「すべては聖なるもの」: P.P. パソリーニ生誕100年、ローマで開かれた3つの展覧会 Part1.

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68年の学生運動「僕は君たちを憎む」

日本を含め、フランス(五月革命)、米国(スチューデントパワー)、ドイツ(68年運動)、と世界の各地で巻き起こった68年学生たち叛乱が、イタリアにおいては学生知識人たちが工場労働者共闘し、きわめて暴力的な運動へと発展したことは、以前の投稿で触れた通りです。

大規模に投入された武装警官と、学生たちの乱闘が繰り返され、街角が火の海となる大きな社会文化現象となり、69年の秋、この運動は、工場労働者たちが権利を主張し、一斉に立ち上がる「熱い秋」と呼ばれる運動へと発展します。結果、工場労働者たちは、ある程度の権利を獲得したわけですが、この「熱い秋」という言葉は、たとえば現在のようにイタリアに社会不安が漂うたびに、繰り返し使われる、シンボリックな言葉となりました。

イタリア北部のトレントで66年あたりからはじまったイタリアの学生運動は、次第にローマ、全国各地へと広がって、68年に頂点を迎えますが、これは69年の『フォンターナ広場爆破事件』を契機とする『鉛の時代』の前哨戦とも言える現象で、この時の学生たちの叛乱から、やがて訪れる混乱の時代の主人公となる『Lotta Continua(継続する闘争)』、『 Il Manifesto(イル・マニフェスト)』、そして『赤い旅団』など、武力革命を目指す新しい極左グループが生まれることになります。ちなみにアルド・モーロは、68年の6月まで首相を務め、1969年の『フォンターナ広場爆破事件』の際は外務大臣でした。

68年の3月には、ローマのヴァッレ・ジュリアでローマ大学サピエンツァ建築学部の学生たちと、武装警察隊の間で激しい衝突が起こり、数百人が負傷、228人が拘束され、10人が逮捕されるという、それまでにない大事件が起こっています。その際、学生たちが武装警官に向かって投じた火炎瓶が、その場に停めてあったバスやジープを燃やし、一面が火の海となり、今でもその動画を観ることができます。さらに、それから2週間後、ネオファシストMSI(イタリア社会運動)の青年部の若者たち200人が、報復と称してサピエンツァの建築学部を襲撃し、こちらも激しい乱闘となりました。

1967年に撮影されたパソリーニのインタビュー。バラックが建ち並ぶローマ郊外の人々の風景からはじまり、パソリーニが自身のイデオロギーとともに、それまで出版した詩集から、映画作品までの背景を語っています。

展覧会 では、この事件が起きた際、パソリーニが書いた「僕は君たちを憎む、親愛なる学生たちよ」という有名なを掲載した、オリジナルのL’Espresso誌の表紙が展示されていましたが、「パソリーニが学生運動に反対する詩を掲載(および当時の知識人たちと学生代表との議論)」というキャプションとともに、ロサンジェルスで起こった殺人事件のイタリア人ジャーナリストの証言「その死の瞬間を見た」、さらには「妻たちだけが裏切る」という、ちょっと読んでみたい記事もあって、メディアの本質というのは、あまり現代と変わりはないのだ、とも感じた次第です。いずれにしても、現代のL’Espresso誌は雑誌の形態になっていますが、当時は新聞と同型の、かなりダイナミックな紙面でした。

悲しい。イタリア共産党を攻撃する議論は、10年前に行われるべきだったんだ。君たちは遅すぎた。息子たちよ。君たちがまだ生まれてなかったとしても、少しも重要じゃない。いま、世界中のジャーナリストたちが(TVのジャーナリストも含めて)、君たちのケツを(多分、大学生の間ではそう表現すると思うが)舐めている。わたしはそうじゃない。友よ。君たちはパパのお気に入りの息子の顔をしている。良家の種は嘘をつかない。君たちは同じ意地悪な目をしている。君たちは怖くて、自信がなくて、絶望している(よろしい)。しかし、権威的に、脅迫的に、自信があるように振る舞うことを知っている。特権を持つ、小市民である中流階級だ。友よ。昨日、君たちがヴァッレ・ジュリアで、警官たちを殴ったとき、僕は警官たちに共感したんだ。

なぜなら警官たちは貧しい者たちの息子だからだ。農村、都市の郊外から来たんだ。僕は彼らが子供、少年であった時のことをよく知っている、権威ではなく、貧しさのため、1000リラが重要であり、父親もまた少年のまま成長していない。母親は荷物運搬人のように、図太くなっているか、何かの病気で小鳥のように儚いか。多くの兄弟たちと住む、赤いサルヴィアが咲く畑の中のあばら屋(区画に分けられた他人の土地だ)。下水道の下方、あるいは巨大な公団、etc.etc. それに、どんな服装をしているか見てごらん。憤怒と民衆の食事の匂いが染み付いた、粗い生地で仕立てられたピエロのような服を。もちろん最悪なのは、ひどい心理状態に置かれていることなんだ(月、40000リラほどのために)。もはや笑顔はない。世界との友情もない。隔離されている。排斥されている(同等のものが見つからない排斥)。警察官であることで(憎まれることでさらに憎まれ)人間としての質を失って辱められる。

彼らは20歳だ。君たちと同じ年だ。親愛なる少年少女たちよ。もちろん僕らが警察機構に反対であることには合意している。しかし検察に対して反発しなさい。考えてみなさい。パパのお気に入りの君たちの聖なる犯罪(リソルジメントの伝統としてえりぬきの)として殴りつけた警察官の少年たちは、社会の別の階層に属しているんだ。昨日、ヴァッレ・ジュリアで階級闘争断片が繰り広げられた。友よ(その理屈を理解してるにせよ)、君たちは裕福だ。一方警察官たちは(不正の側にいた)貧しい人々だ。素晴らしい勝利は、つまり君たちのものだ。このケースでは、僕は警察官たちに花を捧げる。友よ。

本来は詩であるため、このように訳すべきではありませんが、ここでは全文、ざっくり意訳したことをご了承いただければ、と思います。

ともかく、パソリーニの痛烈な、中流階級に属する学生批判であるには違いなく、ここでもパソリーニは、学生たちの顔、目、警察官たちの「身体性」から、ヴァッレ・ジュリアの衝突の本質をついています。そもそもパソリーニは、イタリアの経済発展で新しく生まれた、軽薄で短絡的、消費に躍る中流階級(Borgesia)の卑しさへの憎悪を、あちらこちらに書き残していますが、「革命」を目指して立ち上がった学生たちをも、容赦なく「同類」、と選別しました。そのせいか、『鉛の時代』に学生運動に加わった世代は、その時代を知らない若い世代ほどはパソリーニを評価しない傾向があるように思います。

そののち『鉛の時代』に突入し、『イタリア共産党』をサロン共産党と批判した、徹底的なマルキシストであったパソリーニは、新しい極左グループを形成した青年たちの武装革命への機運に、その後も共感することはありませんでした。むしろ、「アンチファシストによるファシズム」と表現して、不快感を示しています。

ただし、『フォンターナ広場爆破事件』の犯人として、冤罪にも関わらず逮捕され、窓から落ちて不審な死を遂げたアナーキスト、ジュゼッペ・ピネッリの死を巡り、極左グループ『Lotta Continua』が制作した自主捜査ドキュメンタリー「12 Dicembre」に関しては、その監督を引き受けています。

▶︎「僕は中絶に反対する」

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