街を散歩するにはちょうど気持ちよい季節。画家、そしてミュージシャンでもあるディエゴ・マッツォーニと一緒にフラミニオ地区を歩いてみました。というのも彼に会うたび、その繊細で、ちょっとマジカルな視点に、なるほど、このようにローマに接するともっと多くのことが見えてくる、とおおいに学ぶことがあるからです。また、子供のころ、『鉛の時代』をライブに過ごした彼の記憶から、街角に充満していたその時代の空気を、多少とはいえ、窺い知ることもできました。
フラミニオ地区はポポロ広場の門からはじまるフラミニオ通り沿いで近年、ローマの文化の中心地として発展した地域です。ディエゴ・マッツォーニの生家はそのフラミニオ地区、Zaha Hadid(ザハ・ハディッド)の設計による国立現代美術館「MAXXI」から歩いて約10分、閑静な住宅街のなか、洗練した店が点在するシックな街並みにあります。現在では建ち並ぶ建物も修復され、スーパーエレガントな雰囲気を醸すフラミニオ地区ですが、彼の子供時代はきわめて庶民的な下町だったそうで、今でも街角を歩くと、昔から住んでいる人々の土地に根づいた生活が垣間見え、昔ながらのバールやTabacchi(煙草屋)には近所の人々が集まって長々と世間話、いたってのんびりとした風景が広がります。
さて、ディエゴとわたしは誕生日が同じという奇遇から、それほど頻繁に会うというわけでなくとも、思い出したように連絡を取り合い、近況を報告しあう友人です。小説『パッショーネ』に描いた芸術家たちのキャラクターや状況を構想する際、ローマに住む芸術家の視点から、いろいろ貴重なアドバイスもしてくれました。
そのディエゴに久しぶりに電話をかけて「お茶でも飲もう」と誘うと、「生家のあるフラミニオ地区辺りを散歩してみないかい」というのが彼の提案でした。美術館やAuditorium(アウディトリウム:レンツォ・ピアーノ設計の市営音楽ホール)に行く以外には、わたしにとってほとんど縁のない地区なので、好奇心も手伝って、カラッと晴れ渡った朝、約束の場所に出かけることにしました。待ち合わせたのは、空に向かってのびのびと枝を広げる大木がすっくと立つ街角の広場。ベンチには、朝からのんびり日向ぼっこをする老人が並び、広場を横切る人々は、互いに朝の挨拶を交わしながら行き過ぎます。エスプレッソの香りが漂うバールからは、どっと笑い声。
朝陽が目に眩しい午前10時、ディエゴにしては珍しく、待ち合わせの時間ぴったりに、最上階の壁のフレスコが美しい建物から「時間通りだろう。生まれた家の前だとさすがの僕も遅れないよ」と手をあげてにこやかに現れました。ところで今回は、わたしが口を挟まずとも、いつも次々といろんな話題を見つけては語ってくれるディエゴの話を、インタビュー形式ではなく「モノローグ」で書いてみることにします。途中、順不同に挟んだ写真は、すべて彼の作品です。
ローマ、僕が育った時代
おはよう。けっこう久しぶりだね。元気そうじゃないか。僕もまあ、とりあえずは元気にしていたよ。去年の暮れに階段から落ちて大怪我して、しばらく街を歩き回ることもできなかったけれど、今はすっかり良くなったしね。打ち所が悪ければ、ひどいことになるところだったと医者に言われたけれど、運が良かった。厄払いってところかな。
しかし今朝は、このうえなくいい天気、まさに快晴だね。雲ひとつなくて、風が爽やかだし。たまにこうやって朝に誰かと待ち合わせをするっていうのも、なかなかいいもんだ。え? 散歩しながらの話を録音していいかって? それを書くの? まあ、別にいいけれど、そんなことを急に言われても、書けるような内容の話ができるかな。何も考えずにここに来たんだよ。いつもどおりでいい? そう? じゃあ、話してみようか。きっと話しているうちにあれこれ思いつくだろうから。
僕はローマ、フラミニオに生まれてこの街で育ったから、Romano (ロマーノ:ローマっ子)と言えばそうなんだけれど、正確に言えば純粋なロマーノとは言えないかな。母はナポリの出身なので、僕にはナポリターノの血も半分流れているわけで。僕の家族はイタリアの各地から、ここローマに来ているんだよ。例えば父方の祖父はプーリアの人間、ノルマンディみたいに赤いヒゲが生えていて、僕の目の色からは想像できない明るい瞳の目をしていた。実際のところ、何世代にも渡ってローマに住み継いだ純粋なロマーノというのは、ごく少数しかいないと思うよ。みな、イタリアの各地からこの街にやってきて、それぞれに出会って家族を形成し、やがて少しづつロマーノになるんだ。僕はまあ、そういうわけで自分のことをロマーノだと思っている。
君も知っての通り、僕の母は歌手で、父は演劇の俳優。でも母も父と同じように、もともと演劇の世界を目指していて、一時期は脚本も書いていたんだ。彼女は少し特殊な、変わった声をしていたから、歌手として成功したし、僕も彼女の声、歌う唄がとても好きだった。ナポリの古典的な歌唱法で民謡も歌えたけれど、イタリア北部に暮らしていたせいで、フランス的というか、洗練されたセンスも兼ね備えていたからね。息子の贔屓目ではなく、かなり面白い歌手だったと思う。残念ながら、ずいぶん早くに亡くなってしまったけれど・・・。だから僕が憶えているのは、まだ娘のように若い母の姿なんだ。
僕は絵描きだし、音楽もやっているから、役者と歌手である両親からまったく影響を受けなかった、といえば、それは嘘になるかな。人生というやつは、いつだって自分が生まれ育った環境に左右されるものだからね。と同時に、本人のパーソナルな本質からだって人生は作られもして、僕の場合、自分自身が経験した出来事の数々から、自分の人生を発展させた部分も大きいと思う。
ほんのちいさい子供のころに両親が離婚、僕は父方の祖父母の家、つまりこの地区で育ったんだけれど、夏休みは父親のいる、例えばサルデーニャ、あるいは母親のいる、例えばトリノを行ったり来たりして過ごしていた。彼らはあちこちの劇場で仕事をしていたから、僕はまるで父の劇団の一員のように、舞台の仕事でイタリア国内を旅して暮らす、という他の子供とは違う少年期を過ごした。長い夏休みの間、父や母の劇団の舞台美術の仕事やフェスティバルの準備を手伝ったり、役者、舞台美術、人形劇のマスターたちに囲まれて、皆に仕事を教えてもらったり、遊んでもらったり、と賑やかに育ったんだ。特に印象に残っているのは、父親が頻繁に行っていたサルデーニャかな。そのころサルデーニャにはまだ、昔ながらの大衆演劇があってね。伝統的なその舞台美術の色彩が目に焼きついているよ。
とはいうものの、僕が人生ではじめて深い興味を抱いた、と言えるのは色彩、つまり「絵」よりもまず「音楽」なんだけどね。今だって2時間、音楽を聴かないと禁断症状がでるくらいで、これは本当だよ。楽器だって物心ついたころからあれこれ試して、はじめてコンサートに出演してドラムを演奏したのは、なんと13歳! このあたりのフラミニオの子供たちが集まりバンドを作って、毎日練習していてね。僕以外の他のメンバーはみんな年上、15歳ぐらいだったけれど、その頃の僕らの演奏はなかなか素晴らしく、ちょっとした人気者でもあったよ。ビートルズやジョン・マイヤー(メイオール)のカヴァー、僕は特にブルースが好きだったな。時は77年、78年。学生たちまで武装しての騒乱に飲み込まれたローマの巷に、ブルースが溢れていた時代だ。
そうなんだ。残念ながら、77年、78年、僕の子供時代のローマには、バイオレンスが吹き荒れていた。例えば家族の間でも、近所でも、政治的な対立ばかりだったよ。「おまえはコミュニストだ」「おまえこそファシストだ」そんないがみあいばかり。どこもかしこも今にも爆発しそうな一触即発の憎しみに溢れていた。フラミニオ地区のこのゾーンはとても庶民的、さらに、デ・キリコもスタジオを持っていたようなアーティスティックな地域だったにも関わらず、なぜか極右のグループが多くてね。
社会主義の大きなムーブメント、MSI (Movument Sociale Italiana:イタリア社会運動ー極右勢力)が、PCI『イタリア共産党』と同じくらい強い勢力を誇っていた時代だ。こんな下町にまで、ムッソリーニのファシズムをルーツとする勢力がはびこっていた。ファシズムはそもそもポピュリズムだし、社会主義とも強く結びついていただろう? MSIー極右団体の本部だったのは、ほら、見えるだろう? あの建物。当時、あそこにあってね。出入りするやつらはみな、血ばしった目つきで辺りを睨みつけながら鉄棒や棍棒を持ち歩くという、見るからに危険なやつらだった。子供の僕は眼前で血しぶきが上がるような、ずいぶん暴力的で恐ろしいシーンを見たよ。
いまの子供たちは、コンピューターがもはや日常だし、遊ぶにしても、何をするにしても僕らよりも大きく選択肢が増えたせいで、僕らの子供のころとは違う感性、分別の観念が成熟している。いわば「ポスト」の時代の子供たちだよね。「ポスト」というのはもちろん、「ポストモダン」という意味で使っているんだけれど、僕らはまだまだプレ「ポスト」(ポスト以前)、発展途上真っ盛りの子供たちだったとも言えるかもしれない。
しかし、かなりリアルに、ローマの70年代以降の時代の変遷を見てきているからね。リアリティを感知する能力、その「勘」に関しては、今の子供たちよりもずっと成熟していたかもしれないよ。77年あたりの僕らは、社会を構成する市民のちょうど中間、何も分からない幼児ではなかったし、大学生でも、大人でもなかった。したがって学生運動も、それが存在したことは自分の目で見ているから記憶に新しいが、実体験としては知らないし、暴力的な政治衝突も経験がない。
僕らのジェネレーションというのは、いつもそうなんだ。なんだって中間ーVia di Mezzo。僕らより年上のジェネレーションは、重要な歴史の真っ只中に生きて、その事件を自分自身の事件として体験、ある意味歴史を動かそうとした主人公でもあった。子供だった僕らは、彼らが動かそうとした歴史を、受動的に生きただけだからね。しかし正直に言うなら、多分それで僕は救われた。政治的な流れに無理矢理組み込まれることなく、喧嘩、諍い、流血、もちろん戦争を今まで実体験としては知らず、むしろスピリチュアルな世界に憧憬を抱くことができる時代に成長したわけだから。
なんてこった! このフラミニオ地区が、ひどく暴力的な地域だったなんて。いいかい。今僕らが歩いているこのあたりの通りは、大げさではなく、いつも血まみれだったと言ってもいいぐらいだ。この場所を通るのが苦痛だったよ。でもそんな暴力的な恐ろしい世界を見たのは、子供のころだけだったから。それ以降、見なくて済んで助かった。70年代はオイルショックなんかもあって、社会が困窮していたし、多分そのころのイタリアの経済状況は、例えるなら今のギリシャのような状況だったんじゃないのかな。でもその騒乱の時代のあと、ローマは少しづつ平常の社会に戻っていったわけだからね。そのためにどのような政策が施されたのか、子供だったから詳細は理解していないが、80年代には、産業も再び活気を帯びはじめ、僕らはその時代に成長した。