はじめは比較的少人数ではじめた占拠でしたが、やがてチェントチェッレの公園を強制退去になったロムの家族、子供たちも加わって、250人ほどの住人がこの工場に住むようになりました。もちろん、この「占拠」も、いったんは厳しい強制退去の危機を迎え、土地の所有者である建築会社と話し合いの末、市の援助による他の住居を得て、工場から出て行った人々もいます。
しかしローマ市の、住宅を失った人々への福祉というのは、たとえば「ロムの居住区のために予算を使う」という名目で、その予算を市の責任者がマフィアに横流し、ローカル・マフィアであるBanda della Magliana(バンダ・デッラ・マリアーナ)がローマ市の不動産、移民関連事業、ゴミ管理を暗に操り食いものにしていた「マフィア・カピターレ」という前代未聞のスキャンダルが起こったことからも分かるように、ソーシャルサービスとは言い難いものでもあります。たとえばローマ市が提唱するHouse of Rom(ロムの人々の家)というプロジェクトは、違法居住区に住むロムの人々を強制退去にして、窓のない建造物に押し込めるような乱暴で、非人間的な政策でした。
そういうわけで、いったんは強制退去になった人々も、市から提供された住居のひどさに辟易し、このサラミ工場跡に少しづつ戻ってきています。そこで彼らは再び「メトロポリターニ」(マスメディアは彼らのムーブメントをそう名付けました)住居運動を起こし、「住居の権利」を訴えるだけでなく、総合的な「人権運動」、「尊厳、教育、健康の権利の主張」へと発展させていきました。この「メトロポリターニ」運動は2012年、同じTor Sapienza(トル・サピエンツァ)地区にある廃墟となったホテルを、600人のアフリカ、ペルー、モロッコ、ルーマニア、ロム、コスタリカの人々が占拠した流れと合流したものだそうです。ちなみにこのホテルは4stelle hotel(四つ星ホテル – ITAかENGをクリックすると映像が流れます)として現在も占拠中です。
当初、周辺に住む人々は、この占拠を、多くの外国人が出入りする「得体が知れない場所」と恐れ、「ドラッグ中毒者、売春婦たち、あるいはトランスの売春婦たち、泥棒たち」、つまり犯罪者の巣窟とみなして近づかなかったそうです。実際この地区には、有名なトランスの売春が行われている場所もあり、ドラッグの売買にまつわる犯罪も大きな問題となっています。
そこで前述した、このTor Sapienza地区の文化センターを運営するカルロ・ゴーリらが、占拠者たちと地域住民の仲介に乗り出し、理解を深めるために、さまざまな工夫をはじめることになります。スタッフたちは、たとえば占拠者の子供たちとともにインスタレーションを作って地区のカーニバルに参加するなど、子供たちから地区の住人たちに馴染むことで、占拠の偏見を払拭することに勤めました。またゴーリらはスタッフとともに、占拠者の子供たちのために図書館、イタリア語を学ぶコース、遊ぶ場所などを占拠スペースの内部にオーガナイズし、子供たちが健康的に成長できるよう、毎週他のスタッフとともにミーティングを開き、さまざまなプログラムを練っています。
はじめはジッとして授業を受けるのも苦痛な様子だったロムの子供たちも、最近では真面目にコースに参加し、イタリア語での読み書きもすっかり上達したそうです。現在、子供たちが勉強するスペースは、ヴェロニカ・モンタニーノなど、有名アーティストのインスタレーションに溢れる広々とした部屋です。
さて、この3ヘクタールの広大な工場地跡の『占拠』が現在のようなアートスペースに変化していったのは、まず2011年の9月、この占拠スペースに興味を持ったロンドン大学のDepartment Planning Unitが、サマー・ラボを開催したころからはじまります。このラボラトリーは、工場のふたつの建物を結びつける蝶番の役目をする2メートルほどの壁を、インスタレーションに見立てて構築。その後2012年、この占拠に共鳴した、文化人類学者ジョルジョ・デ・フィニス、ファブリッツィオ・ボーニがこの場所を訪れ、ドキュメンタリーフィルムを提案、占拠する人々と共に制作したことが、現在のMAAM(Museo dell’Altro e dell’Altrove di Metropoliz)誕生の基盤になりました。
*ドキュメンタリー「Space Metropoliz」トレイラー
「この地上に安心して暮らせる場所がないなら、いっそみんなで月へ行ってしまおう。いや、この場所に月を作ってしまおうじゃないか」という、アイデアからはじまったこのドキュメンタリーの制作のプロセスは、占拠者を巻き込むだけでなく、多くの大学の研究者、哲学者、宇宙物理学者、パフォーマー、アーティスト、カメラマン、建築家、作家をこのスペースに呼び寄せることになりました。占拠」されたこの場所を、いろいろな国から訪れた人々が暮らす、世界の循環から捨て去られたひとつの都市と見なし、その場所をアートを駆使して、国境も所有者もいない、人類すべての財産である「月」に変えてしまおう、この世の異次元を構築しよう、というシンボリックで実験的な試みでした。発案者のファブリッツィオ・ボーニとジョルジョ・デ・フィニスは次のように語っています。
「僕らが今から語ろうとしているのは、ひとつのSFストーリー、と同時に共生の物語、政治的なムーブメントの共有なんだ。ひとつの『占拠』、そしてアートによる『挑発』、宇宙船と美術館の物語でもある」「僕たちには、ここに住んでいるメトリポリタンたちを守らなければならない義務がある。地上に住む人々は、彼らが世界のシステムの外側にあるこの場所でも、幸せに暮らせることを理解しようとしない。結局のところ、皆が彼らを怖がっている。いや、(その自由さと向こう見ずに)嫉妬しているのかもしれない。でも、彼らは外界と遮断されることに、すっかり疲れてしまったんだ。そこで僕たちは、ある天気のよい日に、そのバリケートを壊して、社会の周縁で暮らす家のない人々、仕事のない人々の健康や権利をまったく無視し続け、まるで脱水機のようにぐるぐる巡る都市から逃げ出すことにした。彼らの考えはとてもシンプルなもので、ロケットを造って月へ逃げようというものだった」「これが僕たちが考えたこのドキュメンタリーのストーリーの要旨。僕らはそのコンテクストのなかで、プレネスティーナ通り913番地に存在する、この『Comunità meticciaーまぜこぜコミュニティ』を語ろうと思ったんだ」
「月というのは、まだ人類に荒らされていない白い紙のようなものだからね。そこで僕らは、哲学者、宇宙物理学者、宇宙飛行士、UFO研究家、ラディカルな建築家、10人ほどのアーティストたちに声をかけた。2012年、ウォール・ストリートが占拠された年のことだよ」「日々の暮らしが困難に満ちたものだとしても、メトロポリツの住民たちは、僕らのちょっとした『挑発』に力強く応え、いっしょに空想を巡らせて、石油タンクで天体望遠鏡を作り、いつでも発射できるロケットをも創造した。なにより素晴らしい発見は、アートが世界を変えることができること、夢や想像は、みなが共有できる、誰をも排斥しないかけがえのないものであること、あらゆるすべてのものが、解放と変革のシンボルになりうる、ということを実感できたことだったんだ」
わたしがローマにおける占拠で、毎回感嘆するのは、仕事がなく、家を失い、市から何の保障もなく、社会から排斥されようとする人々を「こんなことはおかしいだろう。市がやらないのであれば、僕らが動くしかあるまい」とボランティアのグループが、いつのまにか自然に現れることです。そしてそのサポートは少しも押しつけがましくなく、困窮した人々の状況をdrammatizzare(悲劇的に誇張)せず、苦難を共有し、喜びを分かち合い、助け合いながら、よりよい生活をめざして「闘おう」とする雰囲気が形成される。また、占拠スペースでは、イタリア人をはじめさまざまな国籍を持つ人々が、文化、精神性の違いから起こる、ちょっとした諍いを経験しながらも、やがてそれぞれが理解を深め合い、少しづつバランスを見つけていくのだそうです。
したがってMAAMの人々は、互いが互いの文化をリスペクトしあい、大きな喧嘩もなく、ピースフルに暮らしています。実際、スペースで遊ぶロムやペルー、アフリカ人の子供たちは元気すぎるほど元気、屈託なく、物怖じもせず、アフリカ人のおばさんは、そのスペースを何度か訪れたわたしを「また来たのかい」と抱擁する、という具合です。
「アーティストからは2倍の値段をとります」と各国の言語で書かれたプレート(このプレートもまた作品)が壁に並べられた食堂で、料理をつくるペルーの人々も、客にちょっとした冗談を連発し、リラックスして呑気です。もちろん、彼らは互いに仲良くしなければ、他に行く場所がないわけですから、国境、民族、文化、宗教を超えた「友愛」が義務でもある。しかし、よく考えると、地球上に住むわれわれも、いまのところ他に行く場所がないわけですから、70億人を突破した人口と環境破壊、しかも第3次世界戦争と、切羽詰まったこの時代、実のところ、互いの「友愛」しか生き抜く方法がないのではないか、とも考えます。