ベルリン映画祭金熊賞「映画」海は燃えている: Fuocoammare

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シーンひとつひとつにちりばめられた暗示

ドキュメンタリーは、サムエーレという、子供と思春期の間を揺れ動く、12歳の少年1年間の成長を軸に、その家族、島のラジオDJピッポなど島民の日常と、「難民船」の現実とが出会うことなく並行に語られていきます。その並行線のいずれにも関わる、島の診療所の医師であるピエトロ・バルトロ医師が象徴的に存在するわけですが、この3つの方向が、ドキュメンタリーの原点です。

何よりサムエーレというストーリーを引っ張る、おしゃべりで腕白、それでいて繊細な感受性を持つ、まさに天才というべき存在感を放つ少年と、彼を取り巻く家族の生活に、島の時間と空気が集約されている。ロージ監督はサムエーレに会って5分のうちに、この少年は欠かせない、と直感したそうですが、媚びも作為もまったくないこの少年の表情に、島の魂が映し出されるかのようです。

また、漁師という何ヶ月も海で過ごさなければならない退屈な人生、何ひとつ楽しかったことはない、と愁いをたたえた視線で語るサムエーレの叔父である漁師が、舵をとる際の威厳には圧倒もされます。淡々と料理をする祖母、ウニ漁のため海に潜る祖父、島のラジオ曲のDJ ピッポ。島の暮らしにはセンセーショナルで刺激的な空気は少しもなく、現代を物語るハイパーな要素も何ひとつ見当たりません。ただ、ゆるやかで朴訥とした、しかし幾分メランコリックでもある空気が流れるだけです。

「実際、サムエーレは非常に強力なメタファーになったと思うよ。たくましさと同時に感受性が鋭く、脆い人生の一面を見せてくれる。さらに彼は、しあわせな未来を約束されていない、あるいは海の中に沈んでしまう、すべての難民の子供たちのメタファーとなっているかもしれない。サムエーレの大人になる少し前のもやもやした心配、せつない思いは、現実を前にした僕らのもやもやした心配であり、せつない思いでもあるじゃないか」(インテルナチョナーレ誌)ロージはサムエーレについて、そうコメントしています。

また、このドキュメンタリーで強く印象に残ったのは、余分な音楽、効果音が使われていないことです。島のDJピッポがリクエストに応えてラジオで流すテーマソング『Fuocoammare』と島民のリクエストによる古い楽曲、そして難民救援センターでナイジェリアの人々が絞り出すように身体で歌うゴスペル/ラップ以外、映像に流れた音楽を思い出せない。波の音、船のエンジン音、あるいは風の音、小鳥の鳴く声、桟橋が軋む音をバックに繰り広げられる島の暮らし、やがて決定的な絶望を語る地中海のシーンへと並列に並んでいる。その、ひとコマひとコマのシーンが多くの暗示を含み、ある意味アフリカ的な美意識と言ってもいい、ロージ独特の光を抑えた、予想外のアングルで切り取られた映像で、強烈なインパクトを残しながらドキュメンタリーは進んでいきます。

*Fuocoammare のクリップから。

そういえばSacroGRAを観た際、ロージの視線で切り取られた映像はどこかアフリカ的だ、と感じましたが、彼自身が実際、アフリカのエリトレア出身であるということを、 Fuocoammareを観たあとに知りました。彼が生まれたエリトレアはアフリカの角と呼ばれる地域の、紅海に面した国。第2次世界大戦前はイタリアの植民地でもあり、ムッソリーニがそこにPiccola Roma(第2のちいさいローマ)を建造しようと計画し、首都アスマラの当時の人口の60%は、イタリア人入植者だったそうです。

ロージが生まれたのは大戦後、イギリスに占領されたエリトレアの独立戦争の最中にあたります。のちニューヨークで学び、インドをはじめ世界各地を旅して実験的なドキュメンタリーを撮り続けてはいても、この監督の独特な視線の原風景にはアフリカがあるのかもしれない、そしてそれはあながち見当違いではない、ともわたしは考えます。ランペドゥーサにはエリトレアからの移民の人々も多くやってきており、Fuocoammareにもエリトレアの国名、人々の映像が何度か強調されています。

またランペドゥーサは、地質学的には、パンテッレリア島と同じく、アフリカに属する島でもあります。ただ、緑に溢れ、モスカート・ワインなどの特産で潤い、著名人たちの夏の広大な別荘が各所にある、リッチに発展したパンテッレリアとは大きく異なり、ランペドゥーサには欧州の果てがアフリカと融合し、風景と感性が損なわれることなく漂っているのかもしれません。イタリア語で字幕が出るほどの強い方言に、共に映画を観たローマの若い世代に尋ねてみると「どこか遠い『外国』の暮らしのようだと感じる」ということでした。

今起こっている悲劇を証言する

「日常的にテレビニュース、あるいはドキュメンタリーフィルムから爆弾のように流れてくるイメージを払拭する必要があった。別の視点から『現実』を語る必要があったんだ。何隻の難民船が上陸し、何人の犠牲者が出て、何人の難民が来たかなんて、『数』では現実は語れないよ。フィルムの中でマリア(サムエーレの祖母)が料理をしている最中、『250人が乗船した船が難破して多くの犠牲者を出した』というラジオを聴きながら『神のご加護がありますように(宗教的な成句で)』と呟くシーンがあるが、これが僕らが現実に対峙した時の日常の反応だ。しかしそう呟くだけで、僕らは何もしないじゃないか。このフィルムの重要な点は、今起こっている現実の悲劇の証言であるということだと思う。皆が黙ったままであれば、欧州は何の解決策も提示しない。数え切れないほどの人々が海で命を落としているのに、誰も何もしないんだ」

「岸からたった7kmしか離れていない場所で何千という子供たちが命を落としているんだよ。何より、地中海を墓場にしてはいけない、と僕は言いたいんだ。また、バリアを張り巡らすのはまったくの無駄だとも言いたい。歴史上、『壁』というものが永遠に存在できた試しはなく、絶望と死から逃れようとしている人々には、ここに逃げてくる以外には他に選択の余地はないんだからね。ある難民のひとりがこう言ったのを聞いたことがある。『海を渡ると、命を落とすかもしれない。しかし(かもしれない)という一縷の望みがあるなら、海を渡るしか、他に選択の余地がないんだ』とね」(ロージ談 /ラ・レプッブリカ紙)

「政治家たちはこの非常事態に一刻も早く対応しなければならない。 最近国連が開いたパリでのサミットのような会議を開くべきだとも僕は考えている。難民の人々を助けるために、アフリカと欧州の間で橋渡しをしている人々は、中東、アフリカの戦争が一刻も早く終わって欲しいと毎日心を痛め、祈っているんだ。さもなくば、難民はどんどん増え、はじめは数えるほどだったのが3億人にまで膨れ上がるかもしれない」(ロージ談/パノラマ誌)

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島で撮影中のロージ監督。ANSA通信より。

1年の間、島に滞在して、島民たちと共に暮らしながら撮影したロージ同様、エディターのジャコポ・クゥアドリもまた、ベルリン映画祭の直前まで、映画の全編を島で編集したそうです。編集までのすべてを島で制作することが、何より大切な過程であったとロージは強調しています。クゥアドリも島の漁師たちと長い時間をかけて友人となり、サムエーレの家の夕飯に招かれ、島の空気を深く吸い込んでいったと言います。はじめからまったくシナリオのないドキュメンタリーは、ただ待ちながら偶然と出会うことが勝負です。長い間、何も起こることがない日が続くと、島でロージの助監督を務めたペッピーノが車でやってきて、「エピソードを探しに行こう」とロージを島じゅうのあちらこちらに連れていったそうです。

また、ドキュメンタリーのいくつかの決め手となるシーンは、ベルリン映画祭の数週間前、きわどい期間に撮影されています。 たとえば映画のタイトルとなる Fuocoammareー第2次世界大戦中、港に停泊していたイタリア軍のマッダレーナ号が連合軍に爆撃され、真っ暗闇の深夜だというのに、海が真っ赤に燃え上がった、と島民に語りつがれる逸話をサムエーレの祖母が語るシーンもそのうちのひとつで、それまで別のタイトルを考えていたロージは、そのシーンに出会った瞬間に、Fuocoammareをタイトルにすることを即決した、と語っています。

「3週間しかランペドゥーサに滞在していなかったとしたら、こんなドキュメンタリーは作れなかったよ。Fuocoammareという映画は処女生殖、つまり映画そのものが自ら自分を生み出していったと言えるかもしれない。たったひとつのシーンもシナリオ通り、あるいは僕が思いついたというシーンがないんだ。すべてがカメラの前で偶然に起こったということは、素晴らしいことなんだよ。僕の映画はすべてリアリティから生まれているということだからね。僕はそれをドキュメンタリーの神性と呼ぶんだけれど、それはときどき、大変な贈り物をしてくれることがある」(ロージ談/インテルナチョナーレ誌)

映画のテーマソング『Fuocoammare』は、1943年の爆撃の歌を歌った原曲を残す音源が島になかったため、島の人々がうろ覚えに覚えていたメロディを島のミュージシャン、そしてラジオのDJでもあるピッポと仲間たちが再現したものです。

Fuoco a Mmare

 

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