第2次マフィア戦争
70年代後半から80年代、「コーザ・ノストラ」におけるコルレオーネの台頭を機に、各地域のファミリー間ではじまった第2次マフィア戦争に関する詳細は、第1次マフィア戦争からの生き残りに成功し、米国、南米へと高飛びした大ボス、トンマーゾ・ブシェッタ(後述)の協力を得たジョヴァンニ・ファルコーネの捜査から明らかになります。
もちろん、この戦争が勃発する10年ほど前から、「コーザ・ノストラ」の縄張り争いによる地域のボスの暗殺、殺されたボスの手下たちによる復讐、あるいは裏切りとしての虐殺事件は幾度となく起こっていました。つまり、たとえ「クーポラ」というシチリアの犯罪組織を統合し、あらゆる案件、そしてトラブルを調停するはずのマフィア政府が存在していたとしても、対立するファミリー間の抗争では、多くの死人が出ていたのです。また、マフィアが関わる殺人の詳細を、たまたま知ってしまった一般市民がある日突然失踪する、という事件もたびたび起きていたそうです。
イタリア語版のWikipedia(Secondo guerra di Mafia)には、第2次マフィア戦争時の夥しい犠牲者と首謀者、その力関係が記されているのですが、その数があまりに多く、ひとつひとつの事件を追うことは不可能なため、ここでは大きな流れを追うだけにします。ただ、あらゆる殺戮の中核にコルレオーネ、トト・リイナの存在があることは確かです。
ちなみに、1974年あたりには、いまだ政界には進出していなかったミラノの新進企業家、シルヴィオ・ベルルスコーニ宅に馬の飼育係として居候していた「コーザ・ノストラ」のヴィットリオ・マンガノ(ステファノ・ボンターテと親密な関係にあった)らにより、ベルルスコーニ宅で開かれた晩餐会の後、身代金目当てで、出席者の貴族の子息の誘拐未遂事件が起こったことも発覚しています。
ベルルスコーニの盟友で、政党『フォルツァ・イタリア』の創立に尽力したマルチェッロ・デル・ウトゥリ(現上院議員ロベルト・スカルピナートが高級マフィアと定義する)と親密な関係にあったマンガノについては、パオロ・ボルセリーノが「北イタリアの企業家と『コーザ・ノストラ』の関係」をマンガノの名を特定して言及したインタビュー映像が、ベルルスコーニ元首相が権力の座から遠ざかった頃に流出しました。
さて、1969年12月の「フォンターナ広場爆破事件」からはじまり、1980年8月の「ボローニャ駅爆破事件」あたりまで続いたイタリアの『鉛の時代』は、極右および極左グループ、政権の一部、国内外諜報機関、秘密結社『ロッジャP2』などが関わった無差別テロによる多くの無辜の市民の殺戮、政治テロ、政治誘拐、暗殺、および路上デモでの銃撃戦に加え、マフィアが起こす流血事件、犯人が分からない袋詰めの亡骸、のちに酸に溶かされたことが判明した失踪した人物たち、という凄まじい暴力と死の時代であり、しかもそれらが要所要所で、諜報機関と密接に繋がる秘密結社『ロッジャP2』とリンクしていることは特筆すべきことです。
『鉛の時代』終盤の頃の「コーザ・ノストラ」はと言えば、前兆としてのマフィア第1次戦争という抗争の70年代を経て、やがてガエターノ・パダラメンティ、ステファノ・ボンターテ、サルヴァトーレ・インゼリッロという、昔ながらの、いわば「伝統的穏健派(?)マフィア」と、過激な暴力と裏切り、騙し討ちでシチリアの他のファミリーの縄張りを侵食する新興マフィア、コルレオーネとの分裂が極まり、遂に戦争状態へと突入します。
この抗争の予兆が現れた頃、国際麻薬密輸犯罪の容疑でブラジルで逮捕、収監され、いったんイタリアに連れ戻された「ふたつの世界のボス」、トンマーゾ・ブシェッタは、シチリアのウッチャルドーネ刑務所から出所したのち、一時期パレルモに滞在し、「伝統的穏健派マフィア」に属していた時期がありました。そこでコルレオーネの攻撃が迫っているという情報を掴むと、それをボンターテやインゼリッロに伝えたのち、自らは再びブラジルに戻って、抗争から逃れています。
その間、リイナは着々とネットワークを広げつつあり、組織の中核を成していたパレルモのボスたちより、さらに多くのファミリーを秘密裏に味方につけていました。そしてまず、当時、ヘロインの密売で収益を独占し、絶大な影響力を誇っていたバダラメンティを「クーポラ」から米国に追放することに成功します。その直後、バダラメンティの代行として、リイナはミケーレ・グレコを据えますが、組織内では中立に見えていたグレコも、すでにコルレオーネに懐柔され、リイナの意のままに動く傀儡と化していたのです。
身に迫る危機感から、バダラメンティ、ボンターテ、インゼリッロが、秘密裏に「リイナ暗殺計画」を練っていることをリイナに密告したのもこのグレコで、それを聞いたリイナは、ただちにパレルモのボスたちを消す計画を立て、迅速に実行に移します。新興マフィア「コルレオーネ」にとって、これはマフィア間「クーデター」とも呼べる大胆な力関係の逆転への幕開けでした。
1981年4月には、当時の「コーザ・ノストラ」で最も影響力のあったステファノ・ボンターテの弟ジュゼッペを、兄への嫉妬を利用して懐柔し、ステファノを裏切らせ殺害。その数ヶ月後にはインゼリッロがコルレオーネに殺害されます。これらシチリア・マフィアの重要人物の殺害がきっかけとなり、コルレオーネ派VS.パレルモ派ファミリー間には血みどろの抗争が巻き起こり、リイナとその手下たちは、敵と見なすファミリーに属する「誇りある男」たちだけではなく、その兄弟や親戚、息子たちまでをも、容赦なく血祭りにあげました。
それから3年間というもの、毎日、パレルモのどこかで血まみれの亡骸が見つかり、街中は血の海となり、シチリアの地方紙は死体が見つかるたびにひとつひとつその数を数えて発表していたそうです。もちろん、数えられる亡骸だけではなく、酸に溶かされたり、セメント詰めにされ、海に捨てられたケースもあるわけですから、1000人を超えることは確かでも、正確な数字は現在でも明らかになっていません。
少し横道に逸れますが、この時代、血溜まりとなった殺害現場に駆けつけて、その惨状を撮影し続けた女性カメラマン、レティツィア・バッターリアの写真は、重要な「時代の記録」となっています。他のカメラマンが写した、ただ残酷なだけの写真とは違う、一枚の写真に緊張と恐怖、そして激情とドラマが込められた写真は、こちらで少し見ることができます。
*2021年、ローマの国立美術館MAXXIで開かれたレティツィア・バッターリアの展覧会。パレルモの地方紙L’oraの唯一の女性ジャーナリストでカメラマンだったバッターリアの生涯(1935-2022)は、国営放送Raiでドラマにもなりました。彼女が撮影したマフィア事件の写真(それ以外の写真も)のひとつひとつに集約されたドラマは、歴史の証言となっています。archivioletiziabattaglia.it
パレルモ派VS.コルレオーネ派の抗争がひたすらエスカレートする過程で、やがてリイナは米国に逃亡したボスたちとその部下たちを追いかけてまで殺害するようになりました。さらに敵とみなす者たちだけでなく、そう遠くない将来、問題を起こすであろう「信用できない友人」たちまで皆殺しにしはじめます。
たとえば抗争がはじまった時にはボンターテに忠誠を誓っていたにも関わらず、やがてコルレオーネに寝返ったパルターナ・モンデッロのボス、ロザリオ・リッコボーノは、ミケーレ・グレコの屋敷にバーベキューに呼ばれた帰りに待ち伏せされ、部下たちとともに皆殺しにされたうえ、酸で溶かされています(Wikimafia)。リイナは、こうしてファミリーの敵と見なす者たちを見境いなく粛清し続け、シチリア全土の「コーザ・ノストラ」の頂点、「ボスの中のボス」として君臨するのです。
と同時にリイナは、コルレオーネにとって邪魔になりはじめた当局者たちをも次々と殺害していきます。1982年には、ミケーレ・グレコに関する報告書を作成していた27歳の警官カロジェロ・ズッケットがバールの前で殺害され、1983年にはトラーパニで麻薬捜査をしていたジャン・ジャコモ・チャッチャ・モンタルト検察官が殺害され、さらには1983年にパレルモに非公式に創立されたばかりの気鋭の検察官たちのグループ「プール・アンチマフィア(反マフィア特別捜査本部)」の局長ロッコ・キンニーチまでが殺害されることになりました(後述)。ただし、前の章で述べたように、これらの殺人に、コルレオーネの利害以外の要素が絡む可能性も否めません。
この凄まじい殺戮の間、国家中枢に存在するジュリオ・アンドレオッティおよび、その周辺の政治家たち、秘密結社『ロッジャP2』、国内外諜報という『鉛の時代』の謀略ネットワークとシチリア・マフィアのコンタクトは、『P2』に近いフリーメイソンロッジに属していたステファノ・ボンターテから、トト・リイナへと移って行くことになります。
もちろん抗争の途中であっても、公権力の一部に保護され、推進すらされた、巨額の富を生み続ける麻薬密輸、麻薬、外国タバコの密輸、建造物への投機に留まらず、恐喝、みかじめ料の徴収、ダム、高速道路、病院建設などのインフラ土木工事を巡る公金横領、民間への高利貸しなどのマフィアビジネスは、コルレオーネを中心に留まることなく継続していました。特に一部の公権力との暗黙の了解のもとに進められた麻薬ビジネスは、1000リラを投資するごとに1億5000万リラの利益がもたらされた、と言います(Wikimafia)。
また、トラーパニのサレミのファミリーに所属しながら、『キリスト教民主党』と強い絆を持ち、シチリアの徴税を一気に引き受けていた裕福な従兄弟であるイニャーツィオ・サルヴォ、アントニーノ・サルヴォは、ボンターテの腹心だったにも関わらず、第2次マフィア戦争開始後はただちにコルレオーネへと寝返り、マフィアたちに金銭を融通するとともに、それを厳重に管理しました。
そのサルヴォの従兄弟たちは、常にシチリアと政府を繋いできたシチリアの『キリスト教民主党』のアンドレオッティ派の議員たち、たとえばサルヴォ・リーマやヴィート・チャンチミーノと強い繋がりを維持しており、その時代、マフィアとマフィアに関係するパレルモの公権力、金融関係者がシチリアの経済を循環させていた、とも言える状況を構築していたのです。
1992年以降のトンマーゾ・ブシェッタの供述によると、このサルヴォの従兄弟たちは、「コーザ・ノストラ」とジュリオ・アンドレオッティとの直接的な仲介役を担っていて、「サルヴォの従兄弟たちは、アンドレオッティ議員のことを、少なくともわたしと彼の話をするときは、(いかにもマフィアらしく)『おじさん』と呼んでいた」そうです。また、アンドレオッティがトト・リイナと直接会った際、親密に頬にキスをする挨拶を交わした、という説が流布していますが、残念ながら、そのエピソードを語ったマフィアの悔悛者が信用に足るか否かは判然としません。
▶︎プール・アンチマフィア