前述のようにグイド・ロレンツォンの告白を巡る捜査は末端に追いやられ、『フォンターナ広場爆発事件』の直後、ミラノ中央警察署に設置された捜査本部で重点的に取り調べが進められたのは、アナーキストたちでした。
その捜査の過程で、やがてほとんどの被疑者は解放され、最後まで取り調べに残されたのは3月22日グループをはじめとするアナーキスト14人、そしてミラノの鉄道員、ジョゼッペ・ピネッリという人物です。
ジョゼッペ・ピネッリは元パルチザンの温厚な人柄で、当時の革命的労働組合、あるいはPCI『イタリア共産党』の会議、集会をオーガナイズする政治クラブ(イタリアにはCircoloと呼ばれるクラブが各方面に多くあります)、Il Circolo anarchico Ponte della Ghisolfa(ギソルファ橋アナーキストクラブ)のメンバーのひとりでありました。イタリア各地のアナーキストたちからも一目おかれる存在で、当時極左のオピニオン・リーダーとして強い影響力のあったジャンジャコモ・フェルトリネッリとの交流も指摘され、ミラノ中央警察署は、そのピネッリを爆破事件の扇動者、あるいは首謀者とみなしたのです。他の被疑者を順に解放したのち、若いアナーキスト、ヴァレトゥッティとともにピネッリの身柄を最後まで拘束しています。
アントニオ・アレグラ警察署長以下、ルイジ・カラブレージ警視の指揮によりアナーキストたちの事情聴取が進められ、法律として認められる「逮捕状のない」参考人の聴取期限である「30時間」を超え取り調べが続くことになりました。
また、警察が犯人究明に慌ただしく動くその間、時のルモール内閣は『非常事態宣言』の発令を詮議していますが、長い協議の末、結局それが発令されることがなかったことを、ここで強調しておかねばならないでしょう。
アナーキストたちの取り調べが3日めに突入した12月15日夜半のことでした。ピネッリは事情聴取の途中、突然ミラノ中央警察の建物の4階から中庭に転落、謎の死を遂げます。その際、取り調べが行われていたカラブレージのオフィスには警視以外(のち、ピネッリの転落時にカラブレージは不在であったと主張、一方取り調べ室の外にいたヴァレトゥッティは、部屋を出て行くカラブレージを見ていないと証言しています)にもカラビニエリ、諜報を含む5人の軍及び警察関係者が同席していました。
同日12月15日は、ミラノのドゥオモ大聖堂広場を埋め尽くし溢れかえる、夥しい数の市民が自発的に集まり、爆破事件の犠牲者を葬送した、イタリアの戦後史に市民の「嘆き」が刻印された日でもあります。「オルディネ・ヌオヴォ」の構成メンバーであるヴェントゥーラを告発したトレヴィーゾのロレンツォンは、「TVでドゥオモに集まった人々の悲しむ姿が自分に告発を決心させた。あの場に集まった人々がわたしの心を動かしたのだ。そのときわたしは市民として勇気を持ち、責任を果たすべきだと考えた」と、最近のインタビューで語っていました。「ロレンツォンという人物はカトリックに深い信仰を持つ、穏やかで安定した人物という印象を受けた」、と当時、告発を受けた検察官は振り返っています。
また、葬送が行われた15日は、爆破事件の実行犯として、やはりアナーキスト、後述するピエトロ・ヴァルプレーダが警察に連行された日でもあり、ピネッリの死の直後、警察側はピネッリの死を「アナーキストが実行犯として逮捕され、首謀者(主犯)として罪の大きさを悟った悔恨の自殺」と断定し、メディアに大々的に発表しています。その時の警察は、ピネッリは自らのアリバイが崩れたことを悟った瞬間、「突然、豹のように跳ね上がって、窓に駆け寄り『アナーキーの最後だ』と叫びながら身を投げた」と劇的に表現しましたが、この発表には、多くのメディアが「不自然だ」と疑問を呈し、さらにのちの捜査で、ピネッリがアリバイが証明されると、警察は「飲まず食わずで、眠ることのできない3日間ぶっ通しの取り調べでピネッリは疲れ果てていた。吸った煙草で気分が悪くなって窓に寄りかかり、誤って落下した」など、発言を二転三転させています。
この、面倒見がよく、人望の厚いアナーキストの不可解な突然の死の真相に迫るべく一石を投じたのが、Lotta Continua『継続する闘争』紙(労働者、学生で形成された極左政治グループが出版していた新聞。過激な言論が当時の若者たちに大きな影響を与えていた。この新聞は解散ののちも、ガッド・レイナー、エンリ・ディ・ルカなど、一線で活躍する多くのジャーナリスト、作家を輩出しています)でした。
Lotta Continua紙は「ピネッリを殺害したのは、その夜捜査していた警官たち、その責任者ルイジ・カラブレージであり、カラブレージは空手でピレッリを窓から投げ落とした」という内容でスクープ記事を掲載し、攻撃的でセンセーショナルなキャンペーンを繰り広げます。
そのキャンペーンをきっかけに、一気に世論は、カラブレージはじめ、ミラノ警察署長アレグラが率いる捜査本部への非難に動き、ピネッリの死に関する真相究明を求めて、700人の知識人、アーティスト、政治家、ジャーナリストなどがレスプレッソ紙(L’Espresso)に「ピネッリの死に関するカラブレージの責任」「国の組織、検察(特に諜報の不透明性)」を糾弾する署名を発表するという事態に発展することになりました(ベネトンの広告で有名なオリヴィエロ・トスカーニ、ナタリア・ギンズバーグ、ウンベルト・エーコ、フェデリコ・フェリーニ、ピエール・パオロ・パソリーニ、ベルナルド・ベルトルッチなど、錚々たるアーティスト、作家、映画監督たちが署名しています)。
さらにLotta Continuaグループは『フォンターナ広場爆破事件』の1年後、ピネッリの謎の死に関して、パソリーニの発案による『12 DICENBRE』というドキュメント映画を制作。これは、リチア・ピレッリ夫人や母親、また当日、爆弾が入った鞄を持った犯人を銀行まで乗せたという、タクシーの運転手ロランディなどを独自に取材した、事件の核心に迫る長編映画でした。
だいたい2日間以上、警察内に拘束して行われたピネッリの事情聴取は必要以上に執拗であり、また明らかな「違法」で、爆破事件の数日後に犯人を断定するのは、あまりに不自然な性急さです。こうしていったん、『自殺』としてアーカイブ入りになりそうだった事件は再捜査されることになりますが、その後の長い裁判ののちも、ピネッリの死を巡る真相は結局明らかになってはいません。ピネッリの死の責任の所存を問う裁判で、「ピネッリが窓から落ちた際、オフィスから席をはずしていた」と主張したカラブレージを含む警察側全員『無罪』が確定したのは、カラブレージがミラノの自宅付近で射殺された、1972年から3年後のことでした。
ここで少し横道に逸れますが、1972年の、警視カラブレージの殺害に関しても、多くの謎が残ったままになっています。主犯としてLotta Continua紙の創立者、ジョルジョ・ピエトロステファーニ、アドリアーノ・ソフリ、実行犯としてヴィディオ・ボムプレッシとレオナルド・マリーノが逮捕された際、ダリオ・フォーをはじめとする多くの知識人たち、またLotta Continua紙出身の著名ジャーナリスト、ジュリアーノ・フェラーラ、ガッド・レイナーなどが「そんなはずはない」、と声を上げ、「無罪」運動をはじめます。
1988年に別件で逮捕されたマリーノが、裁判官の前でピエトロステファーニ、ソフリが主犯であることを証言したことが、この2人の若い活動家の逮捕のきっかけ(ピエトロステーファノはフランスに亡命)となったのですが、このときのマリーノの供述は信憑性を欠いており、誘導、あるいは拷問などにより、警察が供述を引き出したのではないのか、と警察側が非難を浴びることになりましたが、「有罪」判決は動くことはありませんでした。分析力にひときわすぐれるイタリア有数のインテリと言われるジャーナリスト、作家でもあるソフリは、その後、獄中から多数の記事を有力紙に発表し続けたのち、多くの知識人たちによる「無罪」運動に支持され、22年の刑期を終えぬまま、2012年に出所しています。
『非合法武装行動が、現在われわれが直面している階級闘争の決定的な方法でない、ということ同様、政治殺人は、資本家たちの支配に大衆が反乱を起こすための決定的な武器(方法)ではない。しかしこの考えから、われわれがカラブレージの殺害、つまり正当な裁きを要求するという認識による行為を、後悔する、というわけではない』
Lotta Continua紙、つまり若きソフリはカラブレージの殺害時、このような攻撃的な意見を発表していました。カラブレージの死を巡っては極左テロリストグループ『赤い旅団』も疑われた経緯があります。
カラブレージの死を巡るもうひとつの疑惑は、殺害された時期、カラブレージがジャンジャコモ・フェルトリネッリ殺害の事件の捜査中であったということでしょうか。
フェルトリネッリは、カラブレージの殺害の1ヶ月前に、ミラノ郊外で爆破により顔の見分けがつかない遺体で見つかっていました。元パルチザンでもあったフェルトリネッリは、今でもイタリアの都市には必ず数件はある大型書店、『フェルトリネッリ出版社』の創立者で、当時、極左運動のオピニオンリーダー的存在でしたが、武器を使っての闘争も辞さない、かなり過激な人物で、極左の過激グループに資金を供給していたとも言われています。転落死したピネッリも、このフィルトリネッリと親交があったことから、資金を提供されていたという疑惑も持たれています。ちなみにこの出版社の創設者はグラディオ及び『緊張作戦』における最も重要なターゲットのひとりであった、との声もあります。
また、カラブレージが殺害された1年後、ミラノ中央警察署で開催されたメモリアルデーにおいて、訪れた当時の内務省大臣マリアーノ・ルモール(『フォンターナ広場爆破事件』が起こった年の首相)が、ミラノ中央警察の玄関で車に乗るか乗らないかのきわどい瞬間に、爆弾が投げられるという事件が起こりました。その爆弾で、メモリアル・デーに集まった群衆のうち4人が死亡、45人が重軽傷を負うという凄惨な爆破事件でした。
群衆に向かって、『Ananas(パイナップル)』と呼ばれる爆弾、Mark2を投げた、アナーキストを名乗るベルトーリはその場で即刻逮捕。標的はルモールであった、と告白しています。フォンターナ広場爆破事件のあとに、当時首相であったルモールが『緊急事態宣言』を発布しなかったことへの報復だったと言うのです。
しかしアナーキストを名乗るこの男は謎が多く、まず、イスラエル製の爆弾Mark2は、通常軍部諜報、あるいは極右のテロリストたちが使う爆弾でもあったことから、当時の裁判官アントニオ・ロンバルディが、ベルトーリ=アナーキスト説に疑問があることを指摘しましたが、ベルトーリは結局「アナーキスト」のまま「無期懲役」となっています。
時が経ち、2002年の裁判ではじめて、イスラエルのキブツで過ごしていた時期もあるこの男が、ネオファシストグループと強い繋がりを持つ、SIDに従属して活動するSIFAR(軍諜報局)のエージェントであったことが、SISMI(SIFARが分裂したのちの軍諜報局)の局長から明かされることになりました。
余談ではありますが、殺害されたカラブレージ警視のご子息マリオ・カラブレージは、現在はイタリア主要紙であるLa Repubblica紙主筆、分析力に定評のあるジャーナリストとして活躍しています(2015年当時、現在はフリーのジャーナリスト。2023年追記)。バイオレンスに満ちた破壊的な時代、謎に謎が絡まって糸口がなかなか見つからない『鉛の時代』のカオスは、現代のイタリアにとって重要な、多くのジャーナリスト、作家を生んだことも記しておきたいと思います。
さて、ここで本筋の『フォンターナ広場爆破事件」1969年の12月に戻ります。