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若き地理学者 Giuseppe Maria Battisti

Cultura Cultura popolare Deep Roma Intervista

彼がヒップホップのDJとして活躍していることは以前から知っていましたが、まさかローマの郊外をこれほど丹念に研究し、精密に分析する地理学者に成長していた、とはまったく想像していませんでした。最近街角で見かけないと思ったら、去年から英国で働きはじめたということ。たまたま道で会って立ち話をするうち、大学を卒業して1年経つか経たないにも関わらず、客観的で成熟した視点を持ったこの青年に、おおいに学ぶことがあった。そこで日を改めて、ゆっくり話を聞かせてほしいとお願いしてみました。

Giuseppe Maria Battistiージュゼッペ・マリア・バッティスティ。さながらバロックの建築家のごとき威厳のある名を持つジュゼッペは、詩人である彼のお母さまとも顔見知りであったことから、少年と呼べるほどのあどけない年頃から、バールや通りですれ違っては立ち話をしていた、ごく近所に住む青年です。数年前までは遅い朝、起き抜けという感じの彼に出会うことも多く、「昨日朝方まで友達と曲を作っていたから、さっき起きたところ」と呑気にエスプレッソを飲みながらバールのバリスタと話す、いかにも音楽に夢中の今風の若者といった風情。いでたちもヒップホップでストリートな装い、ラフでありながら、いつもなかなかファッショナブルでした。

そういえば、何年か前にバールで偶然会ったとき、「大学の専門課程ではGeografia(地理学)を選んだんだ」と話していて、アクティブなヒップホップDJのわりには、ずいぶん古典的な選択をしたんだな、と意外に思ったことを思い出します。そのころから「僕は社会学的な意味をも含む『環境』に興味があるんだ」と盛んにジゥゼッペは言っていましたが、ヒップホップDJのイメージがあまりに強く、わたしも「へえ」と思う程度で、彼がそれほど真剣に勉学に勤しんでいるとは、正直、まったく想像しなかった。

そういうわけで、ジゥゼッペはわたしとはジェネレーションも違い、街角ですれ違うと挨拶するぐらいの近所の知り合いでしかなく、もちろんゆっくり話す機会も話題もありませんでしたが、その物怖じのなさやオープンな性格、大人と対等に話す態度に、キラッと光る鋭さがある子だ、とは常々思っていました。「大学を卒業したんだ」「それはよかったね」「仕事を探しているんだけれどなかなか見つからないんだよ。難しいね、ローマは」「そうだよね。この失業率じゃ、なかなか大変だと思うけど。でも、まあ、あんまり焦らずにゆっくり探すといいよ。君ならそのうち絶対見つかる」近所のバールでそんな話をしたのが最後で、それからずいぶん長い間、彼を見かける機会はなかった。しかしローマの青年たちの多くは、夜の巷を気まぐれに彷徨う『夜行性』傾向にあり、われわれ大人とは街を歩く時間帯がまったく違うため、音楽活動が忙しいのだろうぐらいにしか考えていませんでした。

ところがごく最近、外出から家路につく途中、最後に会ってからそれほど時間が経っていないというのに、見違えるほどキリッと大人っぽい表情、自信に満ちた立ち居振る舞いのジュゼッペにすれ違うことになります。「おや、久しぶり。最近見なかったけど、どうしてたの?」と尋ねると「実はあれからすぐに英国に移住したんだよ。今はちょっと帰国中でね」と、意外な答えが返ってきた。「えー!ほんとに? 英国に移住したとは全然知らなかった。ということは、仕事見つかったの?」「うん。友人と友人の父親と起業したんだ。はじめたばかりにしては、まずまずうまく行っているよ」「英国というとロンドンってこと? つまり音楽関係?」

矢継ぎ早に尋ねるとジュゼッペは、大きめのサングラスをひらりとはずして「いや、オックスフォードなんだ。学園都市を選んだんだけれどね。僕はGeografoー地理学者として、テリトリーの環境設計プロジェクトに参加しているんだ」と、人懐こい瞳をのぞかせ、にっこりと笑いました。「地理学者?」「そう、僕はローマ大学サピエンツァでGeografia Urbanistica(都市工学を専門とする地理学)、Gestione e Valorizazzione teritorio(テリトリーの運営と有効利用)について研究したんだからね。サテライト写真をベースに、テリトリーのデジタルデータベースを作り、科学的に環境を分析し、有効なプロジェクトを構築する、という研究さ。卒論は110 e lode(イタリアの大学の卒論における「称賛に値する」最高点)だったんだよ」

地理学者・・・・。大人びた表情で、そう話しはじめたジュゼッペを見ながら、わたしが今まで彼に持っていた、ヒップホップイメージは見事にガラガラと崩れ落ちる。そう、人というのは、こんな風にみるみるうちに変化するから面白いのです。しかし「面白い!」と思いながらも、道端で立ち話をしていたときのわたしには、あらゆる要素からテリトリーを掘り下げ、分析していく、モダンに洗練されたGeografia Urbanisticaという学問をまったく理解できず、彼の口から次々に飛び出す専門的なボキャブラリーについていくことができなかったことを告白せねばなりますまい。そこでもう少し噛み砕いて、具体的でありながらもシンプルに、大学でどのようなことを研究し、現在の彼が何を考え、何を目指しているのか、ローマ大学サピエンツァの教室をお借りして、じっくり話してもらうことにしました。

彼の話をあれこれ聞くうちに、ローマ郊外の問題は、もはやローマ特有の問題ではなく、多かれ少なかれ、同じような問題を、世界全体が抱えているのではないだろうか、という思いが脳裏を駆け巡ったことを付け加えたいと思います。

 

 

生まれ育ったローマという都市については、そもそもどんなイメージを持っている?

何と言ってもローマは、世界的に有数の、歴史ある建築物がひしめいた稀有な都市だよね。長い歴史における幾度とない都市計画にそって、考え抜かれ、洗練され、ユニークに形成されている。アーバンデザインとしても、多くのすぐれた機能を持っている都市でもあるんだ。

僕の当初の計画では、大学を卒業したらすぐ、ローマ市のオフィシャルな都市計画のセクターで働くつもりだったんだけれど、知っての通り、今のローマ市は閉鎖的で、何ひとつ十分に機能していないし、人の動きそのものがブロックされているような空気が流れているからね。せっかく飛び抜けて優秀な成績で大学を卒業することに成功したというのに、市の都市計画セクターに仕事を見つけることができなくて、本当にがっかりしたよ。ローマ全体を覆うこの停滞感は、何か特別なことが起こらなければ、変わらないんじゃないかな。どこかでドラスティックに変わらなければ、僕ら大学を卒業した若者たちが、いつまでたっても仕事が見つけられない状態が続くにちがいないとも思っている。確かに新しい市長が新しい風穴になってくれればいい、とは考えているけれどね。

美学的な観点から言えば、僕はローマが、多分世界で一番美しい街だと思っているんだ。二千年を超えるさまざまな時代の建築が同じ場所に、層をなし、共存して現在まで生き延びている。そしてそれこそがローマの美でもあるわけだけど。他の欧州の国々、いや、世界のどこにも、こんな個性的なメトロポリスはないんじゃないかな。ローマの中心街には、本質的な歴史観、シンボルとして重要な意味を持つ建築、都市計画の痕跡が数多くあって、それらは僕らのような若い世代にも、絶え間なくインスピレーションを与え続けているしね。

しかし、ローマという、この美しい都市に深刻な問題が蔓延していることは紛れもない事実だから。なにより中心街と郊外に、甚だしいコントラスト、格差が見られることは絶対に軽視できない。そもそもローマの郊外地区というのは戦後、違法に、無秩序に開発が進んできた場所だけれど、この10年の間、違う動き、つまり郊外の再開発という、違う方向性ではあっても、さらなる無秩序で乱暴な動きが起こって、そもそもあった問題がさらに重大な問題へと変化していこうとしているんだ。これはあとからゆっくり説明するけれど、何故、ローマという世界的に重要な文化財で構成された都市でそんなことが起こるのか、簡単に言ってしまえば、ローマ市政の運営、都市計画の管理が隅々まで行き届いていないからなんだ。ローマの政治には、明確な方向性を決断する中枢が欠けている。

 

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ローマ大学サピエンツァの窓から街を眺めながら話すジュゼッペ・マリア・バッティスタ。

 

それはどういうこと?

つまりね、実のところ、ローマの政治家たちに影響するのは、もはやかつてのように哲学者でもなく、知識人でもなく、また思想家でもなく、限定された、ごく少数の建設業者と教会の関係者たちだからだよ。特に建設業者たちの政治への影響には凄まじいものがある。彼らはローマの建造物、土地など多くの不動産を所有しているし、政治家への賄賂も並大抵ではないから、郊外の都市開発に並々ならない影響力を持っているんだ。例えば2008年に始まったローマ市が中心となった都市開発プロジェクトのせいで、ローマの郊外には、いよいよ不規則で無秩序な動きが広がったんだけれど、開発という名で無節操に巨大な建築物が乱立した広大な土地は、ローマでも名の知れた建設業者の家族が所有する不動産だったことが、あとになって判明した。

まず、この10年あまりの間の特筆すべき問題は、ローマをぐるりと巡る郊外に、25件ー27件の巨大ショッピングモールが建設されたことだよ。2008年以降のローマの都市計画では、郊外の再開発の中心にショッピングモールを置くことが中心になったんだ。その周辺を開発し、経済発展させる、という目的でね。その巨大なショッピングモール群はプロジェクトが決定されるや否や、あっという間に建設され、周辺に多くの住宅も建てられた。しかしその地域に快適に人が住める環境を作るには公共サービス、たとえば交通網の整備、学校、病院、文化施設などソーシャルな設備が必要だし、それらのきめ細かい管理もなされなければならないはずだろう? 人の生活に必要なのは、ショッピングモールだけではないからね。しかし次々に建造物が建てられ続けたにも関わらず、その地域に住むことになった人々の快適な生活のために必要なサービスは、何も考えられなかった、というのが現実なんだ。

卒論は、その郊外の状況を都市工学的な地理学の見地からリサーチしたんでしょう?

そう。その卒論のために、僕はリサーチに選んだ郊外の地域を何度も訪ねたんだけれどね。建ち並ぶのはただ巨大なだけで、個性がまったくない、すべてomogeneizzati ー均一化された無機的な建造物の群れ。機械的でヒューマニスティックな要素が全然ない住宅群だよ。ローマという都市において、建築の美というのは、なにより大切な要素だというのに、その歴史建造物美術館のような都市の郊外が、こんな杜撰な景観だなんて。トゥーリストだって、ローマの建築の美を観に、わざわざやってくるわけだし、われわれ市民にとっても、『美』は欠くべからざるものなんだよ。

それにね、ショッピングモールのオープンと同時に、都市開発されたその地区に昔から住んできた人々が保ってきた、ちいさいながらもバランスがとれていた経済循環は死んでしまったとも言えるんだ。広大な土地が商業化されることで、その地域の昔ながらのひかえめなビジネスが、グローバリゼーションの強い衝撃を受けた、ということだよ。僕としては、そのような強い商業的衝撃を、ちいさいながらもバランスのとれた地域にぶつけることは、きわめて愚かなことだと考えるんだ。それまでその地区で商いをしていたささやかな店々が、ショッピングモールに何百と並ぶインターナショナル展開の、アグレッシブなショップに太刀打ちできるわけないじゃないか。

だから今ではその地域にそもそもあった、例えば地域の人々の持ち物を修理する職人の工房はもちろん、雑貨屋や洋品店、靴屋もみな潰れ、たったひとつ商売として成立するのはピッツェリアだけとなっているんだよ。ショッピングモールにあるピッツェリアなんて不味いからね。買い物に来る人々が、不味いピッツアだけには我慢ならず、モールから外に出て、ローカルの美味しいピッツァを探し求めたせいで、ピッツェリアだけは生き残った。そしてね、これがとても大切なことなんだけれど、この都市計画は、地域のそもそもあった経済循環を壊してしまっただけではなく、その地域から『文化』をも奪い去ってしまったんだ。

 

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ローマ郊外にあるCentro commerciale(チェントロ・コンメルチャーレ)と呼ばれる、巨大ショッピングモールのesempio(一例))。

 

つまり僕が何を言いたいか、と言うとね、この都市開発は人々の『自由時間』まで商業化してしまった、ということなんだ。人々の気晴らし、気分転換まで『商業化』するということは、文化の見地からいうと大変危険な問題だ。広大な土地の商業化よりずっと深刻な事態だと思うよ。人々はもはや自然を求めて、公園や庭園に出かけてピクニックをするようなことはなくなり、ローマの歴史的な庭園、緑にあふれた広い公園は、いつも空っぽ。ローマ市民にとっては自由時間を『ショッピング』に費やすことが、何より重要になったんだからね。休日には誰もが郊外に出かけて、ショッピングモールで過ごすんだ。人々が気晴らしに出かけられる唯一の場所、それがショッピングモールというわけさ。子供も大人もみんなそろって、たゆみなく消費、買い物をし続けるために、一日中ショッピングモールで過ごすんだ。

しかもショッピングモールの建築というものは、よく考えられていて、計算され尽くした異空間に人々を閉じ込める構造になってもいる。広々とした建物のなかのどこにも窓がなく、外界と完全に遮断されるようになっているからね。つまり買い物客が『商品』、ショッピングモールという『異空間』の内部のあるサービスにだけフォーカスせざるをえない構造の内部で、人々を『商品』や『サービス』で魅了し、熱狂させ、感性を破壊していくように作られている。ときどき、ふと思うんだけれど、いまの社会全体がおそらく、このショッピングモールの構造に似た様相を呈してはじめているかもしれないよ。いずれにしてもショッピングモールが地域に恩恵をもたらす、なんて戯言を信じてはいけない。地域の生活と人々の感性は確実に破壊されようとしているんだから。

年齢に似合わない、ずいぶん成熟した視点を持っているように思うけれど。

いやいや、もちろん、ローマの郊外を自分の足でリサーチするまでは、その事実を見抜くことはできなかった。でも僕らの世代の若い子たちはみんな、今自分たちが置かれている状況を、うすうす感じているよ。若い世代を見くびっちゃいけないんだ。ともかく僕に関して言えば、2008年から続く、ローマの郊外にショッピングモールを林立させるという都市開発は、つまり文化的にも重大な欠落をもたらしたということを、自分の足で歩いて、サテライト写真をリサーチすることで、状況の詳細を把握した。さらにショッピングモールを中心に構成された地域で人口統計をとると、公共サービス、つまり交通網の整備、学校、病院などがその人口にまったく追いついていないという事実が浮かび上がってもきた。郊外に住む人々は、生活の不便さに窒息しそうなくらいなんだから。そもそも不便だった郊外が、開発という名のショッピングモール、住宅群の建造により、公共サービスが追いつかないまま無秩序に人口が増え、いよいよ不便になったんだ。

もちろん、ローマの郊外は、マフィアが絡むドラッグの問題、移民の問題が深刻となっているし、これらの問題は決して無視できない現実だよね。移民の人々を利用して、ビジネスをしている奴らも大勢いるしね。それにマフィア、いわゆる犯罪組織だけではなく、国政、市政に関わる人物が絡んでいることは、忌むべきことだよ。彼らはまた、建設業者たちとも癒着していることは明白な事実で、ここ数年、ローマ市民はその実態を、この目で見ているからね。移民の人々の社会保障、あるいは不動産事業へ使うはずの莫大な公共予算の横領という、大掛かりに犯罪がシステム化されたマフィア・カピターレ。犯罪組織と政治との表裏一体の癒着は、ローマという都市の最もうんざりする問題だよ。都市計画の予算配分、建設業者の選択を担う、重要なポストにいる人物たちが、まさに犯罪組織との関係を取り沙汰され、結果、告訴された人物たちだったわけだし。

ローマにおける『郊外』という地域は、いつも問題を抱えてきた地域ではあるんだ。戦後は、家を失った人々や南イタリアから移民してきた人々が違法に建てたバラックの群れが溢れーこれをローマでは『バラッコーポリ』と呼ぶんだがー家のない人々が、住む場所を確保することはなにより緊急な事案だったから、市政は長い間、無秩序な『バラッコーポリ』に目を瞑ってきた。やがて、当時占拠された土地や建造物は時を経て合法化され、違法ではなくなったんだが、こんな現象が起こったのも、当時から市民の現実を見据えた政治が存在しなかったからだ。

 

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1972年にプロジェクトが始まり、1982年から住宅として人が住みはじめたPalazzo corviale。現在ではかなり荒廃し、犯罪が問題となっている。

 

60年から70年代には、郊外に多くの公営住宅が建造されたが、やはり公共サービスが追いつかなかった。やがてル・コルビジュエのMassimalismoー最大綱領主義をモデルとして、あの有名なPalazzo Corviale(パラッツォ・コルヴィアーレ)が建造されたわけだ。通称『大蛇』と呼ばれる巨大な壁のような建造物で、長さが約1km、つまり1000mもある、セメントの塊のような、1200戸のアパートメントを内部に抱える公営住宅。そしてローマ市が100%出資した公営住宅の建造は、このモニュメンタルな建造物で最後となった。もちろん、当時はこの『大蛇』が、当時バラックに住まざるを得なかった人々の緊急の住宅として、大きな役割を果たしたわけだが、住民のために公共サービスを充実させ、環境を管理するキャパシティが、当時の市政にもなかったからね。今では老朽化するままの、この巨大な廃墟のなかで人が暮らすという状況となり、住民たちはいよいよ閉鎖的になり、違法に走り、犯罪に手を染めるようになった。僕らはもはや、国政に対しても、市政に対しても、信頼というものをなくしてしまっているんだ。

ところで実際にリサーチしたのは、ローマ郊外のどの地域?

卒論のために僕が行ったのは、ローマ北部の郊外についての調査。ローマの三番目のMunicipio(役場)が管轄する地区なんだ。この地域はもともと、歴史的に有名なAgro Romano(アグロ・ロマーノ)ーローマの田園地帯だった。ローマののんびりと美しい田園風景が広がる農耕地の一部で、たとえばゲーテをはじめ、北ヨーロッパからグラン・トゥールで訪れた詩人や芸術家たちが「ローマはなんて美しいんだ!」と賞賛する自然に溢れるのどかな地域だったんだ。田園のなか、古代ローマの邸宅跡、噴水跡などが点在し、ローマという都市のアイデンティティを物語る地域でもあった。その風景が、現在では見る影もないほどに破壊されている。

 

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Goethe a Roma (ローマのゲーテ)

 

この地域にはParco delle Sabineという緑に溢れた大きな公園があり、もちろん今でもローマの歴史を語る重要な遺跡が多く遺されてはいる。そもそもは、その遺跡群を生かして、この場所に考古学公園を造るというプロジェクトが推進されていたんだけれど、費用が巨額になりすぎて、結局、頓挫。普通のシンプルな公園が造られることになったのが、パルコ・デッレ・サビーナだ。確かに今でも自然が豊かな公園ではあるけれど、公共予算を投じられて公園が造られたあと、修復されることもなく、杜撰な管理が続いたため、荒れ果てた状態となっている。そして、その公園の周辺が、現在新しく誕生しようとしているローマの住宅地区でね。自然が豊かな地区で、住宅の価格も高く設定できるから建築業者が飛びついたんだ。

ことの起こりは2007年、古代ローマの邸宅跡が点在する歴史的に重要なこの地区に、巨大なショッピングモールが建設されることに決まった、それと同時に次々に住宅建造物が建てられはじめてね。パルコ・デッレ・サビーナの相当な領域が住宅に覆われてしまったんだ。ほら、ショッピングモールはこんなに巨大(下図)。欧州でも有数の巨大ショッピングモールなんだよ。そしてその周辺は60年代に少しづつ人が集まって形成された地域で、まあ、古くからあった地区だったんだ。かつてはさまざまな商店が並び、この地域でも賑やかな場所だったんだけれど、いまやほとんどの商品がショッピングモールで手に入るために、ビジネスは立ち行かなくなっている。僕がリサーチに行った時期には、すべての商店が危機に陥っていたよ。

 

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※黄色い部分がショッピング・モール。濃い赤の部分は公共サービスが行き届いていないと推察される地域。

 

リサーチの途中、地区を管轄する第三役場に行って、この地区の歴史を調べてみたんだけれどね、70年代はまだまだアグロ・ロマーノ、昔ながらのローマの農耕地帯が覆っていたにもかかわらず、その後40年ほどで大部分が消滅している。こんな歴史的に重要な地域に建造物を増やすことを、市政はまったくブロックすることができなかった、ということだよね。70年代から価値観がガラリと変わった、ともいえる。そもそもこの地域にあった、ローマという都市を巡る古代ローマ時代の邸宅跡が点在する、経済基準では計れない文化的、歴史的価値は完全に無視され、都市開発が進んだんだ。環境というものは、『経済』という基準では絶対に計れないものだと僕は思うんだけれど、今の価値基準は全て、経済価値があるか、ないか、生産的か生産的でないか。つまり現在、これほどこの地域の環境が破壊されたのは、生産性がない(!)アグロ・ロマーノには経済価値がないため、歴然とした生産性を付加しなければならない、と見なされたからだよね。

ともかく70年代、公共予算で行われた地域開発は、今から振り返ればひどいものだったけれど、少なくとも市政が権限を持って行っていたわけだから。ところが現在は、公共予算で市民の住宅が建造されることは皆無で、都市開発におけるすべての建造物の建設は民間の企業が行うようになった。もちろんそれら民間企業は市政と協力して、表面的には市民に万全の配慮をすること、公共サービスを充実させることを条件に、開発に関わっていると言うんだけれどね。しかし現実には、公共サービスの充実、なんてまったくの嘘。民間企業はショッピング・モールと住宅建造物はあっという間に造るのに、住民が最も必要とする交通の整備や病院、学校はすべて後回し、あるいはまったく無視するという有様だ。

この地域に居を移した人々のほとんどは、この地区にメトロが通る、という条件で越してきたというのに、いまだに出来上がっていないどころか、途中で工事が止まってしまっているんだよ。民間の企業が、地域の開発途中に、公共サービスを充実させるための資金が不足してしまった、と突然言い出しても、市政にはそれを断罪するだけの腕力がない。つまり、プログラムの合意におけるあらゆる条件を、企業が途中で反故にしても、政治に文句を言わせないだけの力が、民間企業にはあるということさ。権力は、もはや政治なんかにはないんだ。民間企業が最も強大な権力なんだから。政治は堕落している。多分世界じゅうがこんな風なんだろうと思うよ。

現在この地区に住んでいる人々は、実際、大変な目にあっているんだ。バスは不便極まりないし、メトロは使えないし、アグロ・ロマーノの自然の美しさに惹かれて住みはじめたのに、いつのまにか、どんなに嫌でも巨大ショッピング・モールのそばで暮らさなければならない。歴史的なローマの田園風景が一大商業地区に変化、それもショッピング・モールだなんて、まったく美意識のない、甚だしいデカダンスだ。

ほら、この農耕地の質を分析するために撮影されたサテライト写真の1991年と2005年の比較(下図)を見れば、どれほど自然が削減されつつあるかわかるよ。調べれば調べるほど、哀しい状況が浮かび上がってくる。高い理想を持つ政治家はいないし、哲学を背景に持つ政治家もいない、政治家たちは競争することに夢中で、いかに互いを破壊するか陰謀を企てるだけ。つまらない世界だよ。昔の政治家には知的な背景があり、哲学があったというのに、現在の政治家に、そんな人文的な資質を有権者も望まない。これは僕ら若い世代から見ても大問題だと思うよ。

 

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1991年(左)は緑に覆われた地域だったが、2005年にはほとんど緑の部分が消失している。

 

そういうわけで、僕はローマ北部の郊外を例に挙げ、サテライト写真をベースに、テリトリーの詳細をリサーチ、都市開発の背景を調べ上げてきた。そのデータベースをもとに、居心地のいいテリトリーの構築を、どのように実現可能にするか、環境を整備するかを考察していくのが僕の『地理学者』としての仕事だと思ったんだ。『地理学』というのは、一見とてもシンプルな仕事のようだが、実は非常に科学的で複雑な学問なんだよ。ただ、ひとつのテーマについて掘り下げるだけでなく、そのテリトリーがもつあらゆる要素を、科学的に、さらにヒューマニスティックな見地からもリサーチして、物理的に、文化人類学的に、社会学的に、経済学的に分析、考察し、未来を設計していかなくてはならないんだ。

僕の専門課程の教授が、実際にテリトリーの市民環境のオフィシャルな部署に属するエンジニアで、都市計画のエキスパートだったのも幸運だったよ。彼の指導のおかげで僕の卒論は、表面的なリサーチにとどまらず、彼とともに市民環境のエンジニアとしての分析、研究に加わることができたんだから。単純なmappatura(統計地図の作成)にとどまらず、社会学的な分析ともなった。環境が、その場所に住む人々にどのような影響を与えたか、また住人の人々と直接話をして統計をとって考察、テクニカルで科学的な分析であると同時に、ヒューマニスティックな研究になったと思うよ。

ところで、どうして英国に移住しようとしたの?

残念ながらローマでは仕事の機会を得ることが、なかなか難しいだろう? で、大学を卒業したあとすぐに、英国に移住することに決めたんだ。英国なら、英語を完璧に学ぶことができるし、今後、グローバルに仕事をするなら、英語が不可欠だからね。言語は外国の人々とのコミュニケーションを円滑に進めるための基本。何よりの僕の目標は、都市工学、地理学を通じて外国、つまり世界との関係を深めていく、ということなんだから。僕が育った家族は昔から世界各地を旅することが多くてね、その経験が他の文化を知るためにおおいに役にたったと思うよ。それに中東、アフリカ、アジアの人々が多く集まるPiazza Vittorio(移民が多く集まることで有名な地区)で成長したせいで、外国の文化がいつも新鮮に、身近にあったことも、他の国の人々の文化への好奇心を育てたとも思う。

英国ではロンドンではなく、オックスフォードを選んだんだけど、まずはその中心街にあるイングリッシュスクールで7ヶ月、学校の運営に関わる仕事をしてみた。なぜ、オックスフォードを選んだかというと、ちいさい街だし、何より大学、つまり教育の中心地でもあったからかな。文化的なイベントもたびたび開かれるし、インターナショナルだし、ロンドンに比べるとイタリア人も少ないから、嫌でも英語を喋らなければならないしね。だからはじめはGeografo-地理学者として働きはじめたわけではなく、学生や教師陣とオフィスの仲立ちをしたり、必要な書類を作成したり、サマースクールのプログラムを作ったりしていたわけさ。でもその7ヶ月は、英語をブラッシュ・アップするのに、とても役にたったよ。僕が働いていたのは世界にチェーンを持つ大手のイングリッシュ・スクールだったんだけど、そのような大きな組織のシステムというものを、働きながら大方把握することができたしね。

そのあと、やはりそのイングリッシュ・スクール内部の仕事で、ロンドンとオックスフォードを行ったり来たりする時期が続いてね。そうこうするうちに、学校の幹部たちと知り合うきっかけが生まれたんだ。そのうち、僕が都市工学、地理学のエキスパートであることを知った彼ら幹部から、このイングリッシュ・スクールのブランチのある街のテリトリーの分析、環境情報の整備をすることを提案されるという幸運に巡り合った。いわゆるジオグラフィック・インフォメーション・システムの構築ということなんだけれどね。

そのころオックスフォードでアパートをシェアしていたのが、ローマで『建築』を学んだ友人で、非常に信頼できる友人だったから、まず、彼に相談をしてみることにしたんだ。さらに彼の父親は建築家、インテリア・デザイナーとして長い経験を持つ、非常に成熟した人物のうえ、クリエイティビティにも満ち溢れた人物だったから、彼の助言も必要だと考えた。その後、3人であれこれと議論しながら、仕事を進め、結局僕ら3人で会社を立ち上げることにしたんだ。そうすることで、どんなリクエストにも応えられる完璧な体制で仕事に臨むことができると判断したからなんだけれどね。最初の仕事として、ミラノブランチのあるテリトリーを段階的に分析、公園など緑の地区の利用価値の関するリサーチし、スクールのオフィスの総合スタイリングを手がけることになった。とっかかりとしては、非常に興味深い仕事になったよ。

僕らの会社の名前は、DIBSTUDIOLTD(design inovation bulding)。だから滑り出しは上々だよ。僕らふたりの若いメンバーは情熱にあふれているし、あらゆるコンピューターソフトを駆使して、仕事の流れを合理化することができる。そこに成熟した経験豊かな建築家が加わることで、あらゆるプロジェクトに対応することができるというわけさ。次はフランスのリヨンで仕事をすることになっていて、リサーチをはじめたところだよ。また、僕たちには、イタリアの卓抜した技を持つアルチザン、つまり現在、自国では非常に難しい状況にある、職人たちの手仕事を世界に紹介しようという野望もあるんだ。

僕らは、ローマという美しい都市を形成した、歴史的な都市計画のコンセプトを、インターナショナルに広げていきたいと思っている。そして僕の将来の夢は、やっぱりローマに戻って、ローマの都市計画にエンジニアとしてオフィシャルに関わっていきたいということ。僕らのローマの未来を作っていきたいと熱望もしている。いずれにしてもその夢のために、今英国で学んでいる正直さ、透明性というものは、とても重要な基本になると思うよ。そういうわけで、いまところブレグジットは僕らの痛手には少しもなっていないよね。

 

Giuseppe Maria Battisti がプロデュースするHARDENTE RECORDS


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