「すべては聖なるもの」: P.P. パソリーニ生誕100年、ローマで開かれた3つの展覧会 Part1.

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「僕は中絶に反対する」

さて、この展覧会に来るまで、イタリアで「中絶法」を立案する「国民投票」の議論が盛んに行われていた1975年に、パソリーニが中絶に真っ向から反対していた事実を、わたしはまったく知りませんでした。

というのも、マルコ・パンネッラらが創立した『Partito Radicale(急進党)』が、辛抱強く市民の署名を集めて「国民投票」にまで発展させ、法律として可決させた「離婚法」など、『急進党』のあらゆる人権キャンペーンに、パソリーニは賛成しており、パンネッラにも絶大な信頼を置いていたことを知っていたからです。それにも関わらず、パソリーニが「中絶法」に、徹底的に反対していたことには、正直、ちょっとしたショックを受けました。

パンネッラは身体に障害を持つ人々や外国人、女性たちのために、ハンストやデモを繰り返し、『キリスト教民主党』という、当時の最大勢力である権力からマイノリティの権利を勝ち取ってきた、イタリアの「人権の父」とも言われる人物です。

現在のイタリアで、Legge 194と呼ばれる「中絶法」は、『急進党』の発議で78年の「国民投票」で法制化された経緯がありますが、『急進党』が準備しつつあった「中絶」に関する国民投票に対し、パソリーニは断固とした反対を、コリエレ・デッラ・セーラ紙に寄稿しています。展覧会では、そのオリジナルの新聞が展示され、全文が読めるようになっているとともに、当時のフェミニストたちが発表した宣言文や、美術批評家、作家でフェミニスト、カルラ・ロンツィが即刻コリエレ紙に寄稿した反論、またIl Manifesto紙に寄稿されたウンベルト・エーコの反論が展示されていました。以下、パソリーニの記事を抜粋します。

しかし、中絶の法制化にはトラウマを感じている。なぜなら、他の多くの人々のように、殺人の法制化だと考えるからだ。夢の中で、また日常で、他の人間たちと同様に、僕は母の羊水の中で幸福に漂っていた、生まれる前の生命を生きているからだ。そこでは僕が存在していたことを知っている。これだけは言っておく。なぜなら、中絶に関することは、最も緊急に言っておくべきことだからだ。生命が聖なるものであることは明らかだ。(略)

中絶の合法化はーまったく疑いなくーマジョリティにとっては、非常に都合の良いものだ。なぜなら、ヘテロセクシュアルのCoito(性行為)にもはや障害がなくなり、より容易になるからだ。(略)いったい誰が暗黙の了解としてそれを望み、暗黙の了解で広められ、暗黙の了解としてもはや逆戻りできない習慣として、社会に浸透させたのか。新しいファシズムである消費という権力だ。今日、マジョリティの性的自由は、実際のところ、習慣であり、社会的義務であり、社会的不安であり、消費者の生活の質の向上にとって、あきらめることのできないものなのだ。つまり、幸福の間違った自由化は、貧困の時代と同じように、そしておそらくそれ以上に不健康なものを生み出してしまった。(略)(Corriere della sera/1975 1月19日)。

パソリーニがかなりの長文で中絶に反対する記事では、権力によって与えられた性の自由化は、社会に神経症をもたらし、ホモセクシャルである自身のように「違う性」を持つ者は、ナチスの強制収容所に匹敵する暴力で無視され、拒絶される、と非難してもいます。また、中絶は生態学的文脈に置かれるべき主題で、人類の生存への脅威であり、人口学的悲劇である、とも主張しています。しかしながら、現代から読むならば、日頃パソリーニを尊敬するわたしでも、「性の自由化と消費主義という新しいファシズム」の関連がどうもしっくり理解できない、というのが正直なところです。また、性行為を政治的と断言している部分も消化できずにいます。

『王女メディア』マリア・カラスとパソリーニ。

いずれにしても、この記事へのリスポンスとして、ウンベルト・エーコがDedalusというペンネームで、パソリーニを激しく攻撃した記事は、「これを書いたのがウンベルト・エーコとは!」と、かすかな衝撃を受ける、かなり意地悪な内容でした。エーコはのちに「明らかに悪意を持った攻撃だった」と回想していたそうです。

この(パソリーニの)テーゼに、仙骨(osso sacro)が欠けていることは明らかである。われわれが議論しなければならない中絶ではなく、性行為について語っている。消費主義フェティシズムの抑圧と抑制に起因する、男女の性行為に置き換えられている。ならば子供たちが生まれてくるのは当然だ。もし、男性同士、女性同士の性行為を認め、広く拡散するならば、中絶の問題は存在しない。この議論は、性的マイノリティを含むすべてのマイノリティに、彼ら自身が好ましく思っている習慣を認めることが望ましいと、マイノリティの権利を保護するものとして提示されている。しかし、パソリーニの議論は成立しない。なぜなら、たとえ生態学的な理由からホモセクシャルの性行為を推奨することが有効だと思われたとしても、ヘテロセクシャルな性行為を好む人々を妨げることはできないからである。(略)

中絶の問題を彼らにどう提案するのか? パゾリーニはこのことを疑問視せず、新しい多数派(ホモセクシュアル)が勝利したとき、将来の少数派(ヘテロセクシュアル)の権利を踏みにじろうとする抑圧的な意志をほのめかしている。推測するに、羊水に浸された幸せな思い出から生まれたパソリーニは、中絶を禁じられた少数のヘテロセクシャルの奴隷たちが、一方、自由貴族的であるホモセクシャルであることを許された上流階級エリートのために、産み続けなければならない社会を想定しているのだ(マルサスの灰。Il manifesto/1975 1月21日)。

このように、性的少数派であるパソリーニを攻撃する、かなり辛辣な反論ではありますが、今は亡き巨匠たちの、新聞紙上での、感情的で生々しい議論を垣間見るのは、きわめて興味深い経験でもあり、しかもパソリーニが亡くなった年に、中絶を巡ってこのような議論が繰り広げられていたことは、意外な発見でもありました。

社会の縁に追いやられ、拒絶された人間たちの、その苦しみを完全に理解することはできないと繰り返された。彼の死により、異質な人間は、社会からいかに尊敬されたとしても、暴力、怒り、恐怖が漂う暗い場所で、探求を試みなければならないことを思い起こさせる(犠牲となった者の車で、狂人のように逃げる少年と同じだー唯一の殺害犯とされるピーノ・ペロージ)。そして、自らを異質と呼ぶ勇気を持つ者たちが、恐怖に怯える他の異質な者と同様に、依然として社会の縁に避難しなければならないとしたら、それは社会がまだ、両者、あるいはどちらかの一方を受け入れることを学んでいないことを意味している。たとえ受け入れたふりをしていたとしても。確かにパソリーニは、汚点(macchia)の中ではなく、自らの異質を許す他の場所で生きることもできたはずだ。しかし、プライドからそうし続けたいと思ったのかもしれない。今、彼はわれわれに、謙虚に良心を試すことを求めているのだ。(抜粋)(なぜわれわれは、常に意見が合わなかったのか。1975年11月9日)」

パソリーニが殺害されたあと、そうウンベルト・エーコは書き残しています。

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