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芸術家Diego Mazzoniとフラミニオで

Deep Roma Intervista Musica Quartiere

街を散歩するにはちょうど気持ちよい季節。画家、そしてミュージシャンでもあるDiego Mazzoniと一緒にフラミニオ地区を歩いてみました。というのも彼に会うたび、その繊細で、ちょっとマジカルな視点に、なるほど、このようにローマに接するともっと多くのことが見えてくる、とおおいに学ぶことがあるからです。また、子供のころ、『鉛の時代』をライブに過ごした彼の記憶から、街角に充満していたその時代の空気を、多少とはいえ、窺い知ることもできました。

フラミニオ地区はポポロ広場の門からはじまるフラミニオ通り沿い、近年、ローマの文化センターとして発展した地域です。ディエゴ・マッツォーニの生家はそのフラミニオ地区、Zaha Hadidの設計による国立現代美術館『MAXXI』から歩いて約十分、閑静な住宅街に洗練した店が点在するシックな街並みにあります。現在では建ち並ぶ建物も修復され、スーパーエレガントな雰囲気を醸すフラミニオ地区ですが、彼の子供時代はきわめて庶民的な下町だったそうで、今でも街角を歩くと、昔から住んでいる人々の土地に根づいた生活が垣間見え、昔ながらのバールやTabacchi(煙草屋)には近所の人々が集まって長々と世間話、いたってのんびりとした風景が広がります。

さて、ディエゴとわたしは誕生日が同じという奇遇から、それほど頻繁に会うというわけでなくとも、思い出したように連絡を取り合い、近況を報告しあう友人です。小説『パッショーネ』に描いた芸術家たちのキャラクターや状況を構想する際、ローマに住む芸術家の視点から、いろいろ貴重なアドバイスもしてくれました。そのディエゴに久しぶりに電話をかけて「お茶でも飲もう」と誘うと、「生家のあるフラミニオ地区辺りを散歩してみないかい」という彼の提案。美術館やAuditorium(Renzo Piano設計、市営ホール)に行く以外には、わたしにとってほとんど縁のない地区なので、好奇心も手伝って、カラッと晴れ渡った朝、約束の場所に出かけることにしました。待ち合わせたのは、空に向かってのびのびと枝を広げる大木がすっくと立つ街角の広場。ベンチには、朝からのんびり日向ぼっこをする老人が並び、広場を横切る人々は、互いに朝の挨拶を交わしながら行き過ぎます。エスプレッソの香りが漂うバールからは笑い声。

朝陽が目に眩しい午前10時、ディエゴにしては珍しく、待ち合わせの時間ぴったりに、最上階の壁のフレスコが美しい建物から「時間通りだろう。生まれた家の前だとさすがの僕も遅れないよ」と手をあげてにこやかに現れました。

ところで今回は、わたしが口を挟まずとも、いつも次々といろんな話題を見つけては語ってくれるディエゴの話を、インタビュー形式ではなく『モノローグ』で書いてみることにします。途中、順不同に挟んだ写真は、すべて彼の作品です。

 

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フラミニオ地区、ディエゴ・マッツォーニの生家のある建物

 

おはよう。けっこう久しぶりだね。元気そうじゃないか。僕もまあ、とりあえずは元気にしていたよ。去年の暮れに階段から落ちて大怪我して、しばらく街を歩き回ることもできなかったけれど、今はすっかり良くなったしね。打ち所が悪ければ、ひどいことになるところだったと医者に言われたけれど、運が良かった。厄払いってところかな。

しかし今朝は、このうえなくいい天気、まさに快晴だね。雲ひとつなくて、風が爽やかだし。たまにこうやって朝に誰かと待ち合わせをするっていうのも、なかなかいいもんだ。え? 散歩しながらの話を録音していいかって? それを書くの? まあ、別にいいけれど、そんなことを急に言われても、書けるような内容の話ができるかな。何も考えずにここに来たんだよ。いつもどおりでいい? そう? じゃあ、話してみようか。きっと話しているうちにあれこれ思いつくだろうから。

僕はローマ、フラミニオに生まれてこの街で育ったから、Romano (ローマっ子)と言えばそうなんだけれど、正確に言えば純粋なロマーノとは言えないかな。母はナポリの出身なので、僕にはナポリターノの血も半分流れているわけで。僕の家族はイタリアの各地から、ここローマに来ているんだよ。例えば父方の祖父はプーリアの人間、ノルマンディみたいに赤いヒゲが生えていて、僕の目の色からは想像できない明るい瞳の目をしていた。実際のところ、何世代にも渡ってローマに住み継いだ純粋なロマーノというのは、ごく少数しかいないと思うよ。みな、イタリアの各地からこの街にやってきて、それぞれに出会って家族を形成し、やがて少しづつロマーノになるんだ。僕はまあ、そういうわけで自分のことをロマーノだと思っている。

君も知っての通り、僕の母は歌手で、父は演劇の俳優。でも母も父と同じように、もともと演劇の世界を目指していて、一時期は脚本も書いていたんだ。彼女は少し特殊な、変わった声をしていたから、歌手として成功したし、僕も彼女の声、歌う唄がとても好きだった。ナポリの古典的な歌唱法で民謡も歌えたけれど、イタリア北部に暮らしていたせいで、フランス的というか、洗練されたセンスも兼ね備えていたからね。息子の贔屓目ではなく、かなり面白い歌手だったと思う。残念ながら、ずいぶん早くに亡くなってしまったけれど・・・。だから僕が憶えているのは、まだ娘のように若い母の姿なんだ。

僕は絵描きだし、音楽もやっているから、役者と歌手である両親からまったく影響を受けなかった、といえば、それは嘘になるかな。人生というやつは、いつだって自分が生まれ育った環境に左右されるものだからね。と同時に、本人のパーソナルな本質からだって人生は作られもして、僕の場合、自分自身が経験した出来事の数々から、自分の人生を発展させた部分も大きいと思う。

ほんのちいさい子供のころに両親が離婚、僕は父方の祖父母の家、つまりこの地区で育ったんだけれど、夏休みは父親のいる、例えばサルデーニャ、あるいは母親のいる、例えばトリノを行ったり来たりして過ごしていた。彼らはあちこちの劇場で仕事をしていたから、僕はまるで彼らの劇団の一員のように、舞台の仕事でイタリア国内を旅して暮らす、という他の子供とは違う少年期を過ごした。長い夏休みの間、父や母の劇団の舞台美術の仕事やフェスティバルの準備を手伝ったり、役者、舞台美術、人形劇のマスターたちに囲まれて、皆に仕事を教えてもらったり、遊んでもらったり、と賑やかに育ったんだ。特に印象に残っているのは、父親が頻繁に行っていたサルデーニャかな。そのころサルデーニャにはまだ、昔ながらの大衆演劇があってね。伝統的なその舞台美術の色彩が目に焼きついているよ。

とはいうものの、僕が人生ではじめて深い興味を抱いた、と言えるのは色彩、つまり『絵』よりもまず『音楽』なんだけどね。今だって2時間、音楽を聴かないと禁断症状がでるくらいで、これは本当だよ。楽器だって物心ついたころからあれこれ試して、はじめてコンサートに出演してドラムを演奏したのは、なんと13歳! このあたりのフラミニオの子供たちが集まりバンドを作って、毎日練習していてね。僕以外の他のメンバーはみんな年上、15歳ぐらいだったけれど、その頃の僕らの演奏はなかなか素晴らしく、ちょっとした人気者でもあったよ。ビートルズやジョン・マイヤー(メイオール)のカヴァー、僕は特にブルースが好きだったな。時は77年、78年。学生たちまで武装しての騒乱に飲み込まれたローマの巷、ブルースが溢れていた時代だ。

 

NGE Teatro Valle Occupato - Aprile 2012

現在でもジャズ、現代音楽のバンドのメンバーの一員でもあるディエゴは、 Teatro Valle Occupatoでもマスクを被ってのコンサートにジョイントした。

 

そうなんだ。残念ながら、77年、78年、僕の子供時代のローマには、バイオレンスが吹き荒れていた。例えば家族の間でも、近所でも、政治的な対立ばかりだったよ。「おまえはコミュニストだ」「おまえこそファシストだ」そんないがみあいばかり。どこもかしこも今にも爆発しそうな一触即発の憎しみに溢れていた。フラミニオ地区のこのゾーンはとても庶民的、さらに、デ・キリコもスタジオを持っていたようなアーティスティックな地域だったにも関わらず、なぜか極右のグループが多くてね。社会主義の大きなムーブメント、MSI (Movument Sociale Italianaー極右勢力)が、PCI(イタリア共産党)と同じくらい強い勢力を誇っていた時代だ。こんな下町にまで、ムッソリーニのファシズムをルーツとする勢力がはびこっていた。ファシズムはそもそもポピュリズムだし、社会主義とも強く結びついていただろう? MSIー極右団体の本部だったのは、ほら、見えるだろう? あの建物。当時、あそこにあってね。出入りするやつらはみな、血ばしった目つきで辺りを睨みつけながら鉄棒や棍棒を持ち歩くという、見るからに危険なやつらだった。子供の僕は眼前で血しぶきが上がるような、ずいぶん暴力的で恐ろしいシーンを見たよ。

いまの子供たちは、コンピューターがもはや日常だし、遊ぶにしても、何をするにしても僕らよりも大きく選択肢が増えたせいで、僕らの子供のころとは違う感性、分別の観念が成熟している。いわば『ポスト』の時代の子供たちだよね。『ポスト』というのはもちろん、『ポストモダン』という意味で使っているんだけれど、僕らはまだまだプレ『ポスト』、発展途上真っ盛りの子供たちだったとも言えるかもしれない。しかし、かなりリアルに、ローマの70年代以降の時代の変遷を見てきているからね。リアリティを感知する能力、その『勘』に関しては、今の子供たちよりもずっと成熟していたかもしれないよ。77年あたりの僕らは、社会を構成する市民のちょうど中間、何も分からない幼児ではなかったし、大学生でも、大人でもなかった。したがって学生運動も、それが存在したことは自分の目で見ているから記憶に新しいが、実体験としては知らないし、暴力的な政治衝突も経験がない。

僕らのジェネレーションというのは、いつもそうなんだ。なんだって中間ーVia di Mezzo。僕らより年上のジェネレーションは、重要な歴史の真っ只中に生きて、その事件を自分自身の事件として体験、ある意味歴史を動かそうとした主人公でもあった。子供だった僕らは、彼らが動かそうとした歴史を、受動的に生きただけだからね。しかし正直に言うなら、多分それで僕は救われた。政治的な流れに無理矢理組み込まれることなく、喧嘩、諍い、流血、もちろん戦争を今まで実体験としては知らず、むしろスピリチュアルな世界に憧憬を抱くことができる時代に成長したわけだから。

なんてこった!  このフラミニオ地区が、ひどく暴力的な地域だったなんて。いいかい。今僕らが歩いているこのあたりの通りは、大げさではなく、いつも血まみれだったと言ってもいいぐらいだ。この場所を通るのが苦痛だったよ。でもそんな暴力的な恐ろしい世界を見たのは、子供のころだけだったから。それ以降、見なくて済んで助かった。70年代はオイルショックなんかもあって、社会が困窮していたし、多分そのころのイタリアの経済状況は、例えるなら今のギリシャのような状況だったんじゃないのかな。でもその騒乱の時代のあと、ローマは少しづつ平常の社会に戻っていったわけだからね。そのためにどのような政策が施されたのか、子供だったから詳細は理解していないが、80年代には、産業も再び活気を帯びはじめ、僕らはその時代に成長した。

 

- Example of a diptych. cm 100 x 300, year 2005.

Exmple of diptych 少年時代の写真をモチーフにした絵をディエゴは何枚か描いている

 

ところで僕がなぜ、アーティストとして生きていこう、と思ったのか、僕自身もいろいろ考えるところなんだよ。僕がいうアーティスト、とは『自分の知らない、言葉にはできない何かを追い求める人間』で、それは絵描きであろうが、音楽家であろうが、何だっていいんだ。強いて言えば農作物を作ったり、森林を整備したり、普通に日常を暮らす人々だって、アーティストでありうるわけでね。生き方の問題だよ。ただ『芸術表現』と呼ばれるものに関して言えば、自分が探しているものをはっきり言葉にできる人は、アーティストというより、デザイナーだったり、建築家だったりするんじゃないのかな。それらの分野の仕事は、もちろん芸術的な表現と強く結びついてはいるけれど、『機能』という目的があって、最終的にその機能に到達するプロセスを、前もって予測して計算しなければならないわけだから。こんなことを言い出すと、お定まりの『純粋』芸術と『機能』芸術の議論になるわけだけどね。

ファインアートのアーティストというのは、invisibilitàー見えないものを追い求めるために、自分の意識の奥底にある、これまたinvisibile(未知の領域)なものに触れなければならないだろう? それじゃまったく実体のない、夢や幻のようなアイデアばかりを追いかけているみたいだが、まったくその通り、実体のないものを追いかけているんだ。つまり、そもそも『表現』というのは、自分の内側に拡がるヴィジョンーまったく見えない、意識もできない深層も含めてーを探求していくことじゃないのか、と僕は思っている。

また、子供の頃の話になるんだが、小学生の頃の僕は、自分は他の子供たちと感受性、感じ方がまったく違っていて、自分はちょっとおかしい、ひょっとしたら何かの病気じゃないか、と思った時期があったんだ。奇妙な悪夢を見たり、幻覚のような光景を見たりすることもあって、それは恐ろしい体験でもあった。幻覚を見た、なんてことを言うと笑われるか、怒られるか、いずれかに違いないと思って、家族にも話すことができず、悩んだりもしてね。だからクラスの友達に少しも馴染めずに、みんな元気に校庭を駆け回っているというのに、休み時間は校庭の大きな樹のしたでうずくまってジッと座っているだけの大人しい子だった。

いまでもよく覚えている光景なんだけれどね。ある日のこと、運動場で拾った炭を弄びながら、いつもの大きな樹のしたに座っていた。昔の小学校のキッチンでは、まだ炭で煮炊きをしていたから、校庭のあちらこちらには炭が転がっていてね。いまの小学校は半日で授業が終わるけれど、僕の時代のローマの小学校は一日中授業があって、校内にキッチンがあったんだ。僕はいつものように他の子供たちから離れて、いつもの樹の下で、炭を手にジッと静かにしていたんだが、今から思うならその状態というのは一種の瞑想状態みたいなものなのかもしれない。子供には雑念がないし、無邪気だから・・・。そこで急に閃いたんだ。

「これこそが人生の変遷というものだ」

僕はまだ子供だよ。その子供がふいにそんなことを考えついたんだから! 僕のそばで緑の葉をざわざわと風に揺らして気持ちよさそうに立つ樹は、やがて僕の手の中にある木炭に変化する。樹は呼吸して生きるものだが、炭は化石のような生命のないもの。そしてその炭はやがて燃やされ灰になる。しかし樹も炭も、そもそもはたったひとつのものじゃないか。つまり、大人の言葉でいえば、グローバルアイデンティティというものは、たったひとつなのじゃないのか、とね。すごいよね、我ながら、自分の思いつきとは思えない。

この生命の循環というか、形あるものの循環というか、この気づきは僕の人生を決定する重要な体験になった。僕はそれを、絵を描くこと、音楽をすることで循環させよう、試そうと思ったわけだけど、もちろん、子供のころの体験が、自分の『表現』と結びついたのは、ずっとあとになってからのことだ。いずれにしても、大切なのはすべてはひとつだってことさ。Unicità. たったひとつのアイデンティティが、いろいろな形に変遷するんだ。

 

- Guerra e meditazione - cm 100 x 64 tecnica olio e stampa su carta intelata, anno 2009.

Guerra e Meditazione 『戦争と瞑想』子供のころ暴力的な政治抗争を見た経験から、ディエゴは筋金入りの平和主義者

 

最近になって、いろいろ思うんだ。僕にアーティスト以外の何ができただろう、そして僕は一体何処に行きたいんだろう、とね。でもまったく分からない。相変わらず結局答えは見つからないまま。いろいろ試してきたけれど、結局のところ、何かを表現するということは、あやふやな自分の存在を確かめることなのかもしれない。僕はどういう形であれ、『表現』というのは、自分のためだけにそれを追い求めているわけじゃなく、自分以外の誰かと、目には見えない何かを分かち合いたいがために表現する、と思っているんだけど、僕の作品を観て「あ、これが僕の感じたいエネルギーだった」とか「わたしもこのエネルギーを知っている」「なんかよく分からないけれど、すごくよかった」とか、そう言ってもらえればとても嬉しい。そうした共感が得られる瞬間は、ちょっとしたミステリアスな経験だからね。いずれにしても、すべての表現は、ignoto(未知)に向かっているとも思う。どういうものができるのか、はじめに全部見えたなら、僕はきっと表現することをやめてしまうと思うよ。人生だってそうだよ。未来という未知に向かう途中に何があるか分からないから面白いわけだから。

青春時代、つまり80年代には心理的に疲弊することがたくさん起こり、僕個人、多くの危機に見舞われたんだよ。そのあと芸術大学へは行ったけれど、一時期高校も途中でやめていたことがあるし。僕の苦悩のすべてがこの時期にはじまった、と言ってもいいくらいだ。自分の内的欲求と外界の世界との葛藤が、ただごとじゃないくらいあって、スピリチュアルな傾向のある僕と、消費で成立したマテリアリスティックな世界とは、まったく折り合いがつかなくて爆発しそうだった。ちょうどそのころローマでは『ドラッグ』が蔓延しはじめた時代で、つきあっていた友達も普通にコカインやLSDをやっていたし、僕もそちらの方角へあたりまえに流れていったという経緯もある。みんなでフェスタに繰り出して、ドラッグに酔ってオルジア、狂乱、刹那を心底楽しむスノッブで『違法』な青春を過ごしたというわけだ。もちろん、強調して言うけれど、そんなことは遠い過去のことだよ。いまはまったくドラッグとは無縁の日々だからね。

 

- Splashdown - Acrilic on canvas 2014

Splashdown 一番最近の絵で、描きおわった瞬間に売れた一枚。

 

とはいうものの、その時期、享楽的なドラッグ仲間とは別に、スピリチュアルグループとも知り合って、そのグループと付き合ううちに、ひょっとしたら爆発しそうな自分を救う、何かのヒントになるかもしれない、とCentro Storico Esoterici (秘教史研究所)という研究所に通いはじめることにしてみた。『瞑想』の方法もそこで学んだんだが、その研究会は、固有の宗教を信仰するわけではなく、あらゆる宗教の秘教的教義を研究する目的で構成された会で、仏教の経典、ヨガ、黙想、ヒンディのマントラなど、あれこれ広範囲に研究するのが面白くてね。そうそう、そこではシュタイナー理論もひと通り勉強したよ。ウンブリア州にあったんだけれど、夏休みをほとんどそこで過ごしたこともある。ドラッグ仲間はイビサ島でハメを外して毎日フェスタの夏休みの最中、ひとりそこで学んだ経験は、のちに自分をニュートラルに導き、自分自身の『自然』を保つことにずいぶん役立ったと思うよ。

したがって僕の青春は極端な体験を行ったり、来たり、とかなり苦しい青春だったんだ。瞑想とドラッグ体験で疲れきった時代とも言える。でも今から思うなら、若さという、それこそ極端なエネルギーに満ちた、とてもマジカルな経験だったかもしれないね。その時代に苦悩に満ちた毎日を送っていたからこそ、僕は、宇宙は無限に広く、自分はひどくちっぽけなもの。しかしそのちっぽけな僕のなかに、宇宙のような、海のような、広大で無限な世界が広がっている、と感じることができたんだからね。ミクロのなかに無限のマクロが広がっているってことを、ドラッグと瞑想、そのふたつの両極から体験した、とも言えるかな。

 

1 - Talisman - cm 143 X 143, mixed technique on canvas, year 2013

Talismano『 護符』。ライブで見ると吸い込まれそうにマジカルな深みがある。

 

さて、ローマ。この街のことを語るときは、『誠実』でありたいと思うんだ。だって、ローマはほかのどの街とも違うだろう?

ローマは独特の『様相』を持っていて、それは廃墟の様相、考古学の様相、歴史の様相、そして何千年もの間に築かれ、集められた芸術作品によって形成された様相、それら多様な様相の集積だ。でもね、この特殊で多様な様相を持つ都市を舞台に表層的に起こっていることは、ひょっとすると、ほかの都市とそう変わらないのかもしれないとも思う。僕らはグローバリゼーション真っ只中に生きているわけだし、社会は市場システムで形成もされている。しかし「いやいや、それでもやっぱりローマは、ほかの都市とは、まったく違う」と僕は感じるんだ。

何が言いたいか、というと、世界にはアーティストを生もうとする街がある、ということさ。アーティスティックなリサーチのために特別なエネルギーを放ってそれを助け、刺戟する街があるとすれば、その街のひとつがローマだと僕は考えているわけだ。ローマには混乱も、葛藤も、困難もあるが、それらを含めてアーティストにエネルギーを供給しているとも言えるんじゃないかな。例えば絵描きにとっては最悪の街だよ。ギャラリーは少ないし、チャンスも少ない、援助もなければ、社会保障も、文化予算も少ない。それでもローマという街は、人間としての僕の繊細さを鋭敏にすること、また歴史、つまり時間に対する感性を磨くことを支えてくれるからね。それにアーティストとして生きてゆく具体的な困難は、ある意味人格を鍛えるものだ。

ローマは、メタファーとしても、そして実態としても自然を抱いた都市だろう? 見回してみるといい。ローマの随所に、野生の『自然』がある。 山々、畑、荒野、滝、海だって一時間ほど車を走らせればあるし、ジャングルーもちろんアジアのそれとは比べものにならないがー、つまり深い森もたくさんある。街中にも、例えばモンテマリオ、ヴィラ・パンフィーリ、ヴィラ・ボルゲーゼ、フラミニオ・・・どの地区にも、少しづつだけれど自然のすべてがあって、それもちょっと奇妙な形で混じりながら存在している。確かにスーパーモダンな高層ビル群にも住んでみたい、と思うことはあるけれど、正直にいえば、ローマが東京やニューヨーク、パリみたいな大都市にならなくてよかったと、僕は思っているんだ。『近代的な大都市として発展する』ということは『街の個性を剥奪すること』でもあるからね。ローマほど個性的な街はないだろうから。

例えばね。ほら、今僕たちがいるこの公園、地面を見てごらんよ。ここに陶器の破片がある。そしてこれは古代ローマの陶器の破片なんだ。冗談じゃなくて本当だよ。古代ローマでなければ、少なくとも中世紀の壺の破片だ。このあたりの公園は、古代ローマの建造物が朽ち果て埋もれた場所を掘り返して、その土を運んで来て埋め立てて造られたんだからね。つまり掘り返した古い土の層にはローマ時代の壺の破片が混ざったまま、いや、陶器だけでなく、鉛の破片、鉄の破片、古代ローマ時代の地層に紛れていたものが、ごろごろ出てくる。彫刻の破片だった大理石も紛れ込んでいるし、たまには古代のコインを見つけることもあるんだ。

もちろんこの公園だけじゃなく、ローマの街のあちらこちらにこんな場所があるよ。テスタッチョのMonte di Cocciは、壺の破片だけで造られた丘陵地だ。ほら、Mattatoio(旧屠殺場)、今はMACRO(ローマ現代アート美術館)になっているあの通り、テヴェレに向かって左側、少し盛り上がったところがあるだろう? Monte di Cocciという名の由来は、その丘の下にあたるところに、遠い昔に生活していた古代ローマ人たちがテラコッタを焼くための窯を持っていたからなんだけど、Cocciというのは『陶器』や『陶器の破片』という意味だからね。そのすぐそばには、地中海沿岸諸国との貿易船が出入りする古代の波止場があって、その窯で焼いたテラコッタの壺に輸出品であるオリーブオイルやワインを流し込んで異国に運んでいた。でもテラコッタという素材は意外と脆いから、搬入の途中に割れると無造作にその破片をそこらへんに捨てて、捨てて、捨てて、また捨てて、そこに丘陵ができるまで捨て続けた。すごいよね、丘ができるまで捨て続けるなんて。

ローマはだからミステリアスなんだ。何でもない地面の土にも、ひそやかに時間が眠っている。無造作に捨てられたたくさんの物語が、拾われるのをじっと待っているかもしれないじゃないか。そうそう、僕がローマの郊外の田舎に住んでいた時期があっただろう? その家の隣には、エトルリア時代の古墳、墓がなにげなくあったんだよ。つまり古代ローマ以前の住人の墓、3000年ほど前に確かに生きた人間の墓の隣で僕は生活していたということになる。しかも、僕が住んでいた家そのものは1600年代の建造物にも関わらず、礎は有史以前の、巨大な一枚岩、『モノリス』で出来ていた。いまだに謎深い、ローマ史以前に住んでいた人々が造った一枚岩の礎とはね。そのあとにエトルリア人たちがやってきて、そしてローマ人。中世になって、僕が住んでいたあの建造物、ヴィッラが建造されたというわけだ。

ローマじゅうにそんな場所があるよ。普段通りなれていた道の脇にある丘陵の基礎が、ローマ史以前の人々たちが運んできた『モノリス』でできていた、なんてことはしょっちゅうだ。つまりそれらは、ロムルス、レムルスの神話以前のものだということになる。そんな場所には、気が遠くなるくらいの時間の層ができていて、いやはや、大変な時間エネルギーが溜まっているんだ。ローマはね、それほど昔から居心地のいい場所だった。人が暮らしたくなるような気候の穏やかさ、自然の豊かさを誇る土地だったってことさ。

 

- APPAGATO - olio e cera su tela, cm 200 x 200, anno 1998

Appagato『満足』

 

あれ? 気候がいいという話をしたら、何処からかインコが飛んで来て騒いでいるね(インコがそのとき激しく啼き声をあげたので)。いま僕らが話している公園って、車も通らない、気持ちいい場所だから。僕らが気持ちいい、という思う場所は動物たちだって、気持ちいいのさ。

そうだ、動物といえば、僕が現代のローマについて残念に思うのは、街の自然をリスペクトする人々が少ないっていうことなんだ。ローマの街には自然保護地区があるんだけれど、例えば猫たちが住んでいる場所、鳥が集まる場所、小動物の住処になっている土地には建造物を建ててはいけないし、あるがままの自然を保たなければならない。ところがプライベートな場所、誰か個人の所有になっている場所が、たまたま猫の生息地になっているとするだろう? その場所に巨大な新しい建造物を建てるプロジェクトが持ち上がった場合には、そこに住む猫たちを保護する法律がない。だから猫たちの存在など完全に無視して、建造物の建設がはじまり、動物たちは住処を失ってしまうんだ。こういう自然に対する現代ローマ人たちの鈍感さは、本当に嫌いだ。特に新しいビジネスのために次々と巨大建造物をプロジェクトする、ローマの金満家たちは街の自然に鈍感すぎるよ。商売が機能することだけしか考えていないからね。いわば自由経済主義、市場至上主義そのものの鈍感がその姿勢に象徴されていて、きっと世界じゅうがこんな感じなんだと想像するけれど、守るべきものは守らなければならない。自然を無計画に破壊するということは、われわれ人間、そしてあらゆる生物の生活を破壊することと同義なんだから。

と、そんな不満はあるけれど、ローマはまだまだ今のところは、自然と共生している美しい街だと思っているよ。たとえばテヴェレはいまだにたくさんの物語を語りかけてくる川だしね。川の堤防に降りて散歩すると、古代ローマ時代の下水道がそのままの形で残っているのをはじめて見つけて、驚いたりもする。『下水』というのは、古代ローマが発明した重要なシステムなひとつだけれど、ローマじゅうを網の目のように流れる下水は、その時代、テヴェレの堤防、テスタッチョあたりで合流していたんだ。その合流地点であるテヴェレの下水道は巨大な扉のような形、しかもすべてゴージャスな大理石造り。ローマに流れた長い時間に朽ちることなく、観光客の目に触れることなく「あれ? これいったい何なんだ?」と、忽然と目の前に現れるんだけれど、面白いよね、街を歩くたびに、毎回発見があるというのは。

それに古代ローマ人たちは、非常に興味深いシステムを構築していた、と僕は考えている。遥か彼方の昔、アフリカや中東を侵略したが、その文化を壊すことなく、宗教も風俗もリスペクトしながら、自分たちの文化として吸収していくおおらかさもあった。ローマに侵略された国、民族が、ローマへの忠誠として、ただひとつ守らなくてはいけなかったのが『ローマ法』だったなんて、不思議な侵略のシステムだよ。宗教も風習もなにもかも自由だが、法律だけは守らなければいけない。現代の世界が、侵略した国に『民主主義』ー一応、とりあえずは便宜上、そう名付けられている思想だけどーを無理やり持ち込むより、古代ローマ人たちのように、互いの文化をリスペクトできる方法を考え出せるなら理想的だと思うよ。本来『侵略』なんか存在するべきではないが、もしどうしてもそうしなければならないのなら、互いの文化を充分にリスペクトすべきだ。

 

- Bersaglio - cm 50 x 50, oil and print paper mountated on canvas, year 2010

Bersaglio エル・グレコのキリストの『パッショーネー受難』をモチーフに、その聖痕をさらなる銃弾で打ち抜こうとする世界を風刺して

 

確かに世界の現状に、リミットまで突き進みそうな、強烈で破壊的な気配が漂っているのを感じているよ。非常に暴力的な文化を持つ国があり、部族がいて、『リスペクトし合おう』などという『理想』を語るなんて夢物語でもあることは、僕だって理解しているさ。しかし現在、世界を震撼させているテロ集団の暴力的な文化は、突如として現れたのではなく、いままでの長い世界の歴史の結果だろう? 僕は殺人者は殺人者として生まれてくるのではないと思っている。人は殺人者に『なる』んだ。両親を、兄弟を、婚約者を殺され、暴力的な光景を毎日見て育ち、その恨みを晴らすために自らも殺人者になる。10歳くらいの兵士だっているじゃないか。子供のころから暴力こそが、ただひとつの生き延びる手段だとメンタルに叩き込めば、自分と異なる民族、宗教を持つ者たちを殺戮するしかない、という思想を持つようになるよ。その子供たちにいったい何の罪があるっていうんだい?

非常に危うい状況に直面している現代、われわれすべての人間は、世界で起こるあらゆるすべてのことに責任がある、と僕は感じている。僕らは自分以外のすべての人、つまり世界で起こるすべてのことに責任を持つべきなんだ。紛争地の人々は誰からも助けれず、守られもせず、侵略されつづけ、長い期間に渡って、戦争の残虐行為を受け入れなければならず、生活は貧しく、豊かさはいつも国境の向こうにあったんだよ。アフガニスタン、イラク、リビア、シリア・・・・何百万、何千万という死者のほとんどは無辜の市民だ。戦争で何かがいい方向へ向かった、などという試しはない。国家が暴走して戦争に走りそうになったとき、われわれ一人一人はその意味をよく考えなくちゃならない。それが現代を生きる人間としての責任だと思うね。

ところで、ねえ、そろそろ何処かのバールに入らないかい。コーヒーでも飲もうよ。ずいぶん話したから、喉が渇いたよ。話の続きはまた、次の機会にしよう。録音はここでストップ。今日はおしまい。

 

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壺の破片、大理石の欠片、あらゆる時代の思い出がひそやかに物語を語る公園の土

 

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