トンマーゾ・ブシェッタ
1928年に生まれたトンマーゾ・ブシェッタという男は、ファシズム時代の10代の頃から闇市場を組織する、パレルモでは有名な非行少年で、わずか16歳で結婚。4人の子供をもうけています。この最初の結婚で得た2人の息子、ベネデットとアントニオが、コルレオーネに寝返った組織の金庫番、ピッポ・カロの手で殺害されますが、ポルタ・ヌオヴァのボスであるピッポ・カロは、ブシェッタの若い頃からの盟友で、殺されたふたりの息子たちの「名付け親ーPadrinoーGodfather」でもありました。ブシェッタが心の底から信頼していた、息子たちにとっては第2の父親でもあったはずのピッポ・カロの、この残虐な裏切りへの度し難い復讐心が、ファルコーネへの協力を決定づけた、最初の動機です。
ブシェッタは17歳でポルタ・ヌオヴァファミリーの一員となり、麻薬に絡んでアルゼンチンや南米を転々とした後、パレルモに戻った際にアンジェロ・ラ・バルべーラ、サルヴァトーレ・グレコ、ガエターノ・バダラメンティら「伝統的」なマフィアたちと知り合い、ラ・バルべーラの最も危険な殺し屋となっています。また、ブシェッタはラッキー・ルチアーノやジョー・ボナンノとも付き合いがあり、1957年のホテル・デ・パルマで開かれた米国シチリア両「コーザ・ノストラ」合同会議では、サルヴァトーレ・グレコとともに責任者のひとりでもあったそうです。つまりブシェッタは戦後の「コーザ・ノストラ」を知り尽くす人物でした。
第1次マフィア戦争の際のブシェッタは、ラ・バルベーラ、そしてサルヴァトーレ・グレコ側でしたが、警察に指名手配されるや否や、新しい恋人とともに米国に逃亡し、偽造パスポートを使って米国、ブラジルに滞在。コルシカ人、イタリア系ブラジル人、イタリア系米国人で構成される国際的な麻薬(大量のヘロイン、コカインなど)密売組織のボスとなり、最終的な買い手であるニューヨークのガンビーノ・ファミリーの名義でピッツェリアを経営していた時期もあります。
その後、サルヴァトーレ・グレコ、ジュゼッペ・カルデローネ、バダラメンティなどとともにミラノ、カターニャに滞在し、「クーポラ」の再建と1970年のボルゲーゼのクーデター(未遂)に援軍を出すことについて話し合っています。ちなみに「コーザ・ノストラ」が、1981年にその存在が暴かれた秘密結社『ロッジャP2』と密接に接触することになったのは、「このボルゲーゼのクーデターからだ」、とブシェッタはファルコーネに供述しています。
70年代には麻薬密売が発覚して、ブラジル警察からイタリアへ送還され、パレルモのウッチャルドーネ刑務所に収監された時期もありましたが、そもそもこの刑務所は、ホテル・ウッチャルドーネと呼ばれるほど、マフィアたちが好き勝手に飲み食いできる刑務所で、受刑者たちはパレルモの最高級のレストランから毎日料理を運ばせていました。
なおブシェッタがイタリア各地の刑務所を転々としていた1978年、ミラノの犯罪集団のひとりが、「『赤い旅団』に誘拐されたアルド・モーロを解放する行動を起こしてほしい」とシークレット・サービスからブシェッタに伝えるよう頼まれたことがあったと言います。それが実現に至らなかったのは、その頃の「クーポラ」が、すでに「新興マフィア」のコルレオーネと「伝統的」なファミリーに分裂していたため決定が滞り、「やがてモーロが『赤い旅団』と協力しはじめ、アンドレオッティの秘密を暴露したことから(メモリアル・モーロ)、『キリスト教民主党』の政治家たちはモーロが殺されることを望んだ」と、ブシェッタはファルコーネに述べたそうです。
10件以上の殺人を犯し、麻薬を大量密輸しながら巨額の利益を得ていたブシェッタが、いったんイタリアに送還されながら、しかし(なぜか)刑務所から簡単に出所し、再びブラジルに戻ったのちに第2次マフィア戦争が勃発。このマフィア間抗争で、ブシェッタはふたりの息子のみならず、弟、妹の夫、4人の甥、そして多くの仲間たちを一斉に惨殺されました。やがてブシェッタは国際麻薬密輸の大ボスとして再度ブラジルで逮捕され、言語を絶する残酷な拷問を受けることになりますが、麻薬密輸に関しても、組織に関しても、決して口を割ることはなかったのです。
ブシェッタがブラジルで再び逮捕されたことを知ったジョヴァンニ・ファルコーネは、即刻ブラジルに飛んでブシェッタに面会しています。そして、刑務所でストリキニーネを飲んで自殺を企てるほど心身ともに弱っている「ふたつの世界のボス」が、全面的に供述するだろうことを直感したそうです。その後イタリアに送還されたブシェッタは、コルレオーネに仕掛ける最も破壊力のある爆弾として「すべてを暴露して検察に協力する」という復讐を選びますが、たとえ相手がファルコーネであっても、麻薬の密輸に関わった事実を認めたことは一度もありません。
「ブシェッタは勇気をふるい、それを実行に移した。以前に逮捕された際、共犯者やマフィアの実態を自白させようとしたブラジル警察に足の爪を剥がされたことがあったが、ブシェッタの口から出たのはピューという口笛だけだった(略)。飛行機でサンパウロの上空5000メートルまで連れて行かれ、ドアを開けて落とすよう脅しをかけられても、ブシェッタは一言も発しなかった。(今後の復讐の唯一の武器は)マフィア内部の情報を暴露することだと考えた」(イタリア・マフィア/シルヴィオ・ピエルサンティ)
この時からブシェッタ、そしてすでに逮捕されていたサルヴァトーレ(トゥトゥッチョ)・コントルノ、ヴィンチェンツォ・シナーグラ、ステファノ・カルツェッタたちが「コーザ・ノストラ」の不可視性を保証してきた「オメルタ(沈黙の掟)」を、歴史上はじめて破り、組織の秘密を供述することになります。また、獄中でニンニ・カッサーラ警部の協力者となったボンターテ・ファミリーの殺し屋だったコントルノは、第2次マフィア戦争でコルレオーネから殺されかけ、奇跡的に逃げ延びた、という経緯がありました。このとき本人は逃げ延びることができましたが、20人余りの親族がコルレオーネに殺害されています。
それまで隠され続けた「コーザ・ノストラ」の組織構造と内部の規則、および数々のマフィア犯罪の扇動者と実行者についての詳細が、マフィア自身から語られた供述は、1984年7月から11月の中旬まで続きました。やがて、はじめは復讐のみが目的だったブシェッタに、ファルコーネの人間性への信頼、いわば友情に似た感情が芽生えはじめます。
「ファルコーネ検察官、あなただけを信頼します。だが気をつけてください。彼らは寝返ったことを知るや否や、わたしを潰しにかかるでしょう。まず精神的に痛めつけ、そして殺害する。わたしの次はあなたの番です。最初にキャリアを崩壊させ、そして殺害する。それでも供述を続けますか?」(イタリア・マフィア/シルヴィオ・ピエルサンティ)
あらゆる映画、本、ドキュメンタリーで、必ず引用される有名なブシェッタのこの言葉に、ファルコーネは「もちろん」と答えています。実際、どこが情報源なのか、「裏切り者」「大嘘つき」「おまわりに身を売った男」とブシェッタに対する批判が毎日新聞に掲載され、ファルコーネが短い休暇を過ごす海の別荘の岸壁に爆発物が仕掛けられたこともありました。また、「プール」の大々的なマフィア捜査の進行を応援する者たちが多くいる反面、「危険だ」「好ましくない」と露骨に反意を示す司法関係者、主要メディアも多く存在しました。
こうして妨害に次ぐ妨害、終わることのない脅迫のなか、1984年9月には、20世紀で最も重要なアンチマフィアの作戦である「サン・ミケーレ電撃作戦」と名付けられた「コーザ・ノストラ」のメンバーと疑われる366人の逮捕状が発行されるに至ります。しかしイタリア全国から賞賛が集まった、この「プール」の快進撃には、無差別爆破事件という犠牲をも伴ったのです。
1984年の12月23日、ナポリ発ミラノ行きのイタリア国鉄(FS)の特急列車ラピド904がアペニン山脈の大トンネル内で爆破される事件が起こりました。これは1974年、極右武装グループが、アルド・モーロが乗車する予定だった汽車「イタルクス」(モーロは連絡を受け途中下車して無事でした)の爆破事件を「コーザ・ノストラ」が模倣した事件で、死者16人、重軽傷者267人という大惨事となります。のちの捜査で、この爆破事件は、「プール」の捜査から人々の目を逸らすために、ピッポ・カロが極右武装勢力と絆を持つローマのローカルマフィア、バンダ・デッラ・マリアーナとともに周到に計画したことが明らかになりました。
また、検察に協力した者たち(たとえば前項に記したレオナルド・ヴィターレ)やその親族を、マフィアは次々と殺害し、1985年の夏には「プール」の機動隊隊長ベッペ・モンターナ、ニンニ・カッサーラ機動隊副隊長、そしてカッサーラを護衛するために休暇から早めに戻ったロベルト・アンティキオラが銃撃され亡くなる事件が起こります。
こうして次々に「プール」のメンバーが殺害された直後、「次はファルコーネ、そしてボルセリーノ、との殺害指令が刑務所から漏れ聞こえてくる」という知らせを、局長であるカポンネットが受け、それから48時間以内という迅速さで、イタリアで最も厳格な刑務所があるサルデーニャのアシナーラ島に、ファルコーネとボルセリーノを移動させています。その間パレルモでは、逃亡中のトト・リイナ、ベルナルド・プロヴェンツァーノを含む、ルチアーノ・リッジョ、ピッポ・カロ、ミケーレ・グレコら475人の逮捕者を裁く、前代未聞の大裁判(マキシプロチェッソ)のため、蟻1匹入ることができない鉄壁の裁判所が、ウッチャルドーネ刑務所のすぐ脇に着々と建築されたのです。
この八角形の、数百人を収容できる巨大な大法廷は、わずか6ヶ月で完成し、すぐに「バンカー(地下壕」と呼ばれるようになりました。この大法廷にはミサイル攻撃にも耐えられるほどの防御システムが備えられ、大規模な裁判を可能にするために、コンピューター化されたファイリングシステムをも装備されました。ちなみにマルコ・ベロッキオ監督の映画「il traditore(シチリアーノ 裏切りの美学)」の大裁判シーンは、残存する、そのバンカーで実際に撮影されたそうです。
*言うまでもなく大傑作。2019年に製作されたマルコ・ベロッキオ監督の「Traditore(シチリアーノ 裏切りの美学)。ブシェッタを演じたピエールフランチェスコ・ファヴィーノ、ファルコーネのファウスト・ルッソ・アレージ、そしてコントルノのルイジ・ロ・カッショと超豪華な俳優陣。全編はAmazon primeで。
一方、ファルコーネとボルセリーノはアシナーラ島に滞在中の25日間、海上巡視船と諜報機関に保護されながら、大裁判のための条文の起草を続けます。もちろんその間、パレルモでもカポンネットやグァルノッタらが条文を書き続け、多くの仲間の犠牲と、それぞれのとてつもない疲労の末、長期間の捜査と「マキシ・プロチェッソ」の準備は遂に終了。1986年2月10日、ジュゼッペ・アヤーラとドメニコ・シニョリーニを起訴側の代表者として、いよいよ大裁判が開かれることになったのです。
▶︎マキシプロチェッソー大裁判