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革命家から映画監督へ Paolo Grassini Ⅱ

Deep Roma Intervista Occupazione Società Storia

自らのそばにいた友人がネオファシストに射殺される、という凄まじい政治闘争の真っ只中を生きた映画監督、パオロ・グラッシーニ。話の節々に、KakuboであるとかGebaboなどという言葉が飛び出して驚かされた。日本の学生運動の情報はメディアを通じてイタリアにも知れ渡っていた、とグラッシーニは言う。

僕らは先行して繰り広げられた日本の学生運動の状況もいろいろ知っている。しかしイタリアの市民闘争、政治ムーブメントは、日本で起こったそれとは、比較できないほど激しい闘争に発展していったわけだがね。

74、75年までの間に5、6の大きなテロ、大虐殺事件がイタリアでは起こっている。75年には、君が以前から興味を抱いているという「パソリーニ殺害事件」も起こった。だいたいピーノ・ペロージ(パソリーニの殺害犯人として起訴され、7年間服役した札付きの不良少年)が、パソリーニを殺害した、だなんていう一般に流布する茶番を、僕だってまったく信じていないし、信じている人はほとんどいないんじゃないのかな。

これは周囲で噂されていた話だから、裏をとっていないのだけれどね。オースティアで喧嘩の末に轢死した、とされるパソリーニは、実はローマ市内で殺害されたのち、オースティアの海岸まで運ばれた、という説すらあるんだ。いずれにしても、この殺人事件の経緯に関しては、誰もが少しも納得がいかない。多くの人が、パソリーニもファシストのグループに殺されたんだろう、と考えているよ。最近になってペロージ本人もそんなことを言っているしね。まあ、あの男の言うことはまったく当てにはならないが。

⚫️パソリーニの映画に欠かせなかった俳優、ニネット・ダヴォリダッチャ・マライーニと共に行った最近のカンファレンスで、「ピエールパオロは国家に殺された」と断言していたが。

そうだよ。きっとそうだ。僕だってそう思う。ペロージはテルミニ駅の周辺で男色相手の売春稼業をしていた少年だ。そんな少年をなだめすかし、脅迫し、丸め込むことなんて、たやすいことだったと思うよ。囮に使われたってことさ。一方パソリーニは屈強な男だった。毎日近所の青年たちとサッカーをし、ジムで肉体を鍛えてもいたからね。痩せて華奢のように見えるが、肉体派の男だったんだ。そんな鍛えあげられた男を、17歳の優男だったペロージが一人で殺せるはずないだろう。

僕らはあのころ、何か異常な殺人、あるいはテロ事件が起こると、それに「国家」が絡んでいることを、おぼろげながらも即座に理解した。そしてひどい事件が次々に起こるにしたがって、やがて確信に変わっていったんだ。エドアルド・ディ・ジョバンニたちによって書かれた「La Strage di Stato」が僕らの道先案内だったというわけだが、メディアや司法が語り始める前に、フォンターナ広場、デッラ・ロッジャ広場、ミラノ警察襲撃事件、それらの事件の主犯が、ネオファシストグループであることを、すでに当時の僕らは知っていた。

そのころは、学生、そして工場で働く工員たちの、大規模な政治活動が行われていた時期でもあって、工員たちはCGIL (労働組合)の枠を超えて、激しいムーブメントを巻き起こしてもいた。このムーブメントに学生たちも加わって、イタリアじゅうに広がり、何千、何万という若者たちを巻き込み、大変な勢いで巨大化していったんだ。

そういう時期に、Lotta Continua、il Manifesto(現在も新聞のみ残っている)、工員たちのグループなど、数多くの極左グループが生まれ、それぞれにそれぞれのムーブメントをオーガナイズしはじめた。Lotta Continuaは76年に解散してしまったが、もちろんそこで闘争が終わったわけではない。77年のはじめには、元のメンバーたちが新しいグループを結成して闘いを継続したんだよ。

そのころローマの大学では毎日のように激しい衝突が起こり、ファシストグループが70人徒党を組んで大学に入り込んで、教室で集会を開いていた学生たちに発砲、ひとりの学生の頭を撃ち抜く、というひどい事件も起こっていた。そんな狂気に満ちたファシストたちの武装に資金援助していたのは、CIA、NATOと手を結ぶシークレットサービスなんだぜ。その謀略の数々は、ほかの西側のどの国よりも、民主主義下において躍進したイタリア共産党への危惧、そしてその勢力を一掃する、という名目でオーガナイズされたと言われるが、内実はもっと複雑ではないか、と僕は考えている。シークレットサービス、武装した極右勢力の暗躍の裏には、米国だけでなく、フランス、イギリス、イスラエルなども何らかの利権をめぐって関係していたことだろう、とね。国際政治というものは、一筋縄ではいかないものだ。裏の裏に、さらに裏がある、と認識しておいたほうがいい。

ともかく、僕らの学生運動の勢いが頂点に達し、街じゅうで激しい衝突が起こったのは、77年だった。77年は、イタリアの学生運動においては、とても重要な年でもあり、僕らにとっても最も厳しい年だったと言える。2月1日、武装ファシストに頭を撃ち抜かれた学生が、意識不明の重体になったことに抗議して、Piazza indipendenza(独立広場)で開かれた集会では、学生と警察の激しい銃撃戦となった。24歳のダッド(Renato Leonardo Fortuna)という青年が逃げる途中に、13発の銃弾を受けて怪我をした友人、22歳のパオロ・トマッシを脇に抱えて走る写真は有名だ。このときは、警官も銃撃されている。

 

(ダッドとパオロ Piazza indipendenza Roma)

(ダッドとパオロ Piazza indipendenza Roma)

 

3月、ボローニャでフランチェスコ・ロルッソがカラビニエリに殺害される事件が起こったときは、ローマでも大抗議デモが起こり、街じゅうが火事にでもなったかのように、爆弾が炸裂し、あちらこちらで発砲された。それもローマだけでなく、イタリア各地で手のつけられない状態になったんだ。そのころは『赤い旅団』の活動もピークに達しはじめたころで、メンバーが学生運動に混じることもあり、その銃撃戦に拍車をかけた。連中は、われわれ学生が、連中の動きを完全に否定しているにも関わらず、必要としていると勘違いしていた。

『赤い旅団』は『フォンターナ広場爆破事件』の影で誕生したテログループだが、イタリアにクーデターが起こって軍事専制政権が生まれることを、彼らがひどく危惧していたのは確かだ。個人的には知っている人物もいたし、顔見知りも何人かいた。でもわれわれとは、政治的にはまったく違う方向を向いている連中で、まったく共感できなかった。そうだろ? やつらはテロリストなんだぜ。 78年に、ついに彼らはイタリア全国を絶望の淵に陥れた『元首相アルド・モーロ誘拐殺害事件』を起こしてしまったから、その後、極左の運動に関わっていたわれわれの状況はさらにひどくなった。あの事件をきっかけに、イタリア国じゅうが武装警官、軍部に監視されるようになったんだ。

その時代、僕自身は大学生で、はじめのころは、ほかの大学生とともにローマ郊外の公共建造物を『占拠』したりしていたが、やがてLotta Continuaの活動に参加するようになった。Lotta Continua解散後は、Circolo Giovanileというグループを結成して活動を続けたよ。Lotta Continua解散後、僕らがやったまず最初の政治活動というのが何か知っているかい? 映画館の占拠だよ。トラステヴェレのチネマアメリカを占拠して、ヴィスコンティの映画を上映したんだ。文化を市民に開放した。

⚫️そのムーブメントはEstate Romanaのコンセプトと関連があるように思えるが。

僕らがそんなことを企画していたのは77年のことだからね。Estate Romanaよりも以前の話だ。しかし確かに僕らのはじめたことは、その後のカルチャームーブメントにつながっていったかもしれないね。われわれは、攻撃的な『文化の解放』を目指していた。いや、あのころは文化だけでなく、あらゆるセクターにおいて、攻撃的に自由を勝ち取ろうというのが、ローマだけでなく、ミラノでも主流だった。そうそう、ローマではIndiani Metropolitani(メトロポリスのインディアン)という奇妙なムーブメントが流行ったっけ。ネイティブ・アメリカンのように頭に羽飾りをつけて、ヒッピー風の服装で、集会にやってくる連中がいたんだ。連中はその格好で集会で祈りを捧げたりしてね。毎日起こる暴力的な事件、軍に監視される社会へのちょっとした風刺だよ。一方、ミラノのParco Lombroでは『裸の王様』という雑誌社の主催で、プロレタリアートの学生たちを集めてフェスタが開催された。ヒッピー文化真っ盛りのころ、ジャック・ケルアックとかアレン・ギンズバーグに啓示を受けたアンダーグラウンド・カルチャー盛りだくさんのたいした騒ぎだったよ。スローガンは『Rock e’ Nostro! ロックは俺たちのものだ!』だったかな。

 

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(ローマに出没したメトロポリタン・インディアン)

 

当時は、ヒッピー的なアンダーグラウンド・カルチャーが盛んな時期でもあり、この文化に感化され、学生、工員たちで形成される若者文化も徐々に変わっていった。巷では常にファシスト、そして『赤い旅団』によるテロが頻発し、虐殺が起こり、警官が学生に向かって発砲していたが、若者たちは、暴力とは違う次元の文化で、エネルギーを昇華するようにもなった。

しかしながら、僕個人にとっての、絶対に忘れえない事件もまた、77年に起こることになる。
それは9月30日のことだった。僕の親友、Walter Rossiーウァルター・ロッシがVia Balduinaで銃殺された。それも僕のすぐそばでだ。

その日僕らはVia Balduinaで開かれたデモ集会で、数人並んでビラ配りをしていた。いつものように普通にね。ただのビラ配りだ。その僕たちに向かって、突然数発の銃弾が放たれ、それはあっという間もない、数秒の出来事だった。僕のすぐそば、スローモーションでウァルターが倒れこむのを、僕は夢のように見つめ、そしてハッと我に返って、駆け寄ると彼を抱き上げた。いったい何が起こったのか、まったく理解できなかった。

ウァルターを殺ったのはファシストだった。正確に言うなら、『ボローニャ駅爆破事件』の主犯とされる男の弟だ。その男は、僕らがビラ配りをしていた場所から10メートルも離れない場所から、カリブロ9を連射、銃弾がウァルターの頭を撃ち抜いた。僕らが佇む十数メートル先に30人あまりの警官がズラリと並んでいたが、やつらはわれわれを一瞥しただけで、顔を見合わせると、静かにその場から立ち去った。普通、警官なら、血まみれになって倒れこんだ若者を助けに走ってくるだろう。そうだろ。ちがうかい? 彼らは駆け寄るどころか、立ち去ったんだ。僕らはウォルターとともにその場に置き去りにされた。

そのとき僕は「国家」というものが、一体何であるかを、はじめて肉体で感じ取ったんだよ。よくあるじゃないか。言葉の意味が突如として、一瞬のうちに理解できるということが。そのときがそうだった。そうか、「国家」とはこれなのか、こういうものなのか。僕はすべてを理解した。このときの感覚、このシーンを、だから「Roma Paris Barcelona 」のオープニングシーンにした。あの映画には、そういう経緯があるんだ。

ウァルターを殺した男の兄貴が起こした『ボローニャ駅爆破事件』は85人もの死者を出したにも関わらず、犯人は実刑も受けず、ほぼ自由の身で人生を謳歌している。なにしろ奴らは億万長者の息子だからね。金持ちの息子だ。2014年に被害者の遺族が起こした訴訟で、2億ユーロの補償金の支払いが義務づけられたが、しかしいくら金持ちでもその金額は払えないだろうね。訴訟が今後どうなっていくのか、僕にはわからない。

いずれにしても、77年は、ジョルジャーナ・マーシをはじめ、多くの学生が警官から射殺された年だった。そしてウァルターもそのうちのひとりになってしまった。毎年当時の仲間と集まって、いまでも追悼フェスタを開いているよ。

 

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グラッシーニの友人。デモ集会で射殺されたウォルター・ロッシ。

 

⚫️16歳のころから政治活動に身を投じたとは、ずいぶん早熟な少年だったんですね。

はじめて裁判にかけられることになったのは18歳かな(笑)。
そうそう、もちろん徴兵にも行った。そのころのイタリアには徴兵制があって、必ず軍の任務を経験しなければならなかったが、当時LottaContinuaには、徴兵に出かける若者たちをオーガナイズするPid (proletari in divisa)というグループがあってね。僕らもそのPidに参加して、軍においても政治活動を継続した。イタリア軍部のあり方、兵士の兵舎での生活の向上を訴えるためにね。

その活動はあらゆる場面で軍に影響を及ぼしたから、重要ではあったんだよ。ストライキをオーガナイズしたり、ほかの兵士たちと共同でデモ集会を開いたり。もちろん兵士のデモなんていうものは禁止されていたが、76年には軍の内部に1万人の共感者を得て、ミラノで大掛かりなデモ集会も開いた。それまで兵士は自由に出かけることもできなかったし、欲しいものを気軽に買うこともできなかったが、われわれの活動のおかげで、多少の自由は実現したんだ。そのころの兵士たちはスポーツ新聞しか読んではいけなかったんだが、僕らは毎朝近所のエディコラへ行って、大量の新聞を調達して、兵士たちに配ったりもした。兵士が世の中の事情を知らなくてどうする、とね。もちろんとても深刻な問題、イタリア軍部がNATOに参加する政治的意義についても議論しあった。イタリアがNATOに参加する必要が、どこにあるんだ、とね。

そういうことを僕らは秘密裏にやっていたわけだが、さすがにすぐに見つかって、危険分子と烙印を押された僕は、13ヶ月の徴兵の間、十数回、次から次へと兵舎を飛ばされた。しかし飛ばされた兵舎でも、その日の夜中から活動開始、靴箱に並べてある兵士の靴のなかにこっそりビラ配りなどしていたね(笑)。言っておくが僕らは軍部のなかで、民主主義的に政治活動をしていたんだよ。いたって平和的に。しかしそれでも軍の内部で政治活動をするということは、はなはだしく危険なことで、ずいぶん乱暴な脅迫も受けた。しかし僕らのあのころの活動がなければ、警察官や軍に労働組合は生まれなかったろうね。ある意味僕らは、軍部の、幾分かの民主化に成功したってことだ。

たしかにあのころに比べれば、イタリアは変わったよ。ずっと民主主義的になった。それでも国家の傲慢さ、暴力的な対応は、実のところ、あまり変わっていないのかもしれないと常々思うんだ。今でもなんの罪も犯していない若者たちが、警官、カラビニエリに誤認逮捕され、拷問を受けることがあるからね。2001年7月、ジェノバで開かれたG8、抗議デモ集会における、警官たちの一連の、卑劣な暴行を知っているだろう? デモに参加していただけのジュリアーノという青年が若い警官に撃ち殺され、Diazという学校に待機していた大勢の学生たちは、ひどい暴行を受けた(2015年、ストラスブルグの欧州人権監視委員会から、このときのカラビニエリ特殊部隊の学生への暴行は、陰惨な『拷問』とも呼べるものと指定され、状況再捜査、場合によっては制裁、と勧告された。Diazで起こった、カラビニエリ特殊部隊の異常な暴力行為はドキュメンタリー映画にもなって物議を醸した)。

僕らがなぜ、38年も経った今、ウォルター・ロッシを追悼するイベントを続けているかというと、こんなことは絶対に起こってはいけないからだ。20歳の普通の青年が、通りでビラを配っていただけで、ファシストに殺害され、そこにいた警官たちに見捨てられるなんて、こんなひどいことは2度と起こってはいけない。われわれはそれを決して忘れることなく、常に記憶にとどめておく必要があると思っている。

⚫️今の政府、つまりレンツィ首相は、「70年代は、もうずっと昔、過去の時代だ。謀略の話には飽き飽きしている。もう終わりにしようよ。われわれはいい加減にそこから抜け出さなければならない」と言っています。

そう、レンツィはそう宣言して、70年代のシークレットサービスのアーカイブの公開を命じたんだけれどね。アーカイブを開けてみると、もぬけの殻だった。当時のイタリア共産党がソ連から資金援助を受けていたという書類以外の何ひとつ出てこなかったんだ。そんな書類は、一連のテロ事件とは、なんの関係もないだろう。イタリア共産党がソ連から資金援助を受けたから、無辜の市民が大勢亡くなる必要があったなんて、道理が通らなさすぎるじゃないか。しかもアーカイブからは秘密警察関係の書類も、米国の資料も何も出てこなかったんだぜ。

いまやあの時代に何が起こったのか、誰もかも、何もかも、知っている。もはやミステリーでもなんでもない。しかし公には、つまり司法的には、何も解決していない。フォーンターナ広場、デッラ・ロッジャ広場、イタリクス事件(La strage dell’Italicus 1974年にボローニャの郊外で起こった汽車爆発事件)のどの事件にも有罪者がいないんだからね。(事件から41年後の2015年7月22日、ミラノの法廷で開かれた公判で『デッラ・ロッジャ広場爆破事件』の容疑者2人が『終身刑』判決を受けたが、容疑者側弁護人が、控訴検討を表明している)

しかもこれらすべてのテロ事件の裁判は、すべて国家機密として進められたという経緯がある。それで司法官たちは、国家が機密指定した書類を調べることが一切できなかった。イタリア国家には『秘密保護法』というのがあるからね。国家がどの資料を「秘密」にするか、決定権を持っている。したがって当時の司法官たちは、資料を精査できないまま、長期に渡って不毛の裁判を進めなければならなかったというわけだ。国家はすべてのテロ事件の裁判で、『秘密保護法』を行使もしている。

62年に、ENI(イタリア主要エネルギー会社)の会長であったエンリコ・マッテイが飛行機事故を装って殺害された事件を知っているよね。ENIはいまや世界でも大きなシェアを持つ、原油会社だが、なぜエンリコ・マッテイの事件が起こったかというと、イタリアのエネルギー会社があまりに大きな力を持ち、他国のエネルギー会社を凌駕するまでに巨大化することをおもしろくない、と思う勢力があったからだろう。

エンリコ・マッテイの、この一連の殺害事件の経緯に注目して、パソリーニが最後の小説『原油』を書いたことは有名だが、もうひとつこの時期に書かれたコリエレ・デラ・セーラに書かれたパソリーニの記事で、重要なものがある。「Cos’è questo golpe? Io so(このクーデターが何なのか、わたしは知っている)」とタイトルがつけられた記事で、事件の核心である人物の名前はひとつも書かれていないが、われわれ若者たちには、すぐにそれが誰であるか、具体的にピンときた。僕らが集会に集まると、それらの名前が自然に囁かれていたしね。われわれ若者たちは、その謀略の作者とその意味を共有していたんだ。誰が何のために、どのように糸を引いていたかもね。パソリーニの記事は暗示的ではあったが、その暗示は、われわれのように背景を知っていた者たちにとっては、実体を持つものでもあった。

いまだって警察の上層部絡み、あるいは政治的大物絡みの事件が起こると、逮捕はされても、実刑を免れる人物が多く存在する。そういう意味では、イタリアは70年代から何も変わっていないとも言えるね。レンツィ首相が、70年代の機密書類のアーカイブ開示を命じたところで何もでてこない国なんだ。彼は40歳そこそこの人物だろう? 彼が生まれた年より古い、アーカイブ資料なんて、いくらなんでも、もう開示したっていいだろう。それなのに結局は開示されない。

それらの機密書類が開示されるまで、イタリアでは何も解決しない。解決しなければ変わることができない。アーカイブが開示されない、ということは、いまだに『何者か』『何らかの組織』がそれを阻止しているということだよ。若い首相と若い政府に、大きな『変革』を期待したが、残念ながら、その『変革』は先送りされそうだ。

何度もいうけれど、イタリアの70年代は、言語を絶する騒乱の時代だった。たとえばレッジョ・カラブリアで労働者、工員たちの大がかりな暴動も起こったことがあってね。その暴動は市民の共感を得、また労働組合はその応援に、何百、何千という工員をカラブリアへ送るための特別列車を企画した。ファシストたちはその列車にも爆弾を仕掛けたんだぜ。その爆発で何人かの工員が亡くなりもしている。しかしその爆発のあと、列車は停車することもなく、人間が歩く程度に速度を落とし、ゆっくりゆっくりと目的地へと進んだ。その、のろのろ動く汽車の前を、工員たちが交代で、線路にほかの爆弾がしかけられていないか、「露払い」しながら先導してね。彼らはカラブリアへ、何日もかけてたどり着いた。ミラノ、ジェノバ、ボローニャからカラブリアに応援にかけつけた労働者、工員たちは、爆弾に脅されながら1000kmの道のりを、ただひたすら目的地まで歩いたんだ。

それが、われわれの成長した時代だ。そして僕らは彼らのスピリットに触発され、共感しながら成長した。結果的に言えば、僕らは敗北者なのかもしれない。しかし僕らの政治活動が、イタリアの多くを変化させたと自負もしているよ。いまでもイタリアの市民の力はとても強力で、市民中心の政治ムーブメントが数多くあるが、この市民の強さは、しかし70年代よりずっと以前から存在するものだ、とも僕は思っている。言ってみれば「パルチザンの精神」だ。

たとえば1945年、シシリアで土地を「占拠」してメーデーのフェスタを祝っていた農民たちをマフィアが銃撃したという事件が起こった。54年には不正な選挙法改変に抗議して、1年もの間、市民が広場を占拠。60年、サンパオロ広場に集まった市民が、政府から銃撃される事件も起こっている。70年代の騒乱は、どの時期よりもひどい混乱に陥ったが、つまり過去のイタリア市民の力強い抵抗の流れを、正当に受け継いだものだ。

この国で成長した僕らは、僕らがこの国を変えなければならない、そう決心して活動していたのさ。


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