『鉛の時代』かけがえのない記憶 P.Fontana Ⅳ

Anni di piombo Deep Roma Società Storia

1969年に起こった『フォンターナ広場爆発事件』の一連の捜査が、大きく方向転換をすることになったのは、事件から、なんと20年以上が経った1990年のことでした。

イタリア国家が提案した50000ドルと引き換えに事件に関する供述をした、OrdineNuovo(オーディネ・ヌオヴォ)のメンバー、マルティーノ・シシリアーノの取り調べが 進むなか、フランコ・フレーダジョヴァンニ・ヴェントゥーラと強い繋がりを持つ、デルフォ・ゾルジという新たな容疑者が「フォンターナ広場及び、ローマにおける一連の爆発事件」の実行犯として浮かび上がってきたのです。この人物は『フォンターナ広場爆破事件』のみならず、トリエステ、ゴリツィア(ペテアーノ)で起こった爆破事件、さらに1974年5月28日、ブレーシャで起こった『デッラ・ロッジャ広場の爆発事件の実行犯としても、カルロ・マリア・マッジ(オーディネ・ヌオヴォなどとともに嫌疑をかけられています。

『デッラ・ロッジャ広場爆破事件』とは、CIGL(労働組合)、PCI(イタリア共産党)も参加してブレーシャで開かれた、ネオファシストテロ反対集会に集まった群衆のそばにあったゴミ箱突如大爆発8人の犠牲者、102人の重軽傷者を出した『鉛の時代』を代表するテロ事件のひとつです。ゾルジはまた、69年夏に、フランコ・フレーダ、ジョバンニ・ヴェントゥーラが企てたと目される、汽車爆発事件にも実行犯として関わった疑いをも持たれています。

ヴェネト州出身のこの人物は、ナポリ東洋大学で日本語を専攻した、Ordine Nuovoのメストレ支部 に属していた男で、ローマの軍部及び内務省諜報とも密にコンタクトをとっていたとされます。空手と柔道を学んだ経験があり、『武士道』の研究を卒論とし、仲間内ではサムライとも呼ばれていたそうです。

事件当時、グループ内で主要人物としてアクティブに活動していたという証言が多くありますが、捜査が及ぶずっと以前1974年、ゾルジは奨学金を得て、すでに日本へ移住。大学でイタリア語教師をしたのち日本人女性と結婚し、通常、取得がきわめて難しい日本国籍をスピーディに獲得しています。イタリア政府は捜査、裁判の過程で、ゾルジの身柄引き渡しを日本に何度も要求しますが、日本政府はそれを拒絶したそうです。2001年本人不在の裁判で「終身刑」の判決を受けるも、2004年の裁判で証拠不十分で「無罪となり、現在では別名を名乗って、服飾関係、貿易関連の企業家として日本で成功しています。

ちなみにデッラ・ロッジャ広場事件に関しては、ごく最近、正確には2014年2月22日に、被害者の遺族から再審が要求され、主犯の嫌疑がかけられながら「無罪」となったカルロ・マリア・マッジ2018年に死去)、事件に関わったとされる諜報局のメンバー、マウリッツィオ・トラモンテの再裁判が行われることになりました。しかし実行犯とされたデルフォ・ゾルジは再審対象とはならず、今後永久に、この事件の捜査から除外される理不尽な経緯となっています。

foto storica strage Piazza Loggia Augusto Fenaroli - Fotografo: Stefano Cavicchi

ブレーシャ、デッラ・ロッジャ爆破事件  Fotografo: Stefano Cavicchi(コリエレ・デッラ・セーラ紙より)

さて、『フォンターナ広場爆破事件』に関するそののちの経緯は以下の通りです。

1992年、サント・ドミンゴに逃亡中のOrdine Nuovoの元メンバー、カルロ・ディジリオが逮捕されていますが、この男はテロに使用した爆弾をオーガナイズした、オーディネ・ヌオヴォ内の爆発物エキスパートとして 軍諜報と協力、CIAともコンタクトを取っていたことを自白しました。この自白により、ディジリオは『フォンターナ広場爆破事件』で唯一の「受刑者」となり、10年の刑に服すこととなりました。この「Zio Otto」(オットーおじさんーディジリオのコードネーム)は、自らがフォンターナ広場とブレーシャ(デ・ラ・ロッジャ広場)の爆破事件で使われた爆弾の性能を精査したことを認めたそうです。

さらにディジリオは、CIAがイタリア国内政治の不安定化を狙い、一連の作戦に加担していることをも告白。事実、ディジリオが従属していたUSAのCIAエージェントのDavid Carret(デイヴィッド・カレ)は、キリスト教民主党の当時の首相ルモールが、『緊急事態宣言』を出さなかったことで作戦は失敗したと考えていたことを、のちにカルロ・マリア・マッジも言及しています。

1994年には、前述のマルティーノ・シシリアーニが、『フォンターナ広場爆破事件』の爆弾の準備に関わったことを自白し、72年に起きたトリエステとゴリツィア(ペテアーノ)の爆破事件についても供述しています。このふたつの爆破事件については、前述のゾルジも取り調べを受けていた経緯がありました。シシリアーニは『フォンターナ広場事件』でアナーキストが当初逮捕されたことに関し、彼らがスケープゴートであったこと、『トリノ裁判所前広場の爆破事件』、『ローマ裁判所爆破事件』、『フォンターナ広場爆破事件』など、さらに10件の汽車爆破事件のうちの2件、トリエステとゴリツィア(ペテアーノ)の爆破事件が、「Zio Otto」によって製造された爆弾のおかげだったとも証言しました。

1995年、裁判官グイド・サルヴィーニに率いられた、カラビニエリにより構成された特殊部隊による捜査で、元SID(内務省諜報局)エージェント、ニコラ・ファルダの証言を得ることに成功しています。1969年にSIDを辞めたこの元エージェントは、『鉛の時代』を震撼させた数々の爆破事件が、内務省内部の特別オフィスと協力して準備されたこと、SIDがその爆破事件の実行者をオーガナイズしたことの詳細を語りました。

1998年2月11日のLa Repubblica紙を一部、引用します。

はじめはまったく馬鹿げた作り話だと考えられていた。70年代には、連帯している国々シークレットサービスが、これらの爆破事件の裏にいるなんて、と一笑に伏していた者たちもいたぐらいだ。しかしこの数日間、その笑い話が「実際に起こった事件」として裁判され続けている。アメリカ海軍の高官デイヴィッド・カレという名の、イタリアにCIAエージェントとして派遣されていたアメリカ人が、『フォンターナ広場爆破事件』から始まる一連のテロ事件における、政治-軍事スパイとしてミラノ起訴された。

現在、裁判官グイド・サルヴィーニが、同僚グラッツィア・プラデッラにミラノの爆破事件におけるデイヴィッド・カレの書類送検を行うことを決定し、それを遂行したところだ。それは463の捜査から作成された60000ページもの書類であった。

この10年の間、サルヴィーニ裁判官は、戦後のわれわれの歴史の最も暗い部分のいくつかを書き換えた。そしてそれはただ罪人を見つけるだけの目的でなされたわけではなく、裁判官により検証されたさまざまな要因により、グラディオの「違法性」を示す論文ともなっている。

残念ながら時効のため、検察を巻き込むことはできなくとも、時間で風化しそうになる、特に重要な犯罪ー政治、軍事スパイ行為はそのうちのひとつであるがーに関して、裁判官は粘り強く調査をした。サルヴィーニはこうしてNATO-USA情報活動におけるイタリアの責任者セルジョ・マネッティ(SID)、 すべてを白状したエージェント、カルロ・ディジリオを起訴することに成功もした。また彼らとともにYves Guerin Seracとステファノ・デッレ・キアリ(極右団体幹部)という二人の人物を、裁判へ召喚している。

サルヴィーニ裁判官と、容疑者たちの自白によって、この数年間、テロ事件がどのようにオーガナイズされたか:フェニチェ(不死鳥ー極右の若者たちで形成されたグループ)、Avanguardia Nazionale(アヴァングァルディア・ナチョナーレ:ネオファシストグループ)、Ordine Nuovoがただのオカルト武装集団ではなく、国政に属するCIAに関係した者たちに操られていたことが明白となった。

このシナリオで、『フォンターナ広場爆破事件』は、テロリズム以上事件となった。一連の事件において信頼できる証言者のひとりヴィンツェンツォ・ヴィンチグエッラは「69 年12月12日に起こった爆破事件は、政治と軍事の合意により、『緊急事態宣言』が発令されるための起爆剤であるべきであった」と語ったが、結局計画はうまくいかなかった。そこで、1973年の5月、ミラノを訪れたマリアーノ・ルモール元首相を『非常事態宣言』を発令し軍事政権を樹立させなかった償いをさせようとしたわけだ(カラブレージ殺害1年後、メモリアルデーに起こった、多くの市民を巻き込んだ爆破事件)。その爆発事件の実行犯、ジャンフランコ・マリアーノはアナーキストと称していたが、シークレット・サービスとファシストに強いつながりを持った男だった。

ディジリオが、ミラノのその事件の数日前にその計画をカレに話したところ、キャプテン・カレは取り乱した様子で「きっとまずいことになる。もし、彼のような国の重要人物を攻撃すると、捜査がさらに厳しくなり、計画が明るみに出てしまうのではないか」と心配したと言う。また1969年から1979年にかけてのあらゆるクーデターの計画をアメリカ人たちはただ知っていただけではなく、実際にアクションを起こしていた。ディジリオは「これらの計画はアメリカ人たちも研究しつくしたプロジェクトで、キャプテンCarretは、キリスト教民主党のルモールのような優柔不断な人物のせいで失敗した」と捉えていたという。(後略)

なお、ディジリオの証言に基づいたデヴィッド・カレの写真を手に、2001年ゾルジの弁護士2人USAを訪問しています。しかし写真と同一人物らしき男は、自分はチャーリー・スミスだと名のり、68年までイタリアに滞在したが、69年ヴェトナムに転勤したと証言しました。ちなみにこの訪問はサルヴィーニ裁判官が要請した調査ではなくゾルジ弁護人独自の調査を行った過程の出来事です。

以下、2001年、3月8日のCorriere della sera紙を一部引用。

「フォンターナ広場爆破事件にCIAの存在はない。この写真の男は別名の人物で、69年にはヴェトナムに勤務していた」とゾルジ弁護士は断言している。「わたしはデイヴィッド・カレではありません。チャーリー・スミスです。ほら、これがわたしのIDカードです」「わたしはカレの妻ではありません。わたしの名はドロレス・スミス、チャーリーの妻です」デイヴィッド・カレみなされた人物とそのはそう証言している。

これは被告人弁護のための弁護人独自捜査であった。ゾルジの弁護士は、その一連の証拠を80分のドキュメントフィルムとして、法廷に提出している。(中略)

弁護士が携帯した写真は、本件で最も重要な証言者と見なされるカルロ・ディジリオが、極右シンパのダリオ・ペルシックから提供された「自らが持つコネクションのなかで最も重要なCIAの人物、デイヴィッド・カレ」の写真として提示した米人夫婦とペルシックが写った2点の写真で、72年12月23日、チャーリー・スミスと夫人、ジョバンニの家にて、と裏書きがあるものだ。カレであると主張するディジリオの証言とは一致しないのだが、実は別の証言からその理由を推測すれば、符号もしている。「右翼シンパ、ペルシックは、その写真をジョヴァンニ・バンドーリの家で撮影したと言っている。その家ではカレを含む、すべての米人のことをチャーリー・スミスと呼んでいた」ディジリオはジョバンニ・バンドーリCIAのエージェントであると証言している。

ところでこのジョバンニ・バンドーリは2000年の12月21日の裁判で、55年から91年までヴェローナとヴィチェンツァの中間にあるNATOの基地運転手として働き、ディジリオ、マッジとも知り合った、と言っているが、ゾルジの弁護士がカレの写真を見せると「これはわたしの友人チャーリー・スミスと夫人のドロレスだ。彼らの住所を古い手紙から見つけ出した」とサルヴィーニ裁判官に提出もしている。この住所に関しては、司法側虚偽証言と見なして捜査を進めることはなかった。その住所の捜査をゾルジの弁護士が、今回行ったのである。

弁護士たちが実際その住所に行ってみると、驚いたことに「チャーリーと呼ばれるチャールズ」が存在することが分かった。(略)この夫婦は証言することを受け入れ、彼らの法的な通訳のもと、ジェファーソンのOskaloosa(オスカローザ?)の警察で尋問され、その様子を弁護士がビデオ撮りをしたというわけだ。

72年に撮影された写真から、ディジリオが、これがカレであると認めた「チャーリーとドロリス・スミス」は自らのIDカードをコピーし、68年までイタリアのヴィチェンツァに滞在したことは認めたが、局長ではなく、「倉庫番」であったと証言。バンドーリについては、イタリア人の友人であると言っている。局長であるカレについて問われると、「まったく聞いたことがない名前だ」と雲をつかむような答えをした。(略)

結局、今回提出された証拠品のドキュメンタリーフィルムから、ディジリオが自らのCIAの上司であったと証言したデイヴィッド・カレについて、カラビニエリは「その人物の存在を完全に証明することはできなかった。生きているかどうかもわからない」との書類を作成。その身元を明らかすることはできなかった。

同2000年、南アフリカに逃亡し市民権を獲得した、SIDオフィスDのジャン・アデリオ・マレッティは、La repubblica紙のインタビューに答え、極右グループが起こした爆発事件にCIAの協力があったことを認め、一連の虐殺は、1967年に起こったギリシャ軍事クーデター同様の状況を、イタリアに作り出すことであったと語りました。マレッティは、政府は情報を得ていたにも関らず、SIDに介入することがなかったこと、SIDエージェントはイタリアドイツ極右グループを連動させるために政治活動に潜入し、CIAの協力者として活動していたことについても言及しています。

このように『フォンターナ広場爆破事件』の背景を語る数々の有力な証言もあり、事件が起こった1969年から35年経った2004年まで裁判は続けられましたが、結局、主犯と見られ、1984年に判決を受けたフレーダ、ヴェントゥーラ(及びMSIピーノ・ラウティ)はもとより、実行犯と見られたデルフォ・ゾルジ、カルロ・マリア・マッジ、右翼団体、SID高官らすべてが、証拠不十分で「無罪」、あるいは実質的に「放免」となっています。

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