永遠のP.P.パソリーニ

Anni di piombo Cultura popolare Deep Roma letteratura

日本では、もはやマニア、あるいは研究者以外には、あまり語られることのないピエール・パオロ・パソリーニですが、イタリアにおけるここ数年の、特に若い人々の間でのパソリーニ人気の高まりには目を見張るものがあります。今年2015年、彼がオースティアの沿岸、水上機停泊地で惨殺されて40年を迎えた11月2日の命日、ローマはもちろんイタリア各地でパソリーニ関連のイベントが開かれ、新聞、TVのマスメディアも大きく特集を組みました。

ローマに来る以前のわたしは、パソリーニの最後の映画、『Salò o 120 giornate di Sodoma (ソドムの市)』のあまりに暴力的でスキャンダラスな表現が受け入れられず、結局最後まで映画を観ることができなかったというトラウマもあり、この詩人に今ひとつ興味を抱くことができなかった。ベルリンの壁崩壊以降、世界の緊張対立が徐々に解消しつつあるかのような楽観的な空気が漂い、バブルがはじけたあとも、表面的には未だ豊かでポストモダンな価値観があたりまえに覆う日本から来たわたしには、パソリーニの作品から押し寄せる、哀しく絶望的な活力、あるいは過酷なリアリティ、人間の『はらわた』が、実感としては果てしなく遠い場所、遠い時代にあるような気もした。当時のわたしの感受性には、映像にクリプト化された、彼の霊感に共振する波長が欠けていました。

ところがローマに来て、ほどなく友人になったパソリーニ心酔者のひとりに「ローマにいるのに、パソリーニを全然知らないなんて、目を瞑って生きていることと同じだよ。ローマのあちこちに彼の痕跡が残っているんだからね。いや、いまだパソリーニは生きていると言ってもいい。ローマに百年いるのにカラヴァッジョの作品をまったく観なかったことに等しい」と助言され、その日のうちに英語と対訳になった『Roman Poem』をフィルトリネッリ書店に買いに行ったという経緯があります。それでもその詩集を読んだ当初は、パソリーニが生きた時代をおぼろげにしか知らないうえ、イタリア語の音律の美しさ、特殊な言葉遣いも理解できず、何とか意味を追うのが精一杯、やはりあまりピンと来ないまま本棚の片隅にしまいこみ、長い間、そんな詩集を持っていたことすら忘れてしまった。

パソリーニの凄さが少しづつ分かってきたのは、それから数年後のことでしょうか。友人に勧められるままにパソリーニ映画を観たり、エッセイを読んだり、詩を読んだりするうちに、やがて霧が晴れるように、その超人的な『天才』、彼が描く人間の生命力と性、美醜、善悪を凌ぐ包容力が次第に理解できるかのように思えてきた。さらに時を経て、ある種『預言的』ともいえる、時代を的確に見通す彼のヴィジョン、洞察力を実感するにつれ、「まるで神業だ」と戦慄に近い感情を持つに至ることになります。パソリーニの魔力は、こうしてじわじわと、罪深い性を持つわれわれの感性にしのびこみ、逃れられないよう鎖につなぐのです。

しかしながら、わたしがこの天才に深い興味を持ちはじめたころのローマにおけるパソリーニの評価は、知識人、一部の政治家、反議会主義の占拠者たち、芸術家、映画関係者、ファナティックなパソリーニファンの間では揺るぎないものであっても、現在ほどの熱狂や、若者たちの強い支持はなかったように思います。それがここ数年、ローマのPalazzo delle Esposizioni (ローマ市立美術館)で、肉筆原稿、手紙、彼自身が描いた絵画を含める大展覧会が開かれたり、Willem Dafoeがパソリーニの最後の日を演じた、アメリカ人映画監督Abel Ferraraによる『Pasolini』がヴェネチア映画祭に出品されたり(イタリア人からは酷評されましたが)、チネクラブ、チェントロ・ソチャーレも含めて、頻繁にパソリーニ関連のイベントが開かれるようにもなりました。また最近はローマでも盛んなMurales(ウォールアート)のテーマになっているのを、ここそこで見かけるようになり、いまやレストランのシェフまでが、パソリーニの言論を引用して、自らの人生を語るほど、ポピュラーな存在となっています。

 

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カンポ・ディ・フィオリの壁に描かれた『ピエタ』パソリーニ・ヴァージョンの一部

 

没後40年という節目のせいも、もちろんあるのでしょうが、パソリーニがこのように、にわかに再脚光を浴びた背景を考察するにあたり、長年の心酔者に尋ねてみると「まあ、現政府が左派であるということも理由のひとつだが、なんといっても時代がついにパソリーニの言論に追いついたからだろうと思うよ。それに現在の移民や難民が多く住むローマ郊外の状況は、パソリーニ作品の視点の重要さを再確認させる。いや、パソリーニが遺したものは、時間には関係なく『普遍』とも呼べるから。人々がやっとそれに気づいたというところかな。そうだよ、『貧しきものは幸いなり』ということだ。それに惨殺された彼の死のあり方は『殉教』をも想起させるからね。自分を護ることなく常に既成の巨大な権力と闘い、決してその生き方を変えなかった男の『受難』は、僕たちカトリック教徒にとってはキリスト、あるいは聖人をイメージさせるんだ」と、意外に理性的な答が返ってきた。わたしも「なるほど」と頷いた次第です。

実は、小説『パッショーネ』の中程に、パソリーニの言論、主張、また殺害の謎についてはいくらか書いているので、ここではなるべく重複を避けようと思いますが、彼が『預言者』、ヴィジョナリーとして、現代人を驚かす数多くの洞察を遺していることは、もはや周知の事実です。そこで、その実例を挙げてみようと、いくつかの詩をこの数日何気なく読み返して、改めて慄然とした。Profezia。『預言』と名付けられたーAli dagli occhi Azzuri(青い目をしたアリ:『アリ』はアラブ、イスラム教徒に多い名前)を物語ったジャン・ポール・サルトルに捧げるーという有名な献辞からはじまる詩です。

Profeziaは62年、パソリーニが地中海をはさむ南北の葛藤、キリスト教、マルキシズムの連関を熟考している時期に書かれた、そもそもは少し長めの詩なのですが、強い印象を放つ後半のみが引用されることが多い。また前半は『聖書』的とも言えるトーンで、無味乾燥に荒れたカラブリアの地の描写からはじまり、詩人がイメージするキリスト(un figlioー子)と、南イタリアの貧しい人々、北イタリアの工場で働く貧しき労働者の闘争ーマルキシズムの連関をメタフォライズしつつ綴られているので(Peter Kammerer)、詩が書かれた時代、背景を知らなければ分かりづらくもあります。したがってここではわたしも後半のみを引用することにします。

「ひたすら続く多くの息子の、その息子であるひとり、青い目をしたアリが、アルジェリアからたくさんの仲間とともに船に乗って、地中海を渡ってやってくる」と、淡々としたトーンから動的に勢いを変えるその詩の後半は、現在の「エクソダス」、アフリカ、中東からの移民、そして難民の方々をイメージさせ、SNSなどネット上でも「パソリーニはこんなことも預言している」と話題になることも多い部分。「アジアのサロンを纏い、アメリカ製のシャツを着た何百万もの人々が、クロトーネ、パルミ(いずれもカラブリアの海辺の地域)に到着するだろう」と、詩人はその様子をリアルに描いている。その移民たちを見た、荒廃した地、カラブリアの貧しき人々は、「ほら、ごらん。古い兄弟たちだ。彼らは息子たちとパンとチーズと共にやってきた」と言い、地中海を渡って来た者たちは「クロトーネ、パルミに上陸し、ナポリへ、バルセロナへ(スペイン)、サロニッコへ(ギリシャ)、マルシリアへ(フランス)、悪の渦巻く都市へと向かう」。「常に控えめで、常に弱々しく、常に内気で、常に最悪の状況にあり、常に罪人で、常に服従者で、常に力ない」その者たちは、「法律の外に法律を作り、世界の下に世界を作り、ひとつの神の下、神の僕となり、王たちの殺戮に歌い、ブルジョアの戦争に踊り、労働者の闘いを懇願する」。

「青い目をしたアリ」に率いられた者たちを「生気と天使、ネズミと蚤、古代の源とともに、Williya(オスマントルコ)の眼前を(彼らは)飛んでいくだろう」と、パソリーニは貧しく、原初的、つまり無垢な天使と捉えている。ちなみに、多くの人々が当時のパソリーニがこの詩に描いた「青い目をしたアリ」を、彼が愛し、初期の作品で多く描いたローマの貧しい地域に住むルンペンプロレタリアート、生き抜くためには犯罪も厭わない、手に負えない少年たちに重ね合わせたことは明白です。実際、現代の『アッカトーネ』は仕事がなく、社会に顧みられることなく郊外に置き去りにされた移民の青年たち。しかしながら50年以上経った今、この光景が暗喩としてのみならず、現実の「エクソダス」として、彼の詩が語るままに実現するとは誰も予想しなかった。

「青い目のアリの背後で(彼らは)ー強奪を実行するために地面のなかから這い上がりー殺戮を実行するために海の底から浮き上がり、剥奪を実行するために高い天から舞い降りるー労働者の仲間たちに生きる歓びを教えるためにーブルジョアに自由の歓びを教えるためにーキリスト教徒に死の歓びを教えるためにーローマを破壊し、その廃墟に古代の源を植えつけるだろう。そして教皇とあらゆる秘蹟は、風になびくトロツキーの赤い旗とともに、西へ、北へとまるでジプシーのように彷徨うのだ」

つまり、彼らは欧州の貧しき者たちと連帯して『革命』を起こすだろうというのです。そのガイドとなるのがカトリックの教皇で、具体的には、その親しみやすさと微笑みからPapa Buono(善き教皇)と呼ばれたジョヴァンニ23世を指しています。また『トロツキー』の旗は、もちろんパソリーニが深く傾倒したマルキシズムにおける『自由』をシンボライズしていますが、と同時にキリスト教における『異端』をもメタフォライズしていると考えられている。戦後欧州を席巻する合理主義、消費主義、いまだ根深い階級主義と植民地主義に貧しさを強いられるアフリカのルサンチマン(ルンペンプロレタリアート、労働者たちの闘いと連帯して)が、欧州を変革させる希望として押し寄せるという夢を、詩人が抱いていたことは間違いない。常にインド、アフリカなど第三世界に魅せられ、深い愛情を抱いていたパソリーニは、インド、アフリカを旅して撮ったドキュメンタリー、エッセイをも多く残しています。

もちろん実際には、パソリーニが考えたように地中海の向こうから訪れた者たちと労働者たちの連帯による革命は実現していませんし、世界はもはや彼が表現する武闘による革命を欲していませんが(違う形の平和的変革があったとしても)、教皇が変革のガイドとなるというアイデアは、多少希望的観測を交えると、フランチェスコ教皇が現れて、あながち詩人の見果てぬ夢には終わらないかもしれない、と暗示的にも思える。また、海を渡ってきた者たちを愛情と喜びで迎えるというパソリーニのProfeziaは、現在の欧州にとって重要な姿勢だと考えます。

以下のリンクは、オスカー外国人映画賞を受賞した『la Grande Bellezzaーグレート・ビューティー:追憶のローマ』の主人公を演じたトニ・セルヴィッロがこの詩を朗読した映像。

 

 

なおかつ、パソリーニのヴィジョナリーたる所以の、さらなる裏付けとして例に挙げられるのは、最近のヴァチカンの価値観の大変換でしょう。2014年、7月、ヴァチカンが発行する新聞『オッサルヴァトーレ・ロマーナ』が、パソリーニが『マテオによる福音書』を64年に映像化した『Vangero secondo Mateoー奇跡の丘』の映画制作50年を記念して、「キリストを題材にした映画では、おそらく最もすぐれた映画である」という記事を載せました。これには誰もが「ヴァチカンがパソリーニの映画を最もすぐれていると言っている?」と驚き、「教皇がフランチェスコになってから、ヴァチカンは思い切ったことをする。快挙だ。しかしパソリーニが神の国へ招かれるとは!」と各種メディアでも、SNSでも感動の声が上がった。 『マテオによる福音書ー奇跡の丘』はキリストを反フランコ政権の労働組合に属するスペイン人青年が、『パッショーネ(キリスト受難)』のシーンでは、パソリーニの実の母親であるスザンナ・コルッソ・パソリーニがマドンナ役を演じたという映画です。オッサルヴァトーレ・ロマーナが記事を書くということは、つまり教皇庁の発表ということでもあります。

『Salò o 120giornate di Sodoma』『Teorema』の監督でもあるパソリーニの映画の50年を、教皇庁がパブリックに祝福するということは、ヴァチカンにおいては革命的とも言えることです。パソリーニは同性愛者であり、倫理を逸脱した反逆の詩人。攻撃的でスキャンダラスな発言や行動で絶えず訴訟が起こり、右翼グループに恫喝され、教会から糾弾され続けた人物でもあります。『マテオによる福音書』の前年、ロベルト・ロッセリーニ、ジャン・リュック・ゴダールらとともにオムニバスで製作した映画『Ro.Go.Pa.G』の、オーソン・ウェールズを配したパソリーニのエピソード『ラ・リコッタ』は、その表現がカトリックを著しく冒涜していると教会に訴えられ、封切りと同時に検察から差し押さえられたという謂れもある。その裁判ではパソリーニに禁固4ヶ月が求刑され、最終的には『無罪』となりましたが、その後の素行、言論、映画表現も含め、教会との確執は並々ならないものがありました。そのかつての敵、ヴァチカンがパソリーニの映画を『最もすぐれたもの』と評価する日が来ることを、当時の人々はもちろん、ヴィジョナリーであるパソリーニ本人すら、まったく想像できなかったはずです。

 

 

やがて迎えた40回めの命日である2015年、11月2日を挟んだ数日間は、パソリーニのその人気の凄まじさに意表をつかれるほどでした。その日を待ちきれないかのように、数日前から各種メディアが怒涛のごとくパソリーニ特集を組み、その功績、彼の偉大を讃え、いまだ謎深い『鉛の時代』における彼の死を巡る諸事情にも迫った。例えば、長きに渡り語り継がれる伝説の記事、『Cos’è questo golpe? Io so』を当時掲載したCorriere della Sera紙は、このようなページをネット上に作り、過去の貴重な映像も掲載。また詩人がコリエレ紙にはじめて書いた73年、1月7日の記事『Contro i capelli lunghi (長髪に反対する)』をも再掲載しています。

一方、ラ・レプッブリカ紙は、SKYで11月2日に放映された1時間のドキュメンタリーを放送前から公開しました。SKY製作のそのドキュメンタリーは、パソリーニ作品の朗読をライフワークとしているファブリッツィオ・ジフーニがテキストを朗読、ダッチャ・マライーニ、ニネット・ダヴォリなどパソリーニと縁の深い人物をはじめ、詩人ヴァレンティーノ・ザイケン、マーチン・スコルツェーゼらが登場、また現代の高校生たちがパソリーニをどう考えるかをインタビューして、詩人を多方面から紹介する充実した内容です。経済紙であるIl sole 24 oreまでもが、パソリーニ関連の記事をいくつか掲載。国営のRainews24はニュースの途中に特集を組んで、パソリーニの死に関してのいくつかの新たな証拠ーBanda della Magliana(70年代に生まれたローマの犯罪集団)のメンバーがパソリーニ殺人現場の群衆のなかに状況を伺っている様子を捉えた写真ーなどを公表、新しい証言をもとに真相究明の再捜査要求を検討している弁護士のインタビューなどを流した。

「パソリーニの死の真相を追及すべきだ。40年経ったからといって、遅すぎることはない」「パソリーニの死の真相を突き止めることが、イタリアの闇に包まれた『鉛の時代』、いまだ跋扈する悪霊に光を浴びせることだ」と機会があるたびにダッチャ・マライーニは発言していますし、40年経った今も、関係者たちは事件の解決を決して諦めてはいない。 今までも何度となく再捜査が行われ、証拠不十分で毎回アーカイブ入りとなったパソリーニ殺害事件の最後の捜査は今年、5月に打ち切られています。それから半年、40年目の節目である11月2日を機に、さらなる再捜査要求の機運が高まりつつあり、ほかの『鉛の時代』の未解決の事件と同様、「どんなに時間が経過しても必ず真相を追求する」というイタリア的な粘りのある姿勢が浮き彫りにもなった。

そしてまず、今回なにより驚いたのは、過去の犯罪に関連した品々を展示する MucriーMuseo criminologico(犯罪学研究博物館ー司法省管轄)が、パソリーニが殺害当時身につけていた衣服、メガネ、ジャーナリスト証明証、車内にあった本をはじめとする遺品の数々を、11月1日から命日を挟んで3日間、一般に公開したことです。その日彼が着ていたミッソーニのシャツは当然血まみれのまま破れ、もちろん時間を経て変色している。『イタリアに、文化的、芸術的、政治的生命を寄与した偉大な知識人、パソリーニの最後を、われわれ市民が実感することが重要であると考えたため』という当局の発表は、キリストの聖ヴェロニカの『聖骸布』の公開を想起させるものでした。

 

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Mucriに展示された、パソリーニ殺害の夜の遺品。ミッソーニのシャツ、愛用のメガネ、ジャーナリスト証明書、ジーンズ、グリーンのランニングなど。その他ニーチェの著作なども車内に残っていた。

 

「もし映画、あるいは作家の道を歩まなかったら、あなたはどのような人生を送ったと思いますか」という戦後の人気ジャーナリストのひとり、エンゾ・ビアージに問われ、すかさず「優秀なサッカー選手」と答えたパソリーニのサッカー好きは有名で、若い頃はバラックに住むルンペンプロレタリアートの少年たちを相手に、晩年は亡くなる直前まで歌手ジャンニ・モランディ、ニネット・ダヴォリなど、俳優たちや映画のスタッフとナショナルチームを組み、イタリアの各地に出向いて試合をしていたそうです。パソリーニが強靭な肉体を持っていたこと、サッカーに興じたあと、ほとんど眠らないのでは? と思われるとてつもない体力で作品に挑んでいたことは彼を良く知る人々の語り草で、絶望に彩られた作品を多く遺したこの詩人が、生きることをひたすら愛する、生命力に満ち溢れた人物であったことを物語るエピソードが多く報告されています。そして詩人の、そのサッカーへの情熱を偲び、11月1日、2日の両日には、ローマの Pietralata 地区では『パソリーニはまだプレイし続けている!』と題され、多くの俳優、作家、ジャーナリスト、知識人が参加しての試合も開催された。これは文化省( il Ministero dei Beni culturali) 、ラツィオ州、ローマ劇場協会その他の協賛により、ローマ文化・スポーツ評議会によってプロモートされたものです。

さらにローマの市営主要劇場のひとつ、テアトロ・インディアでは文化省大臣ダリオ・フランチェスキーニが中心となり、ダッチャ・マライーニを委員長とした重要なカンファレンスが開かれています。そこで文化省大臣は「わたしがパソリーニと称賛を結びつけることは、おそらくリスクのあることだろう。しかし、われわれはパブリックに彼を擁護する必要があった。たとえオフィシャルにそれを発表することが、罪ともいえるほど遅くなってしまったとしてもだ。彼を憶い出すだけではなく、魔法に縛られたままだった彼を解き放ち、特に郊外のデリケートなテーマに集中するという観点から、その存在の偉大を未来の新しい年代へ伝えていかなければならないだろう」と述べました。文化省大臣のその発言は、前述したように、移民問題が集中するローマ、ナポリ、ミラノなどイタリア各地の都市の郊外地区に、マフィアのドラッグ売買、売春が蔓延する実情を顧みるよう、パソリーニの視点回帰を促すものだった。

その劇場では、11月2日を挟む6日間に渡って、パソリーニ作品の多数の俳優、女優、映画監督( Abel Ferrara)によるパソリーニ最後の未完の作品『Petrolio(原油)』の朗読マラソンも行われ、ポルトガルのアーティストを招き、Poeta Corsaro (海賊詩人)へのオマージュとして公開Murales (ウォールペインティング)制作も公開されました。国立現代美術館MAXXIでも詩の朗読が開かれ、その他、パソリーニ殺害事件にまつわる新刊のプレゼンテーション、芝居、コンサートと、ローマだけでもすべて網羅することは不可能というほどのパソリーニ関連のイベントが開催された。新聞各社は関連の記事を載せるだけでなく、コリエレ紙は、詩、小説、エッセイの作品集を、エスプレッソ誌も過去のパソリーニの記事、あるいはパソリーニに関する評論の分厚い特集本を出版しています。

ラ・レプッブリカ紙、Walter Sitiの記事を抜粋で意訳、引用します。

パソリーニについて多くのことが語られるが、彼の文学作品についてはあまり語られることはない。確かに彼の殺害事件、その亡骸、同性愛、社会政治学的な預言、映画、あるいは彼の世界観が今のイタリア文化には、ざわついてはいるが、イタリアのパノラマに偉大な遺産となった彼の主要な活動(もちろんそれは文学であるが)に関して真剣な討論がないままに、作品は重版され、討論が開かれているのが実情だ。多分、それはパソリーニが少数の作品しか遺していないからかもしれない。たとえばカルヴィーノやガッダ、あるいはモンターレが残した作品の数には、パソリーニのそれは、はるかに及ばない。

(残念なことに)イタリア文化の発展は彼の詩的感覚と共振しなかった。そしてそれはパソリーニのせいであるともいえる。というのも彼の作品では、それぞれに違う表現を用いられているからだ。彼は芸術的な散文作家、作品にさまざまなスタイルを混在させ、卑猥な言葉を使うリアリストであり、意固地な議論家、終わりのない理論家、人をばかにしたような性急な挑発者でもある。しかし一方、イタリア文化の発展がパソリーニと共振しなかったのは、彼の作品の特徴として明確でもある『実験性』を踏襲することができなかった、出版界の順応主義のせいである。彼はリアリティを前にして、文学の不充分を情熱的に生きたがゆえに、実験を繰り返したのだ。彼は常に、すでに成し遂げたことを(惜しげなく)放棄、新たな試みを繰り返した。新しい表現を発明しては、すでにすたれた方法(文学的な脚本、素朴な詩、詩的なジャーナリズム、リメイクのような叙情詩)を使って、汚点、あるいは失敗になるかもしれないリスクをも試した。
一方、この40年間、イタリアの文化産業界はまったく正反対の方向へ発展している。すべての作家たちは自分のスタイルに閉じこもるように仕向けられ、彼らを有名にした本と似たようなことを何度も書かされ、権威と名声のなか、彼らの役割を忘れてしまうような『作家』というレッテルに安穏とさせられた。
(中略)
パソリーニは文学的に言えば雑文家であるが、人間とは思えないキャパシティを持ち、疲れとは全く無縁な人物だ。また、彼の文章が、彼の人生の変遷を強固にした:『詩』としてはいい出来ではない、と思われる詩は、興味深い新聞記事であったがために『傑作』となり、あるいは反対に理論的には脆弱だと思われるエッセイは、さいなまれるような正直さで書かれた『詩』である、とマスメディアに称賛され、小説の一部が消失したことに、現代演劇がそれを悲劇として描くまで人々を感傷的にさせる。彼の小説は古代ローマの筆記版の扉絵板のように、また映画も同様に仰々しく紹介されるのだ。

パソリーニ以降、イタリアの作家で同じようにギリギリのゲームができたものは誰一人いない。彼のような作品を作るには、活力が足りず、才能に多様性がないからだ。疑いなく、現代の作家たちはそれぞれに専門を持ち、『コミュニケーションとショー』という銃弾の海の最前線で、計算し尽くした野望を胸に、ちょっと風変わりな存在としてしか自らを表現できない。もちろん現代でも、詩や小説、あるいは演劇、そして文芸批評、新聞に少々の社会学的記事を掲載、また映画の脚本を描く作家たちがいるが、自らの主要な活動とテーマ、あるいは様式とは結びついていないという印象を与える。そして彼らの表現していることは、むしろ『職業』とでもいうべきものだーモンターレがスカラ座のオペラを批評したようにー・・・(後略)

 

こうして、11月2日のローマは、どこもかしこもピエール・パオロ・パソリーニ、まさに『パソリーニ祭り』となった。誰もがパソリーニの途方もない天才を手放しで礼賛し、『カラヴァッジョやモディリアーニと同様、彼の死後、現代になって、彼の残した作品、言論の重要性が多くの人々にパソリーニを再評価させている』と、イタリアらしく演劇的に紹介もされました。わたしがいまだに苦手なパソリーニ最後の映画、『Salò(ソドムの市)』も修復され、40年を機に再公開されることになった。Salòは第二次世界大戦後期、追われたムッソリーニが暫定政府を構築した場所の名です。

昔から大きな影響力を持ち、イタリア文化の底流に流れ、多くの人々を心酔させてきた詩人が、40年を機に、いよいよ影響力をパワーアップさせ『聖人化』した、という印象さえ持ちました。わたし個人の見解としては、パソリーニの作品は、詩も小説も映画も、確かに普遍の傑作だと考えますが、ソフトなテーマを扱っているとは決して思えない『はらわた』作品なので、40年を節目にした人々の興奮と絶賛に、少々違和感を覚えるほどだった、というのが率直なところです。しかし今年の、もはや『パソリーニ・キャンペーン』とも呼べるイベントの数々は、イタリアの深層、あるいは現在、欧州が抱える難民、格差問題の未来に関してイタリアが目指す役割を分析する鍵になるかもしれない。また、欧州の各国で右傾化が顕著になり、危うい方向へと向かいそうなこの時期、イタリアがあらゆるメディアを駆使して、パソリーニの存在感、その偉大を増幅させたのは、非常に賢明な『価値観』の共有だとも思います。

 

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母スザンナと。Supplica a mia madreは今も繰り返し朗読される詩。2人は大変仲が良く、母が頭痛を訴えれば、息子も頭痛を訴える、互いが互いにシンクロしていたという証言も。詩人が亡くなったとき、母は「息子は死んでいない」と真顔で言い続けたという。

 

さて、最後に、ラ・レプッブリカ紙が公開した、戦死した弟への未発表の手紙を意訳して、わたしもここで、この『パソリーニ祭り』を、ようやく終わりにしたいと思います。

以下引用。

この手紙は、出版社Garzantiのパソリーニの新しい書簡集の編集ちゅうであるAntonella Giordanoの書類から見つかったもの。1945年、パルチザンの少年兵であったグイド・パソリーニがPorzusの大虐殺で戦死したというオフィシャルな知らせが届いた際に書かれたものだ。Graziella Chiarcossiのご好意でその断片が発表できることになった。

悲痛がこみあげてきたのは、君が14歳の時の写真を見たときだ:その顔は僕に似ている。目の周りのくま、たくましい身体を持つ少年の苦悩がありありと、しかしあまりにも熱烈な思いが伝わってきたよ。その写真が僕たち(パソリーニと母親スザンナ)に、泣かずにはいられない怒りの衝動を呼び起こした。まるで僕たちが一緒に過ごしたあらゆる時間が押し寄せてきたように。ママが君の名前を呼びながら、叫び悲しむのを聞いたかい? 今ママはここに座って、黙っているけれど。君が彼女を見たなら、すぐにわかるはずだよ。終わりのない苦悩を与えても、彼女にはその傷跡は残らなかった。ママはまだお化粧をしてない、家事に追われる前の、あの親愛に満ちた朝の顔をした僕らの少女だ。

彼女はそこに黙って、白っぽいハンカチの一枚を頭にのせて、じっと黙っている。そしてほんの少しも動かないことが、君にも見えるんじゃないかな。でも、僕が感じているのと同じように、彼女の表情が、いつもとは違うということが分かると思う。多分それはどうしようもない苦痛のせいだ。それでも僕は惑わされて、ひょっとしたらそれは微笑みではないか、と信じたくなるんだよ。君の死を知ってから、まだふたつの夜と一日しか経ってない。僕らにあのとてつもない苦痛の感覚を呼び起こした、君のあの写真を見てからは一夜しか経っていない。

だから君は、僕が今ペンを手に持って、君に手紙を書きはじめたことにあきれるだろうね。僕だってあきれる。たとえ何ヶ月も考え抜いた感えだとしても、まだたったの3日だ。でも僕たちがあきれたってどうにかなるのかい? 現実は、君はこの冬のある日、草原、いやどこかは分からない場所で、死んでしまった:そしてもうひとつの現実は、僕は今、Versuraの、まだ君達が車を運ぶ前に見た、あのちいさい部屋にいて、君に手紙を書いている。

僕らは降伏しなければならない。降伏。それは明らかに、必要なものだ;君は今や持っていないけれど、僕らがそれぞれに持つ肉体が迎えなければならない運命だ。そして、君に手紙を書きながら、たとえそれが、僕が写真のなかに生きた体を持った、宿命として見た僕の弟だった少年とは確実に違ったとしても、君は生きている、死んでいないと考えることが必要なんだ。

 

GApasolini

グイド・アルベルト・パソリーニ

 

 

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