ローマ郊外にグラフィティで光を取り戻すアートゲリラ:カルロ・ゴーリ

Cultura popolare Deep Roma Intervista Società

ところでこのトル・サピエンツァ、そもそもはどのような地域だったのですか?

もともと、ここはローマ郊外の田舎で、野原や林が広がっている場所に過ぎなかった。1920年、その田舎に、政治家でもあり、そしてイタリアの国有鉄道の駅長でもあったミケーレ・テスタが、やって来たのがはじまりでね。当時はイタリアをファシズムが席巻しようとしていた時期だったんだが、ミケーレ・テスタは強固な「アンチファシスト」で、当時最も困窮した状況におかれている人々たちのために協同組合を設立、この地区に困窮した人々のための家、学校、病院、そして薬局、教会などの公共施設建設を考案した。彼はこんなにちいさい田舎の地域でも、農耕で街を発展させることができる、と考えたんだね

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アーティストたちが集まって、少しづつムラレスを仕上げていった。MAAM-Metropolizに参加するアーティストたちが、Morandi a coloriにも多く関わっている。

ただ、ファシストたちまでいつの間にかこのミケーレ・テスタのプロジェクトに入り込んできて、この土地で投機をはじめるようになる。つまり当時、絶対権力を掴もうとしていたファシストたちが、この場所を食い物にして利益を得ようとしたため、農耕を中心とする田舎町であったこの地域の雰囲気、方向性がガラリと変わってしまったんだ。戦後、50年代には大規模工場が次々と建設され、さまざまな産業がこの地域で発展しはじめることになっただろう? 例えばウォクソン、当時のイタリアのテレビの大部分を製造していた工場だとか、現在Metropolizとなっているフィオルッチ(現在MAAMーMetropolizのある)、あるいはペローニとか、イタリアの大企業が続々と工場を造った。もちろん大規模工場が出来たということで多くの雇用を生んだから、イタリアじゅうからたくさんの人々がトル・サピエンツァに仕事を求めてやってくることになった。

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ジョルジョ・モランディへのオマージュが建物の数カ所に描かれている。Framcesco piskv Persichellaの作品 Antropos協会とMorandi a coloriとのコラボレーション

しかもそのころ違法建築は、まあ普通のことで、ここに集まった人々は、思うがままに自分勝手にちいさい家、つまりバラックを建てて、計画なく、無秩序に街が発展していったんだ。しかしそのころは産業も循環し、仕事もあったから、トル・サピエンツァに住む人々は皆、しあわせだったかもしれないね。それにそのころにはこの地域の文化的、社会的な活動が発展しているんだけれど、それはある意味、政治的な動きから発展したかもしれない。工場で働く人々の労働組合はうまく機能していたし、当時、この地区には『イタリア共産党』の働きも多くあったからね。人々は仕事を終えると音楽を聴きに出かけたり、教会へ行ったり、図書館へ行ったり、安定した毎日を過ごしていた。

しかし、次第に産業が低迷しはじめると、地域の状況は大きく変わっていく。70年代後半から90年代までの間に、経済循環が次第に立ち行かなくなると同時に、この地域にデプレッションが訪れることになる。工場閉鎖、あるいは移転、倒産となると、人々も仕事のある地域へと移っていくようになる。あるいは仕事を失ってしまい、動くにも動けない、という人々も現れるようになるだろう?

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将来的には、文化センターを囲む公営住宅の壁、すべてを色とりどりにしたいとゴーリたちは計画している。モランディに行けば、面白い絵がある、とたくさんの人々が訪れるようなオープン・ミュージアムにするのが目標だ。

現在文化センターのあるこの公営住宅はいつ頃建築されたものなのですか?

70年代の終わりから少しづつ形成されているんだよ。この公営住宅にやってきたのは、産業も活発なころ、この地域がさらに発展することを期待してやってきた人々や、当時バラックに住んでいた人々や、違法に占拠をしていた人々がここへ越してきた。公共設備が整った新しく建てられた公営住宅に住むということは、当時、非常に恵まれたことでね。トル・サピエンツァ地区の他の地域よりずっと豊かに暮らすことができたんだ。しかしこの地域がさびれていくにしたがって、それが逆転していくようになった。この公営住宅に住む人々は、生活に困窮した、教育も充分でなく、あらゆる社会問題を引き起こす人々と捉えられるようになったんだ。現在、僕たちが文化センターを運営している場所は、この公団のための施設、たとえば図書館をはじめ、薬局やバール、人々の日用品を売る店が並んでいたんだが、ビジネスが成り立たず、閉鎖、あるいは移転せざるをえなくなった。

僕たち文化センターを運営しているメンバーは、このジョルジョ・モランディ通りに流れるデカダンな空気を、ヒューマニティ、つまり人の温かみで、一新したいと思っている。僕ら以外に文化活動をしている、Antropos(アントロポス)アソシエーションという、この地域の周辺の少年たち、子供たちの社会問題を解決しようと動いているグループがあってね。僕らも彼らと共同で活動を行っている。かつてトル・サピエンツァはミケーレ・テスタという知識人に創られた、十分な文化施設もある、居心地のいい場所だったんだよ。その空気を再現させることは不可能ではないんじゃないかな。それに若い世代や子供たちとコラボレーションすることは、未来を作っているということだからね。

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フェスタが開催された日、文化センターの踊り場の一角に誰でも自由に絵が描ける壁があり、アーティストも子供たちと一緒に、絵を描いてはさらに上書きして楽しんでいた。

ゴーリさんは、もともとこの地域の出身なんですか?

いや、実は北イタリア、ノヴァラの出身、それからミラノなんだ。そもそもは演劇をやっていたんだよ。もちろん、絵はずっと描いていたんだけれどね。ミラノで暮らしている時は、俳優でもあり、パフォーマンスの監督もしていた。もちろん劇場で演じることも素晴らしいことだけれど、僕自身はストリート・シアターを主にやっていてね。街角や公園で、他の何十人もの仲間たちと1日がかりの芝居を開催したりもした。街角を占拠してゲリラ的に芝居をすることは、すぐそばに人間の息遣い、感情の動き、脈拍、温度を感じられて、生のコミュケーションが実現できる。表現として限りなくヒューマニスティックだと思ったんだ。

このトル・サピエンツァに来たのは、まあ、たまたまかな。2002年にミケーレ・テスタ・アソシエーションにオーガナイザーとして招かれたことがきっかけだったんだけれどね。トル・サピエンツァに来てみて、ここで文化活動をしているアソシエーションはミケーレ・テスタというグループだけで、これじゃ活気がなさすぎる、大きな流れは生まれないと思った。じゃあ、僕も彼らの流れに加わって、一緒にこの地域を変えていこうと考えてね。そして彼らとともに企画したのが、Tor Sapienza in Arteというプロジェクトなんだけれど、当初10日間の予定のフェスティヴァルが結局現在まで続いているということさ。

はじめからモランディ通りのこの建物で文化センターを運営していたんですか?

いや、ここに来たのは2003、2004年のころかな。こんなに面白い構造の建造物になのに、当時はダンスホールぐらいにしか使われていなくてね。この地区には昔から住んで、地域の時代を変遷を体験してきた人々も多くいて、それぞれの人生、それぞれの生活というものがある。Morandi a coloriーモランディ通りを色とりどりにーというムーブメントはまだはじまったばかりだけれど、ムラレスを通じて、アートという人間の表現が、ここに住む人々の生活の一部になればいいと思っている。将来的にはこの通りに建ち並ぶ、すべての公営住宅の壁すべてにムラレスを描きたいとも思っていて、それが面白ければ、たくさんの人が観に訪れるようになるだろう? そうすればこの地域に活気が戻るじゃないか。影に光が差す。このモランディ通りがオープン・ミュージアムになるのは素晴らしいことだと思うんだ。

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『モランディを色とりどりに』のオープニングフェスタには子供たちが自由に絵を描ける場所も用意された。

ムラレスが描ける壁は際限なくあるし、建物の構造も非常に個性的。しかもどこにでも絵が描けるような空間が広がっていて、駐車場も問題ない。たとえばライターたちが一週間に一回ここにやってきて、少しづつ絵が描けるという、最高の環境だよ。「壁」というものは、本来人間と人間を隔てるために存在するものだろう? たとえば格差であるとか、社会空間を分けて行き来できないようにするとか。「排斥」を象徴するものだ。そんな大人たちが作った壁を、唯一有効に使って遊ぶことができるのは、子供たちじゃないか。好きなだけクリエーティブに落書きして壁で遊んで、「」を開かれたものにする能力がある。彼らはリミットを打ち壊してしまうんだ。だから僕らは、自分たちのなかに眠る、その子供たちのスピリットで、いつの間にか暗く閉ざされてしまったこの空間を開いていこうと考えている。この場所からはじめて、そのスピリットをやがて大きく広げていく。それが目標だね。

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ムラレスを描くアーティストたち。

もちろん、予算も含め、絶え間ない困難があるよ。毎日が作業だしね。そして自分たちがやっていることに、自分たちだけが満足してもいけないとも思っている。この公営住宅の住民がもっとたくさん参加してくれるようにならないと意味がないから。ジョルジョ・モランディ通りは問題が山積みだ。ドラッグの問題暴力確かに存在するし、住人たちが恐れる気持ち理解できる。しかし、たとえば文化センターの前にある広場で「モランディを色とりどりに」のオープニングパーティなどをすると、「何か面白そうなことをやっている」と人々が窓から顔を出して、通りまで降りてきて、空気がガラッと明るくなる。こうして少しづつ、少しづつ、空気が変わっていけばいいと思っているんだ。

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トル・サピエンツァ文化プロジェクト以外にも、僕らの文化センターでは、さまざまなイベントを行っている。映画の上映会をしたり、コンテンポラリーダンスのパフォーマンスをしたり、写真、絵画の展覧会を開いたり、それに日本語教室を週に一回行っているんだよ(なんと、ゴーリ氏の奥さまは日本人女性!)。カーニバルのアートフェスティバルが開かれた時は、Metropolizの住民も加わって、トル・サピエンツァ地区の隅々にインスタレーションをクリエートしたりもしたんだ。英国人を含む63人ものアーティストがこの地区の子供たちとともに、老人ホームや学校、広場や通りで作品を創ったりしてね。この地区でソーシャルな文化活動をするのは、まったくやり甲斐のあることだよ。さらに、僕らメンバーだけでなく、いろいろな人々にこの文化センターを使ってもらいたいと思っている。どんどん企画を持ち込んでほしいし、僕らもそれに応えていくつもりだ。たとえば日本人のアーティストが参加したいと言ってくれるならいつでも大歓迎だよ」

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わたしはゴーリ氏の奥様が日本人だと知ったときは、おおいに驚きました。そう言えば、ゴーリ氏と雑談している最中、「日本で展覧会をしたことがある」ということをおっしゃっていたうえ、日本の政治状況も詳しく把握していらっしゃったので、イタリア人にしては珍しいことだとも思っていたのです。何より奥さまに、ローマでも、簡単には事が運ばない特にコアな地区で、ゴーリ氏がMAAMーMetropolizのオーガナイザー、またトル・サピエンツァの文化センターの運営と、ソーシャルなアート活動をすることを、どう考えていらっしゃるのか、ぜひ聞いてみたいと興味を抱きました。

実際にお目にかかった奥さまはまったくの自然体、「彼には自分のやりたいように、自由に好きなことをやってほしいと思っているし、わたしも楽しんでいます。住民の方々はとても気さくないい人ばかり。すぐそばの教会には、教皇がいらしたこともあるんですよ」と、ニコニコ笑いながらおっしゃっていました。他のお仕事をしながら、時間があるときは文化センターの運営、またムラレスの制作も手伝っていらっしゃるのだそうです。

ローマの郊外は、確かに危うい問題を多く抱えていますが、奥さまがおっしゃるように、住む人々はみな、気取りがなく気さく。昔ながらのRomanesco(ローマ弁)が聞ける場所でもあり、本来のローマの庶民らしさがいまだ色濃く残る場所でもあります。そもそもローマという街は気が遠くなるほどの時間、少なからず、常にどこか危ない要因を抱えながらひたすら続く「永遠の廃墟」ですから、このような郊外の廃墟で起こるムーブメントこそが、実はローマの庶民のスピリットを物語っているのかもしれません。

*Tor Sapienza in Arte プロジェクトの一環、Morandi a colori に参加する、カルロ・ゴーリがこころから感謝するアーティストたち。

Aladin Hussain Al Baraduni, Carlos Atoche, Andrea Biavati, Luca Camello, Luis Cutrone, Roberto Farinacci, Carlo Gori, Marcello Mans, Riccardo Beetroot Rapone,Ana Rodrigues, Stefano Salvi, David Simões, Mauro Sgarbi, Pino Volpino

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ゴーリ氏の奥さま、ともえさんも加わってのムラレス制作。

 

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