Tags:

踊るジプシーと作家Vania Mancini

Cultura popolare Deep Roma letteratura Società

ジプシーの人々ーここでは、そもそもの彼らの民族の名『ロム(Rom)』と呼ぶことにします。『盗み』『物乞い』というネガティブイメージがあまりに根強く、社会から顧みられることのないロムの人々、子供たちが、これ以上社会から排斥されないよう、地域の学校と協力、ロムと社会の間に接点を見出す活動に 20年近く関わり、 彼らと交流しながらその状況を書き続ける作家ヴァニア・マンチーニに、さまざまな話を聞いてみました。

イタリアに、15万〜17万人いると言われるロムの人々は、イタリア語では一般的に、ネガティブな意味合いを込めてZingari(ジンガリ)と呼ばれる、現代もなお放浪し続ける民。停止することなく急回転する都市の循環から弾き飛ばされ、大抵はローマの郊外、荒れ果てた土地の過酷なキャンプ居住区に暮らす、その人々について書くことは、日本人であるわたしにとって大変難しいことです。街で見かけることはしょっちゅうでも、日常では接したことがなく、改めて考えてみれば、彼らと普通に会話をしたことすらありません。したがって彼らのコミュニティがどのように成立しているか、どんな精神性を持つ人々なのか、まったく基礎知識がない。ローマにやってきて、多くのイタリア人に「ジンガリにはくれぐれも気をつけなきゃいけない。彼らはまったく働かない怠け者で、盗みと物乞いだけで生きている無法者だ。隙があれば狙われる。しかも何をしでかすか分からない危険な者たちなんだから」と、ことあるごとに忠告された経緯もある。実際、地下鉄ではバッグを切られたり、すられそうになったこと、あるいはすられそうになっているトウーリストに忠告して、足をグイッと踏みつけられたことが何回もあります。

また、イヤフォーンを耳に普通に街を歩いているところ、急に音楽が聞こえなくなった、と思ったら、風のように走りゆく数人のロムの子供たちが、笑いながらうしろを振り向き、今までポケットに突っ込んでいたはずのわたしのデバイスを片手に、ピョンピョンと小躍りしながら瞬く間に消えてしまった、という経験もあります。そのときのわたしはといえば、あまりに急な出来事で、怒ることも忘れて耳にイヤフォーンを差したまま、飛び跳ねながら逃げる子供たちの背中を、「すごい技だなあ」と半ば感心しながら呆然と見送るしか手だてがありませんでした。あるいは地下鉄で盗みを働いて捕まったロムの少女が、痩せたちいさい身体をジタバタさせながら発する金切り声は、うす暗い地下をかき乱す、とてつもない声量で、その勢いが周囲の人々をすくませる。ローマの地下鉄やバスで、ロムの子供たちと乗客、駅員の人々、あるいは警官の格闘を見かけることは、そう珍しいことではありません。さらには生まれたばかりの赤ちゃんを大きな布で体にくくりつけた、ロムの若い母親が片手を差し出し近づいてきて、どんなに早足で歩いても、何十メートルも「お恵みを」「お恵みを」とつきまとわれることもある。しかたない、と1ユーロを掌にのせると、「たったこれだけ?」と恨みがましい顔で、「もっとお恵みを」と催促されたりもします。

そういうわけで、なかなか手強い人々ですから、ロムの人々を美化するつもりはまったくないのです。ないのですが、この、ロムの人々が、がんじがらめに世界を覆うシステムにまったく順応することなく、社会から完全に排斥されながらも、独自のコミュニティを頑なに守る有り様に、きわめてミスティックな血の濃さ、アルカイックな生命力を感じ「何もかも、誰もかもが時とともに移りゆくのに、いったい何が彼らに変化を拒ませているのか」と興味をかきたてられる、というのが誠実な気持ちです。長い欧州の歴史において、倫理、法律、土地の慣習を無視して自由奔放に生きるロムの民族、その特異な存在感と神秘にロマンチシズムを見出し、作品にシンボライズした作家、詩人、画家、たとえば有名なところではカラヴァッジョ、メリメ、サラサーテ、レオンカヴァッロ、新しくはクストリッツァなど数多く存在します。もちろん「ロムのリアリティはそれほどロマンティックなものではない」ということを分かっていても、かつて多くの芸術家たちが、ロムに魅了された気持ちも理解できないわけではない。華やかな色彩の長いスカートを纏い、野生の匂いを漂わせながら、鋭い目をして群れ歩くロムの娘たち(驚くほど端正な顔をした少女もいて)の、街の人の目をまるで意識しない傍若無人な態度は、「管理と服従には根っから無縁である」と、われわれと同じ世界に存在しながら、違う次元に生きる人々のようです。

迫害、あるいは侵略により住む土地を追われ、世界にディアスポラした他の民族、例えばユダヤの人々、チベットの人々、そしてアラブ、アフリカからの移民、難民の人々は、独自の民族性、宗教性、精神性を保ちながらも、訪れた国の社会の規範、システムに抵抗することなく、「郷に入れば郷に従い」そのライフスタイルに馴染んでいくのが普通の光景。もちろんロムにもいろいろな人がいて、社会に順応して服飾デザイナーになって活躍したり、音楽家として頭角を表す人もいますが、通常街で見かけるロムの人々は、近代社会システムなど一向に気にしている風はなく、ライフスタイルを変える様子もなく、世界の『掟』ではなく、ロムの『掟』に生きているように思えます。

 

henri-rousseau-Zingara-addormentata

アンリ・ルソー『眠るジプシー女』

 

そこで、インタビューの前に、少しだけロムの歴史を調べてみました。何より、当のロムの人々が、自分たちが、一体どこからやってきたのか、気の遠くなるような長い放浪の間にすっかり忘れてしまっているという事実が興味深い。このルーツの忘却が、彼らに『放浪』をやめさせない理由かもしれない、とも思うのですが、基盤となる文化ルーツがなく、移動しつづけているのに、何世紀もの間、ライフスタイルを変えない強固なアイデンティティは、何かの魔法にかけられているようでもあり、謎に満ちています。そのため2世紀前まで、ロムの人々はどこからやってきたのか皆目見当のつかない、まったくの『エニグマ』とされてきましたが、現在では彼らが話す言語の分析研究から、発祥は北インドであると推定され、なんらかの理由で北インドからペルシャに移住、それから少しづつ欧州にディアスポラしたことが、ほぼ確実であるとみなされるようになった。しかしそのディアスポラの理由は、いまだ定かではありません。

ペルシャの詩人が書き残している伝承では、「ペルシャの王、Scià BahramVが、インドの王に国民を楽しませるためにリュートの楽団を送ってほしいと願い出たところ、1万人の歌舞をよくする男女がペルシャにやってきた。Bahramが彼らを気に入り、彼らが居残るように、財宝、ロバ、また定住に必要な農耕をはじめるために小麦の種を授けたが、農作業をしたことのない彼らは、その小麦の種を畑に蒔くかわりに、すっかり食べてしまう。Bahramはそんな彼らの怠惰に怒って、財宝、楽器、ロバを取り上げ『働く気がなければ、二度と帰ってくるな』と彼らを追い出した」と、その起源を仄めかしている。また、別のペルシャの詩人は、当時、lùriと呼ばれていたその放浪の民を「常にエレガントな服装をして、音楽の才能に溢れていた。彼らの肌の色は、まるで夜の暗さのように深く、謎めき、人々を幻惑した」と書き残しています。現在でも、世間の常識から捉えれば『働かない、怠け者』のロムの人々の音楽性の豊かさ、舞踏のセンスは周知のことですから、この伝承はロマンティックすぎるとはいえ、まったくありえない話ではないかもしれません。

そのロムの人々が欧州に登場するのは15世紀になってから。当時、三々五々と欧州に流れてきた彼らは「この人々たちを保護するように」という教皇の手紙(真偽は明らかではありません)を携え、当座のお金、住居、食べ物を求めてその街の権威者を訪ねてきた。あるいは「この者たちが、盗みを働いても罪に問わないでほしい」とのハンガリー王の手紙(こちらも真偽は明らかでありません)を携えてきた者もいます。欧州にディアスポラしてきたロムの人々は、ほとんどがカトリック教徒で、本山への『巡礼』を目的に欧州に流れてきていますが、彼らはビザンツ帝国時代に改宗したのではないかと推測される。しかしディアスポラした場所によっては、プロテスタント、イスラム教に改宗したグループもいるようです。当時の記録によると、彼らは街の人々に宗教的な物語を語る『語り部』でもあり、予言、占いにも優れ、馬の商いなどには、縁起をかついでロムの人々を連れていくという慣習もあったそうです。また盗みを働くという偏見は、このときからすでに資料に多く散見され、例えばカラヴァッジョの『女占い師(ジプシー女)』、ジプシーの女が手相を見るとみせかけて、おっとり育ちのよさそうな青年騎士から、こっそり指輪を抜き取っている絵は有名です。

しかし彼らの放浪は、ちょっとした詐欺、騙り、盗みに彩られる謎とロマンに満ちた、自由奔放な旅では、もちろんなかった。ロムのディアスポラの歴史は、同時に迫害の歴史でもあり、どこへ移住しようとも『ロム』というアイデンティティを捨てず、社会に同化しない、あるいは施政者から当時の社会に適応するよう配慮されても従わない、などの理由で、欧州各国から激しく弾圧、排斥され続けたという歴史をもくぐり抜けている。特に16世紀、真の欧州モデルが確立するころには(アメリカ大陸への侵略がはじまり、欧州の価値基準こそが『絶対』という欧州的普遍主義が定着した)、「危険で、魔術を使う、悪魔的な人々」と見なされ、社会の規範に従わなければ追放、絞首刑という極刑を課した国も現れます。また周知の通り、ナチスのホロコーストにおいては、ユダヤ人とともに強制収容所へ送られ、多くの犠牲者を出しています。

戦後は、この迫害の歴史に終止符を打つべく、世界ロム会議なども開かれ、ロム民族自身による人権活動も盛んになってきましたが、今度は時代の急速な変化とともに、ロム独自のノマディックな生活も、経済的に立ち行かなくなります。つまり市場経済主導で循環している現在の世界は、異質な経済スタイルを持つロム・コミュニティの存在を許さない構造となり、彼らは困窮を強いられるようになる。もちろん住む地域によって、それぞれ事情は異なると思いますが、欧州に彼らが現れて500年以上が経つうちに、次第に社会の管理が進み、規制がいよいよ厳しくなり、人々の心に緩みがなくなるにつれ、「管理されることのない無法者たちである」ロムの人々への社会の偏見、憎悪は、いよいよ悪化しているかもしれません。ローマにおいては、彼らの住居は都市の生活から完全に隔離され、人々からは、ただロムというだけで疎ましがられ、猜疑の視線が注がれる。

当然のことですが、ロム・コミュニティにもさまざまな人間がいて、盗みや物乞いだけではなく、マフィアと癒着して大金を動かしたり、大がかりな犯罪に関わるグループが存在することも事実です。しかしメディアも人々も、事件が起こるたびに負の側面だけに焦点を当て、ロムの人々に近づこう、交流して理解を深めようとする姿勢を示さないことにも問題はある。今や数年前のことですが、ローマ市当局が、ロムの人々を飛行機に乗せてルーマニアに送ってしまおうという乱暴な計画が持ち上がったこともありました。またロム居住区が放火されたり、最右翼のグループに嫌がらせを受けることはしょっちゅうです。

さて、今回インタビューさせていただいたVania Manciniは、なかなかこのようなエネルギーを持った人物には出会えない、と思わせる奇抜な個性を持つ女性です。知的でありながら感情豊か、気まぐれそうに見えながらひたむき、大胆でありながら繊細、ワイルドに、周囲を怖れることなく弾ける火花のように行動し、そのとめどない勢いと正直さに周囲の人々は、ちょっとした目眩を覚えることがあるかもしれません。しかしその作為のない、止めようのない迸りが彼女の求心力でもあり、魅力です。なお、活動家、作家である彼女が、さらにタクシーの運転手でもあることを知り、わたしはえっと驚くことになります。ローマで、こんな個性豊かでユニーク、話題も豊富な女性が運転するタクシーに乗り合わせたトゥーリストは幸運。インタビューには、低音でハスキーな声、あふれるような早口で、一気に答えてくれました。

 

zing2

PietrabbondanteBlog記事より。子供を抱いている女性がヴァニア・マンチーニ。

 

ロムの子供たちのために、具体的にはどのような活動をしているんですか?

ロムの人々は、イタリアに住む、守られるべき少数民族なのよ。わたしはロムの子供たちが、イタリアの社会から排斥されて、いよいよ難しい境遇に陥らないないために、イタリア語もきちんと話せるようになって、他の市民と同じように、普通の学校教育が受けられるようになるためのプロジェクトに関わっているの。それはローマ市の教育政治評議委員との協同オーガナイズで行っているもの。また、学校の先生たちに、偏見を捨ててロムのことをもっと知ってもらうためにコミュケーションの場を作って、ロムの子供たちを学校に受け入れてもらうよう働きかけている。つまり、ロムの子供たちが学校に通いやすくするためのサポートよ。今ではローマの13番目の区、つまりサン・ピエトロから10km離れたあたりのプリマ・ヴァッレ、ボッチェア、モンテマリオの23の学校がロムを受け入れるようになったわ。

わたしが主にサポートしているのは、戦前の経済危機時、第二次世界大戦の少し前にイタリアに移民してきたスラブ民族として流れてきたコミュニティ。戦争の混乱のなか、彼らは移民してきているから、現在までイタリア国家に避難民として『政治的保護』を認められることはなかった。戦前のイタリアには避難民の法律が整備されていなかったからね。彼らは身分を証明するドキュメント、例えばパスポートやアイデンティティ・カードを持つことも許されず、移民してきて何十年と経つのに、第2、第3世代の子供たちも学校にも行けないという状況なの。ドキュメントがないことは、何処の誰だか分からない、ということよ。存在しない人々ということと一緒。わかる? 社会的には彼らは存在しない人々なの。

さらにわたしたちは、彼らの文化を紹介する機会をオーガナイズする仲介者としても働いている。つまりロムのコミュティがイタリアの体制や社会に、自分たちの伝統・文化が紹介しやすくなるように、動いているの。はじめは数人のボランティアからはじめたことだったんだけれど、やがてローマ市のプロジェクトに組み込まれるようにもなり、欧州連合のプロジェクトとして成立するまでに成長したわ。

1冊目の本、『Cheja Celen』はどのように生まれた?

学校の先生たちとともにやってきた活動、プロジェクトの経験を忘れないために、わたしは今まで三冊の本を書いた。つまり、ロムの子供たちがイタリアの社会に馴染んでいく様子、またイタリアの社会がロムのコミュニティを受け入れていく過程をこの三冊で描いたわけ。『Cheja Celen』はまず最初に出版した本で、タイトルはロムの言語。Chejaーチェアが「ヴァージン」、Celenーチェレンは「踊る」という意味よ。わたしたちはプロジェクトの一環として、ロムの伝統的なダンスを、彼女たちが社会に馴染むためのツールとして使おうと考えた。子供たちがイタリアの学校に彼女たちの文化を持っていくことで、先生たちも興味を示してくれるし、偏見を超えて互いの理解が深まると思ったから。彼らのダンスは非常に美しく、母から娘へと代々伝えられる伝統的な彼らの文化よ。わたしたちが彼女たちが踊りやすいようなシノグラフィーを考え、舞台を構成した。『チェア・チェレン』という本のタイトルは、彼女たちが自分たちのダンスをそう呼んでいたから、それをそのままタイトルに使ったの。

 

*動画は埋め込みのままでは再生が制限される場合がありますが、YouTubeで見る、へ飛んでいただけると再生することができます。ドキュメンタリーを制作したのは、このサイトでインタビューを紹介したパオロ・グラッシーニ監督。

 

この本の出版は、Sensibile Foglio (繊細な葉っぱ)という、元刑務所に収監されていた人々が作った出版社ー主にイタリアの刑務所の残酷な実態、囚人の人権問題、また多くの社会問題に関する本を出版ーが引き受けてくれた。彼らは長い期間、不当に精神病棟に閉じ込められた人や、社会から排斥されて苦悩を強いられた人々の本を多く出版している。「チェア・チェレン」は、今までに3000部以上売れ、たくさんの人々に読まれたわ。出版にあたって、Sensibile Foglio が興味を持ってくれそうなNPOや大学に一件づつ回ってプロモーションしてくれたから、ロムのコミュニティを描いた本だということを、十分に理解したうえで購入されたことは嬉しいこと。イタリア全土、北から南の大学や図書館が置いてくれ、ロムの抱える問題を多くの人々に伝えることができた。人々の『偏見』を払拭する役目も果たしたと思うわ。実際、本を読んだ『文化交流』の仕事をしている人々からも多くのコンタクトがあって、おかげで各地から招かれ、ロムの少女たちのダンスを紹介する機会も得ることもできたし、学校だけじゃなく、地方のさまざまなフェスティバルに参加できたのはロムの少女たちのためにも重要な経験になったのよ。

つまりダンサーのロムの少女たちは、自分たちのダンスを披露する旅をするために、ロム・コミュニティの居住地区からはじめて外に出て、イタリアの社会に触れることを学んでいったということなの。ロムのコミュニティは非常に閉じられた世界で、外の市民社会ーまあ、わたしとしてはその社会が完璧に市民に解放されているとは思わないけれど。とりあえず、そう表現しておくわーをまったく知らないまま、子供たちは成長する。居住地区の外の世界がどのように機能しているか、彼女たちは自分の経験を通して想像し、現実を知る必要があったし、そのためには、ロムの『掟』を少し破る必要があった。たとえばロムの女性は、男性に従属して家事だけ上手にできればいい、という常識もあって、女性の立場はいつも厳しいものなのよ。だから少女たちは、ダンスを踊ることを通して、知らず知らずに、ロムの女性の権利における、ちょっとした『解放』を体験したというわけ。

それに彼女たちは家族とは群れず、男性からも独立して生きるという『精神性』をも獲得して、生活が変わった。自分で洋服を選んで、自分のためにお洒落をするようになり、はじめはまるでロムであることに引け目を感じてでもいるように、人前で踊ることを恥ずかしがっていた子たちが、自分自身を上手に表現できるようになったのよ。それにつれ、ダンスも見違えるように上手になって、さらに練習も繰り返し、多くのワークショップも開き、La giornata mondialedel popolo Rom e Sinti (ロムとシンティの人々の世界の日)では、教皇の前で踊るほどになった。そのダンスが、世界のメディアで放映されたことで、彼女たちは自分たちの民族であるロムの伝統、ダンス、音楽、そして自分自身に自信が持てるようになり、もはや引け目など感じる必要はない、ということを学んだの。これは大切なことなんだけれど、彼女たちは、わたしたちにサポートされたからではなく、彼女たちが彼女たちの文化、つまり彼女たちの持つ魅力を通して、わたしたちにコミュニケーションしてくれたのよ。彼女たちがわたしたちにロムの文化の素晴らしさを教えた。彼女たちは、受動的にイタリアの社会に馴染むように仕向けられたわけじゃない。彼女たちの力が、社会を納得させたの。わかるでしょ? この意味が。

 

122804660-b6f0b4a6-681c-42cc-83c7-83fedcedeefe

2015年、10月26日には、フランチェスコ教皇が世界じゅうのRom、Sintiを招いて『偏見を終わりにしよう』と謁見が開かれた。ラ・レプッブリカ紙より

 

そこで次の本になるわけですね。

そう。その少女たちの冒険の物語を次の本で語ることにした。『Zingari Spericolate(無鉄砲なジプシーたち)』というタイトルでね。なぜ、こんなタイトルにしたのかと言うと、Basco Rossi(バスコ・ロッシ:イタリアで最も影響力があると言われるロック歌手)に La vita spericolata(無鉄砲な毎日)という歌があって、その歌から取ったのよ。いい?ロムの子供たちは毎日、路上で、無鉄砲に生きていかなければならないの。教育の機会もないし、誰も助けてくれないし、のんびり楽しんで、遊んで生きる、普通の子供時代なんて夢のまた夢。『無鉄砲な毎日』は彼らの毎日なのよ。彼らはメトロポリスジャングルで、無法に生きていかなくちゃ生き延びることができない。居住区に警察がなだれ込んできて、住処を奪われることだってあるんだからね。そんな生活はわたしたちには想像もできない過酷な毎日。

そしてそんな生活が強いられるのは決して彼らのせいじゃない。何世代も前から国家という権威に、まったくアイデンティティ、その存在を認められなかったから、というのが大きい理由のひとつよ。彼らが何世代にも渡って、自分たちの存在を法律で認めてもらおうと運動してきたにも関わらず、いまだに国家からは、その存在がまったく認められない。だからロムたちは社会の循環から完全に拒絶され、過酷な毎日を送らなければならないの。たとえば Torre Bella Monaca などのローマの郊外に追いやられ、ゴミ箱のようなひどい環境に閉じ込められ、もちろん社会保障もなく、市から援助を受けることもない。だからわたしたちは、わたしたちの手で彼らの生活をなんとかしよう、と予算のめどもつかないまま、自分たちのプロジェクトを開始した。

まず、わたしたちは、なかなか心を開いてくれないロムの子供たちの心を解くために、バスコ・ロッシの歌、「la vita spericolataー無法な毎日」をミュージック・セラピーとして使ったんだけれど、それを知ったバスコ・ロッシが、わたしたちのプロジェクトを、自分のFacebookのプロフィールで紹介してくれてね。彼は自分の音楽を『ソーシャル・ロック』と呼んで、社会問題を音楽セラピーという形でファンに広めるという試みを行っているんだけど、彼が告知してくれたと同時に、わたしたちのプロジェクト内容への問い合わせが2000件以上もあった。さらにFacebook上では、ロムに関して数々の議論が巻き起こったわ。そのとき、これがロムのことを知ってもらえるいいチャンスだと思ったのよ。わたしたちはただちに、ロムの少女たちのアカウントをFacebook上に作って、彼らの日常の姿をオープンに公開することで、彼女たちへの偏見、ネガティブなイメージを変えようと試みたの。そして思惑通り、Facebook上では、すぐに大きな反響があった。Facebookでロムの子供たちの日常の姿をたくさんの人々に知ってもらうこともできたし、ネガティブなイメージをいくらか払拭することにも成功して、子供たちは『偏見の檻』から解放されたと思うわ。

そうそう、バスコ・ロッシは他にもいろいろ助けてくれたのよ。『Zingari spericolata』が出版されたとき、『この本を読むことは、経済危機と同時に社会問題の危機、そして欧州でクセノフォビアが勢いづき、移民、難民に対するレイシズムが力をつけようとしている今この時に、とても大切だ』という告知文章を、ローマのタクシーの広告スペースのために書いてくれたの。わたしは、これもまたいいチャンスだと思った。知っての通り、わたしはタクシーの運転手で、ローマのタクシー組合にも属しているから、この本をローマのタクシーに乗れば、誰でも手にとって読むことができるように提案をしてみようと考え、あちらこちらにそのプロジェクトを持って行った。そして結局、ローマで最も大きいサマルカンドという、マフィアに関わる社会問題などをもプロモーションしている組合が賛同してくれたわ。

 

*Basco Rossi の曲、La vita spericolata 「無鉄砲な人生がいい。映画みたいな人生がいい。大げさな人生がいい。スティーブ・マックィーンのような人生がいい。遅すぎることのない人生がいい。人生は、山ほど脅しに満ちているのがいいんだ」

三番目の本、『Dannate Esclusione(地獄の排斥)』というタイトルは?

やっぱりこの本のタイトルもバスコ・ロッシからいただいたもの。社会的な排斥というのは、どういう条件であっても、レイシズムのひとつの形だと思うのよね。たとえば都会育ちの子供たちが、地方の山の村から引っ越してきた子供を「田舎者」とからかうのも、レイシズムの芽生えを象徴する行為かもしれない。バスコ・ロッシは、山の村からボローニャという大都市に越してきた子供の辛い経験を歌にしているんだけれど、その歌詞のテキストからいくつかメモをとって、そのメモからそれぞれの章を発展させてみた。ロムの居住区、そこでの彼らの生活がどれほどひどい条件であるかということを書いたのよ。

そもそもロム居住区には電気も水もない家族、グループのために、少しの間だけ滞在することのできるキャンプ、場所であるはずなのに、定住するための住居が見つからないから、彼らは結局次の世代まで居住区に住まなければならず、社会から隔離されたまま、衛生状況もひどい場所で暮らしている。本来なら暫定的なエマージェンシーであるべき住居に、永遠に、何世代も住まなければならないの。それは彼らが身分を証明するドキュメントを持っていなくて、社会的に存在が全く認められていないからよ。存在が認められなければ、正当な住まいはどこにも得られない。わたしたちの学校プロジェクトに参加した子供たちのなかにも、いまだに身分を証明するドキュメントを手に入れることができない子たちがたくさんいる。

このような問題を突きつめていくうちに、第二次世界大戦ちゅう、イタリアにも強制収容所があったことを発見した。それもわたしの出身地、今でも家族や親戚が住んでいるモリーゼ州に! わたしはピエトラアボンダンテというちいさい街の出身なんだけれど、強制収容所はそのすぐそば、いつも通りかかる場所にあって、わたしたち家族は、強制収容所のことなんか、少しも知らなかったから、その事実を知ったときには一様に衝撃を受けたわ。1930年代、40年代のイタリアでは、その存在は政府から周到に隠され、収容所のことは完璧に極秘にされていた。隠されたその場所に、秘密裏に集めて来られた人々が、ひどい条件で幽閉されていたそうよ。その時代、イタリアの内部を移動しながら生活していたロムの人々も、モリーゼにあった5つの強制収容所に、うむも言わせず連れてこられた。その事実を知ったわたしたちは、その近所に住む老齢の人々でその様子を憶えている人々に、インタビューをして証言を集めることにしたんだけれど、今もまだ健在の90歳を過ぎたその人々は、鎖に繋がれ連れて来られた人々が「一体何者か、まったく知らなかった、泥棒か犯罪者だと思っていた」そうよ。

その強制収容所の環境は劣悪で、衛生状況もひどく悪く、日々の食物も、ほんの僅かしか与えられなかったから、収容所で亡くなった人も多くいる。そして信じられないことに、60年、70年もの間、イタリアではそんな非人道的な強制収容所が存在していたことが、ひたすら隠されていたのよ。30年ほど前から、「ひょっとしたら」という噂が語りはじめられ、やっと今、その事実が明るみに出ることになった。最近になって、ようやくモリーゼのセルニャ市がオフィシャルに、民族、異人種を社会から抹殺しようとしたこの収容所の存在を認め、収容されていた人々のリストを発表。そしてそのリストには『強制収容所』というスタンプがくっきりと押されているわ。その収容所が、いったいどういう状況だったのかをリサーチするために、わたしたちはその時代、強制収容所に幽閉されていたロムの老婆をやっとのことで探し出すことにも成功し、その収容所での経験を彼女に語ってもらったの。歴史の真実の証人としてね。そしてその証言の詳細を、本に書いたというわけ。彼女、90歳だけどまだ元気なのよ。彼女は家族と一緒にローマのテスタッチョに住んでいたんだけれど、最近、信じられないことに『強制退去』になってね。90歳にもなる老婆が強制退去で追い出されて家を失って彷徨わなくてはならない、なんてまったくひどい、残酷な状況だと思わない?

しかも去年、マフィア・カピターレがローマで発覚して、ロム居住区を担当していた市の評議委員が、本来ならロムたちの生活の向上に使われるはずだった文化予算を、マフィアと共に横領していたことが明らかになったでしょう?そのお金の行方は今でも曖昧になったままなのよ。それにマフィア・カピターレの発覚とともに、プロジェクトの予算は完全にブロックされ、ロムの生活状況は、一気に悪化したとも言えるわ。現在ローマ市評議委員たちの裁判が進行ちゅうだけど、捜査が継続され、何もかもが明るみに出て、わたしたちのプロジェクトが再開されるのを待っているところなの。

 

Vania-Mancini1

 

そもそも何故、ロムの人々をサポートしようと考えたんですか?

かつてメキシコに旅をして、「チャパス」の原住民の文化に興味を持ったのが、ソーシャルな活動を始めたきっかけ。彼らは度重なる侵略で住む場所を奪われ、ジェノサイドの危機に陥っている。その「チャパス」の原住民をサポートするグループと、旅の途中に知り合いになり、そこでいろいろと学んだことから、ソーシャルな活動に関わっていこうと決心したの。それからわたしの出身地であるモリーゼにはイタリアで最も大きいロムのコミュニティー彼らは『シンティ』と呼ばれる500年以上イタリアに住んでいる人々なんだけどー子供のころから、わたしたちの社会とはまったく違うスタイルで生きる、その人々の存在に大きな好奇心を持っていたのも理由のひとつ。

わたしたちは社会が望むように、いわば社会の規範、システムに生きていかなくてはならない。 青春時代のわたしは、そのシステムが息苦しくて、我慢ならず、社会そのものを拒絶するような心理状態に陥った。みんなと同じように、大学に入って、結婚して、子供を産んで、という人生を考えること、社会が要求する人間を装うことが、ひどく重荷に感じた。自由に生きること、つまり他人と違うことを表現すると差別され、除け者にされる傾向が、現代の社会システムにはあるからね。そしてそのシステムこそが、そもそものレイシズムの発端よ。青春時代のわたしは、自分のぶつけどころのない心理的危機感をバスコ・ロッシの歌を聴いて癒していたのよ。そして彼の歌から、自分の持つ他人と違う部分こそ『豊かさ』であることを学んだの。わたしはだから自分とは全く違う文化を持った人々を助けたいと思った。なぜなら彼らこそが、わたしたちの人生に違う色彩、多様性をもたらしてくれる人々なのだから。

何かこころに残るエピソードは?

タクシーの仕事をしていると、大勢の人がわたしのプロジェクトに興味を持って、助けてくれる人もいてね。ちょっと驚いたのは、コートジボアールの大司教がわたしたちのプロジェクトに賛同して、ローマに来るたびに大使館やカトリックの大学の生徒とともに、広めるのを手伝ってくれること。人とたくさん会うことによって、自分のプロジェクトが豊かになるのを感じるわ。

ロムの子たちに関するエピソードでは、この何年間かを共に過ごしたロムの子供たちのなかに、ひとり、耳がまったく聞こえず喋ることもできない青年がいるの。ロムのなかでは「頭がおかしい」と邪魔者扱いにされていた子なんだけれど、わたしたちのプロジェクトに参加した子たちのなかでは、ものすごくよく勉強する子でね。17歳から勉強をはじめて、数年のうちに高校の卒業資格を取った。そのあと大学に入学しようと頑張っているんだけれど、残念ながら、彼もドキュメントがなかなか認められなくて、大学に願書を書くこともできない。すぐに『市民権』は無理だとしても、少なくとも『滞在許可証』は出してもらわないと大学には入学できないからね。そこで現在、わたしたちは彼のためにあれこれ動いているところ。今頃になってイタリア政府は、両親が外国人であっても、イタリアで生まれた子供にはイタリアの『市民権』を与えるという法律を議論しているところだけれど、すみやかにその法案が通過して、ロムの子供たちがよりよい人生が送れることになるように願っているわ。でなければ、ロムの人々は何代も前にイタリアに移住して、2世代、3世代はイタリアで生まれているというのに、パスポートも滞在許可証もまったくなく、何の権利も主張できないまま暮らさなければならないのよ。

そしてやっぱり、ロムの子たちがイタリアの社会に溶け込むのは、なかなか難しいことなの。ここ数年レイシズムがいよいよ激しくなって、彼らに対する風当たりも強くなっている。残念ながら、それは負の側面を強調して報道するマスメディアのせいとも言えると思う。マスメディアの人々が、ロムに関する事件を差別的に、スキャンダラスに過剰報道することもあって、市民をロムへの敵対に誘導することもあるからね。わたしたちが路上に出向いて、ロムの子供たちと話し合ったり、あるいはロム居住区へ出かけて、子供たちを学校へ招こうとしているというのに、メディアはまったく協力してくれない。それに、わたしたちが20年近くかけて築き上げてきたロムの人々の信頼と、イタリア社会へなんとか協調しようとする彼らの努力を、北部同盟とカーサ・パウンドがぶち壊そうともしているわ。彼らのロム・ネガティブキャンペーンのせいで、ロムの人々も不信感を募らせて、捨て鉢になってネガティブな方向へ動こうとする。カーサ・パウンドは子供たちが学校へ行こうとするのを、わざわざ居住区までやってきて、阻止したりもするのよ。彼らの喧伝するレイシズムは、ただ社会を不安に陥れ、事態を悪化させるだということを、まったく分かっていないの。わたしたちと一緒に勉強してきた子供たちも、今のネガティブキャンペーンの状況に不満を募らせ、フラストを起こし、イタリア社会を憎むようになってくる。憎悪による『分離』は、イタリアの社会、ロムのコミュニティ双方にとって不利益でしかないわ。

今後の本のプロジェクトを教えてください。

タクシーのことを書きたいわね。タクシーの運転手をしている女性たちのこと。その女性たちから見たローマ中心街から郊外、 Parioli(高級住宅地)からTorre bella monaca(社会問題が集積した郊外) までのことをね。彼女たちの視線から、ローマのすべてを書いてみたいと思っているわけ。タクシーの運転手を女性が担う、ということは女性たちのちょっとしたemancipazione ー解放ムーブメントでもあって、数年前までは女性の運転手なんて数えるほどしかいなかったのに、いまでは1000人もいるのよ。つまりローマのタクシーの運転手の10%が女性。それをわたしは女性の勝利だと思っているわけ。いまではたとえばイギリス人とか、ブラジル人とか外国人も多く働いていて、タクシーの運転手をしながら、ローマの社会に溶け込んでいく外人女性も多い。そもそも男性の仕事だったタクシーの運転手という業務に女性が参入し、彼女たちの目から見たローマ、彼女たち自身の物語を綴るのは、面白くて、新しい発見があるんじゃないかと思っているわ。

そしてわたしがタクシーの運転手になろうと思ったのは、出身地であるモリーゼの影響でもあるのよ。ローマのタクシーの運転手の半分、つまり4000人がモリーゼ出身者なの。ローマに走った最初の馬車を率いたのはモリーゼの人々で、ローマに移住してくる人々はみな、時代が変わって、その馬車を車に変えた。仲間同士でその免許を取ることを助け合い『許可証』を得て、タクシーの運転手になる。わたしも試験を受けて、その『許可証』をとったんだけれど、英語もスペイン語も話せたし、ソーシャルな活動のキャリアもあったし、3つの学校の卒業資格も得ていたから、わりと簡単に合格できたかもしれない。もちろん、タクシーの運転手をするのは、ソーシャルワークと作家だけでは、経済的に安定することは難しいから、という理由もあるけれどね。

タクシーの仕事は毎日とても面白いわ。ローマのようなトゥーリスティックな街では、いろいろな人種、多彩な文化を持つ人々に出会えるから。世界中のあらゆる国、インド、中国、アラブ、知らなかった伝統、習慣、そして考え方は勉強になるし、豊かさをもたらす。常に異文化交流をしている状態というのは、なかなか刺激的よ。プロジェクトを助けてくれる人も現れるしね。毎日が旅、というところだね。

 

*タイトルに使った写真を撮影した際、馬車につながれた馬に「疲れているね」とヴァニアが近づくと、馬は自然に頭を垂れ、彼女の手に顔をすりつけて、まるで両者がエネルギー交信をしているかのように、しばらく沈黙したまま動かない様子が、印象的でした。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

インタビューのあと、立ち寄ったバールで。

 

 

 


RSSの登録はこちらから