嘘つきシルヴィオ
ベルルスコーニの死去に伴い行われた世論調査(DEMOPOLIS×OTTO E MEZZO)では、⚫︎この40年間、イタリアの歴史と風俗を(良くも悪くも)決定づけた人物は誰か、との問いに、68%の人々がシルヴィオ・ベルルスコーニと答えています。
⚫︎40年間(経済界、政治界において)、完璧な主人公だったベルルスコーニが変えたもの、には「イタリアの社会」と答えた人が40%、すでに変わろうとしていた「80年代、90年代の社会の変化を察して、それを拡大した」と答えた人が51%でした。⚫︎ベルルスコーニはイタリア社会に何を残したか、には53%が「商業的民放テレビ(広告収入のみで運営される)」、35%が「政治」としています。
また、⚫︎ベルルスコーニの30年間の政治人生において記憶に残るもの、に51%が「中道右派連合の形成」と答えていますが、現在の与党『右派同盟』は、1994年に形成された『フォルツァ・イタリア』+『北部同盟』『MSI(イタリア社会運動)』の連帯が、(途中分裂もありましたが)『フォルツァ・イタリア』+『同盟』『イタリアの同胞』と政党名が変わっただけで、基本何の変化もなく継続されたものです。さらに48%が「イタリア政治に新しい表現をもたらした」、44%が「多数の裁判と検察との衝突」、35%が「規則破り」、33%が「多くの市民の意見を引き寄せた」と答えました。
そこで、イタリア市民の生の声も聞いてみたい、と考え、かつてイタリア財務省に勤務していた知人に「具体的に、ベルルスコーニはイタリアの何を変えたと考えるか」と尋ねると、「ベルルスコーニがイタリアにもたらした巨悪。それは労働の価値を奪ったことだ」という答えが返ってきたのです。
なるほど。イタリア共和国憲法の基本原則第1条は、「イタリアは、労働に基礎を置く民主的共和国家である。主権は国民にあり、国民は、憲法の定める形式および制限範囲内でこれを行使する」とはじまり、その文言の重要さは、常日頃から頻繁に語られます。もちろんこの場合の「労働」は、自分のためだけに行うものではなく、社会全体に安定をもたらす集合的幸福のための労働という意味です。
「ベルルスコーニが、政界に入った初日から発言した『真の労働とは、起業することだ』『皆がゼロから億万長者になったわたしのようにやればいいんだ』という魔法の言葉を誰もが信じたんだよ。その日以来、多くのイタリア人、特に若者たちは、工場であれ、オフィスであれ、雇用される労働を軽蔑するようになった。かつてはイタリア人の夢でもあった安定したサラリーを得られる仕事を、もはや誰も望まず、若者たちは学問や自ら『やってみたいこと』から遠ざかり、たったひとつの目標として、『利益』を求めるようになったんだ」
「その時点から、サラリーを得る労働者たちは、惨めな邪魔者で、最下層のカーストの地位に置かれることになった。欧州で『最低賃金』が設定されていない5つの国のひとつであり、(現ジョルジャ・メローニ政権で)貧困者のためのベーシックインカム(Reddito di cittadinanza)も制限されたイタリアでは、サラリーを得る仕事をする労働者たちは、合法的に自己防衛することができないという状況だ」
「しかし、これだけでは、イタリアに何が起こったか説明するには十分ではないだろう。ベルルスコーニの『説教』を真摯に受け止め信頼した多くの人々が、『利益』の追求に徹し、家族や友人たちを巻き込んで無数の小企業を立ち上げた。Partita IVA(VAT=付加価値税)の人々と呼ばれる彼らは、自分の名前で会社を作り、自分自身が生産した所得に対する税金を払うわけだが、結果的に生産する量は微々たるもので税金を払うことすらできないでいる。そしてこの勇敢な起業家たちでさえ貧困に陥り、何百万人もの人々が破産したんだ」
「さらに、その弱小起業家たちのアイデアやイノベーションに「使える」ものを、たまたま見つけた大企業が、真の価値、それらを生み出すために費やされたコストをまったく支払うことなく、吸い上げていく。もし、わたしが大企業であれば、そのイノヴェーションに対して、発明家が要求した金額よりはるかに少ない報酬しか払わないだろうし、それが契約する側の理だ」
「ベルルスコーニが導入したイデオロギーである、起業信仰という一種の宗教は、若い賃金労働者だけでなく、野心的な若い起業家の両方をダメにしてしまった。賃金労働者の日々の労働の価値も、勇敢な若い独立起業家が生み出すイノベーションの価値も台無しにしてしまったよ。ベルルスコーニは、最初の政権を作った際、100万人の雇用を創出すると言ったが、実際は何百万人もの貧困層を生み出した。両者ともに保護されることのないまま、若く貧しい賃金労働者と起業家たちは分断され、社会的に敵対すらしている」
「あらゆる統計によると、イタリアそのものは決して貧しいとは言えないが、人口減少が甚だしく、富は大企業に集中していることが分かる。そしてそれこそがベルルスコーニの、もうひとつの『偉大な』功績だ」
もちろん、これは近年の経済の動きに詳しい、ひとりのイタリア人の意見にすぎませんが、わたしがローマに住む間(ほとんどベルルスコーニが政界にいた時期に重なるのですが)、確かに貧富の格差はみるみるうちに広がり、路上には家を失った人々が溢れ、イタリアが、決して豊かになったとは思えません。しかしこのような新自由主義経済の弊害は、イタリアのみならず、世界のあちらこちらに噴出しているのだ、とも思います。
ところで、われわれがTVを通じて、毎日のように観ていたベルルスコーニという人物は、実際にはいったいどのような人物だったのか、今回の訃報を通じて、あれこれと考えることにもなりました。
ベルルスコーニは、ともかくコミュニケーション能力、共感能力がずば抜けて高い人物で、経済界においても、政界においても、近しく関わった人物たちを、たちまちに虜にするオーラを放っていたようです。また、たとえ長年敵対してきた経緯があったとしても「自分の父親が亡くなった時に一緒に泣いてくれた」とか「襲いかかった不幸を自分のことのように嘆いてくれた」など、温かく、人間味のあるエピソードが多く語られ、周辺の人々にとっては、この元首相はやはり、ヒューマンで魅力的な人物だったには違いありません。
そういうわけで、ベルルスコーニの人物像を語るエピソードをいろいろ読んでみましたが、その中で最も興味深く読んだのは、インドロ・モンタネッリ(1909-2001)のベルルスコーニ評(Voce紙)に、マルコ・トラヴァイオ(Il Fatto quotidianoーIndro 900 Marco Travaglio/Rizzoli)が解説を入れた、イル・ファット・クォティディアーノ紙の記事でした。モンタネッリは、つい最近までベルルスコーニ所有であった日刊紙「il Giornale(イル・ジョルナーレ)」の、そもそもの創立者で、その新聞社の大株主であったベルルスコーニが政界進出を決めた際、「党の広報紙になってほしい」と打診され拒絶。50人のジャーナリストを引き連れ、新しい新聞Voce(ヴォーチェ)紙を設立した、という経緯があります。
また、モンタネッリは70年代、極左武装グループ『赤い旅団』がジャーナリストを標的にした際、ガンビザッツィオーネ(足に的を絞り、一生歩けなくなるよう銃撃する、当時のテロリストが頻繁に使った攻撃)の犠牲となった、当時のイタリアを代表するジャーナリストのひとりです。そのモンタネッリとイル・ジョルナーレ紙の株主であったベルルスコーニは、元首相がまだ政界進出を決めていない頃からの知り合いでもあり、モンタネッリが『赤い旅団』に銃撃された時、ベルルスコーニは、まるで自分が撃たれたかのように泣き崩れ、モンタネッリが慰めなければならないほどだったそうです。
マルコ・トラヴァイオは、政界に進出したベルルスコーニが振り撒く、どこか演出されたかのような笑いを、以前のベルルスコーニのそれではない、とモンタネッリがかつてのベルルスコーニを回想する一文の引用からはじめています。以下、抜粋です。
「まだCavaliere(カヴァリエレ=騎士=1977年、ベルルスコーニのイタリア経済への貢献が認められ、与えられた称号)ではなかった頃の(ベルルスコーニの)微笑み、いや、それは微笑みではなく、喉を開いた、快活で、開放的で、甲高い大笑いだった。その笑いはちょっとした冗談、特に兵站部隊の笑い話で湧き上がったものだ」
「そして何より、自分の嘘がばれた時の、われわれ友人たちの抗議に大喜びしていた。なぜなら、その時からすでに、彼は嘘つきシルヴィオだったからだ。自分でも気づかないうちに、われわれが呼吸をするように、彼は無意識に嘘をついていた。…略…(ベルルスコーニは)夢と現実を区別することなく、(嘘を真実のように)話していたが、多分、だからこそ、夢を現実として実現させたのだと思う」
「父親が亡くなった際の(ベルルスコーニの)嘆きは、まるで自分の生命が絶たれたような号泣で、それは真の涙であった。数日後、彼は父親のことを話しながら、『これからあなたが僕の父親だ』と言ったが、わたしはその時、彼が他の何人にその言葉を言ったのか、あるいはこれから言おうとしているのか、と考えたものだ。しかし彼はすべての人々に、自分に言ったような誠実さで、そう言うのだろうと納得していた」
「だからわたしは、(政界進出を果たしたベルルスコーニの)ビデオが捉えた偽の微笑みを見るのが不快だったのだ。それはほとんど『嘲笑い』のようでもあり、いまだカヴァリエレではなかった頃の、アルコレ(ミラノの自宅)での快活で甲高いシルヴィオの大笑いを、遠くからでも思い出せない」
イル・ジョルナーレ紙から離れたのち、インドロ・モンタネッリはベルルスコーニ政治に満ち溢れる汚職、収賄、刑事免責、法律の私物化などを、ジャーナリストの卓越した視線で徹底的に批判し続けますが、やがて何者か分からない人物から脅迫を受けるようになったそうです。たとえば、普段、ジャーナリストや弁護士などの仲間と会うために利用する馴染みのレストランへ行ったところ、見ず知らずの人物から死を予告する手紙を受け取ったり、近しい友人にしか番号を告げていない自宅に「あなたは20年間も(Il Giornale紙時代?)ベルルスコーニのおかげで食べてきたんだ。やがてそのことを理解するだろう」と女性の声で告げる電話がかかってきたと言います。
「わたしは怯えたのではなく、そのようなことが起こったことがないために、むしろ衝撃を受けたのだ。よかろう、こういうこともあろう。わたしは自らに言い聞かせた。彼ら(脅迫者たち)は、表に現れた多くの馬鹿者のひとりにすぎず、やがて闇に沈んでいくだろう。しかしわたしは、自分の生命に関してはまったく心配していなくとも、大きな衝撃を受けたのだ。この歳になって、未来のリスクを心配するなんて、お笑い草だ。…略…わたしは(ベルルスコーニを)悪魔化する情報キャンペーンに参加したことは1度もなかった。ベルルスコーニを道化、あるいは操り人形だと定義していたからだ。しかし今となってはベルルスコーニはマフィアの人間である、とするすべての物語(を否定すること)に確信が持てない。今となれば、すべては起こりうる」
この回想にある、ベルルスコーニとマフィアに関する物語は次のページに譲るとして、このようなベルルスコーニを昔から知る人物の証言を改めて読むと、元首相が、表面的には陽気で、人間的で、時にコミカルに(少々下品に)振る舞う、多くの人々が魅了されるカリスマだった、とは単純には思えません。複雑というか、得体がしれないというか、ひょっとすると、生まれながらの大山師かもしれない、というのが率直な感想です。
夢のような嘘を現実にする実行力、悪魔にも天使にも豹変する振幅の激しい柔軟性こそが指導者としての度量、と言ってしまえばそれまでですが、ベルルスコーニが指導者として、市民を幸せに、平和と調和へと導くよう、イタリアを統治したのか、というと疑問です。
▶︎コーザ・ノストラ