2018 イタリアの不穏な8月:フィアット、モランディ橋の崩壊、そして難民の人々

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9月の声を聞いて、今まで夏休みで閉まっていた大通りの店もひとつ、ふたつ、と緩やかに開店しはじめました。たっぷり遊んだ夏が溜息混じりに終わる、どこか気だるい空気が流れるローマではありますが、いつもはたいした事件も起こらないイタリアのヴァカンス期、今年はジェノヴァの『モランディ橋』の崩壊、という大事故が起こったせいで、その倦怠に多少の緊張感が漂っています。さらに感じるのは、欧州極右勢力のホープと見なされる、『同盟』マテオ・サルヴィーニの派手なスタンド・プレイに、極右グループが調子づいていることでしょうか。それに伴い対抗するアンチファシストのグループも活動活発化の様相を見せている。イタリアの8月を振り返ってみました。

実は、この8月は日本に帰国していたため、ネット情報でしかイタリアの様子が伝わってこず、あれこれの事件の実感が、いまひとつ乏しかったというのが正直なところです。したがって、ローマに戻ってイタリアの人々と話したり、ニュースや雑誌を観たり読んだりするうちに、夏に起こった数々の事件、とりわけジェノヴァの『モランディ橋崩壊』の衝撃が、まだまだ人々の脳裏に暗い影を落としていることをヒシヒシと感じることになりました。当然のように、今後の対応を巡って政党間、国政地方自治体の判断に齟齬が生まれ、政治問題へと発展を見せています。

ともあれ、どんなに猛暑であっても大好きな日本で過ごす日々はやはり楽しく、人々は親切で、どこに行っても他人への気配りは尋常ではなく、ちょっとした闘いが日常でもあるローマに比べると、とりあえず魅惑的なぬるま湯でした。ああ言えば必ずこう言って、自己の存在を主張せずにはいられないイタリアの「わたしが主人公」社会と、個の概念が薄い日本における同調圧力社会を足して2で割ると、ちょうどいい具合になるのにね、などと考えながら再びローマ、及びイタリアを観察したいと思う次第です。

いずれにしても、イタリアに戻り、9月もとっくにはじまったというのに、かかりつけの歯医者さんの「9月21日まで休診します」とさらっと更新された留守番電話には少々困惑しました。子供たちが通う学校はまだ夏休みが続いているし、9月の中頃まで休みをとる店やバールやケーキ屋さんをちらほら見かけますが、今年は例年に比べて、休みが長い開業医や店が多いようにも思います。「イタリア国民の利益を第一に考える」という触れ込みの新しい政府がイタリアに樹立したことで、強気になった人々のヴァカンス感が少し変化したか、あるいは楽しめる時に徹底的に楽しんでおくぞ!という本能の声を体現する、勇ましい刹那主義かもしれません。

なお、豪雨や猛暑、台風、そして地震で大きな被害が続く日本のことを、とても心配しています。被害に遭われた方々が、お気持ちを強く持って、1日も早く日常の生活を取り戻されることを心からお祈りしています。

フィアットのカリスマ、セルジォ・マルキオンネの急逝からはじまったイタリアの夏

誕生から60年を迎えたFiat 500(チンクエチェント)。La Voce (vove.com.ve)から引用。

今年のイタリアの夏の波乱は、この時からはじまった、と言っても過言ではないかもしれません。

FIAT(Fabbrica Italiana Automobili Torino)ーフィアット、正確に言うと現在フィアット・クライスラー(FCA )、フェラーリ社、及び多くの関連会社グループのリーダーであり、イタリアを代表するグローバル・マネージャーとして、国際社会にも名を轟かせていたセルジォマルキオンネが、66歳という若さで7月25日に急逝。闘病の経緯が明確にならないまま、まるで狐につままれたかのごとき謎めいたスピードでこの世を去ったことは、イタリア経済界にも、メディア界にも、車にはまったく興味がないわたしのような一般の市民たちにも、大きな衝撃を与えました。

フィアットといえば、チンクエチェントという大衆車で戦後の「イタリアの家族」の夢と未来を象徴した、代表的なメイド・イン・イタリア(現在は世界中で造られていますが)の自動車産業であることは周知の通りです。さらに68年からはじまった労働者、学生を中心としたムーブメントをきっかけに、69年に巻き起こった労働者たちの反乱熱い秋から続く70年代『鉛の時代には、マルクス・レーニン主義を掲げる労働者たちの激しい闘いの場ともなりました。当時『革命』を目指した左翼学生たち、労働者を中心としたプロレタリアートたちにとって、フィアットの工場は、思想の重要な核でもあったのです。

ある意味、イタリアの近代史の一端を形成したと言えるそのフィアットは、しかし長い時を経て、グローバリゼーションが完全にイタリアを凌駕しはじめた頃から、かつて誇った趨勢を失うことになりました。ジャンニ・アニエッリの息子、ウンベルト・アニエッリが亡くなった年の前後には株価も低迷し、2005年には史上最低価格4ユーロという底値をつけています。

余談ですが、この頃のイタリアといえば、欧州共通通貨ユーロを導入した直後で、一種の投資ブームが起こった頃でもあり、銀行に行けば、必ずと言っていいほど行員たちが投資の話で盛り上がっていました。どの銘柄を買っても、あるいは投資信託を買っても、それほど大きな損はないという時代でしたが、その時代の行員たちが、危なくて顧客には「絶対薦められない」と言っていたのがフィアットの株でした。そしてその風潮に、たったひとりだけ頑なに異を唱える、シチリア出身の年配の行員がいたことを憶えています。

「いいかい。いまの相場に騙されちゃだめなんだよ。フィアットは必ず蘇って大化けする」と彼は強く主張し、他の若い行員に「レナートは勝負師だからね。話を聞かないほうがいいんだ」と笑われていました。思えば、その頃の(つまり、サブプライム以前の)ローマの銀行は、現在のように杓子定規に肩苦しくなく、まことしやかな儲け話で顧客を釣ることもなく、推奨商品を買う見込みのない、わたしのような顧客とも暇にまかせて談笑する、アットホームな雰囲気でした。

結論を言うならば、シチリア出身の、そのレナートさんの勝負師の勘は(当時、フィアットにかなり投資したと彼は言っていましたから)見事に当たることになったわけです。フィアット王国の帝王の座を継いだウンベルト・アニエッリ亡きあと彗星の如く、しかしいつも同じ丸首のセーターというカジュアルさで、新しい総帥として現れたセルジォ・マルキオンネ以後、フィアットはあれよあれよと言う間にイタリアを代表するグローバル企業として返り咲くことになりました。

FCA CEO セルジォ・マルキオンネ Sergio Marchionne, the CEO of Fiat Chrysler Automobiles, at the Chrysler Technical Center in the Auburn Hills suburb of Detroit, April 23, 2015. LAURA MCDERMOTT /THE NEW YORK TIMES NEWS SERVICE

イタリア人でありながら移住したカナダで教育を受け、2カ国のパスポートを持つマルキオンネは、2004年6月にアニエッリのフィアット王国を引き継いだのち、旧態依然としたフィアットの企業システムをグローバル基準に瞬く間に刷新。2005年には4ユーロだった株が2007年には23ユーロにまで膨れ上がるという快進撃、数々の新車を大ヒットさせながら、落ちぶれたフィアットのイメージをガラリと変えることに成功したのです。

サブプライム以降の2009年には、崩壊寸前であった米国クライスラーの20%を取得することで経営権を得、イタリア発のグローバル自動車産業となったFCA(フィアット・クライスラー)を、世界第8位(2017)の規模へと名実ともに成長させました。そのマルキオンネの活躍は、親交のあったオバマ大統領からも感謝の意を表されています。

「イタリアの問題はプロビンチャリズモ(田舎根性)なんだよ。フィアットに来た年にまず驚いたのは、8月になると本社に人っ子ひとりいなくなることなんだ。いったいなんのための休暇なんだか。8月はアメリカでもブラジルでもみんなが働いているんだよ。8月に本社の全員が夏休みだなんてあり得ないことだろう」

ミラノのボッコーニ大学でそう発言する、初期の頃のマルキオンネ講演の動画がYoutubeに上がっていますが、ここ数年の間に、イタリアにアンチグローバルな風潮が定着した現在、その動画には「働くために生きているわけじゃない」「働くだけで死んでしまったら元も子もないじゃないか」という内容のコメントが並び、さもありなんという風情を醸しています。いいことなのか、悪いことなのか、イタリアの精神性のひとつでもあるプロビンチャリズムを払拭するのは、並大抵のことではありません。

フィアットの変革に取りかかったマルキオンネは、シチリアの工場を閉鎖し、中央左派政権とも合意、時間をかけて工員の労働条件を経営に有利な方向へと変更。また、官僚主義が蔓延り、時間ばかりかかって物事がまったく前に進まないイタリアから、本社を他国へ移した方が合理的、とFCA(フィアット、アルファロメオ、マセラッティ、ランチア、ジープ、クライスラーなど)を、さっさとアムステルダムに移し、税金は英国に収めるという方法を取っています。

何と言ってもイタリアに、アメリカン・スタイルの経営を持ち込んだ人物として、強い反感、労働組合の反抗、経営を巡る議論に晒され続けても、結局、フィアットというイタリアン・ブランドを、みるみるうちにグローバルレベルにまで再成長させた超人的な業績で、彼をカリスマとして認めざるを得ない、という空気を形成したのです。

そもそもマルキオンネは、アブルッツォ州のちいさな街でカラビニエリの息子に生まれ、父親の年金受給を機に、家族で果実園を営んでいる親戚を頼って14歳でカナダに移民した人物です。移民当時、英語の発音を友人たちに笑われて必死で勉強したと言い、トロント大学では哲学、ヨーク大学ロースクールで法学の学位を、さらにはウィンザー大学で経営管理のマスターを取得。若いうちから北米、欧州各国のグローバル企業で主要ポジションに抜擢されています。

生前、プライベートはほとんどヴェールに包まれていましたが、亡くなったのち、ほとんど寝ないで世界中を飛び回っていたこと、FCAのCEOだった間、休日はほとんど取っていないこと、唯一の楽しみはフェラーリのレースだったこと、驚くほどのヘビースモーカーだったこと、入院する前に「疲れた」とはじめて弱音を吐いたエピソードなどが少しづつ明かされました。そして実際、明かされるべきプライベートな時間など、ほとんどない人物でした。「2019年に引退する」と宣言していましたが、たまにテレビで見かける姿は、常に溌剌と明朗で、大病を患っているという様子はまったく見受けられなかった。

ジャンニ・アニエッリの孫で、FCAの現・総帥であるジョン・エルカンから、マルキオンネの重病が病名は伏せられたまま発表されたのは、最後に彼がパブリックな場に姿を現した6月26日から、1ヶ月も経たない7月21日のことで、「彼はFCAには、もう戻っては来ることが不可能な状態だ」と、その日のうちにフィアット・クライスラーのCEOとして、ジープのマイケル・マンリー、フェラーリのCEOとしてルイス・キャリー・カミレーリの抜擢が決定されるという慌ただしさだったのです。その急展開に「まったく寝耳に水」とメディアも騒然、というより「何が起こっているのか分からない」と誰もが呆然とした、と言ったほうがいいかもしれません。

この性急な対応は、隙あらば、と投機の機会を狙っているマーケットの反応を最小限で食い止めるための、フィアット側の最善の交代劇だったには違いありませんが、次いで22日には脳死の状態と報道され、25日に急逝という、あまりにあっけなく、まったく納得のいかない最期でした。入院していたスイスの病院も、最後まで「プライバシーの保護」という理由で、一年以上闘病中であったことは明かしながらも病名を明確にしなかったせいで、「つい最近まで元気のように見えた人が、こんなに短い期間で簡単に脳死することがあるのか」「例えば肺ガンであるとか、言われているように背部の肉腫であっても、病院の施術ミス、あるいは医療機器の故障などのアクシデントではないのか」と多くの憶測を生みました。現在では非常に難しい手術中に引き起こされた塞栓による心臓発作とされています。

さらには、彼の最期を見とった、恋人であり仕事のパートナーだった女性も、また子供達も、彼の死を巡る事情については何ひとつ語らず、親戚にも内緒にされたまま、いつの間にかカナダでお葬式が行われて両親の墓の横に埋葬されたのだそうです。もちろん、その一連の事情をあれこれ詮索することは、生前プライバシーをほとんど明かさなかったマルキオンネを冒涜することかもしれませんし、存在そのものが『蘇ったフィアット』でもあった、『物語』より『実績』重視のグローバル・マネージャーの強烈なインパクトを、もはや押しも押されぬグローバル企業となったFCAは引きずりたくないのかもしれません。後に残った遺産は少なくとも70億ユーロと言われます。

マルキオンネが最後にパブリックなシーンに登場したのは、ローマのカラビニエリ本部に特製のジープを届けるというセレモニーでした。そこでマルキオンネは、一匹の警察犬に向かって「可愛い犬だね。知ってるかい? 僕の父親もカラビニエリだったんだよ」といつにない柔和な様子で語りかけています。当日、カラビニエリのセレモニーにはどうしても出席したい、と予定を変更してローマに赴いたマルキオンネの、今まで見えなかった素顔が、その会話に垣間見えたようにも思いました。

そういえば、3月の選挙結果を受け、マルキオンネは「ポピュリズム、恐れずに足らず」と発言していました。9月の中旬には、オフィシャルな「お別れ会」が開かれるのだそうです。

▶︎ジェノヴァ、市民の日常の風景だった高架ハイウェイ、『モランディ橋』のありえなかった崩壊

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