「賛成」派が勝利した場合、何がどう変わったのか
今回の「国民投票」のプロパガンダとして、政府により語られ続けた「裁判官と検察官のキャリアの分離」というスローガンについて言えば、2022年、ジョルジャ・メローニ現首相が率いる「イタリアの同胞」以外の政党の大連立政府(Governo tecnico)となったドラギ政権下、前述した「検察官が裁判官に、裁判官が検察官に異動できるのは一度限り」という法律(カルタビア法)が定められ、実質的には裁判官と検察官のキャリアはすでに分離状態にありました。
しかも全司法官9400人のうち、過去3年間で実際に異動したのは0.2~0.4%に過ぎず、なぜいまさら憲法を改定してまでキャリアを分離しなければならないのか、というのが、誰もが抱いた疑問です。
この改定案は、統一試験を受け採用された、検察官と裁判官の過度の職業的、文化的な親密さを回避するのが目的とされました。つまり検察官と同僚である裁判官が、第三者的な立場から判決を下すのは、今の状況では困難であり、互いが互いに影響し合うシステムでは公平な判決はできない、という判断です。したがって、この改定案が通過していたなら、検察官、裁判官いずれかの職務の希望者は、はじめからどちらかの道を選択したうえで、職務に必要な大学教育を受け、別々の採用試験を通過し、それぞれ職務に就かねばならなくなるため、教育分野での改革も必要となります。
さらに今まで単一だった最高司法評議会(CSM)は、検察官、裁判官それぞれの評議会として分離されることにより、同じ派閥にある同僚の検察官との関係に影響されない、明確な第三者としての裁判官が確保されると、改革支持者たちは主張しました。
一方「反対」派は、検察官と裁判官の親密な同僚関係を否定する根拠として、高い無罪率を上げています。というのも検察官には裁判官とともに、被疑者を有罪に導く捜査のみならず、「無罪に導くために有利な証拠を探す義務もある」という事実が見過ごされている、と考えるからです。
わたし自身は今回の「司法改革」が提案されるまで、イタリアの検察官が被疑者を無罪に導くための証拠をも探す義務がある事実をまったく知らず、つまりイタリアの検察官は、われわれ外国人が考える「検察官」とは大きく異なる機能を持つ職務だということを、改めて認識した次第です。
たとえば裁判官、検察官のキャリアが明確に分離され、検察が「有罪が確実であると確信できる事件のみ」を裁判に持ち込む、日本の刑事裁判における有罪率は99.9%となっていますが、現行におけるイタリアの刑事裁判の第一審での有罪率は40~50%ときわめて低い数字です。これは、イタリアにおける裁判が、単に被疑者、検察官の主張を確認する場であるのみならず、検察官が裁判官とともに、互いの共通認識による、法に基づく「真実」を発見する場であるからです。
したがって、今回の改定により検察官のみの独立した最高司法評議会が設立されたなら、捜査による証拠の評価方法について裁判官と共通認識が持てなくなり、検察官はいかなる代償を払っても有罪判決を追求するようになるだろう、と予想させました。つまり検察官と被疑者の弁護人との間に競争意識が生まれ、裁判そのものの意義が変化するのではないか?との疑問を、「反対」派は抱いたわけです。
さらに、裁判官から独立した検察官は、自己完結的な「スーパー警察官」となり、時間が経つにつれ、必然的に行政府の管理や影響下に置かれることになる可能性(たとえば日本の検察は、かなりの自治権は有してはいても、基本的には法務省の管理下)もあります(参照:コリエレ・デッラ・セーラ紙/ ミレーナ・ガバネッリ)。
結果、法に基づく「真実」の追求が旨であるイタリアの裁判は、被疑者の弁護人と被疑者を絶対的に有罪に持ち込もうとする検察のスペクタクルな対決、という米国型の裁判へと変わるかもしれません。その場合は高い報酬を払って優秀な弁護士を雇う財力のある被疑者に断然有利となり、報酬を払えない貧しい被疑者は十分な弁護を受けられない、ということにもなりかねません。と同時に裁判官は検察、弁護人の言い分をジャッジする、単なる「審判」となってしまいます。
また前述したように、現行の司法システムにおいては、捜査を担当する警察は検察官=司法当局の指揮下にあり、「人質司法」が問題となっている日本に比べると被告人の権利は守られており、取り調べのほとんどの場合は弁護士の立ち会いが必要です。ただし、今回の「国民投票」で「賛成」派が勝利した場合は、今まで司法警察として検察官のもとで捜査に従事していた警察の指揮権が、司法当局から内務省に移動する可能性も指摘されていました。
*カンヌ映画祭をはじめ、国際映画祭で最優秀男優賞を総なめにするエリオ・ジェルマーノはふたつのビデオクリップでNOを表明。トニ・セルヴィッロ、アレッサンドロ・ガスマン、Pifなどイタリアを代表する俳優たち、コメディアン、学者、作家などが投票間近にNOを表明しました。
このような懸念に、現政府は「検察官が行政府の管理下になることは決してなく、キャリアを分離させるだけで現行通りの秩序が保たれる!」と断言し、強調し続けましたが、法務省主席補佐官であるジュージ・バルトロッツイが「賛成に投票すれば、司法を排除できる。彼ら(検察官)は処刑部隊だ」、とうっかり述べたり、ジョルジャ・メローニ首相が、現政府が計画中のレッジョ・カラブリアとシチリアを結ぶ予定のメッシーナ橋に関する会計検査院の不承認決定を受け、「容認できない干渉」とし、「司法改革こそが最も適切な対応」と述べた事実もあります(ミレーナ・ガバネッリ)。
ということは、現政府は、決して思い通りにはならず、遠慮会釈なく政治家たちの不正、横領、賄賂、マフィアとの癒着、違反を追求する検察を目の仇にしているわけで、思い起こせば、脱税や、未成年売春などで訴えられ続けたベルルスコーニ元首相も、自らの不正に食い込み続ける検察を、ことあるごとに、まったく脈絡なく「検察は共産主義者(なぜ?)!」と罵倒していました。
度重なる現政府側のこのような発言から、「反対」派は、現政府は現行の司法システムを「国民投票」で一刻も早く解体し、時間をかけて政府の支配下に置くシナリオを想定しているのかもしれない、と考えました。そしてそれはおそらく、議会における通常の議会で、検察を、たとえば法務省下で管理するなど、その存在を弱体化させる法律を可決する、というようなことでしょう。実際ノルディオ法務大臣、バルトロッツィ法務省主席補佐官、アントニオ・タイアーニ外務大臣(「フォルツァ・イタリア」)は、「国民投票」における「賛成」という白紙委任状を受け取ったならば、通常の法律によって「大臣が捜査対象となることを阻止する」と宣言(!)していました。
また、経済的見地からも、この「司法改革」が割に合わないことは、はじめから明白でした。CSMの分離にともなって、地方司法評議会をも分離することになり、さらに高等懲戒裁判所をも新設することで、現在33のCSM評議員ポストは78へと増え、司法特権階級の年間コストが約5000万ユーロから約1億5000万ユーロへとも増大する試算となったのです。しかも3倍もコストが膨らんだとしても、イタリアの長年の課題である裁判の効率化、迅速化などの問題は何ひとつ解決ないままでした(マルコ・トラヴァイオ)。
さらに、この「司法改革」で最も懸念されたのが、分離された最高司法評議会(CSM)の評議員を抽選で選出するという改定です。現行のCSMは選挙を経ることなく、職務上の地位により評議会に属するメンバー3名(議長:共和国大統領、最高裁判所主席判事、最高裁判所検事総長)、選挙によって選出された司法官20名(上訴審裁判官2名、検察官5名、裁判官13名)、一般市民委員10名(法学分野の大学教授、15年以上の実務経験を持つ弁護士)と、33名のメンバーから構成されています。
しかし「賛成」派が勝利して司法改定が現実になれば、今まで司法の頂点にあったCSMという権威ある機関そのものが検察官、裁判官とふたつのCSMに分裂し、評議員となる20名のそれぞれの司法官を、その地位、職務、経験、裁量を完全に無視して、抽選で選ぶことになる。CSMは根本的に変貌することになります。
これは現在存在する司法界の「派閥ー政治的な潮流ー政治で言えば政党のような集まり」の政府への影響力を完全に排除するための提案で、確かに司法界の派閥の存在が、司法機関の人事など、政治の分野を含めて影響力を及ぼす事実については議論を巻き起こしていましたし、民主主義における「抽選」という選定方法は、古代ギリシャのポリス民主制の例がある通り、平等主義の実践としては興味深い方法ではあります。しかし今回の司法改革案における「抽選」に関しては、見過ごせない小細工が施してあったのです。
すなわち裁判官、検察官以外から選ぶ一般市民委員は、議会多数派(つまり与党)が選出した法曹メンバーのリストから抽選することが提案されていた。ということは、たとえ抽選で選ばれたとしても、そもそも与党が選んだ人物のリストから選ばれた人物たちは、CSMに常に政府の意向を反映する可能性が非常に高い、ということです。
とすれば、政治的、思想的立場に基づいて議会多数派によって選ばれた一般市民評議員に対し、単純な抽選で選ばれ、それぞれ結束のない司法官たちの、CSMにおける役割の正当性、影響力は自ずと弱まることになります。また理論上、今後政権を担う多数派は、将来法律を改定して、検察官、司法官の抽選の対象者を比較的少ない数に設定、あるいは選出される一般市民評議委員数と同数に限定して決定することも可能となるかもしれません(ミレーナ・ガバネッリ)。そうなるとCSMは完全に政府の支配下に置かれることになります。
また現行のCSMが担う、司法において過ちを犯した司法官の懲戒手続きは、改定案によると、新たに設置する高等懲戒裁判所が担うことになります。この機関は共和国大統領が任命する法曹3名、議会多数派が選出した法学教授、弁護士のリストから抽選で選ばれる一般市民3名、裁判官6名、最高裁判所の判事の中から抽選で選ばれる検察官3名が行う、ということでした。
この機関の設立は、現行のCSMが過ちを犯した司法官に対して寛大すぎる、検察官が懲戒処分になることがほとんどない、という政治サイドの不満が理由ですが、統計的に見ると、9400人の裁判官に対し、懲戒判決は年間平均42件であり、弁護士など他の専門職団体よりも厳しい割合となっています。また欧州の他国と比較しても、きわめて高い数字であり、イタリアではむしろ政治家が罪に問われ、懲戒免職になることの方が断然少なく、何度も不正が暴かれ、裁判にまで発展したとしても政府の要職にしがみついたままの人物も多く存在しています。
しかも、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が創立した「フォルツァ・イタリア」の代表であるアントニオ・タイアーニ外務大臣は、いずれ検察官の司法警察の指揮権を剥奪し、それぞれの捜査に合わせて警察を内務省、国務省、経済省の指揮下に置くことで、検察官による捜査を終了させ、追求すべき犯罪と見送るべき犯罪の優先順位基準を、政府に決定させる、つまり検察を政府の支配下に置く、とまで約束していたのです(マルコ・トラヴァイオ)。
また、ふたつのCSMと高等懲戒裁判所の最高議長をすべて共和国大統領が担うことになることを知って、真っ先に思い出したのは、現政府が長期に渡って模索しているフランスをモデルとしたPredenzialismo(大統領制)への変換でしょうか。つまり今回の司法改革案が実現していたならば、将来イタリアが大統領制に変わるような事態になった場合、大統領に選出された人物に権力が集中し、司法の分野においてもその支配権が及ぶということになります。場合によっては司法そのものが、完全に政権の支配下に置かれるかもしれません。とすればイタリアはファシズムに逆戻りです。

3月28日、トランプ大統領の無謀な帝国主義に反発して米国、欧州各地の都市で開かれた「NO KING(S)ー王(たち)はいらない」デモ。世界中で起こる戦争反対のアンチインペリアル・アンチファシストデモに、ローマでは、なんと30万人もの人々が集まりました。参加者の年齢はさまざまでしたが、明らかに今回の「国民投票」にNOを突きつけた人々です。
もちろんわたしには、現行のイタリアの司法のあり方の正当性を確認するだけの知識はありませんが、AIの言葉を借りるなら「イタリアの司法制度はゴシック様式の聖堂のようなものです。美しく、細部にまでこだわった(権利の)制度ですが、維持が非常に難しく、構築にも非常に長い時間を要します」(Gemini)。なるほど。しかし機能的で、迅速かつ効率的な司法システムだけが正義だとは思いませんし、人が人を裁くシステムは人間的で民主的であるべきだとも思います。
確かに、イタリアの司法システムが多くの問題を孕んでいることは、長年言われ続けてきたことです。しかし今回の司法改革案が、その問題の何ひとつ解決できないのなら、今回の「国民投票」がいったい何のために行われたのか、市民の判断能力を見くびった政治の欺瞞としか思えません。
「反対」派の中でも、長年現場でマフィアと闘ってきたナポリ検察局長官ニコラ・グラッテーリが「賛成票を投じるのはフリーメイソンか極右かマフィアだけだ」と発言して現政府を激昂させ、「司法に訴える(?)」と騒がせた、という経緯がありますが、戦後の歴史を少し知っているわたしとしては、その発言は当たらずとも遠からず、だろう、とも考えた次第です。
いずれにしても、イタリアの市民は「反対」を選びました。現政府が期待するほど、市民が単純でも、浅はかでもないどころか、徹底的に分析し尽くして投票に挑んだ事実は、イタリアの未来を明るく照らす出来事でした。
現在政府には、法務省秘書官の不祥事や、過去の観光大臣の不正事件が蒸し返されたり、と「辞任」の嵐が巻き起こり、大激震が走っていますが、心静かにその行方を見守りたい、と思っているところです。
ただし、今回の「国民投票」の結果がそのまま国政選挙に影響して、野党が断然有利になる、という左派メディアの煽りはあまり信用できないかな、と思っていることも明言しておきたい、と思います。特に投票率が高かったZ世代の若者たちは、国政そのものにはあまり興味を示していないことを、大人たちは知っておく必要があるでしょう。
参照:↓年齢別、職業別などに細かく分類された投票行動











