の『Messalina』を鑑賞した次第です。かくして1980年代までは、多くの演劇、映画、TVドラマで、メッサリーナの物語が頻繁に描かれましたが、最近では見かけることはなくなり、いつの間にか人々にあまり注目されることもなくなりました。こうしていつの間にか、人々に忘れられたことがメッサリーナのプライドを傷つけて、最近になってコレ・オッピオあたりに忽然と現れるようになった原因、なのかもしれません。

 

メッサリーナの彫刻は現在ルーブル美術館にあるそうで、正面から見ると柔和な女性のような顔立ちですが、横からの撮影だと、多少狡猾さが見え隠れする気もします。L’Espresso誌の記事の写真から加工しました。

 

このように現代のローマに現れると言われる亡霊は、古代ローマから1800年代ぐらいまでの古い霊が多く、景色を見れば、確かに亡霊だらけであってもおかしくない廃墟の街ではあります。しかし真夏ともなれば、あらゆる街角、広場が、オープンシネマやオープンカフェとなる『エスターテ・ロマーナ』で、必要以上に賑やかになり、夜中まで音楽が鳴り響き、丑三つ時でも人々が歩き回っているため、亡霊たちも息を潜めている、あるいは背後で活発に蠢いているにも関わらず、誰も気づいていないのかもしれません。

なお、最近のエピソードで注目したいのは、アヴァンギャルドでも、L’arte poveraでもない独特のスタイルで70年代に注目を集め、イタリアの美術史に重要な足跡を残したアーティスト、ジーノ・デ・ドミニチスの一件でしょうか。デ・ドミニチスは1998年に、突然心筋梗塞で亡くなっていますが、誰ひとり、その死を証言する人物がおらず、まことしやかに「ただ忽然と消滅した」とも言われます。というのも、デ・ドミニチスは日頃から、秘教、オカルト、手品に造詣が深く、さらに「不死」にこだわる神秘主義者だったそうで、中心街の街角で、いつもの黒づくめの出立ちでデ・ドミニチスが歩いているの見かけた、という証言が後を絶たないのです。

このアーティストの作品は、それほど多くは残っていないのですが、確かに意表をつく、非現実的な表現で、一度見たら忘れられないインパクトがあり、アート界から消えたあとも「魔術師」と呼ばれ続けています。デ・ドミニチスについては、いつか調べてみたいと思っているところです。

さて、最後に、書店の薦めで最近読んだベテランのジャーナリスト、ファブリツィオ・ファルコーニによる「I Fantasmi di Roma(ローマの亡霊たち)」/Newton Compton Editoriから、印象に残った、1500年代にコロッセオで起こった怪事件に迫りたいと思います。この本は、亡霊ツアーで紹介される、典型的な亡霊の話だけではなく、ローマで客死した英国の詩人、キースやシェリーの亡霊、バロックの天才アーティスト、フランチェスコ・ボロミーニの自殺の謎カリオストロの亡霊の不思議など、怪奇談と言うよりは、2000年を超える時間、亡霊の話を語り継いだ、ローマの市民の精神性が垣間見える、生き生きとした(亡霊なんですが)エピソードに溢れています。

▶︎コロッセオに現れた悪魔たち

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