沈黙を守った居候
シルヴィオ・ベルルスコーニという実業家をイタリア中に知らしめたのは1974年、ミラノ郊外の、Milano2という3キロ平米の高級住宅街の建設にはじまることは前述した通りです。現在でもその美しい街並みと建築が高く評価される住宅街で、当時は「金持ちたちのゲットー」とも言われたそうです。
その成功からはじまって、ローカルの放送局(政府から許可を得て全国ネットへ)、新聞、出版社を次々と買収、「メディア王」となっていくわけですが、ベルルスコーニは、Milano2建設の時点から、自身のビジネスを意のままに拡大していくために、当時権勢を誇っていたベッティーノ・クラクシー率いる『イタリア社会党』に巨額の政治献金を渡していたことが明らかになっています。
そして伝説はまず、このMilano2からはじまることになります。というのも、ベルルスコーニがその高級住宅地を建設するための巨額の資金を、いったい何処から得たのかがいまだに明確ではなく、おそらく「コーザ・ノストラ」から資金(マネーロンダリング)の援助を受けたのではないか、と長期に渡って疑われているからです。
実際、この資金に関しては、ベルルスコーニとマフィアの架け橋となったマルチェッロ・デル・ウトゥリの裁判で、すでに亡くなった「コーザ・ノストラ」の大ボス、ヴィート・チャンチミーノの息子が、やはりすでに鬼籍に入った大ボスベルナルド・プロヴェンツァーノと他のボスたちと共にベルルスコーニに資金を提供した、と証言しています。さらに前述のジュゼッペ・グラヴィアーノもまた2021年、裕福な青果商であったマフィアのボスである祖父が、ベルルスコーニに投資し、具体的にはビジネスのパートナーでもあった、とレッジョ・カラブリアの法廷で発言しているのです。
また、ベルルスコーニが政界進出したすぐ後の1995年の捜査では、ドラッグの国際ビジネスの大物であるフランチェスコ・デ・カルロが1974年、当時の「コーザ・ノストラ」の大ボス、タニーノ・チーナ、ステファノ・ボンターテとともに、ベルルスコーニ、そしてデル・ウトゥリとミラノで会ったことを供述しています。その席でベルルスコーニは「すべてあなたたちの意のままに」と言ったとされ、マフィアたちも同様の言葉を返したのち、現実的なビジネスの交渉となったそうです。
すなわちそれは、今後ベルルスコーニのビジネス、家族、会社の保護を「コーザ・ノストラ」が約束する、ということであり、その場でベルルスコーニは「コーザ・ノストラ」の代表者たちに金銭、つまりみかじめ料を渡し、その取引は1992年に至るまで続くことになります。ということは、まず最初にマフィアたちがベルルスコーニに投資して、その大成功の報酬、及びみかじめ料を定期的に受け取っていたということでしょうか。
ともあれ、ここからはベルルスコーニの国葬が行われる前日(6月13日)、そして国葬の日(6月14日)にDomani(ドマーニ)紙に掲載されたアッティリオ・ボルゾーニの記事の内容を参考にしながらまとめていこうと思いますが、なにしろ4面に渡って詳細が再構築され、かなりの分量となるため、ここではとりあえず、その流れのみを、ざっくり抜粋させていただくことにします。また、大規模連続爆破・テロ事件には、膨大な数のマフィアが関係しているため、要旨において重要でない、と思われる人物は省略させていただいたことをご了承ください。
なおDomani紙は、ラ・レプッブリカ紙、レスプレッソ誌、およびいくつかのラジオ局を有するジェディ・グループを所有していたカルロ・ディ・ベネデッティが、ジェディ・グループそのものをフィアット(ジョン・エルカーン)に売却したのち、2020年に設立した、比較的新しい新聞です。また、アッティリオ・ボルゾーニは、そもそもラ・レプッブリカ紙で41年間マフィアを追い続け、2021年からDomani紙に移籍したベテランの記者で、その記事のタイトル下に、少し前まではこのような記事は書けなかった、と意味深な前置きをしていました。
さて、ベルルスコーニとマフィアの関係は、パレルモ出身のマルチェッロ・デル・ウトゥリを、ベルルスコーニが特別個人秘書として雇った1974年からはじまったようです。あるいはすでにマフィアと関係があったベルルスコーニとマフィアの間を、円滑に取り持つためデル・ウトゥリに白羽の矢が立ち、送り込まれたのかもしれません。このデル・ウトゥリ自身は「コーザ・ノストラ」のメンバーではありませんが(多分)、かつてサッカーチームの主将をしていた時代に、ボスの息子たちとともにゲームをしていた経緯から、マフィアと深いつながりを得たと考えられています。
早速ミラノへと居を移したデル・ウトゥリという人物は、すでに1980年代、ヘロインビジネスに関する電話での会話を盗聴された、というエピソードがあったにも関わらず、この時は逮捕されることはありませんでした。デル・ウトゥリがベルルスコーニとマフィアの仲介者として、有罪の判決を受け、実際に投獄(本来は7年の刑期でしたが、病気のため恩赦)されるのは、それから34年後の2014年のことです。
さらに2018年には、92年-93年に起こった「コーザ・ノストラ」による大規模連続爆破・テロ事件に関する裁判(La Trattativa Stato Mafia-国家ーマフィア合意裁判)において、外部煽動者として12年を求刑されましたが、2021年、証拠不十分で、最終的に「無罪」の判決が下りることになりました。このデル・ウトゥリという人物が、常にベルルスコーニの傍で影となり日向となり、重要な責務を負う盟友として『フォルツァ・イタリア』を結党し、自身は上院議員としてイタリアの国政に関わってきたわけです。
1974年のことでした。ベルルスコーニの特別個人秘書として動いていたデル・ウトゥリは、やがてベルルスコーニの自宅(アルコレ)の庭の管理、および家族のボディガードという名目で、パレルモからヴィットリオ・マンガノを呼び寄せます。マンガノは「コーザ・ノストラ」の大ボス(タニーノ・チーナ)から信頼されるマフィアで、ベルルスコーニの自宅に2年半ほど滞在しながら、ミラノーパレルモ間のドラッグビジネスを仕切っていたと言います。
マンガノは、その後ドラッグビジネス及び数件の殺人罪で、1995年に逮捕されます(何年かの逃亡ののちに)が、この時マンガノが出所に際して警察に提示した住所は、ベルルスコーニの自宅(!)だったそうです。さらに1999年には再逮捕となり、2009年には92−93年の大規模連続爆破・テロ事件の期間、マンガノがポルタ・ヌオヴァ地区のボスであったことが、改悛者であるマフィア、ガスパーレ・スパトゥッツォより明らかにされています。
いずれにしても、マンガノがアルコレに滞在している間は、デル・ウトゥリとともに、Cupola(クーポラ)と呼ばれる、パレルモのボスたちによる地域委員会で開かれた誕生日パーティに顔を出したり、パレルモの大ボスたちが招かれた、ロンドンで開かれた麻薬業者の結婚式に参列していたそうです。
また、このマンガノについては、92年の爆破事件で殺害されたジョヴァンニ・ファルコーネ判事が重要人物とするメモを残し、パオロ・ボルセリーノ判事が「パレルモとミラノの架け橋となっている人物だ」と答えたインタビューが残っています。ファルコーネ、及びボルセリーノ判事は、すでに北イタリアの実業家と「コーザ・ノストラ」の関係を、ある程度突き止めていた、と考えられているのです(その詳細が書かれていたと考えられているボルセリーノの赤い手帳は、爆破事件時に消失しています)。
ところで、92-93年の「コーザ・ノストラ」による大規模連続・テロ爆破事件を計画したマフィアのボスたちは、大ボスの中の大ボスと謳われたトト・リイナをはじめ、93年に大量検挙されますが(参照:マルコ・ベロッキオ監督の映画『Il Traditore』ーシチリア、裏切りの美学)、そのときに検挙されたマフィアのひとり、サルヴァトーレ・カンチェミは、カルタニセッタの検察で、このような発言をしています。
「明らかにしなければならないことがある。名前は知らないが(大規模連続爆破事件の真の首謀者は)『コーザ・ノストラ』ではない。なぜなら、それらの人物は、リイナよりプロヴェンツァーノ(ベルナルド・プロヴェンツァーノはトト・リイナを『売った』と言われています)より、さらに重要な人物たちで『コーザ・ノストラ』の内部にはいないからだ。リイナと実際に会って虐殺を計画した(一連の爆破事件の首謀者として)のは外部の人間だ」
そのカンチェミは、2回目の聞き取りでは、シルヴィオ・ベルルスコーニの名をそっと囁き、他のマフィアたちも、おそらくベルルスコーニであろうと思われる暗示を使って示唆しています。カンチェミは、ベルルスコーニ(フィニンヴェスト)がデル・ウトゥリ、マンガノを仲介として、「コーザ・ノストラ」に年間20億リラ(10万ユーロ)のみかじめ料を支払っていたことをも明らかにしました。
また、リイナは80年代からベルスコーニとデル・ウトゥリに接触し、92年のジョヴァンニ・ファルコーネ判事爆発殺害事件、パオロ・ボルセリーノ判事爆発殺害事件の前後に、その絆がより強くなった、ともカンチェミは語っています。
「トト・リイナが、ベルルスコーニは自分の手の内にあると考え、常に彼ら(デル・ウトゥリも含め)のことを口にし、彼らが『コーザ・ノストラ』を助けるだろうから、われわれは彼らを保証し、現在も将来も彼らの近くにいなければならない、と言っていたことに間違いはない」
ちなみに74年〜92年は、「コーザ・ノストラ」間で、血で血を洗う激しい抗争が繰り広げられていた時期で、逮捕される93年まではトト・リイナが大ボスの中の大ボスとして君臨していましたが、その後ベルナルド・プロヴェンツァーノへと統治権が移り、さらにプロヴェンツァーノの逮捕後にその座に着いたのが、2023年1月に逮捕されたマテオ・メッシーナ・デナーロとされます。
なお、ベルルスコーニの自宅に住み込んでいたヴィットリオ・マンガノは、2000年に刑務所の中で病死することになりました。その際、デル・ウトゥリは「わたしのせいでヴィットリオは死んでしまった。癌を患っていたというのに、わたしとベルルスコーニを裏切る証言を強いられて、何度もあちらこちらに送られた。われわれを裏切っていたなら、出所できて治療を受けることができたろうに。彼のスタイルにおいて、彼は英雄的だった」と述べたそうです。確かにマンガノは、マフィアのロジックにおいては、マフィアの中のマフィア、Uomo d’onore(沈黙を守る男)ではありました。
ベルルスコーニもまた、TV番組に出演した際「マンガノはわれわれには常に善き行い(!)をした。デル・ウトゥリに賛成だ。病気にも関わらず、何ひとつ、わたしを陥れるようなことは言わなかった。…略…デル・ウトゥリが言うように、英雄的な行動だった」と述べています。
▶︎シチリアを忘れたのか