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ローマの刑務所レビッビア、塀の中のシェークスピア:ジャンカルロ・ カポッツォーリ

Cultura Deep Roma Intervista Teatro

今回の「オセロ」で表現したかったのは?

まず、受刑者が受刑者自身のリアリティを演じることだね。受刑者のリアリティとオセロのリアリティを同時に、つまり混然と描きたかった。

デズデーモナを演じたマリア・ルードヴィカ・ヴェントーラは、トルヴェルガータ大学の僕の教え子なんだが、彼女は刑務所で行われるワークショップでも、とても上手に振舞ってくれたよ。というのも、男性受刑者ばかりのワークショップに女性が関わることなかなか難しいことだからね。つまり受刑者たちは、すべてのプライベートな人間関係を断たれていて、長い刑期の間、もちろん女性と知り合う機会もなく、それが大きなフラストレーションになっているのは事実なんだ。未来の見通せない恋愛感情ほど残酷なものはないじゃないか。しかしルードヴィカは、節度ある清廉な女性で、純粋に彼らとの芝居に取り組んでくれた。彼女のおかげで、このプロジェクトは彼らがいままで知らなかったタイプの女性と関わる機会にもなったし、彼らにとって、それは貴重な経験になったと思う。

「君は綺麗な女の子だけど、君にどのように接していいかわからない」それが受刑者たちの最初の反応だったよ。彼女は20歳の美貌を持つ女性で、もちろん彼女は受刑者である彼らと接することに、はじめはおおいに躊躇し、と同時に彼らも同じように躊躇した。しかし彼女はワークショップのたびによく勉強し、準備も怠らず、いつも完璧な状態で芝居に臨んだから、やがてオセロもイアーゴーも、みな彼女に引きずられるように芝居に入っていくことができたんだ。彼女の存在が、彼らに人間としても、アーティスティックにも大きなインパクト、刺激を与えたんだと思う。

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デズデーモナを演じたトルヴェルガータの大学生、マリア・ルドヴィカ・ヴェントゥーラ。

もちろん、僕が作っているのはひとつの芝居、作品だが、と同時に、そのプロセスは受刑者たちの更生に役立つ社会教育の一環でなければならない(受刑者の社会教育は、イタリアの憲法にl’articolo 27として定められています)。彼らは芝居を通じて、僕たちとともに人生を再考しなければならないんだ。刑務所はただ罪を償うだけではなく、社会的な更生をする場でなければならないのだからね。実のことをいえば、僕は「刑務所廃止論」、「刑務所再考」の議論をも、しっかり考えなければならないとも思っている。罪を償い、彼らを更生させるために刑務所での服役以外に、他のアルタナティブな方法はないのか、とね。

最近、受刑者の権利を監視するインスティチュートに長く関わった終身上院議員のステファノ・アナスタシアらが、大学のリサーチャーらとともに重要な議論をする本が出版されたんだけれどね。その本では、刑務所の劣悪な環境についてはもちろん、刑務所そのものに存在価値があるのか、という疑問、そして自宅での服役の可能性をも含め、刑務所のその先に存在する犯罪の循環について議論している。というのも実際のところ、刑務所というのは、それほど更生の役には立っていないからなんだ。たとえば5年の刑期を終えた人物が、出所したのち普通に社会生活を送る努力をするか、というと残念ながら、必ずしもそうはならない。むしろ以前より素行が悪化し、再び犯罪を犯して刑務所へ戻る、ということが繰り返されるだけだ。

イタリアは、大学を卒業してもなかなか職が見つからないという、失業率が深刻な状況なんだよ。教育を受ける機会もなく、読み書きも満足にできない、刑務所で服役した経験のある人物が、いったいどんな仕事を見つけたらいいんだ。さらに、支えてくれる家族の存在がなければ、彼らは生き延びることは不可能じゃないか。いいかい? ここは重要なところだが、僕は犯罪を正当化しているわけじゃないよ。彼らのリアリティを話している。彼らのほとんどが、中心街とは貧富の格差が激しい郊外で生まれ育っているんだ。彼らが犯罪を犯す前に、彼らの生活、教育を社会的に保障することができたなら、犯罪は起こらなかったかもしれない。彼らは教育を受けることなく、生き延びるための技術を得ることもできず成長しなければならなかったという背景があることを、忘れてはいけない。

その彼らが自分たちの存在を、社会に誇示する方法は「消費」行動だけだったんだ。どういう意味か、というと、恵まれない環境に生まれ育ち、物心がついたころには、高額な服を着て、たとえばポルシェやフェラーリ、マセラッティを乗り回し、札びらを切る生活こそが、自分の存在価値を社会に誇示するための唯一の方法だ、という究極のマテリアリズムに陥った。そしてその目的のために犯罪を繰り返しても、まったく罪悪感を感じず、フェラーリを所有するための巨額の金を、どんな手段を使ってでも得ることだけが目的、それこそが「自己実現」だという価値観を持つに至る。少し前に犯罪組織に属して3件の殺人を犯した受刑者にインタビューをしたんだが、犯罪に手を染めたそもそものきっかけは「単純に高い服が欲しかっただけだ」と言うんだよ。高級車を乗り回していると、価値ある人間になったような気がした、とも彼は言っていた。

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刑務所での演劇プロジェクトに参加したのはいつごろからなんですか?

Cesare deve morireー「塀の中のジュリアス・シーザー」が制作されるずっと以前から、レビッビアでは演劇のワークショップが行われていてね。15年ほど前に、僕はあるカンパニーの一員として受刑者との芝居づくりに参加していた経験があるんだ。そのころの僕はかなり活発に政治活動をしていて、刑務所の受刑者との演劇プロジェクトは、政治行動のひとつとしての取り組みだった。もちろんそのころの僕は若く、演劇に関する経験は、それほど積んではいなかったけれど、情熱を持って取り組んでいたよ。4〜5年の間は続けたかな。この経験のあと大学を卒業し、ベルリンに渡って、しばらくイタリアを離れた時期もある。今回のレビッビアでの演劇プロジェクトは、ベルリンから再びローマに戻ってから始めたんだ。

刑務所で服役するということは、哲学的には、”esseresenzatempo”(時間なき存在)と定義できるかもしれない。街から遠く離れた場所に、完全に外界との接触を断たれて長期に渡り、自由を剥奪され隔離されることは、ただ長い時間を過ぎるのを待つだけの、想像を絶する過酷で恐ろしい人生だ。受刑者は過ちを犯したには違いないが、みな、われわれと同じ人間なんだからね。その、過ぎ去るだけの長い時間を生きながら、自分の人生を再考する機会がなければ、まったく何の意味もない時間を過ごすだけになってしまうじゃないか。そしてそれは同時に、彼らの犯した殺人や強盗という犯罪の犠牲者となってしまった人々にとっても、何の意味もない服役ということになる。

イタリアで受刑者として生きることが、荒廃した経験であることは間違いない。もちろんイタリアだけではなく、どこの国でも刑務所で服役するということは過酷な経験であるには違いないが、イタリアの刑務所の状況はかなり酷いものだ。たいていの刑務所は老朽化していて、あちらこちらが崩壊しつつあり、水漏れのために湿気はひどいし、その環境そのものが受刑者をさらに消沈させる。そんな環境で、まったく自由がなく、誰からも愛情を注がれることがない、ということはどれほど暗鬱なことか。

イタリアの刑務所の受刑者たちは、欧州で定められた、受刑者の権利としての4平方メートルのスペースに満たない3平方メートルしか与えられず、窒息しそうな状況だ。狭いスペースに大人が何人も同じ部屋に収監され、毎日臭気に満ちたスペースで過ごさなければならない状態で、人間の「尊厳」なんて、どこにあるんだ。僕はもちろん、刑務所が5つ星ホテルのような快適な場所になるべきだ、と言っているのではないんだよ。崩れかけネズミが走り回り酷い衛生状態で疫病が蔓延する場所での服役に問題があると言っているんだ。僕はそんな状況に目を瞑って、演劇だけを教えに行っているわけじゃない。受刑者たちの声を、真摯に聞きたいとも思っている。もちろんみんながみんなではないが、彼らのなかには、人間として素晴らしい、と思える人物もいるからね。最近出版した本は、その彼らの声を集めたものなんだよ。

今回、オセロを演じた人物は、今年50歳になるんだが素晴らしい感受性の持ち主でもあってね。長い刑期を過ごさなければならない状態にいて、もちろん、恩赦で刑期が短くなることはあるかもしれないが、それでも17、8年は服役しなければならないだろう。その彼から、今回の上演が終わって、非常に消沈している、という手紙が届いた。娑婆で僕らが普通に芝居に関わっていても、全力を出し切って上演が終わったあとには、空白が訪れるものなんだよ。それが刑務所なら、なおさらのことだと思う。写真なら写真が残るし、絵画なら絵画が残る。しかし芝居は上演したあと、残るのは空白だけ。それがライブというものだからね。芝居を巡って時間を生きること、その時間こそが作品であり、あとに何も残らないのが芝居の美しいところでもあるんだが。

えっと・・・・。これがオセロを演じた人物の手紙なんだけれどね。ちょっと読んでみるよ。まず、彼はデズデーモナを演じたルドヴィカについては、彼はこう書いている。

「ルドヴィカと演じることは、僕にとってとても難しかった。彼女の恥じらい、気品、そしてプロフェッナルな振る舞い。ほとんど教育を受けていない僕は、彼女にどんな風に接していいか、困惑したよ。もし10点満点で僕の演技を採点するなら、彼女の芝居の相手としては3点がもらえればいいほうだと思っている」

また、彼が消沈している、という手紙をくれたときに、芝居が終わったあとは、誰でも消沈するものさ、それが普通だよ、という返事を送ったときにはこんな手紙をくれたんだ。

「ジャンカルロ、君の手紙を読んでから、少し元気になったよ。僕はとても繊細で感情的な人間だから、暗く、陰鬱な刑務所の空気に魂が大きな影響を受けてしまうんだ。しかし君や君たちとの出会い、微笑みや豊かさ、そして君たちの謙虚さは、僕にとって決して消えることのない光になった。何より、君たちがワークショップを続けていくつもりだということを聞いて嬉しかった。重要なのは再び君たちと会うこと。そしていろいろな話をすることなんだ」

こんな風に、彼らとは本当にいい関係を築くことができた。彼らはもちろん受刑者だし、訪ねてきてくれる人もそう多くないし、手紙すらなかなか届かない。確かに存在するというのに、社会から忘れられている存在であるということの辛さは、並大抵のことではない。その彼らが僕に手紙をくれる、ということが、とても大切なことだと思っている。芝居を通じて、人間同士のコミュケーション、友情、共感が生まれることは何より嬉しいことだよ。お互いにバリアを取り去り、平等な立場で、ひとり対ひとりの人間同士の付き合いから、多く学ぶことがある。彼らのことを「受刑者」とは、だから僕はなるべく呼びたくないんだ。

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まず、僕が彼らから学んだ最も素晴らしいことはシンプルであること。彼らは自分をよく見せようと小細工をしないから、生の人間性が押し寄せてくる。そりゃそうだよね。殺人や強盗で受刑しているわけだから、いまさら他人に「善い人間」と思われる必要などない。だから彼らは非常に素直に、まっすぐに文学や芝居、そして哲学の世界にリアリティとして入り込むことができ、それらを通じて、自分の存在について熟考することができるんだ。はじめは受け入れることが困難でも、やがてそれら文化を通じて、自分の別の可能性を探ることができるという事実に理解を示すようになる。さらに僕らがワークショップで定期的に刑務所を訪れることは、彼らにとっては幸運かもしれないね。僕らが話す外の世界の話を聞くことで、彼ら自身が外の世界を訪れることができるわけだし。僕らという外の世界と接することで、再び自由な世界へ戻りたい、そして犯罪とは違う世界で生きていきたいという、彼らの希求になれば嬉しいよ。

哲学を学んだ、とおっしゃいましたが、具体的には?

大学ではハイデッガーを研究した。だから東洋哲学、東洋の文化にもおおいに興味があるんだよ。ハイデッガーを研究したのは、彼の哲学を通して「アートとは何か」という命題を深めていきたいと考えたのが動機。卒論は『Abitare poetico e la questione di essere di Martin Heidegger(詩的ー芸術的に生きることとマーチン・ハイデッガーの存在意義)というものだった。

今日の演劇の問題、芸術、文化の深刻な問題は、すべてが文化産業に直結しているということなんだよ。つまり商業的でなければ芝居は成立しない、と一般に考えられていることだ。しかしね、本来演劇は、産業と同居してはならないものだ。イオネスコの本を読み、ブレヒトの作品を観て、グロトフスキーのマニュアルを学ぶことは、感受性を深めること以外の何物でもなく、商業主義とは何ら関係ない。もし、産業として演劇に関わらなければならないとしたら、僕はとっくに演劇を教えることをやめているよ。

だいたい今回の「オセロ」でかかった予算がいくらだか知っているかい? たったの100ユーロ(!)なんだよ。しかも芝居に関わった僕らはみな、ボランティアだ。刑務所という場所で人が集まって、たったの100ユーロしか予算を使わなくても、人を感動させる芝居は成立する。いや、そうあることこそが芝居の基本だとも思っている。僕が刑務所での演劇プロジェクトを発展させたいのは、それがアンチ・マーケットのシンボルともなるからだ。世界から隔離された刑務所のなか、商業的要素がまったくない状況で素晴らしい芝居が実現できる。これは非常にラディカルなことではないかな。

僕はアートが人の「魂」を変えると信じているんだ。若い頃、ピーター・ブルックの芝居を観たとき、自分の内部で何かが大きく変わるのを感じた。そしてその感触は、劇場を出たあとも、ずっと残り続けたままだ。一方、商業的な目的のみで興行される芝居を観ても、僕には何も得ることがない。近代の名優カルメロ・ベーネだって「コマーシャルなつまらない芝居を観るより、サッカーの試合を観る方が断然面白い」と言っていたんだ。「魂」のない芝居は無意味だよ。

芝居で役者をシーンシーンに配することは、肉体を配するということだからね。つまりフィジカルに、肉体で時間を生きるということだが、刑務所で演る芝居は、さらに肉体そのものがフォンダメンタルな要素となる。彼らがもう一度、自分の肉体というものを芝居を通して再確認するということだ。つまり、芝居をすることで彼らは肉体の自由、感情の迸りの自由を取り戻すんだ。また、ほかの人間とフィジカルに、肉体で、感情でぶつかりあい、リレーションシップとは何なのかを再確認することもできる。

刑務所で芝居をする、ということの意義はここにある。これは演劇だけでできることだよ。

※文中、芝居のシーンはGerald Bruneau、Mia Murgese両氏による写真を掲載させていただきました。

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