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『鉛の時代』もくろまれた真相 P.Fontana Ⅱ

Anni di piombo Deep Roma Società Storia

事件の4日後の15日に容疑者として連行されたアナーキスト、ヴァルプレーダが、事件の実行犯として逮捕されたのは12月16日のことでした。ピエトロ・ヴァルプレーダは、アナーキスト「バクーニン」グループに属する、またローマの3月22日グループの創立者のひとりでもある、「ダンサー」を職業とする人物です。ヴァルプレーダは当日犯人を乗せたという、タクシーの運転手のコルネリオ・ロランディの目撃証言に基づき、実行犯として逮捕されたのですが、この逮捕劇も判然とはしない、納得のいかないものでありました。

逮捕に踏み切った際、警察側は要注意人物として何ヶ月もヴァルプレーダを尾行していたと発表。しかし、事件の当日、ヴァルプレーダはミラノの祖母宅を訪れ、流行り風邪を引いてベッドから起き上がれず、一日中外出しなかったことを祖母が証言しているのです。『フォンターナ広場爆破事件』唯一犯人目撃者であるタクシーの運転手ロランディもまた、うろ覚えで「こんな男だったように思う」という程度でヴァルプレーダが犯人である、とは断言していません。

また、このときロランディが「このなかに容疑者がいるか」と、警察署で見せられた写真はヴァルプレーダの横に、エレガントな背広、ネクタイを着用、短い髪をなでつけた警察官がずらりと数人並ぶ写真で、目撃者としては、髪を伸ばしたカジュアルな服装のヴァルプレーダ以外に選びようがない写真でもありました。

さらに「ヴァルプレーダに間違いない」、とその逮捕に正当性を付加したのは、アナーキスト3月22日グループ潜入していた極右グループの工作員マリオ・メリアーノで、のちにこの男は、SIDのオーガナイズでアナーキストに紛れこんでいたネオファシストグループのメンバーと判明。ローマで1965年に開かれた『緊張作戦』の会議にも出席していた人物でもあります。また、メリアーノ以外にも3月22日グループには警察のエージェントも工作員として潜入していたそうで、カルロ・ジッコーニという、やはりのちにネオファシストグループ「オルディネ・ヌオヴォ」との関係が明らかになるジャーナリストの証言も、ヴァルプレーダ逮捕の決め手となっています。逮捕されたのち、ヴァルプレーダは一貫して無罪を主張し続けましたが、2年間刑務所に拘留され、身に覚えのない事件の容疑者として、14年の間、裁判に拘束されることになります。

 

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フォンターナ広場爆破事件の容疑者とされたアナーキスト、のち作家となったPietro Valpreda

 

また「爆破事件」を巡っての警察の捜査中、ジャーナリストの調査上に、アナーキスト、極右、極左の活動すべてに近い人物が何人か浮かび上がってもいます。そのうちのひとりに、ヴァルプレーダに背格好、雰囲気がよく似たアントニオ・ソットサンティ、通称Nino Fascista(ニーノ・ファシスト)という人物がいました。

のちの捜査で、グイド・ジャンネッティーニ(極右ジャーナリスト、軍諜報のエージェントであったことが明らかになっています)、ニコ・アッツィ、ピエールルイジ・コンクテッリ(いずれも極右・ネオファシストグループメンバー)の事情聴取の際、彼らは、アナーキストに紛れて活動する極右工作員の存在を明かし、この極右工作員が、国家諜報、及びネオファシストグループ幹部に命令され、事件当日タクシーに乗り、(爆弾の入った)鞄を運ばされたと話しています。

当初ヴァルプレーダと平行して、『フォンターナ広場爆破事件』の実行犯としてアントニオ・ソットサンティにも疑いが持たれていますが、いつのまにかうやむやになり、ソットサンティはそののちも、あらゆるメディアの取材でその事実を否定。「言えない秘密が多くあるが、俺は墓場までそれを持って行く」と語りながら、2004年に他界しました。

こうして判然としない謎ばかりが深まり、事件の解決にはほど遠い捜査が続き、2年の月日が経ったころ、ようやく事件の核心人物、トレヴィーゾのロレンツォンが事件当初に告発したOrdine Nuovoに属するジョバンニ・ヴェントゥーラ、フランコ・ブレーダに捜査の手が及ぶことになります。後述しますが、トレヴィーゾ検察官独自調査を進める過程で、偶然に見つかった大規模武器倉庫と、ヴァントゥーラの叔母と母親の名義で借りられた銀行の貸金庫からCIAメンバーのリストとともに『緊張作戦』に関する、極右ジャーナリストグイド・ジャンネッティーニ作成の機密書類が発見されたことが起訴の決め手となりました。

しかしながら、フレーダとヴェントゥーラが疑われたのは、ロレンツォンの告発が最初ではなかったことも、述べておきたいと思います。フランコ・フレーダが住むパドヴァの警察に勤務する、ユリアーノ警部という職務に極めて実直な警部が『フォンターナ広場爆破事件』のさらに以前から二人に強い疑いを持ち、動向を追っていたのです。

69年の8月、まるで『フォンターナ広場爆破事件』の予告ででもあるかのように、イタリア国内の汽車に8個の爆弾が仕掛けられ、12人が重軽傷を負うという爆発事件が起こっていますが(その事件も当初はアナーキストたちの犯行とされました)、警部はその事件が起こる前から、不審な動きを見せるヴェントゥーラとフレーダを張っていました。

ユリアーノ警部はヴェントゥーラ、フレーダ両者の電話を盗聴し続け、彼らと交流のあったネオファシスト、マッシミリアーノ・ファッチーニという地方自治体参事の自宅から出てきた、極右グループメンバーとしてマークしていた少年の所持品に、爆弾拳銃Calibro9を見つけ、現行犯で逮捕もしています。ところがその少年は、「建物内で会った他の少年から預かったものだ。ヴェントゥーラ、フランコの友人であるファッチーノから預かったものではない」と証言し、たちまちに周囲が「警察が自作自演した逮捕劇」と騒ぎだしたため、パドヴァ警察は少年の証言を正当とみなし、ユリアーノ警部がつくり話をしている、と非難が巻き起こったのです。その騒ぎののちユリアーノ警部はパドヴァの捜査から外されて、南イタリアへ更送されることになりました。

捜査の途中、「少年はファッチーノの住居のある建物内では、ほかの誰にも会わなかった。わたしは当日の夜、少年しか見かけていない。少年は嘘をついている」と証言した元カラビニエリだった管理人の男性は、その数ヶ月後、自らが管理する建物内で「事故死」にしては不自然な姿勢、状況で転落死しています。さらに、ユリアーノ警部が電話の会話を盗聴したテープを再生すると「この話を聴いている馬鹿がいることは分かっている。どんどん盗み聴きすればいい、俺たちには何も困ることはない」と笑いながら言うヴェンドゥーラの声が、のちに判明しています。

また、『フォンターナ広場爆破事件』の直後、事件に使われたものと同型のタイマーをフランコ・フレーダが、ボローニャの店で50個購入したことを捜査官が突き止めた事実、爆弾が仕掛けられていたドイツ製のバッグ5個がパドヴァで購入されたものである、とバッグ店から直接警察に通報された、という重要な手がかりも、捜査の中枢まで届かないまま、警察署内でいつのまにかすみやかもみ消されています

※1970年、ピエール・パオロ・パソリーニのアイデアでLotta Continuaが制作したドキュメンタリーフィルム。1970年、『フォンターナ広場爆破事件』一年後の大規模デモ集会から映画ははじまります。道行く人々に事件について尋ねても、誰もが首を振るばかりで、犯人を乗せたタクシーの運転手と話したという人物は、タクシーに乗った人物がどのような様子であったか、また警察の捜査への不満を語り、また唯一の犯人を知る証言者タクシーの運転手ロランディは、捜査で証言したことにより、仕事がうまくいかなくなり、何もかもが停止してしまったことに肩を落として話しています。ジャーナリストの訪問から夫の死を知った、ジョゼッペ・ピレッリの夫人は気丈に「ピレッリが死んだことを何故わたしにすぐに連絡しなかったか、とカラブレージ警視に問うと『奥さん、われわれには他にたくさんすることがあるんですよ』と言った」と答え、「アナーキズムはバイオレンスではないんだ。僕たちは暴力を決して使わない」と息子が断言したことをピレッリの母親が証言。続いて、弁護士など司法関係者。若者、労働者たちは、「この爆発はアナーキストが仕組んだことではないことは、すぐにわかった。その背景にファシストがいるのは明らかだ」とも語っています。後半は労働条件の過酷で亡くなった人物についての証言、ナポリの失業者のインタビューなどが続きます。本編は数時間の長編ですが、Youtubeには抜粋でアップされています(参考)。

▶︎続く 深い霧の中へ

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