今だからこそ、あえてシルヴィオ・ベルルスコーニという人物について考察する

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シチリアを忘れたのか

92年の「コーザ・ノストラ」によるパオロ・ボルセリーノ判事爆破殺害事件において、現場に実際に爆破物をしかけた犯人として1997年に逮捕されたガスパーレ・スパトゥッツァは、10年間は沈黙を保っていたそうですが、やがてカルタニセッタの検察で、一連の爆破事件計画には「国家運営に携わる人物たち」が関わっていたことを話しはじめます。

ちなみにこのスパトゥッツォという人物は、前述した、現在41bisに収監されているジュゼッペ・グラヴィアーノと同郷のブランカッチョのマフィアで、グラヴィアーノを心から崇拝していたのだそうです。また、ジュゼッペ・グラヴィアーノとその弟フィリッポ(同じく41bis)はといえば、「沈黙の掟」がありながら、スパトゥッツォがベルルスコーニ及びデル・ウトゥリとグラヴィアーノ一家の関係の詳細を検察に語っても、「裏切り者」とは見なさず、法廷の控室で顔を合わせても、ファミリーの一員として親愛を示していたと言います。ということは、スパトゥッツォが証言をすることを、グラヴィアーノ兄弟はすでに知っていたか、あるいは指図していた、と考えられるかもしれません。

スパトゥッツォは「フィリッポ(グラヴィアーノ)は刑務所の中で(テレコムやフィアットなどのイタリアの主要会社の)株や社債の話をしていた。しかしフィニンヴェスト(ベルルスコーニ所有の)について語るときは、まるで自分が投資している会社のようだった…略…最小の投資で最大のリターンがあって、怖いぐらいの収入になると話していた」と証言しています。

そしてこのスパトゥッツォのいくつかの証言から、1994年の1月21日から28日までの動きを、ベルルスコーニにとっても、デル・ウトゥリにとっても、そしてグラヴィアーノにとってもとなる1週間としてフィレンツェ検察が集中して捜査していることを、Domani紙のアッティリオ・ボルゾーニは指摘しているのです。

まず1月21日ローマのヴェネト通りにあるカフェで、「俺たちが今までに得たすべてはベルルスコーニと、俺たちの同郷、デル・ウトゥリの仲介のおかげだ、俺たちは国を手に入れたんだ」 そうグラヴィアーノはスパトゥッツォに言ったそうです。

「その時のグラヴィアーノは宝くじに当たったように有頂天だった。それまで探していた物をすべて手に入れた、と言っていた。それからグラヴィアーノは、『ベルルスコーニとデル・ウトゥリという信頼できる人物たちのおかげで、いい結果に終わった』と語り、そして最後に『あの一撃、一連の爆破事件は、政界に(華々しく)新人を迎えるための、イタリア国内の不安定化のためだった』と明かしたんだ」

これはもう、大変な重大発言です。つまり『鉛の時代』に、イタリアに密かに張り巡らされ、市民戦争に発展するまでにテロと衝突を激化させた『緊張作戦』と、いまだに捜査が続く92-93年の大規模連続爆破・テロ事件の背景には、ほぼ同じ構造がある、とグラヴィアーノがスパトゥッツォに告白したということです。

なお同年1月24日には、ローマのスタディオ・オリンピコのカラビニエリ本部周辺で、スパトゥッツォを含む十数人のマフィアたちが、100人以上の犠牲者を目標にした大規模テロを起こす予定でしたが、周到に計画されたにも関わらず、幸運にも爆弾は不発に終わっています。

1月26日には、タンジェントポリというイタリア全国規模の大汚職事件発覚、『イタリア社会党』のベッティーノ・クラクシーの失脚、そしてマフィアによる大規模連続爆破事件と混乱が続くイタリアで、実業家ベルルスコーニが、自らの所有する民放局からいよいよ政界進出を発表することになります

1992年、「コーザ・ノストラ」のしかけた爆弾で殺害されたジョヴァンニ・ファルコーネ判事とパオロ・ボルセリーノ判事。cosenzapost.itより引用。

そのタイミングで、逃走中の凶悪犯ジュゼッペ・グラヴィアーノとその弟フィリッポは、同郷の友人とミラノのレストランにいたところ、突然カラビニエリが押し寄せて逮捕されました。友人は、サッカーに並ならぬ才能を持つ息子を、ベルルスコーニ所有のACミランに入れたいと、ベルルスコーニと親しいふたりを訪ねてきたのだそうです。1月27日のことでした。その後グラヴィアーノは、41bisに収監され、それから一度も出所したことはありません。

「(検察は)ベルルスコーニを捜査したがっていた…ベルスカ(ベルルスコーニ)が、俺に約束したんだ。緊急事態だった」「やつは下りたがっていた。でもあの時期は古株ばかりで、やつは俺に『Una bella cosa(派手な出来事)』が必要だ、って言いやがったんだ」

これは、2016年〜2017年にかけて、収監中のジュゼッペ・グラヴィアーノとカモッラのボスの盗聴された会話ですが、その音声を分析した検察のアンチマフィア部は「ベルルスコーニは94年以前から政界進出を狙っており、『Una bella cosa』とは、スパトゥッツォが語った『新人の出現が歓迎されるような国内の不安定化を狙った虐殺事件』のことだ」と解釈しています。そしてその一撃(Colpo di grazia)と交換にベルルスコーニーマフィア間に約束されたのが、ベルルスコーニが首相になってすぐに立案された、俗に「ビオンディ法」と呼ばれる政令だと考えられているのです。

この「ビオンディ法」は、「泥棒救済令」とも呼ばれる、金融犯罪と行政に関する犯罪に対して公判前の勾留を廃止するという法律で、実際にはタンジェントポリの大規模収賄事件で逮捕された人物たちに自由を与えましたが、タンジェントポリを暴いた判事たち、そして世論と議会多数派の猛烈な反対で、7日間の施行ののちに廃止されることになりました。犯罪者たちに公判前の自由を与えるということは、その間にどこにでも逃亡できるということです。さもありなん、『秘密結社ロッジャP2』のグランドマスター、リーチオ・ジェッリはこの法令を強く支持していたと言います。

なお、当初はこの政令の対象としてマフィアも含まれていましたが、与党内からも大反発があり、政令に盛り込むことはできなかったそうで、いずれにしてもこの時点で、グラヴィアーノとの約束は果たされなかったことになります。ベルルスコーニの在任中、この政令が再び議論の俎上には上がることなく、やがて時とともに、うやむやのうちに消滅してしまいました。

この、あっという間に廃止された「ビオンディ法」の対象にマフィアが加えられず、約束を守らなかったベルルスコーニにグラヴィアーノは失望したようですが、それから何年間かは、41bisの中でじっと沈黙を保っていました。しかしやがて外部の「コーザ・ノストラ」が、あからさまに自己主張をはじめることになり、たとえばパレルモで開催されたサッカー、セリアBの決勝戦で、「41bis廃止に一致団結する。ベルルスコーニはシチリアを忘れたのか」と書かれた長い垂れ幕が掲げられたこともあったそうです。

さらに2020年には、レッジョ・カラブリアの法廷で「俺たちはあんたに良い暮らしをもたらした。26年前に俺に不幸が訪れ逮捕され、あんたは俺を殴り続けたきた。何のために? 金のためだ」とグラヴィアーノはベルルスコーニを攻撃する発言をしています。

グラヴィアーノは逮捕される前にベルルスコーニには3回会った、と告白しており、最後に会ったのは1993年の12月、逮捕される1ヶ月前のことだったそうです。その晩、ベルルスコーニに巨額の投資をしていたグラヴィアーノは「母方の祖父の金は底をついた」と話したと言いますが、ベルルスコーニの弁護士に「グラヴィアーノの発言は誹謗中傷!」と一瞬のうちに告訴されました。

ベルルスコーニ自身はといえば、この30年という間、何度もその名が囁かれ、捜査が行われながら、法廷でも「コーザ・ノストラ」が実行した92-93年の大規模連続爆破・テロ事件にひと言も言及することはなく、実刑となったのは、みかじめ料に関して、ベルルスコーニとマフィアの仲介をした上院議員マルチェッロ・デル・ウトゥリのみでした。その友情の証としてか、ベルルスコーニは、デル・ウトゥリに3000万ユーロの遺産を残しています。

一方、41bisに収監されたままのグラヴィアーノは「真実を明かす」として、自伝を出版する用意がある、と宣言していますが、それが事実かどうかは、現実に本が出版されてからでないと、何とも言いようがありません。

現在、フィレンツェ検察は、90年代に起こった大規模連続爆破・テロ事件にマフィア以外の外部煽動者がいたか否かの捜査を継続しており、ベルルスコーニ亡き後、どのような展開になるのか、今はまだ、誰もが静観しているところです。何より、グラヴィアーノ本人が思わせぶりな発言をするだけでなく、すべてをきっぱり語ったなら、誰もがスッキリするとも思うのですが、何が彼を躊躇わせているのか、われわれには窺い知れない複雑なマフィア内の掟があるのか、今のところはその様子はありません。それとも『鉛の時代』のあらゆる事件と同じように、いつまでも真実が明かされることなく、このままイタリアにはもやもやした時間が過ぎていくのでしょうか。

そういうわけで、わたしのような外国人から見ると、元首相は「まっくろ」のように思えますが、それでも長期に渡り、イタリア市民の、少なくとも3分の1程度はベルルスコーニに熱狂し続け、4期合計9年の間、首相に君臨し続けました。その、イタリアの一時代を築いた元首相亡き後も、その偉大を賞賛する言説は絶えることなく、特に何らかの恩義を感じているであろう実業家やジャーナリストたちは、口を揃えてベルルスコーニを誉めそやしています。

何と言いますか、ベルルスコーニの訃報に際して、これが世界なのだ、民主主義というものなのだ、と妙に納得し、なんだか馬鹿馬鹿しく、同時に虚しくも思っているところです。

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