今年2024年4月、カルラ・アッカルディ(1924~2014)の100点にのぼる作品をはじめてライブで体験し、やはりアート作品はこうして体感しなければ分からない、と改めて痛感しました。戦後のイタリアにおいて、最も重要なアーティストのひとりとして、世界でも高く評価される抽象画家カルラ・アッカルディの作品は、ニューヨークのMOMA、パリのポンピドゥー・センター、プラダ財団をはじめ、イタリア各地の美術館で観ることができます。しかし画家の生誕100年を記念して開催された、ローマの「パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ(ローマ市立美術館)」の展覧会ほど充実したイベントに出会う機会はありませんでした。西洋美術の長い歴史に裏付けられた男性優位システムで構成された現代美術の世界を、力強く自由に、そして自信に満ちた表現で疾走し、女性アーティストのみならず、現代の女性たちのロールモデルともなった、アッカルディの世界を彷徨いたいと思います。
アッカルディというアーティスト
アッカルディの作品群と対峙して抱いた最初の印象は、「自由な生命力」とも呼べる、のびのびとした躍動感でしょうか。ひとつひとつの作品が、ユニークに、賑やかに自己主張して、その有り様はまるで音楽のようでもあり、作品に囲まれていることが心地よくもある。長い時間観ているうちに、色彩が発する鮮やかな光と、静かな影が形成する有機的なコントラストのせいで、作品そのものが常に動いているような不思議な錯覚を覚えました。
基本的に、わたし自身は「抽象芸術」と呼ばれる作品群が好きです。というのも、その作品の持つ背景を知らずとも、表現される形状の面白さ、色と形の調和、あるいは不調和、筆のタッチや掠れ、色彩の微妙なグラデーションを体感するだけで、なんとなくその作品の世界に入り込むことができる、と思えるからです。
もちろん、作品が制作された時代背景やコンセプトを理解することで、作品とより一層親密な関係を築くことも、作品に親しむ大切なプロセスではありますが、「抽象芸術」はまず直感で、「その世界に、飛び込めることができるかどうか」、が鍵だと個人的には思っています。ですから相性というものが重要でもあり、どんなに有名でも、商業的に成功していても、どうにも受け入れられない、高圧的なエネルギーを放つ作品が存在するのはいたしかたないことです。
そういうわけで、これから「ローマ市立美術館」で開かれたレトロスペクティブに沿って、アッカルディが歩んだ90年を紐解いていきたいと思いますが、カルラ・アッカルディというアーティストが、「抽象画家」としても、「女性画家」としても、イタリア芸術界のみならず、国際的にも高い評価を受ける、重要なアーティストのひとりだということを、まず確認しておきたいと思います。
また本来、現実世界同様、表現の世界においても、女性、男性という性別が評価を左右すべきではない、と個人的には強く認識しています。しかしながら、芸術を取り巻く社会がいまだに家父長制に基づく男性優位社会だという現実をもまた認識しているため、あえて「女性画家」という言葉を使うことにしました。
では、そもそもカルラ・アッカルディとはどのようなアーティストだったのか。
その答えとしては、トニ・マライーニ(美術評論家。フォスコ・マライーニの次女、ダーチャ・マライーニの妹)が書いた1972年の評論が、アッカルディが生涯貫いた姿勢を的確に言い当てているように思えます。ちなみに1972年のイタリアといえば、『鉛の時代』に突入し、流血の大規模爆破事件の連続と大混乱に、やがて市民戦争にまで発展する「革命」の機運が、若者たちの間に高まりはじめた頃でした。
と同時に、70年代のイタリアの現代アート界では、「革命はわれわれの手から!」とのスローガンとともに、ニューヨーク発の「コンセプチュアル・アート」に続き、美術評論家ボニート・オリーヴァが核となった新しい表現の潮流である「トランス・アヴァングァルディア」、ミケランジェロ・ピストレット、ヤニス・クネリスなどが中心となった「アルテ・ポーヴェラ」が次々と生まれ、それらが相互に影響し合い増幅する、革新のエネルギーに溢れる時代を迎えていました。たとえば以前の項で触れたジーノ・デ・ドミニチスも、この時代にいちはやく脚光を浴びています。
その活気に満ち溢れる70年代の美術界で、すでに国際的名声を得ていたアッカルディはといえば、美術評論家のカルラ・ロンツィ、作家のエヴィオラ・バノッティとともに、イタリアにおける最も初期のフェミニスト・グループのひとつである「Rivolta Femminile(リヴォルタ・フェミニーレー女性の反乱)」を立ち上げています(後述)。
「(アッカルディ)は、今日のほとんどの西洋のアーティストとは一線を画し、キャリアに執着したことがなく、文化的な思索やスターダムには興味がない。もし、彼女が国際的なアート界の商業政治的な不文律を尊重していたなら、もっと大きな名声を得ていたかもしれないが、そうしなくとも現在のキャリアにまで到達したのは、彼女の基本的な勤勉さと忍耐の賜物と言えるだろう」
「彼女は女性として、またシチリア出身者として、個人としての自分を実現するために、二重のハンディキャップに直面してきた」「個人的、というのは、絵画に人生を捧げてきたアッカルディにとって、あくまでも絵画はアイデンティティを探求する手法であり、理想的な条件の中での単なる特権的な美的活動ではないのだ」
「(アッカルディの作品は)社会的、歴史的限界を意識した個人の経験を表現した具体的なアプローチであり、アッカルディは普遍的な作品、つまりどんな状況であっても、誰にとっても等しく重要な作品を発表するつもりはない。この画家は現実主義者であるため、(普遍を理想とする芸術における)標語を、なによりも家父長的ブルジョア文化の幻想であると定義している」「アッカルディは自分の作品が文化や時代によって条件づけられること知っており、作品をモデルや例として提示したり、神秘化するつもりはない」
トニ・マライーニはこの評論で、アッカルディの作品に対峙する際の顕著なアプローチは、西洋美術における伝統として、すでに語り尽くされた「芸術の普遍性」、つまり「アーティストの霊感が導いた創造から、イデア(絶対美)に限りなく近づく」、いわゆるプラトン的なアプローチを拒絶しており、あくまでも「個人としての自分自身の実現」だとしています。この姿勢をボニート・オリーヴァは「差異とアイデンティティ」と表現していますが、確かに、アッカルディの作品と対峙すると、「普遍」という形而上学的な重い言葉からはひたすら遠い、力強くも潔く、軽快なエネルギーを体感します。つまりわれわれ鑑賞者は、そこにアッカルディ本人のエネルギーを見出すわけです。
また、「女性として、シチリア出身者として」二重のハンディキャップに直面してきた、とのマライーニの一文からは、当時のイタリアでは、経済格差から軽々しく扱われるうえ、そもそも女性が抑圧される傾向があったシチリアの、男性優位のマチズムな伝統から飛び出しながら、さらに男性優位社会である現代アート界に飛び込んだ、アッカルディのパワフルな逞しさが感じられました。
ところで、時代時代で表現を大きく変化させた、60年にわたるアッカルディの芸術活動を貫く作風をざっくりまとめるなら、⚫︎具象主義にひたすら接近する抽象主義。⚫︎キャンバスに描かれた形、色彩が意図的に本質的なものへと還元されると同時に、寓意的、物語的な意味づけが完全に排除されている。また、連続的でない幾何学的図式もひとつの特徴。⚫︎表現された要素はリアリティを抽象化するものではなく、特定のメッセージの手段でもない。単に、あるがままをあるがままに解釈されるべき記号が表現されている、ということになるでしょうか。
なお、アッカルディの作品は、検索(Carla Accardi opere immagini)にかけると、多少無関係な画像も混じりますが、かなりの数の作品を観ることができます。
1924年、シチリア、トラーパニに生まれたカルラ・アッカルディ(カロリーナ・アッカルディ)は、パレルモとフィレンツェの美術アカデミーを修了し、第二次世界大戦直後の1946年、のちに伴侶となり、いずれ離別することにもなる、画家アントニオ・サンフィリッポと共にローマに居を移しています。トラーパニといえば、マフィアが跋扈することで有名ですが、紀元前にはフェニキア人が往来し、塩田をはじめとする文明をもたらした、どこまでも透明な地中海に陽光瞬く、潤沢な自然に恵まれた地域です。
また残念なことに、何かといえばマフィアと結びつけられることが多い戦後のシチリアは、そもそも魔法的、と呼んでも差し支えない複雑な歴史、重厚な異文化が混在する土地でもあり、ルイジ・ピランデッロ、ジュゼッペ・トマーシ・ディ・ランペドゥーサ、そしてレオナルド・シャーシャなど、偉大な文学者たちを輩出した島でもあります。
そのシチリア、トラーパニの裕福な家庭に生まれたアッカルディには、作家エヴィ・ザンベリーニ・プッチ(1924~2016:日本の生け花のエクスパート)、政治家エルダ・プッチ(1928~2005:パレルモ市長、欧州議会議員候補)という、その時代、シチリアではきわめて珍しい、自らの道を突き進み、男性中心の分野で頭角を現した従姉妹たちがいました。つまり、アッカルディが生涯を通して、後年の女性たちの解放に貢献した芸術活動を継続した背景には、「女性の進出を阻む」伝統を持たない一族の家風のなか、従姉妹たちと相互に影響しあって成長してきたからではないのか、と推測する次第です。
なお、展覧会に展示されていた、アッカルディが「抽象」を自らの表現として選択する以前の作品、おそらくパレルモの芸術アカデミー時代の筆と思われる自画像は、あらゆる優れた抽象画家同様、きわめて精巧なデッサンを基礎に持つ写実的な具象画であることが印象的です。
さて、ローマに移動したアッカルディとサンフィリッポは、当時芸術家、作家、詩人、映画監督、演劇人たちの一種の文化サロンであった「オステリア・フラテッリ・メンギ」に足繁く通うようになりました。
フラミニオ通り57番地にあったそのオステリアは、別名「画家たちのオステリア」とも呼ばれ、集まっていたアーティストたちはといえば、たとえばパブロ・ピカソ、アンナ・マンニャーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、イタロ・カルヴィーノ、アルベルト・モラーヴィアなど、(ピカソを除いて)イタリアの一時代を築いた錚々たる表現者たちの名前が並びます。
この、いかにも古き良き時代のローマらしい、有名無名の芸術家たちが交流するオステリアには、さまざまなエピソードが残っていて、たとえばイタロ・カルヴィーノは、その店でアメリカ人画家サルヴァトーレ・スカルピッタが子供の頃の胡椒の木の上での冒険を話すのを聴きながら、代表作「木のぼり男爵」を書くことを決心したそうです(イタリア語版Wikipedia)。
現在でも、このオステリアは「Caffè dei pittori(画家たちのカフェ)」として継続していますが、残念ながら、もはや往年の面影は消え失せてしまいました。かつて、わたしが訪れた頃のローマには、このような、有名無名の芸術家たちがたむろする、街角のちいさなエノテカや古いバールがいくつか存在していましたが、時を経るうちにひとつ、ふたつと消え、その代わりに洒落たカフェやオーガニックレストランが街角を席巻するようになったことは、寂しい現象でもあります。
ともあれ、サンフィリッポとともにローマに居を移したこの1946年が、アーティストとしてのアッカルディにとって、新しい世界と出会う最も重要な年になったわけです。
▶︎「フォルマ1」とタピエとの出会い