『鉛の時代』: イタリアのもっとも長い1日、ブラックホールとなった1978年3月16日

Anni di piombo Cultura Deep Roma letteratura Storia

3月16日 9時2分

薄曇りの、いつもより温かい朝だったそうです。

アルド・モーロは、その日樹立する『連立政府』の信任投票のため、5人のカラビニエリ、警察官に警護され、2台の車で下院議会へと向かっていました。その車の中でモーロは、午後の予定となっている、ローマ大学サピエンツァでの卒業論文のディスカッションのため、それぞれの卒論に目を通していたようで、事件現場には、血に染まった卒論が散らばっています。

ファーニ通りとストレーザ通りの交差点を通り過ぎようとした9:02のことでした。運転手とレオナルディ、モーロが乗っていたフィアット130blueと、モーロの後に続く3人の警護官が乗ったアルファ・ロメオ(アルフェッタ)は、その2台を追い越し、交差点で突然停車した『赤い旅団』のマリオ・モレッティが乗るフィアット128 biancoに行く手を遮られ、まったく身動きが取れなくなった。『旅団』は、反対車線を走って他の車の通行を遮断するため、あるいはモーロを連れ去るため、と全部で4台の車で犯行に及んでいます。

そこに、進行方向左側にある『バール・オリヴェッティ』前の、鬱蒼と茂った生垣の陰から、アリタリアの乗務員のユニフォームを着た、4人の『旅団』のコマンドが突然現れ、凄まじい勢いで発砲。たった120秒の間に、93発の銃弾が発射され、4人の警護のカラビニエリ、警察官はその場で惨殺され、ひとりの警察官は重症を負い、間もなく病院で亡くなっています。その93発の銃弾のうち、モーロの警護官から防御のために発砲されたのは、たったの2発でした。

それほど激しい銃撃が繰り広げられたにも関わらず、その時無防備に歩いていた通行人は巻き添えを食うこともなく、モーロは手の甲をかすっただけで、ブルーノ・セゲッティが乗りつけたフィアット132blueに乗せられ、そのまま誘拐されることになったのです。

車にはモーロの鞄が5つ積まれていたそうですが、『旅団』のメンバーは、なぜか重要な鞄を知っていて、薬が入ったカバン、そして機密重要情報が入ったカバンのみを瞬時に選んで、モーロと共に持ち去っています。さらに、事件を知って急行した当局、メディアの騒乱のなかで、誰もが「見た」と証言した、置き去りにされた3つのカバンのうち、もうひとつの機密重要書類が入ったカバンのみが、いつの間にか消えて無くなることになりました。

現場検証によると、コマンドの中には、93発のうち49発、さらにもうひとり、22発を打ったスーパーキラーが存在したそうですが、そのオペレーションは、きわめて洗練された特殊訓練を受けたプロフェッショナルなコマンドが存在したとしか考えられない、異常とも言える完璧さでした。

のちに自白した『旅団』のコマンド、ヴァレリオ・モルッチ、ラファエッレ・フィオリ、プロスペーロ・ガリナーリ、フランコ・ボニソーリによると、彼らが携帯したミトラー軽機関銃は、いざという時に詰まってしまい、たとえばモルッチは、「一時まったく発砲できず、急いで弾丸を入れ替えた」と言っています。しかし120秒の間に、そんな猶予はあったのか。

見張りや移動の車の用意を含め、『モーロ事件』に実際に関わった9人(現在では11人、12人と言われます)の『赤い旅団』のコマンドの名前は1990年まで明らかになりませんでしたし、オフィシャルな『事件』の再構築は、マリオ・モレッティ、ヴァレリオ・モルッチ、アドリアーナ・ファランダの自白、つまり犯人側からの供述のみでなされています。そして全員が、実際に銃撃した4人のコマンドのなかに「特殊訓練された者はいなかった」「メンバーで武器を上手く扱える者はいなかった」と強調し、コマンドのひとりであったロベルト・フィオリは「山で何回か銃弾を打ったことがあったが、人を撃つのははじめてだった。怖かった」とまで語っているのです。

たとえば『旅団』創立メンバーのフランチェスキーニは、「われわれがマリオ・ソッシ事件を起こした時は、警護がまったくついていないソッシを市電から誘拐するために(のち、解放)、18人のコマンドが必要だったのに、5人もの警護がついているモーロを誘拐するために、たった9人のはずがない」「だいたい72年の段階(カラビニエリのスパイが『旅団』に潜入し、その時多くのメンバーが逮捕されています)で『旅団』全員が逮捕されていてもおかしくなかったのに、行動を監視しながら、わざと見逃したのではないかと思うふしがある」と語っています。

また、75年にクルチョ、フランチェスキーニが囮捜査に引っかかって逮捕された際、なぜかマリオ・モレッティだけが約束の場所に来なかったことで、「その囮捜査を、モレッティは知っていたのではないか」との疑いを、フランチェスキーニは繰り返し述べ、2017年の『政府議会事件調査委員会』の聞き取りでは、レナート・クルチョが「モレッティはスパイではないだろうか」と先に言い出した、と答えているのです。

このような『旅団』側の発言があるうえ、事件の一部始終を見ていた目撃者(住宅街の朝9時、多くの人々が道を歩いていました)も、キラーは7、8人いたと証言し、現場に駆けつけたDigos(特殊警察)さえも、事件の1時間後「キラーは8人だった」と発表しています。それにも関わらず、時間が経つうちに人数は修正され、5人の警護の方々を銃撃したのは『赤い旅団』の4人のコマンドのみ、ということになったのです。

事件直後のファーニ通り adnkronos.comより

アルド・モーロの実弟であるカルロ・アルフレド・モーロ検察官(パソリーニ事件の担当検察官でもありました)は、あまりに素人離れした、この銃撃の異常を執拗に追求し、検証に検証を重ねて本も出版なさっていますが、やはりオフィシャルには、ファーニ通りには『旅団』のメンバーしかいなかったことになっています。

しかし、どんなに「犯人は『赤い旅団』だ! それ以外にはありえない」と連呼され続けても、事件の状況に、それこそありえない疑惑と謎が残るため、それからの43年間というもの、検察官、司法官をはじめ、ジャーナリスト、歴史家、政治家の方々に、詳細の詳細に至るまで根気強く背後関係が調べ上げられることになるわけです。

『モーロ事件』の調査をし続ける、『政府議会事件調査委員会』の副委員長、下院議員であるジェーロ・グラッシは、「あの朝、現場は超満員だった。通行人、居住者、証言者、カメラマン、シークレット・サービス、マフィア、軍部関係者・・・。そこに『赤い旅団』もいた、ということだ」と、たびたび発言しています。

さて、詳細に入り込むと、あまりに複雑なため、なるべく細部は省略したいと思いますが、ファーニ通りを巡る検証結果が衝撃的で、それが本当であるならば、手の込みようが理不尽きわまりなく、関係のないわたしまで怒りが込み上げてくるほどなので、断片のみではありますが、ざっと記しておきたいと思います。

なお、ファーニ通りの襲撃に関係したと推測される人物の名前、出自は、その場にいたとされるスーパーキラー以外は明らかになっています。また、いずれの仮説も、すべて捜査記録、裁判記録などの公文書、あるいは『政府議会事件捜査委員会』のレポートとなって残る資料、検証から導かれたものです。

まず、前日3月15日の夕刻、ベイルートからジュネーブへ向かう予定とされていたリビア飛行機が、人知れずローマ、フィウミチーノ空港に着陸しています。4人の人物が乗っていたとされるその飛行機がコンタクトをとったのはSismi(軍部諜報局)の局長で、コッシーガ内務大臣が率いるタスクフォースにも名を連ね、83年に逮捕された(健康上の理由で即刻釈放)、ジュゼッペ・サントヴィート大佐(P2メンバー)でした。

この飛行機に誰が乗っていたのか、明らかな情報はありませんが、きわめて高度な軍事特殊訓練を受けた戦闘員、あるいは海外諜報員、テロリストが乗っていた可能性が指摘されています。つまり、ファーニ通りのスーパーキラーたちは、このリビアの飛行機に乗ってやってきた、との仮説です。飛行機は事件の直後、3月16日の10:05に離陸しています(イル・ファット・クォティディアーノ紙)。

さらに事件の当日、モーロと警護官5人を乗せた2台の車がファーニ通りを通過したのは、当局の無線オペレーターから、「ファーニ通りを通るよう」指示があったからだそうです。

その日8:05にモーロは家を出て、いつも通りサンタ・キアラ教会で礼拝を捧げ、それから下院議会へ向かっていますが、ローマの中心部にある下院議会に向かうには、多少回り道となるファーニ通りを通ることは不自然な指示ではありました。それでも運転手であるカラビニエリのドメニコ・リッチは、指示通りにファーニ通りを通過することになります。のち、当時オペレーターを務めた人物から「わたしが指示した」、との確認が取れたにも関わらず、その指示がどこから来たものか、記録一切が廃棄されていたことが判明しました(ジェーロ・グラッシ)。

ところで、事件現場となったファーニ通りとストレーザ通りの交差点には、毎朝花売りのトラックが停車していたのですが、朝、起きるとトラックのタイヤがナイフで切られており、花屋の主人はいつもの時刻に出かけることができなかったそうです。その代わり、いつも花屋のトラックがある場所には、近所の人には馴染みのない、ブルーのオースティン・モーリスが停車されていました。この花屋のトラックについては、アクションの邪魔になるため、前夜にトラックのタイヤをパンクさせに行ったことを、『旅団』が供述しています。

また、事件が起こった場所の反対車線側にある『バール・オリヴェッティ』前から、事件の直後、軽機関銃で武装した男女が乗った、ホンダの大型バイクが、逃亡する『旅団』の車を追って、発車したのを見た目撃者3人存在します。しかし彼らが誰であったのか、いまだ判明していません。

なお、『バール・オリヴェッティ』があった建物は、それこそ作り話のようですが、シークレット・サービス、つまり諜報局の基地であったことが2014年に判明し、事件が起こる以前の数年間閉鎖されていたにも関わらず(閉鎖されてはいても、誰かが常駐し、植物は手入れされていました)、『モーロ事件』の後に再開しています。

ちなみに『バール・オリヴェッティ』は、事件が起こる以前に倒産して閉店した、ということでしたが、「事件当日は開いていた」、とする証言が複数あり、『政府議会事件調査委員会』は、実は『バール・オリヴェッティ』で『旅団』を含めるキラーたちが待機していたのではないか、と推測しています。生垣に隠れていた、という『旅団』コマンドの中には、180mあるプロスペロー・ガリナーリもいて、身を隠すことは困難だったはずだ、との仮説です。

しかも事件後の調査により、この『バール・オリヴェッティ』が、長らく武器類の重要な取引の場となっていたことが明らかになり、ペッピーノ・インパスタート(映画『ペッピーノの百歩』の主人公)を殺害した「コーザ・ノストラ」メンバー、同じく「コーザ・ノストラ」のボス、フランク・コッポラ、グラディオーステイ・ビハインドの戦闘員だった大佐、『赤い旅団』メンバー、NAR(極右武装グループ)、ローマのマフィアグループ『バンダ・デッラ・マリアーナ』のメンバーが通っていたという証言があります(ジェーロ・グラッシ)。

現在では『バール・オリヴェッティ』は無くなっていますが、植物は鬱蒼と生い茂ったままです。

▶︎見え隠れするグラディオの影

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