『鉛の時代』の「占拠」から現代へ: ローマの心臓部、Spin Time Labsの場合

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こうして、ようやく建物内に入れてもらったのはいいのですが、地下に降り、占拠者たちのミーティングルームであろう、綺麗に片付いた、削ったばかりの木の匂いがするホールに行っても、電気は点いているのに、静まり返ったまま誰もいない。そうこうするうちに、この建造物のオーガナイザーのひとりらしき青年が、角材を肩に乗せて歩いてきたので、「すみません。パオローネはどこですか?」と聞いてみましたが、「どこだろう、今日は見てないなあ」とそのままスタスタ歩いていってしまいました。ミーティングホールの廊下を挟んだ向かい側、かなり本格的な木工工房があったので、そこを覗いてみても、やはりシーンと誰もいません。

小1時間、ミーティングルームに誰かが来るのを待っていましたが、結局その日はパオローネに会えず終い、とぼとぼと階段を上がり、まだ踊り場にいたアフリカ人の青年に「テコンドー」と挨拶をして帰宅するという結果に終わります。

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木工工房ではシンプルでも本格的な家具が作られる。職人さんの背後にある椅子も自家製。

さあここから、パオローネのインタビューが実現するまで、ちょっとした苦難が続きます。入り口にも慣れ、占拠者グループにも顔を覚えてもらって出入りするのは簡単になりましたが、スタッフのミーティングルームには、誰もいないか、あるいは大勢の人々が集まって喧々諤々会議が開かれているか、イベントの準備で大忙しかのいずれかで、やっと見つけたパオローネもあらゆる会議に常に駆り出され、忙しそうに建物内を移動、挨拶はできても、なかなかインタビューの時間がいただけないのです。

何度も足を運ぶうち、やがてパオローネも申し訳なさそうな顔をして「じゃあ、来週月曜6時に。ちょうど空いているはずだから」と約束してくれるのですが、やはり月曜の会議もなかなか終わらず、結局「悪い、来週に」ということになり、数ヶ月毎週その巨大建造物に通うことになりました。

しかしその数ヶ月は、わたしにとって、実は楽しくもあったのです。木工工房で手作りの家具を作るプロの職人技を見せてもらったり、イベントスペースの壁に映し出された映画『2001年 宇宙の旅』のリハーサルを観たり、ヘッドホンをした若者たちが4人集まり、暗闇のなか、コンピューターに向かって、黙々と作曲をしているのを眺めたり、また独自に社会活動をしている外部の社会福祉活動家たちのミーティングに出席して激論を聞いたり、いろいろ勉強になりました。なによりローマに、こんなにたくさんのボランティアが、社会を変えていこう、貧困をなくしていこう、移民の問題を解決しよう、とアンダーグラウンドに働いていることを知ることができたことは、新しい発見でした。

もちろん「占拠」は「違法」には違いなく、その方法論に賛否両論もあるでしょうが、実力行使という「違法」を冒してでも、困っている市民を助けよう、社会をよくしよう、と活動する人々のこのスピリットは、いったい何処から来ているのか、と考える日々でもありました。単純に過去、席捲した政治思想の流れだけがルーツとなっている、とは言えますまい。これはやはり、信仰の有無に関わらず、イタリアの庶民のメンタリティに深く根ざした「宗教性」に大きく関係しているのかもしれません。この、巨大建造物の「占拠」を主催するスタッフは、もちろんこの建造物に住んでいる人もいますが、基本、自らの住宅を確保するために、この建造物を占拠したわけではないのです。自宅から通いながら、巨大建造物の設備を少しづつ整え、掃除をし、住人たちのケアをしている人々が大勢います。

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Spin Time Labsの一画で、作曲中の若者たち。そのうちのひとりは、イタリアのポップ・ミュージック界で知れ渡った作曲家であることを、のちに知ることになりました。

そういうわけで、イタリア人だけではなく、移民、難民の人々をもたくさん抱えた「違法占拠』」スペースという、どこかあぶなさを醸すイメージとは裏腹に、内部は雑然とはしながらも明るい雰囲気です。ミーティングに集まる人々も、10代の学生から、退職した86歳の元大学教授まで、オールジェネレーションで、それぞれに違う分野で働いています。アーティスト、ミュージシャン、教員、ネットラジオの主催者、主要政党勤務の人々、労働組合、環境保護団体、他の文化的「占拠」グループなど多岐にわたり、たまに議論が白熱して緊迫ムードになることもありますが、通常はなごやかに進められます。

ミーティングルームの片隅に、ひっそりと座って、彼らの話を聞きながら、ここに集まる人々のほうが、国政や市政よりよほど真剣に社会問題を考え、世の中に貢献しているのではないか、と正直なところ、考えました。占拠スタッフの人々からも、何時行っても邪魔にもされず、居心地よく、自由にあちこちを歩き回って、議論を聞いて、今まで知らなかったローマの新しい宇宙に触れた次第です。

なお、この占拠グループは、最近ヴァチカンが会議に招き、協力を要請した「ブランドなんか、いらない」の著作で有名なナオミ・クラインにいちはやく注目、この、今世紀、「最も著名な」と形容されるカナダ新進女性知識人招いてアンチグローバリズム」をテーマにした大がかりな会議も開き、Webストリーミングでその様子を世界に向けて、配信もしています。

 

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Paoloneこと、Paolo Pellini氏

さて、ここからようやくパオローネ、Big Paoloのインタビューをはじめることにします。彼自身の社会活動家としてのストーリーには、イタリアの激動の70年代を知るための、非常に興味深い要素に満ちていて、『鉛の時代』の影響は、やはりこの場所にも色濃く息づいている、と考えたことを告白したいと思います。

『占拠』という社会政治活動に関わるきっかけを教えていただけますか?

僕は今年で55歳なんだけれどね(2015年当時)。僕らの年代の少年時代というのは、かなり若い頃から政治活動をはじめたものなんだよ。僕の場合、12、3歳から、自分の周囲を巡る社会問題興味を持つようになった。

僕が当時住んでいた場所は「Magliana(マリアーナ)」というところで、そうだよ、あのBanda della Magliana(バンダ・デッラ・マリアーナ)ーローマのローカルマフィアーの拠点として70~80年代一躍有名になった地域だ。

マリアーナというところはね、ローマのなかでも特殊な地域で、街全体社会問題蔓延していた。今で言えば、そうだな、 Tor Bella Monacaトル・ベッラ・モナカ:ローマ郊外で移民問題、ドラッグ、売春に絡む犯罪がたびたび起こる地域で、ローマの中で、最も治安が悪いと言われている地域のひとつ)のような地域かな。マリアーナはその時代、地域としては常に「格下」に見られていて、そこに住む人々も重要なローマ市民、とはみなされていなかった。特に70~80年代は、ローマのあらゆる社会問題、緊急に解決しなければならない社会問題がその地域集約されていたとも言えるね。

60年代ーローマではそれを「バラッコーポリ」と呼んでいたんだがーマリアーナはバラックが建ち並ぶ貧しい地域だったんだ。そのパラックには今のような外国人の移民ではなくイタリア国内の移民が住んでいたんだけれど、その大部分はイタリア北部に移民しようと南イタリアから北上してきた人々が、中継点である首都ローマにそのまま居ついたというケースが多かったよ。貧しさから逃れ、もっといい生活を送ることを夢見て、当時の南イタリアの人々イタリア国内だけではなく、フランスドイツへもずいぶん移民しているからね。60年代は、イタリア人が大挙して国内、国外に移民した最後の年代と言えるんだ。また、バラックに住んでいたのは移民だけではなく第2次世界戦争中空襲で家を失って流れてきた人々も多くいた。日本と同じようにイタリアも爆撃されたからね、焼け出された家族が大勢いたんだ。

そのバラックに住む人々のために、非常に巨大な公営住宅ーCasa popolareーが造られたのは70年代だけれど、空襲で家を失くした人々の「住宅」の問題が解決したのは、戦争が終わって25年以上も経ってからのことだった。いずれにしてもいろいろな形の貧困集約されていたマリアーナは、考えようによっては、新しい形の社会問題解決の場としての「実験的」な試みが行われていた、といえるかもしれないね。

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Magliana 70年代の様子 Roma sparitaより

ちょうどそのころ、少年だった僕は、世の中、つまり自分の周囲に山積みにある社会問題に嫌でも直面せざるをえなかった。地域の教会教区司祭の元通いはじめてからだね、自分を取り巻く環境、貧困の問題というものがどういう状態で、何が原因であるのか、明確理解するようにもなったのは。そのうち学校が終わると、友達と一緒に、自然と地域のPCI(『イタリア共産党』)のオフィスに出入りしはじめてね。あのころ、マリアーナで僕たち少年が集ることができる場所は教会、『イタリア共産党』のオフィス、近所のバールぐらいだったから。僕らはそのなかでも特に『イタリア共産党』へ通うことが多かったんだ。あのころ『共産党』は、マリアーナに強く根付いて、活発に活動していたんだよ。

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