マフィアかテロリストか、それともグラディオか
この記事の後半の流れとは、時系列的に前後することになりますが、「マフィアによる暗殺」と片付けられたにも関わらず、多くの謎を残したままになっている、『鉛の時代』の複雑な事情を語る事件のいくつかを、ここで少し深掘りしておきたいと思います。
たとえば、パレルモ警察庁長官カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ大佐は、「アルド・モーロ誘拐・殺害事件(1978年)」で『赤い旅団』のコマンドたちの逮捕の指揮を取った功績を持ち、刑務所内の『旅団』の創設メンバーからも信頼された人物で、『鉛の時代』の主人公のひとりでもありました。
しかし極秘にされていた、モーロが『旅団』の人民刑務所で書いた「メモリアル・モーロ」と呼ばれる「グラディオ」と『キリスト教民主党』の力関係、議員それぞれの詳細が記された書類の一部を、1979年に殺害されたジャーナリスト、ミーノ・ぺコレッリとともに読んだため、両者ともに口封じのため、アンドレオッティ派をはじめとする謀略ネットワークによる依頼でマフィアに殺された、との説が根強く語られ続けます。
若い頃にコルレオーネに赴任していた時期があるダッラ・キエーザの、マフィア撲滅の責任者としての1980年のパレルモ赴任は、表向きには昇進でしたが、実際現地に着任しても、国家から与えられるはずの権限は与えられず、警察内で孤立したまま何の情報も入って来ず、マフィア捜査はまったく進まない状態だったそうです。のち悔悛し、捜査に協力したマフィアの告白によると、ダッラ・キエーザの殺害は、ジュリオ・アンドレオッティに近い『キリスト教民主党』欧州議員による要請だったそうで、おそらくその議員とは、長年にわたり、アンドレオッティとマフィアを仲介したサルヴォ・リーマだと推察されます。
また現代に至るまで、アーカイブされることなく捜査が継続し、最近になって新しいドキュメンタリーが制作されて大きな注目を浴びたのが、1980年1月に起こったピエールサンティ・マッタレッラ殺害事件です。
先ごろ日本を訪れた現イタリア共和国大統領、セルジォ・マッタレッラの年長の兄弟である当時のシチリア州知事の殺害事件は、はじめマフィアが犯人とされましたが、やがて極右テロリストが注目され、そして再びマフィア(コルレオーネ:アントニーノ・マドーニア)へと犯人像が二転三転しながら、現在も捜査が続いています。
『キリスト教民主党』で、当時アルド・モーロに次ぐNo.2の位置にいたピエールサンティ・マッタレッラは、『キリスト教民主党』総帥モーロと「イタリア共産党」書記長エンリコ・ベルリンゲルが長い協議を重ね合意に至ったCompromesso Storico(歴史的妥協)案に賛同する、モーロの1番弟子とも言える人物でした。冷戦下、NATO加盟国であるイタリアが「共産党」を、外部参画とはいえ、政府に迎えるという大冒険を、マッタレッラは国に先駆け、まずシチリア州で実験しようとしていたのです。シチリアで成功するならば、国レベルでも必ず成功するはずだ、と考えていたからです。
*2022年制作、マルコ・ベロッキオ監督の「Esterno Notteー夜の外側 イタリアを震撼させた55日間」は、繰り返し観た映画です。2024年に日本でも公開されたのち、現在ではU- NEXTやRakutenなどで配信されています。長尺ですが、『鉛の時代』の複雑さが凝縮された、イタリア全土が共有した悲劇は圧巻。
しかし1978年3月、アンドレオッティ第4次政権で、『イタリア共産党』を外部参画として政府に迎える信任投票の日の朝、アルド・モーロは『赤い旅団』に誘拐されます。モーロという、当時のイタリアの政治に最も影響力を持つ人物が、ファーニ通りを走行中、たった120秒の間に護衛3人の警察官、ふたりのカラビニエリを惨殺され、『旅団』に連れ去られるという大事件は、イタリア全土を衝撃と恐怖で大混乱に陥れました。にも関わらず『キリスト教民主党』からも『イタリア共産党』からも、モーロ救出のための具体策は何ら講じられないまま、誘拐55日後の5月8日、ローマのカエターニ通りで、モーロの亡骸は発見されるのです。
モーロ殺害の知らせを聞いたそのとき、「これで自分もおしまいだ」とマッタレッラは小さい声で呟いたとされますが、そのマッタレッラもまた1980年1月、夫人とともに教会のミサに出かけようと自宅を出た時、ふたり組みの若い男に銃撃され、命を落とします。マッタレッラ夫妻の前に突然現れた「飛び跳ねるように歩く」若い男は、シチリア州知事目がけてピストルを数発打ったあと、弾丸詰まりを起こすと、悠々と歩いて近くに停めた車に乗る仲間から新しいピストルを受け取り、きわめて冷静に再びマッタレッラに銃口を向け、弾丸を打ち続けたそうです。
また、マッタレッラが亡くなって1ヶ月後に開催された『キリスト教民主党』の重要会議では、モーロとマッタレッラが牽引してきた「歴史的妥協案」を継続するか否かが議論され、65%の賛成票があったにも関わらず、反対派が強行決議。成功すれば、いちはやく「ベルリンの壁」となった可能性がある「歴史的妥協案」は、『キリスト教民主党』の政策から永遠に排除することが決定されることになります(ロベルト・スカルピナート談話)。
つまり冷戦下、イタリアの『鉛の時代』を形成した「緊張作戦」という謀略に加担した、『キリスト教民主党』の一部の議員、『ロッジャP2』、極右勢力、軍部諜報局、CIAをはじめとする国外の諜報局らの思惑通り、モーロに続いてマッタレッラがいなくなることで、『イタリア共産党』の政府参画の可能性は完全にキャンセルされたわけです。
なお、このシチリア州知事が殺害された当初は、過去にマフィアとの共謀罪で告発された経緯のある交通省、郵政省大臣を歴任したマッタレッラの父親、ベルナルド・マッタレッラの息子であるピエールサンティが、その絆を断ち切ろうとしたこと、またマフィアによる無軌道な建築投機を阻止しようと動いたことが、殺害の動機と見られていました。
しかし後述するパレルモ裁判所の司法教育局調査裁判官、ロッコ・キンニーチは、マッタレッラ殺害事件を「政治殺人」と位置づけ捜査を開始し、その捜査を、長期にわたって受け継いだジョヴァンニ・ファルコーネが、この殺害事件を「モーロ・ビス(モーロ事件の繰り返し)」と定義したのです。ジュリオ・アンドレオッティが「グラディオ」の存在を公表したのは1990年でしたから、キンニーチとファルコーネはそれ以前に、「歴史的妥協」を巡る何らかの政治謀略が、マフィアの協力で進められている可能性を推理していたことになります。
そのファルコーネが目星をつけたのが、極右革命武装集団NAR(Eversivo Nuclei Armati Rivoluzionari )の代表者ヴァレリオ・フィオラヴァンティとジルベルト・カヴァリーニでした。このNARという極右武装グループはマフィアとの関係が深く、アンドレオッティから相談を受けた「コーザ・ノストラ」が、ミーノ・ペコレッリ殺害の実行犯のひとりとして選んだ(とされる)、ローマのローカルマフィアの一員だったマッシモ・カルミナーティもNARに属していた事実が、ほぼ明らかになっています(裁判では無罪)。
いずれにしても、このふたりの極右テロリストは、1980年8月、85人の死亡者、200人の重軽傷者を出した『鉛の時代』で最も大規模な無差別テロ「ボローニャ駅爆破事件」の犯人グループにも加わっており、1981年に逮捕されています。
このときフィオラヴァンティは、95人(ボローニャ駅爆破で亡くなった85人に加えさらに8人、そのうち4件はフィオラヴァンティが単独加害者、他の4件は共犯)の殺人を含む窃盗、強盗、住居侵入、誘拐、 武器の違法所持、麻薬所持、盗品の受領、私的暴力、偽造、犯罪結社、傷害、脱走未遂、武装強盗、器物破損、殺人未遂、放火、なりすまし、大量殺人、中傷、テロおよび破壊活動目的の攻撃などの罪状で、有罪判決を受け、合計8件の終身刑、134年8か月の禁固刑を言い渡されました(この量刑には、マッタレッラ銃撃殺害は含まれていません)。ところがフィオラヴァンティは、2004年に仮釈放(?)され、2009年には完全に自由の身となっています。
殺害現場にマッタレッラ州知事と共にいた夫人は、覆面をしていた犯人の「まるでロボットのように表情のない目」は、確かにフィオラヴァンティのそれだった、とはっきり証言しており、その映像も残っています。また、ファルコーネはフィオラヴァンティの弟フランチェスコの「犯人は兄だ。兄は『ボローニャ爆破事件』の犯人でもある」との証言も得ましたが、のちに弟は「自分の証言のせいで家族関係が悪化して、これ以上、心理的に耐えられない」と証言を翻すことになりました。このとき兄のヴァレリオは、密かに弟の殺害計画をたてていたと言います。
また、窓からすべてを見ていたマッタレッラ家で働く家政婦も、犯人がフィオラヴァンティ独特の跳ねるように歩く姿を目撃していましたが、どの証言も有効性が認められず、十分な証拠も集まらなかったため、ファルコーネはフィオラヴァンティとカヴァリーニをマッタレッラ殺害犯として立件することを断念せざるをえませんでした。しかしファルコーネのみならず、極右テログループとマフィアの関係性を徹底捜査していた検察官であり、司法行政担当参事官兼局長だったロリス・ダンブロージオもまた、マッタレッラ殺害事件を極右グループの犯行と見立てているのです。
最近リリースされたドキュメンタリー「マグマ(MAGMA, MATTARELLA, IL DELITTO PERFETTO:ジョルジア・フルラン監督/2025年」では、ファルコーネの肉声で次のような言葉が語られます。
「(マフィア大量逮捕の最強の協力者となった)トンマーゾ・ブシェッタは、非常に重要なことに言及した。マッタレッラ殺害の数ヶ月後の3月、ブシェッタは(ミケーレ)グレコにマッタレッラ殺害がどのような背景で行われたかを尋ねたが、グレコは何が起こったのかは正確にはわからない、と答えている。『コーザ・ノストラ』の内部で何が起こったか把握できていない、ということはマフィアの定理に反することだ。もしマフィアがマッタレッラ州知事を殺害したのならば、瞬く間に誰が命令して、誰が実行したか『コーザ・ノストラ』内部に知れわたるからだ」
「マッタレッラ殺害に関しては、『クーポラ』の全員が合意していた。つまりマッタレッラが生きていようがいまいが「コーザ・ノストラ』には興味がなかった、ということだ」
「マッタレッラ殺害事件に関する最も複雑な問題は、極右のテロ活動だという証拠が存在することだ。したがって、マッタレッラ殺人事件は、あらゆるレベルで極めて複雑な捜査となる。極右犯行説がマフィア犯行説に代わるか、あるいはマフィアと極右が相互に混じり合っているのか。この混合には他の要因が絡んでいることを意味する。とすれば何よりも、わが国における非常に遠い時代に起こった出来事の歴史を構築しなおす必要がある」
「プール・アンチマフィア」でともに捜査に携わる、親友パオロ・ボルセリーノと協力して、国家の諜報部門に携わる者たちと何度か会合を経たファルコーネは、マッタレッラ殺害事件のバックグラウンドにマフィアだけではなく、政治家および『P2』の存在が見え隠れしていることを見抜いていました。また今でこそ、イタリア現代史の常識ともなっている『鉛の時代』におけるマフィアと謀略ネットワークの協力関係が、連合軍のシチリア侵略から樹立したAMGOT(占領地連合軍政府)の時代にまで遡らなければならないことをも、ファルコーネは理解していたのです。
それが、以前の項で繰り返し引用した「わたしは第2次世界大戦中の連合軍のシチリア侵攻にはじまり、解放後のマフィアのボスたちの市長就任に至るまで、シチリアにおける市民生活のあらゆる重要な出来事には『コーザ・ノストラ』が関与していると考えている。政治分析をするつもりはないが、一部の政治家グループが『コーザ・ノストラ』と同盟を結んでいないとは思わない。明らかに利害が一致しているからだ。両者によって不都合な人物を排除することによって、いまだ成熟していない民主主義を撹乱しようとしている」という言葉へと繋がるわけです。
しかしマッタレッラ夫人が「確かだ」、と名前を挙げて殺害犯だと証言したフィオラヴァンティは、「服役したのちにすでに釈放された人物を、再度起訴できない」法律のため、再捜査ができない状況です。したがって現在は、当時のフィオラヴァンティによく似た年恰好の、アントニーノ・マドーニアが再捜査されていますが、これは別方向から犯人を確定しようとの試みだと思われます。
*2024年に制作されたMAGMAーMATTARELLA, IL DELITTO PERFETTO(マグマーマッタレッラ、完全犯罪)」は、LA7のプログラム「La Torre di Babele」で全編放映されました。現在はイタリア版Netflix、Skyで公開されています。
また、同様にマフィアに殺害された、と定義される『キリスト民主党』議員ミケーレ・レイナ、『イタリア共産党』議員ピオ・ラ・トーレ殺害もまた、非常に高い確率での政治暗殺、とファルコーネは考えていました。そしてファルコーネのこの理解がやがて訪れる悲劇の序章となり、一方その頃には逃亡中だったトト・リイナが、生来のずば抜けた犯罪能力を、ますます誇示しはじめることになります。
▶︎第2次マフィア戦争