マキシプロチェッソー大裁判
一斉に逮捕され、「バンカー」の檻に収監された大人数のマフィアの逮捕者が囲む法廷は、かつて類を見ない、ものものしい警戒と暴力的な緊張のなかで開かれることになりました。「そもそもマフィアなど存在しない」という言説がいまだ飛び交う時代、トンマーゾ・ブシェッタという大物ボスが、「コーザ・ノストラ」を内側から証言した事実から、もはや「マフィアは伝説」という言説が通用しなくなった歴史的な裁判です。
この裁判の様子を端的にまとめたRai(国営放送)のドキュメンタリーが、Youtubeにアップされていますが、映画「il traditore (シチリアーノ 裏切りの美学)」に描かれたシーンそのまま、狂気と緊張に満ちた光景が淡々と繰り広げられます。
なお、ファルコーネに「コーザ・ノストラ」の内情を(ほぼ)「洗いざらい話したブシェッタは、自分は決して「悔悛者ーil pentito」ではなく、「伝統的」な「コーザ・ノストラ」の一員であることに誇りを感じている、とし、明らかな証拠があるにも関わらず、麻薬ビジネスに手を染めたことはない、と「マキシ・プロチェッソ」でも断言しています。「伝統的」で「穏健(?)」な「コーザ・ノストラ」をコルレオーネが崩壊させた、すべてはコルレオーネの裏切りだ、と憤るブシェッタはしかし、ラ・バルベーラの殺し屋として何人もの生命を奪った人物です。
さて、このマキシプロチェッソのために用意された文書は、なんと750000ページに上ります。被告人475人(公判中に460人に減少)、そのうち207人が収監中、102人が逃亡、あるいは保釈中、自宅軟禁44人、市民による証人900人、カポンネット、ファルコーネ、ボルセリーノを含む法執行官3000人、600人もの世界各国のジャーナリスト、カメラマンが、22ヶ月に及ぶ裁判期間に関わることになりました。なおコルレオーネのトト・リイナ、ベルナルド・プロヴェンツァーノ、ジュゼッペ・ルッケーゼは逃亡中のため、欠席のまま裁判は進行しています。
またその期間中には、349回の尋問、1314回の取り調べが行われ、635件の弁護人弁論が繰り広げられました。さらに裁判期間中に、悔悛ブームが巻き起こり、マフィア側から21人の悔悛者も出ています。この「マキシ・プロチェッソ」は1989年2月22日に控訴裁判に到達し、1990年12月12日に終了。結果、346件の有罪判決(リイナ、プロヴェンツァーノを含む欠席74件)、無罪判決114件、終身刑19件、全有罪者の懲役合計2665年、罰金115億ドルとなり、1992年には、日本の最高裁にあたり、控訴院の判決の破棄、差し戻しの権限を持つ裁判所である破毀院ーCorte di Cassazioneがその判決をすべて認めることになります。
ところで、Raiの「マキシ・プロチェッソ」のドキュメンタリーで、まず印象的だったのは、尋問されるブシェッタが、シチリアのあらゆる地域に存在する「コーザ・ノストラ」のすべてのファミリーを説明し、その構造を淡々と説明する最初のシーンです。
マフィアの、「いわば最高政府である『クーポラ』とは、どのような構成なのか」、との審議官の質問に、ブシェッタは「3つのファミリーから選ばれたボスすべてで構成される『クーポラ』は『コーザ・ノストラ』そのものを討議し、制限し、管理する権限を持っている。それぞれのファミリーは代表者(ボス)、副ボス、相談役(この発言のあと不明)で構成されている」と答え、審議官が「クーポラ」では殺人の管理もするのか」と問うと、「もちろんだ。委員会が知らない殺人は犯してはいけない。殺人を計画するファミリーのボスは、地区の代表者に伝えなければならず、必ず『クーポラ』を通さなければならない。あらゆるファミリーのボスは、地区のボスに知らせることなく、殺人を犯すことはできないのだ」と答えています。
さらに「もしファミリーのボスが殺された場合、どのような反応を引き起こすか。それともなんの反応もないのか」との問いには、「もし、ボスの殺害にファミリー全体の合意がなければ、マフィアの戦争状態ということになる。ファミリー全体に合意があれば、何も起こらない。ファミリーそのものが合意していれば、ボスを殺害して、平和的(?)に次のボスを決定するのだ」と発言しました。
またブシェッタは、第2次マフィア戦争のきっかけとなった、トト・リイナの指令によるステファノ・ボンターテの殺害を巡る裏切りの状況を説明し、コルレオーネが他のファミリーに絶大な影響力を持ち、「コーザ・ノストラ」を分裂させ、たとえば自らの盟友であったはずのピッポ・カロまで管理下に置いたことを糾弾しています。
さらにブシェッタは、前述したピエールサンティ・マッタレッラ州知事、ガエターノ・コスタ検察官を「クーポラ」に報告することなく、誰か(?)が殺害したことなども明かし、カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ大佐の殺害については、パレルモのマフィアがカターニャのマフィアとの合意により、土木工事の入札を不正にコントロールしようとしたことを大佐が突き止めようとしたからだ、と証言しています。
しかしながらブシェッタは、ファルコーネが亡くなったのちに再度開かれた裁判では、大佐が当時極秘とされた「メモリアル・モーロ」の一部をミーノ・ペコレッリと共に読み、国家の秘密を知ったからだ、と証言を翻してもいるのです。このように、ブシェッタの「コーザ・ノストラ」に関する証言は、同時に『鉛の時代』のからくりを明らかにするための重要な糸口ともなっています。
裁判の間中、法廷の檻の中のマフィアたちは「嘘つき野郎!」と一斉に抗議し、騒ぎ立て、恫喝し、1974年から刑務所に収監されているコルレオーネの初期のボス、ルチアーノ・リッジョは「自分は『コーザ・ノストラ』など知らないし、『クーポラ』に属したこともない」と切々と訴えました。また、シチリアの方言しか話すことができないサルヴァトーレ・コントルノが証言している間中、「イタリア語を喋れ!」と檻の中のマフィアたちの怒号が法廷中に響き渡り、通訳をつけなければならない状況に陥っています。ブシェッタとピッポ・カロの法廷での対面証言では、ブシェッタは防弾ガラスで囲まれた椅子に座り、映画「il traditore シチリアーノ 裏切りの美学」で描かれた通りの会話が交わされました。
尋問されたマフィアたちは、「ブシェッタには会ったことなどない」「ブシェッタなど知らない」と、真顔でシラを切り続け、法廷を統括する裁判官が答えを間違えた時には、檻の中のマフィアたちが凶暴に抗議して、乱闘に発展する危険な状況になったため、尋問が保留されています。コルレオーネの傀儡であったミケーレ・グレコは、自分は「コーザ・ノストラ」のボスではなく、ただの農民で、人違いだ、とまで答えました。また、証人として呼ばれた市民たちの多くは、復讐を恐れてほとんど何も話さず、被害者の親族の多くが、法廷では口をつぐんでいます。
こうして22ヶ月、638日間継続した「マキシ・プロチェッソ」は1987年の12月16日に終わり、前述したように、346件の有罪判決(リイナ、プロヴェンツァーノを含む欠席74件)、無罪判決114件、終身刑19件、全懲役2665年、罰金115億ドルの判決が下されましたが、このときのボスたちの量刑は不当であるとの見方もあります。たとえばトト・リイナ、ミケーレ・グレコには終身刑が言い渡されましたが、ベルナルド・プロヴェンツァーノは10年、サルヴァトーレ・グレコは6年の禁固刑、ルチアーノ・リッジョは無罪となっています。トンマーゾ・ブシェッタは3年6ヶ月、サルヴァトーレ・コントルノには6年の判決が下されましたが、実質的には当局に保護されての放免となりました。
なお1988年に開かれた控訴審では、どの裁判官も引き受けたがらず、結果、その勇気と厳格な道徳性に定評のあるアントニーノ・サエッタ裁判官が引き受けましたが、控訴審がはじまる前に「コーザ・ノストラ」に銃撃され、殺害されるという事件も起こっています。
このように、コルレオーネからの度重なる妨害を受けながらも、この裁判におけるブシェッタの証言に基づくことにより、その後のマフィアの裁判では「クーポラ」の客観的責任の原則を毎回証明する必要がなくなり、「コーザ・ノストラ」のすべてのメンバーは、「クーポラ」における同意のもとに犯した犯罪の責任を負うことになりました。また、悔悛者による証言に与えられた信憑性は、その後の多くの裁判に欠くことのできないモデルともなったのです(Wikimafia)。現在、この裁判の記録8608ページは、40巻に分割されたアーカイブとなっています。
ところで裁判中のブシェッタは、といえばアンチマフィアの若者たちに熱烈に応援され、「ブシェッタよ、正義を貫け!」と逆説的な(ブシェッタは麻薬密輸ビジネスの重要な元締めであり、殺人者でもありますから)スローガンが街頭に響きわたってもいます。当時の最も著名なジャーナリストのひとりだったエンツォ・ビアージの「人は善良で温厚で感傷的なマフィアになれると思うか」との質問に、ブシェッタは「そう思う。なぜならわたしがそうだからだ」とも答えました。
もちろんブシェッタの証言が、その後のマフィア捜査を大きく変えた革命的なイベントとなったことには違いありませんが、レオナルド・シャーシャやサルヴァトーレ・ルーポなどの知識人たちは、新旧マフィアが凶悪VS.穏健と単純化される構図に、大きな疑問を呈しています。

1986年、全国で繰り広げられた若者たちのアンチマフィア・デモ。『鉛の時代』、印象的な写真を多く撮ったターノ・ダミーコによるパレルモの子供たちによるデモの一枚。Immaginidelnovecento.fondazionegramsci.orgから引用。
一方、この裁判の間に「プール・アンチマフィア」はあろうことか、次第に弱体化していくことになるのです。
まず1986年、裁判がはじまった年の12月にパオロ・ボルセリーノがマルサーラの検察所長に任命され、パレルモを離れたのち、1987年には「プール」の局長であるカポンネットが、ファルコーネや他のメンバーの圧力でフィレンツェへ転勤せざるをえなくなります。というのも、「プール」の新局長にはファルコーネが相応しいと誰もが考えており、カポンネットもまた自らの健康に不安を抱いていたからです。
しかし驚くことに、「プール」の新局長を決定するイタリアの司法自治政府機関であるCSM(Il Consiglio Superiore della Magistratura)は1988年、「プール」の局長としてマフィア捜査にほとんど経験のないアントニーノ・メッリを選出します。しかも今までファルコーネに賛成票を入れる、と見られていた親しい検察官たちが揃いも揃ってメッリに投票したのです。これはメッリがファルコーネより勤務経験が長いため、CSMが年功序列に従ったという説もありますが、外部から何らかの圧力があった、あるいは同僚の嫉妬、と見る人々もいます。
さらにその時期、ボルセリーノがマルサーラの検察所長に任命されたことに関して、レオナルド・シャーシャが1987年にコリエレ・デッラ・セーラ紙に書いた「アンチマフィア・プロフェッショナル」というタイトルの記事を巡って論争が繰り広げられていました。
シャーシャは、ムッソリーニ時代に繰り広げられたマフィアへの弾圧が、「権力の道具」となると考察し、「年功序列」ではなく、「アンチマフィアの功労者」として選ばれたマルサーラの新しい検察所長は、「カポンネットとファルコーネのプールで働いたおかげで、アルカモやプリンツィヴァッリといった、司法界でのキャリアが長い同僚よりも格上となった」と批判し、当時の著名ジャーナリスト、エウジェニオ・スカルファリ、ジャンパオロ・パンサ、ナンド・ダッラ・キエーザ(ダッラ・キエーザ大佐のご子息)の賛意を得て、その意見がイタリア全土に広がったのです。
しかしシャーシャのその見立ては、おそらく混乱を生んだだけだった可能性があります。ボルセリーノがマルサーラの検事長に任命されたのは、確かにボルセリーノ自身が望んだ栄転ではありますが、「プール」そのものを解体しようとする何らかの力が働いていたのではないか、と個人的には考えます。実際「プール」の新局長となったメッリは就任そうそう、体制そのものを解体しはじめたため、メンバーたちがひとりふたり、と「プール」を去ることになり、ボルセリーノは、その不可解な解体を強く非難することになります。
「CSMはプールの継続を保証するためにファルコーネを局長に任命しなければならなかった」「彼らはプールを廃止したのだ」「アンチマフィア機動部隊はもう存在しない」「われわれは10年、20年前の状態に逆行している」(パオロ・ボルセリーノ/ラ・レプッブリカ紙、l’Unita紙インタビュー)
その結果、ファルコーネは孤立しただけではなく、常に政治からの圧力を受け続け、あるいは同僚たちの嫉妬に妨害され、さらにはマフィアなのか『ロッジャP2』なのか、差出人が不明の脅迫の手紙を受け取る日々が続きます。この時期、ファルコーネは、前述したミケーレ・レイナ、ピオ・ラ・トッレ、ピエールサンティ・マッタレッラ州知事の「政治殺人」の捜査を継続し、前述のふたりの極右テロリストの起訴状に署名しています。のちに出版された日記によると、このときのファルコーネは、これらの殺人とグラディオとの関係を暴く捜査を進めつつあったそうです。
そうこうするうちに、ファルコーネを取り巻くシチリアの空気はいよいよ険悪なものとなり、もはや地元での捜査、および裁判を担当することが不可能になりました。結局、そもそも親しかった、当時の法務大臣クラウディオ・マルテッリに法務省刑事部門の責任者となることを提案されると、それを受け入れ、ファルコーネはローマへと向かいます。しかし、マルテッリの提案でローマへ向かったファルコーネを、シチリアの同僚たちは「政治に身を売った裏切り者」として厳しく非難し続けたのです。
ローマに移動したファルコーネは、法務省刑事局長として、国家アンチマフィア検察局(スーパー検察局)の設立に邁進し、1991年11月、時の政府はファルコーネが提案した、シチリア検察庁によって任命された検察官が調整する全国アンチマフィア総局(DNA)、アンチマフィア捜査総局(DIA)の設立を承認することになりました。しかしその時もまたファルコーネは、政界、主要メディアから絶え間ない批判を浴び、マフィアの背後に蠢く者たちの妨害と脅迫、同僚たちの歪んだ嫉妬と誤解の渦に巻き込まれることになります。
「最初にキャリアを崩壊させ、そして殺害する。それでも供述を続けますか?」
イタリアで何年か生活すると、政治圧力はともかく、ファルコーネに向けられた露骨な嫉妬とメディア攻撃の背景にある心理構造が、少し理解できるように思います。イタリアの人々は確かに感情が豊かで、振れ幅も大きいのですが、それはもちろん、ポジティブな感情だけでなく、ネガティブな感情もまた同様に強調され、躊躇のない嫌がらせ、中傷、大人げない妨害を目にすることがあります。
残念ながら、わたしはファルコーネの存在をオンタイムには知りませんが、現在残っているあらゆる映像の、この伝説の検察官の人間的な表情、明確な発言、肩に力が入らない立ち居振る舞い、ユーモアに触れるたび、ファルコーネへの批判が、なぜ主要メディアにおいて増幅され続けたのか、そこにはマフィアだけでなく、やはり何らかの背景が存在したことを疑わざるをえないのです。
To be continued…