イタリアのテアトロをぶち壊したシモーネ・カレッラ

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シモーネ・カレッラ(写真左から2番目)の芝居をはじめて観たのは2001年、ローマ市営の劇場、テアトロ・インディアで上演された『Peppe er Tosto(ペッペ・エル・トスト』でした。これはローマのディケンズと呼ばれるジョゼッペ・ジョアッキーノ・ベッリのソネットからインスパイアされた芝居で、テアトロと呼ぶにはあまりに大がかりなイベントでした。テアトロ・インディアの敷地全て街角に見立て、数え切れないほど大勢の役者縦横無尽に動き回り、あちらこちらで芝居同時進行する、という度肝を抜かれるダイナミックな演出で、今でもその時の光景と、鳥肌が立つような興奮をありありと思い浮かべることができます。

まず、テアトロ・インディアという劇場そのものが、かなり特殊な風情を醸す空間です。そもそもその辺りは、テベレ川に沿って発展した産業地帯の建造物が、斜陽とともに打ち捨てられて、いつしか雑草が生い茂り、哀愁というか寂寥感というか、ある種の詩情がそこはかと漂う地域だったのです。今は使われないまま天空にそびえる、Italgasの円形の鉄骨インプラントは、その形の面白さから、地域のシンボルオブジェともなり、ローマを舞台にしたさまざまな映画にも登場します。そしてテアトロ・インディアは、その一角、もはや栄光を失った過去の産業地域に埋もれるように目立たず、自己主張することなく存在しています。

テアトロ・インディアの向こうにそびえるのが、今や使われなくなり、打ち捨てられた、Italgasのインプラント。

テアトロ・インディアの向こうにそびえるのが、今や使われなくなり捨てられた、Italgasのインプラント。写真は、テアトロ・インディアの工場跡の壁に白い靴をインスタレーションしたMimmo Paladinoの作品

そういえば、ローマの中心街を少し離れた場所を歩くと、必ずと言っていいほど、もはや使われていない比較的新しい(ローマでは1900年代初頭あたりの建造物でも新しいと表現するので)巨大なセメントの建造物が、荒れ果てるままに捨てられている光景に出会います。鉄の柵に何重にも鍵がかかった門を覗き込み、ガランとした寂しい灰色の空間、ペットボトルが風に吹かれてカラコロと鳴るのを見ながら、こんなに廃墟だらけなんて、ローマという都市そのものが、廃墟を増殖させるエネルギーを孕んでいるのかもしれない、などとも考えるほどです。

そしてその街に住むわたしたちも、あちらこちらに新たな廃墟が増え続けることに、何の違和感も覚えず、まったく自然なことだと気にも止めません。むしろ、あまりにモダンに発展した新興地を歩くと、人工的な偽りの街のように感じるくらいです。

さて、そのテアトロ・インディアですが、車で行くならともかく、ローマの中心街からそれほど離れていないというのに、交通の便が悪いのが難点ではあります。地下鉄ピラミデ駅を降り、車がガンガン飛ばして行き過ぎる通りを横切りながら、かなりの距離を歩かなければなりません。また、こんな劇場がこの地域に存在することを、ローマの人々は意外と知らず、途中、道に迷って道行く人に劇場の場所を尋ねても、「テアトロ・インディア? さあ、知らないなあ」と首を傾げられることも少なくない。いずれにしても、マガジーノ・ジェネラーレ地区と呼ばれるテアトロ・インディアへの道のりは、有名なライターが描いたグラフィティがあちこちにあったり、シックなエノテカ、ライブハウスがあったり、と散歩をするには面白い地域なので、道に迷うのも一興です。

「しかしこんな場所が劇場だなんて、それも市営だなんて・・・・。しかもローマなのにテアトロ・インディア(インド劇場)とは。ローマって、本当に脈絡がない」それがシモーネ・カレッラの芝居を観るために、テアトロ・インディアへはじめて出かけた際の、まず最初の印象でした。1950年代まで石鹸工場だったという産業跡地に造られた劇場は、やたら広く、崩れた建物の壁はむき出しのまま、荒れ果てています。上演時間が近づいて、あたりが暗闇に包まれてもほとんど照明がなく、敷地内の砂利道を、芝居を観に集まる黒い人影が、ぞろぞろと流れゆく様子は、多少異様でもありました。

テアトロ・インディア内の風景。写真はIlaria ScarpaのKing of Carrot Flowersより引用。

テアトロ・インディア内の風景。写真はIlaria ScarpaのKing of Carrot Flowersより引用。

テアトロ・インディアとシモーネ・カレッラ

テアトロ・インディアには、いわば、劇場そのものがコンセプチュアルなインスタレーションのような趣でもあり、ローマならではの、ごく自然な廃墟感と殺風景さに、ただならないインパクトがあります。このテアトロが、1999年当時、ローマ市営の劇場テアトロ・アルジェンティーナを任されていた舞台監督、また映画監督でもあるマリオ・マルトーネのディレクションのもと、意表をつく形でオープンした際は、「banalià(ありふれたこと)」を退屈、面白くない、美しくない、と厳しく断じる傾向があるローマのアーティストたちにも、おおいに歓迎されました。この項の後半にマルトーネがシモーネ・カレッラについて書いた記事を訳しましたが、テアトロ・インディアのそもそものアイデアは、自身にカレッラの芝居に参加した経験がなかったのなら生まれていない、と言い切っています。

イタリア演劇界の小柄な巨人、シモーネ・カレッラは2001年、その、自らのアイデアの延長にあるテアトロ・インディアを舞台に、「Peppe er Tosto(ペッペ・エル・トスト」という大がかりな芝居を繰り広げ、枯れ果てた場所に生命の閃光が瞬く異空間を創出、大きな喝采を浴びました。なにしろそれは、ひとつの街が広い敷地を持つ廃墟、テアトロ・インディアのなかに忽然と現れ、その架空の街に住む、架空の住人たちが、好き勝手にそれぞれの物語をRomanesco (ローマの方言)で、めまぐるしく騒がしく語る、という芝居なのです。

貪欲で無礼、アイロニーに満ち、時にはきつい悪態もつく、毒々しくも賑やかに生きるローマの庶民のカオスが、良い意味で節操なく、あふれる「詩情」として押し寄せてきました。のちに聞いたところによると、この芝居には役者だけでなく、建築家やアーティストなど芝居の素人も参加していたということでした。

その時に観た芝居の破天荒な印象があまりに強く、イタリアの演劇に革命を起こした男として名高いシモーネ・カレッラは、きっと「いかにも前衛的で、芸術家然とした、鋭く知的、もしかしたら乱暴者」なのだろう、と想像し、できればあまり出会いたくない、などとも考えていました。彼は、たとえばテアトロ・ヴァッレを占拠して、一種の社会現象を起こした若い演劇世代にも大きな影響を与え続け、70年代を中心とした彼の過激で、華々しい活動は、アートに関わる人々の間に語り継がれる伝説でもあり、敷居が高く感じていたのも事実です。

ですから、その後知り合う機会を得て、ご本人とお話しした際、知的ではありながらも、あまりに親切でイージー、にこにこ優しい方だったので、拍子抜けした次第です。この、いつも微笑みを絶やさない人柄と、仕事への情熱を失わうどころか年を経るほどに、さらに精力的にプロジェクトを進める「永遠の現役」としての生き方、どんな作品にでも面白い要素を見つけては褒め、権威的にふるまうことがまったくないシモーネ・カレッラに、誰もが魅了されるのだ、と、さまざまな人から聞くことになります。「天才」という評価もあちこちで聞きました。

実はこの、イタリアの60年代後半から現在まで、イタリアの芝居と文学、特に詩の分野、視覚芸術の世界に影響を与えてきたシモーネ・カレッラ氏に、インタビューをさせていただきたい、とお願いしていました。「いいよ。いつでもおいで」と気軽に引き受けてくださったので、まず、彼の今までのお仕事をリサーチさせていただいたのち、涼しくなったらお邪魔しようと思っていたところです。

ついこの間まで、ヴェスパに乗ってローマ中を颯爽と走り回ってらしたし(時間には必ず遅れていらっしゃいましたが)、たまたまご一緒した吟遊詩人コンサートでは、「面白かった!」とはしゃいでらしたし、わたしが知るシモーネさんは、飄々とですが、時々歌ってみたり、踊ってみたり、いつもエネルギッシュでいらしたので、突然の訃報に耳を疑いました。かつて大病で入院されていたことは知っていても、誰もが「シモーネは不死身。前より元気になった」と断言し、実際、まだまだ若く、いつもお元気だったので、突然こんなことになるとは、まったく想像しませんでした。彼を知っている誰もが衝撃を受け、ローマから彼がいなくなるなんてあまりに寂しい、と肩を落としました。

が、しかし、シモーネ・カレッラに最も似合わないのが、ノスタルジーであり、感傷でもあります。60年代後半から、あちらこちらで、めちゃくちゃに芝居の固定概念をぶち壊し、とても魅力的なamica(女友達)がいつも傍にいて、同世代にも若い世代にも愛されたこの人物にインタビューを取らせていただくことが、もはや叶わないことを、わたしは悲しく思いますが、それでもやっぱりシモーネ・カレッラには感傷は似合わないのです。ですからこの項では、私がインタビューのために用意したリサーチをもとに、シモーネ・カレッラと彼が生きた時代の空気を辿ってみることにしたいと思います(Doppiozero、ラ・レップブリカ紙、コリエレ・デッラ・セーラ紙、イル・マニフェスト紙なども参照しました)。

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晩年のシモーネ・カレッラ。

アディオ、シモーネ・カレッラ。50年間、イタリアの演劇に革命を起こし続けた男

これはラ・レプッブリカ紙がシモーネ・カレッラの追悼記事につけたタイトルです。コリエレ・デッラ・セーラ紙は詩人たちの友人シモーネ・カレッラのアヴァンギャルド」というタイトルで追悼記事を掲載しました。

彼が演劇の活動を始めたのは60年代後半、この時期、日本でも「状況劇場」、「天井桟敷」などアングラと呼ばれる新しい演劇が、熱狂的に若者たちに受け入れられた時代ですから、シモーネ・カレッラたちが巻き起こしたアヴァンギャルド・ムーブメントが、イタリアの若者たちの間を席巻した時期と、ほぼ同時期なのは、イタリアと日本の戦後の動きを知る要素として、興味深く思います。

日本と同様、第2次世界大戦敗戦後に生まれた、イタリアのベビーブーマーたちを熱狂させた「革命」の理想は、政治思想だけでなく、文化思想にも大きく影響。イタリアでは『イタリア共産党』が選挙のたびに躍進し、大規模ストライキやデモで、学生、労働者たち一致団結して自己主張しはじめた時代、『鉛の時代』バイオレンス・カルト吹き荒れる前の静けさの中、シモーネ・カレッラは、そののち彼の人生となる「アヴァンギャルド演劇」の夜明けを彩るシアター・グループと出会うことになりました。

カレッラは1946年、南イタリアのプーリア州、カルボナーラで生まれています。カレッラの父親はヴェネゼイラへの出稼ぎで一家を養っていましたが、それでも暮らし向きは一向に良くならならず、母親はローマへの移住を決意。父親が帰国したところで、一家でローマへ移り住むことになりました。戦後、南イタリアを襲った極端な貧困を逃れ、北イタリア、さらには欧州の他の国へと移民する人々が大勢いた時代です。

若く、貧しく、好奇心に満ちたカレッラは、ローマへ移住するとモンテマリオの高校へ通いはじめますが、途中結核を患い入院したため卒業できず、のちに独学で高校の卒業資格を得ています。「映画館で『エデンの園』を観ている時に気持ちが悪くなって入院したので、以後、その映画を観ようという気にならなかったね。それに、サナトリウムの描写のせいで、トーマス・マンの『魔の山』も読む気にならなかったよ」とカレッラはインタビューで答えています。退院した後、彼はスペイン広場のごく近くにあった、ロベルト・カプッチのメゾンに使い走りとして働くことになった。オートクチュールのデザイナーだったカプッチを、カレッラは、非常にアーティスティックな人物でもあったと、当時を振り返ります。

さて、カプッチのメゾンで働いていたティーンエイジャーだったカレッラは、メゾンの仕事を終え帰る道すがら、スペイン広場を通るたびに見かける、長髪で奇妙な服装でたむろする集団に好奇心を抱き、自ら近づくことになりました。「その中に、素晴らしく美しい男がいてね、彼が言うんだ。『僕が見つめる女の子が、頬を赤く染めるかどうか、賭けようじゃないか』とね。そして彼は必ず成功する。彼に見つめられた女の子はみんな頬を赤らめたよ!」

長髪で奇妙な服を着た男たちは、当時マドンナ・デイ・モンティ通りの倉庫でアバンギャルドにパフォーマンス活動していた「テアトロ・ディオニソス」のメンバーで、スペイン広場で彼らと仲良くなるうちに、カレッラは自然に「ディオニソス」に通うようになり、当時、ふつふつとわき上がろうとしていたアヴァンギャルド演劇の熱気に、自らを巻き込んでいきます。

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「テアトロ・ディオニソス」のメンバーとして、スポレートのフェスティバルに参加した頃のシモーネ・カレッラ。

「そもそも演劇は好きだったんだ。テアトロ・クイリーノテアトロ・エリゼオテアトロ・ヴァッレにはしょっちゅう通っていた。エリゼオでは僕の遠い親戚がバールのキャッシャーをやっていたので、すべての芝居を観に行ったよ。そうそう、フランク・シナトラのコンサートにも行った。その時のことだけど、不意に観衆にざわめきが起こり、振り返ると、リズ・テーラーがいたんだよ。ローマで『クレオパトラ』を撮影ちゅうだったんだね。そのあとにすっかり酔っ払ったリチャード・バートンもやってきた。さらには劇場のカメリエレに紛れ込むことにも成功してね。フランク・シナトラの楽屋へも忍び込んだんだ。シナトラの首に、火傷の跡のような傷跡があったのを覚えているよ。何よりすごくいいコンサートだった」

「ちいさい頃から、人前でおどけるのが好きな子供だったから、教会の僧侶たちは、僕にピエロを演じさせたりもしていたね。もちろん、僕はいつでも目立ちたがりだったから」

当時の教皇にまで挑発的なパフォーマンスを企て、逮捕者まで出した過激演劇集団「ディオニソス」は、街ゆく人々を巻き込む実験的なパフォーマンス、ストリート・シアターで、やがてローマ中に名を馳せるようになりました。1967年、カレッラがディオニソスのメンバーとしてはじめて参加した、スポレートで開催されたフェスティバルでは、「貧しい演劇」で名が知れ渡っていたイェジー・グロトウスキーとも共演。「フェスティバルに参加した役者や演出家たちとは、一緒に酔っ払ったり、マリファナを一緒に吸ったり、すぐに友達になったが、グロトウスキーはいつもひとりで、休むことなくタバコを吸って、誰とも喋らず、まるで僧侶みたいな人物だった」

「その時代、僕らには、社会的な価値観に合わせなければならない、こうしなければならない、というような義務感まったくなかったんだ。皆、好奇心と興味だけで動いて、同世代の友人同士が隔たりなく自由に交流していたし、僕はそのおかげで「ディオニソス」を通じて、アヴァンギャルド・ミュージックに出会い、アートに出会い、詩ー文学に出会った。また、1968年には「Gli Uccelliーリ・ウッチェッリ(小鳥たち)」というグループとも友達になったよ。彼らとは一緒に聖イーヴォ・アッラ・サピエンツァの鐘楼を「占拠」することに成功したんだ。

ウッチェッリのメンバーはローマ大学サピエンツァの建築家の学生たちで、聖イーヴォ・アッラ・サピエンツァの、つまり巨匠ボロミーニの設計した鐘楼の頂上を「占拠」するということは、建築を目指す彼らにとっては、きわめてシンボリックなことだった。3日間も粘った、ボロミーニの鐘楼の頂上の「占拠」は、僕にとってもとてもファンタスティックな経験だったよ」(DoppioZero インタビュー)

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当時、聖イーヴォ・アッラ・サピエンツァ、ボロミーニの鐘楼を「占拠」した、建築科の学生グループ『Gli Uccelli』。この時代、過激なことを企てるグループとして、学生たちの間では、一目置かれていた。

その時代から約50年が経ち、社会は大きく流れ、風潮が変わっても、若き日のカレッラが友人たちと企てた文化的、あるいはシンボリックな「占拠」に似た抗議が、ローマでは、今でもたびたび見られます。そしてその「占拠」を企てるのは、もちろんカレッラの生きた時代を知らない若い世代です。何よりもまず、日本人のわたしにしてみれば、60年〜70年代の精神がいまだに脈々と受け継がれていることに驚きますが、ローマという都市、そしてそこに住む人々は、社会的にも、人間的にも、基本的にルールを嫌う傾向にあり、世界の変化とともに、ローマを巡る社会情勢が少しづつ窮屈に変化を遂げてはいても、いまだ隙間、というか、社会の緩みを大目に見るおおらかさいい加減さがあることをわたしは好ましく思っています。

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