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『鉛の時代』国家の心臓部へとターゲットを変えた『赤い旅団』と謀略のメカニズム

Anni di piombo Deep Roma Società Storia

歯車が狂いはじめた1972年

フェルトリネッリを失った72年は、『赤い旅団』にとって非常にデリケートな、彼らを巡る環境が一変した年でした。フェルトリネッリの死とともに、革命家たちは方向性を見失い、海外の社会主義国、革命グループとのコンタクトをも失うことになります。

一方、このころから、『赤い旅団』は極左武装グループ『Potere Operaio – 労働者の力』のメンター、トニ・ネグリとも密に交流するようになり、理論構築を協力しあうようになっています。トニ・ネグリは『赤い旅団』の思想形成に影響を与えたと糾弾され、のち有罪判決を受けましたが、イタリアの『人権の父』、急進党のマルコ・パンネッラの援助に支えられ、ドラマティックな展開を経てフランスに亡命。その後イタリアに戻って受刑し、現在も活躍しています。

なお、前述したように72年には、シット・シーメンスのディレクター、イダルゴ・マッキアリーニの数時間の誘拐によるプロパガンダ成功ののち、マリオ・モレッティが初期執行幹部レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニと同格のリーダーに昇格しますが、もちろんこの時は、クルチョもフランチェスキーニも、モレッティがシミオーニと密に通じている、とは考えてもいませんでした。

しかしフランチェスキーニが、自分たちの周囲を巡る何かがおかしい、と感じはじめたのも72年のことでした。「総選挙」を控えたその頃、『赤い旅団』ではフランチェスキーニが核となり、『キリスト教民主党』右派であるマッシモ・デ・カロリスを誘拐、選挙を混乱させようと計画し、人質を監禁する家彼らが「人民刑務所』と呼ぶもすでに借りて準備万端だったのだそうです。ところが誘拐を計画した日の1週間前、デ・カロリスは忽然と行方がわからなくなってしまい、そうこうするうちに、フォンターナ広場爆破事件』、『フェルトリネッリ事件』を捜査していたルイジ・カラブレージ警部が自宅付近で射殺される、という事件が起こり、極左グループに一斉の捜査が入ります。

そのときに逮捕された『赤い旅団』メンバーのマルコ・ピセッタは、そもそもフェルトリネッリの死後、GAPから『赤い旅団』へと流れてきた、マリオ・モレッティの大きな信頼を得る青年だったそうです。そのピセッタは、逮捕された瞬間からまったく抵抗することなく、あらゆるすべての経緯を白状、即刻警察の協力者として働きはじめたため、『赤い旅団』の創立メンバーたちは、ピセッタはおそらくGAP時代から軍部諜報SIDの協力者として紛れ込んでいたスパイだったのでは?と考え、情報が事前に漏れ、デ・カロリスが誘拐計画を知って姿をくらましたのだろうと推測しています。のち、このデ・カロリスは『秘密結社ロッジャP2のメンバーだったことが明らかになりました。

モレッティもまた、この捜査の際、異様な動きを見せています。一斉捜査が入ったデ・カロリスを監禁する予定の家の付近まで、モレッティは自身のパートナーが所有するフィアット500で乗りつけましたが、警察が群がっているのを見ると、何故か車を付近に駐車して、歩いてその場を立ち去っています。のち、そのパートナーの車から住所が割り出され、モレッティ家族 (ちいさい息子も含め)が住んでいたのは、『フォンターナ広場爆破事件』の捜査責任者であるミラノ警察署長、アントニオ・アレーグラが自宅を構える通りだということが判明しました。

この経緯から当然、車の所有者であるモレッティのパートナーは取り調べを受けましたが、モレッティ自身は20日間ほど行方が分からなくなったのちに、逮捕されることもなく、再び『旅団』に舞い戻っています。もちろん、ミラノ警察署長と同じ通りに家族で住んでいた、ということだけで、モレッティという人物の背景を疑うのは行き過ぎた推測ではありますが、モレッティが住所に選ぶところ、あるいはモレッティの関係者が住む場所の近所には、必ずと言っていいほど、軍部諜報の有力者や、警察関係者が住んでいるのは不思議なことです。その事実についてはその都度、後述していくつもりです。

しかもこの一斉捜査の際、モレッティが他のメンバーたちから処分を依頼されていたはずのクルチョの写真(身分証明書偽造のための)や、マッキオリーニ誘拐の際の写真(ピストルを頬に突きつけた)など、絶対的な証拠がアジトから見つかり、モレッティは「馬鹿スパイかのどちらかだ」とメンバーから一斉に非難されます。しかしモレッティは「間違った」「不注意だった」と繰り返すだけでした。

この件に関してモレッティは、パートナーの車が見つかったことで、ふたりの関係に大きな溝が生まれ、逮捕されるまでの何年もの間、息子にも会えず辛かった、とだけしか語っていません。いずれにしてもこの一件を機に、それまで家族と暮らしていたモレッティは、完全にClandestino( クランデスティーノ・身分を明らかにせず、非合法で活動)に突入しています。 

さらにこの一斉捜査で逮捕されたマルコ・ピセッタは『赤い旅団』メンバーの詳細を知っていたので、この青年がすべて話せば、全員逮捕以外にありえない、とメンバーの間に危機感が満ち、色めきたちましたが、結果としては執行部の重要メンバーが逮捕されることはありませんでした。もしこの時点でメンバー全員が逮捕されていたならば、『赤い旅団』は完全に消滅していたはずであり、この件についてフランチェスキーニは、『赤い旅団』の共感者であった裁判官(デ・ヴィンチェンツォ)に「保護されていたように感じる」と述懐しています。なお、ミラノ警察署長アントニオ・アレーグラは「スーパークラン」の存在をすでに知っていた、ということが、のちに明らかになったそうです。

 

☆ペテアーノ・カラビニエリ爆破事件

72年5月31日、カラブレージ警部が殺害された2週間後(極左グループLotta continuaー『継続する闘争』の幹部アドリアーノ・ソフリらが主犯として逮捕され、無罪を主張しながら長期懲役となりますが、真相は明らかにはなっていません。現在、ソフリは出所)には、のちに『鉛の時代』の背景を検察が知る決め手となる『ペテアーノ・カラビニエリ爆破虐殺事件』が起こっています。これは極右グループが、北イタリア、サラガードの田舎道にカラビニエリを電話で呼び出し、カラビニエリ5人が急行したところで、駐車されていたフィアット500が爆発。3人が爆死、2人が重症を負うという凄惨な事件でした。

この事件は当初、『フォンターナ広場爆破事件』同様、国家権力(カラビニエリという軍部)を敵と見なす極左グループの犯行疑われましたが、捜査が進むうち、Ordine Nuovo (オーディネ・ヌオヴォーネオファシスト・テログループ)のメンバー、ヴィンツェンツォ・ヴィンチグエッラ、カルロ・チクッティーニによる犯行ということが明らかになりました。『ペテアーノ事件』は、『フォンターナ広場』からはじまる一連の極右グループによる虐殺事件で唯一、実行犯に『終身刑』という実刑判決が下った事件です。

というのも、実行犯として逮捕された「極右革命闘士」ヴィンチェンツォ・ヴィンチグエッラが、1984年のボローニャ検察による取り調べで、『フォンターナ広場爆破事件』から『ボローニャ駅爆破事件』まで、10年という歳月に渡る大規模爆破事件及び殺人事件の背景に、Ordine Nuovoが関わっていること、さらに事件の数々が、CIA、NATOに加え、イタリア軍部諜報SIFAR、SIDというイタリア国家の中枢が関わる『緊張作戦』の一環であったことの詳細を暴露しているからです。

さらに、ペテアーノにおける爆破事件を含み、多くの無辜のイタリア市民を巻き込んだ爆破事件には、NATOがグラディオの作戦実行のために隠していた極秘武器倉庫NASCO の武器が使われたことが、のちの捜査から明らかになっています。ペテアーノの爆破事件には、72年に偶然発見されたアウリジーナ(オーストリアとの国境)のNASCOの武器が使われた、と見なされており、NASCOは発見されるまで、北イタリアの139箇所にありましたが、72年に偶然に発見されたのち、急いで撤去されたのだそうです。

「ペテアーノの事件は、突発的に一日で決定されたものではない。69年の『フォンターナ広場事件』が終了したのち、長い時間をかけて分析されたアクションだ。ネオファシスト世界の価値観と、僕自身の経験が抱合された分析。国家との前線における闘いとして結論づけられるであろう、という分析だ。ペテアーノはひとつのシグナルとなる事件だった」ヴィンチグエッラはそう語っています。つまりヴィンチグエッラ自身は、国家や諜報の手先としてではなく、純粋に『極右革命闘士』として国家に戦争を仕掛けた、と言っているのです。ヴィンチグエッラは現在もペテアーノの事件に対して、後悔を表明していません。

このように、72年は次から次に目まぐるしく重大事件が起こったうえ、極右、極左グループのいずれからも犠牲者が出る衝突が覆った年でした。まさに『緊張作戦』の目的通りに、極左の若者たち、工場労働者、極右グループの間に殺気が満ち、その殺気を縫って諜報が蠢き、さらに社会の焦燥感、危機感を煽り立てるアクションを仕掛けていった、というところでしょうか。

☆ミュンヘン・オリンピック『黒い9月』

また、この年はイタリア国内だけでなく、海外でも重大なテロが起こった年でした。8月から9月にかけて開催されたミュンヘンオリンピックでは、パレスチナ武装グループ『黒い9月』が選手村に潜入、ユダヤ系米国人選手を含む2人を射殺。9人を人質にとって攻防が繰り広げられ、結果、テログループ、人質全員、さらに警察官が死亡するという惨事が起こりました。この時武装グループがイスラエル刑務所からの解放を要求した受刑者たちの中には、『赤い旅団』と対比され、交流があったと考えられるRAF『ドイツ赤軍』のメンバー、また『日本赤軍』岡本公三の名(ウィキペディア日本語版より)もあったそうです。

この72年頃から、メンバーの数が急激に増え続けた『赤い旅団』は、資金難を解決するために、手当たり次第強盗(パルチザン以来の伝統的資金稼ぎ)をはじめています。また、多くのメンバーがクランディスティーノー非合法活動へ突入、正体を偽装し、アジトとするアパートは借りると足がつくため、すべて購入したのだそうです。トリノのアジトはレナート・クルチョ、マラ・カゴール、ミラノをフランチェスキーニ、モレッティが仕切るようになりました。インタビューを読みながら少し意外に思ったのは、この時『赤い旅団』のメンバーは、給料制 (!)だった、ということでした。

▶︎73年、世界を襲った第一次オイルショック

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