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機が熟すとき: 『鉛の時代』の幕開け、そして『赤い旅団』誕生の背景

Anni di piombo Occupazione Società Storia

既存の共産主義の弱点を補うカトリックのDNA

「70年代、80年代をまったく知らないイタリアのティーンエイジャーは、『鉛の時代』に起こった、たとえば『フォンターナ広場爆破事件』や、『デッラ・ロッジャ広場爆破事件』などの凄惨なテロ事件はすべて『赤い旅団』が起こした、と考えているようだ。この事実に衝撃を受け、『フォンターナ広場爆破事件・イタリアの陰謀』を撮ることに決めたのだ」とマルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督は語っています。イタリアの新しい世代の子供たちも、やはり自国の近代史をほとんど理解せず、遠い時代に起こった、自分とは関係のない事件の数々だとしか捉えていない。

実際はその時代、イタリア国内外の諜報エージェントの合意の元に構築された『緊張作戦』下、大規模に張り巡らされたオペレーションで社会不安を煽られ続けていたわけで、むしろ極左グループ『赤い旅団』という武装極左グループが結成される決め手となったのが、国家中枢にいる人物、軍部、極右グループの共謀による計画的殺戮事件と位置付けられる『フォンターナ広場爆破事件』と捉えられています。しかしながら、その時代を知らない子供たちが、どのようなテログループかは曖昧にしか知らなくても、『赤い旅団』だけは知っているほど、そのテログループの名は社会に刻み込まれた存在ではあるわけです。

そして『赤い旅団』という名に条件づけられた、その「危険極まりない狂気の殺人集団」というイメージは、調べていくうちに、どうもしっくりこなくなってきます。初期のころの彼らは、『革命』こそが正義と信じ、戦後イタリアを支配した「多国籍企業による、米国型帝国資本主義経済の占領」の奴隷と化した市民を解放、「集合的」で「平等」な自治で、よりよい社会を築くという、強い信念と野心を真剣に抱いていた。

また、「自由」を求めて闘ったこの時代の若者たちには、マルクス・レーニン主義のもと、「プロレタリアートによる専制主義」を実現したソ連や中国が、実際は「自由」も「多様性」を認めない、石を投げればスパイに当たる、密告だらけの粛清と抑圧に満ちた『全体主義』だという認識はなかったのだと思います。その時代、東側の内政情報は、ほとんど西側には入ってきませんでした。

さらに『赤い旅団』に関して何より特筆すべきことは、アルベルト・フランチェスキーニが「赤い旅団にはカトリックのDNAがある」、と語っていることです。事実、カトリックの流れから政治活動に加わった初期のリーダー、レナート・クルチョは、「歴史におけるはじめての共産主義者はイエス・キリストだった」とも発言している。彼らは過度のイデオロギー主義で政治プロパガンダに焦点を定める、既存の共産主義のあり方そのものに弱点を見出し、『革命』とは、政治とイデオロギーのペテンに騙される現代の市民の生活を根底から変えることだと考え、社会的弱者たちへと注意を向けることになります。

このヴィジョンは、おそらく『マタイによる福音書ー奇跡の丘』を撮影した、パソリーニと近いのではないかと思いますし、カトリックのDNAといえば、かつてファシスト政権に対抗、銃を持って闘ったカトリック僧パルチザンが、意外に多く存在したことも事実です。

結成当時から74年あたりまでは、『労働者の力(トニ・ネグリ)』『継続する闘争(アドリアーノ・ソフリ)』『マニフェスト(ヴァレンティーノ・パルラート)』、『10月22日(アナーキスト・グループ)』と、プロパガンダの巧みさは別として、他の武装を謳う極左グループと『赤い旅団』の間には、ほとんど差異はありませんでした。それが突然血まみれのテロ集団のイメージとして社会に刻み込まれるのは、初期の執行幹部、レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニが逮捕され、クルチョのパートナーだったマラ・カゴールが死亡、そのあとを引き継いだマリオ・モレッティが執行幹部となってからのことです。その変質は、『赤い旅団』そのものが、まったく違う集団に変化したかのような印象すら受けるほど大きなものです。

その『赤い旅団』のそもそものはじまりは、レナート・クルチョ、マラ・カゴール、コラード・シミオーニが、トレント大学の政治運動から、アルベルト・フランチェスキーニがレッジョ・エミリア(パルチザンの伝統が色濃い地域)のイタリア共産党パルチザンの流れから、マリオ・モレッティ、アルフレッド・ボナヴィータがSit Seamense(シット・シーメンス)など大企業の工場労働者の流れから、と極左運動の3つの流れのメンバーが集まって、前身となるCPM (Collettivo Politico metropolitano)を結成した1969年まで遡ります。

青年極左グループや往年のパルチザンたちが、当時のイタリア共産党党首ベルリンゲルがモスクワの68年チェコ侵攻を批判したことに決定的な反感を抱き、イタリア共産党をブルジョワ、米国に懐柔された軟弱な政党と見なし、彼らには『革命』は任せておけない、と憤っていた頃の出来事です。

 

 

さてここから、初期の執行幹部であったアルベルト・フランチェスキーニが出所して、何年もの時間を経て、少しづつ明るみに出た事実、記憶の破片を照らし合わせながら『赤い旅団』の初期メンバーとして再構築した、つまりフランチェスキーニが紡ぐStoria(物語)をベースに、周囲の人々の人物像などを追っていきます。したがって、これが事実である、と当時のメディアなどで公表された内容とは異なる部分もあります。また、彼が語る物語には、数限りない人物の名が上がりますが、あまりに複雑になるため、重要と思われる人物のみを追いました。

「70年代、全ての出来事はひとつに繋がっているのに、全ての出来事がバラバラのままだ。われわれがそれを語れないのは、それらをひとつに結びつけるための言葉と証拠がないからだ。しかしわれわれは全てを知っている」

最後のインタビューでそう語ったレナート・クルチョは、刑期を終えて出所したのち、社会学者、作家として多数の本を出版していますが、過去については、固く口を閉ざしています。それは確固とした証拠が上がらないまま、過去を掘り起こすのは潔しとしない、という態度にも思えるし、終わってしまった曖昧な過去を詮索するよりも、いま、現在の問題について考察することが重要であり、有意義だ、と考えているようにも思えます。一方、フランチェスキーニは現在、アンチファシズムの精神のもと、移民や受刑者、薬物中毒者のサポートを行うイタリア全国規模のアソシエーションで、重要なポジションにつき弱者を助け続けています。

なお、このフランチェスキーニのインタビューには、数多くの疑惑に満ちた人物が登場しますが、誰よりも重要な秘密の鍵を握ると思われるのが、コラード・シミオーニという人物だということを先に記しておきたいと思います。米国情報サービス機関に協力していた事実からイタリア社会党から追放されたのち、トレント大学で政治運動をしていた学生たちの周辺に存在していたこの人物は、他のメンバーよりも10歳近く年上なので、学生として当時の政治運動に関わっていたわけではありません。

CPMにおけるコラード・シミオーニは、武装精鋭グループを構成したり、さらにはのちに発覚する『スーパークラン』という非合法極秘武装グループをオーガナイズしたりと、当時から行動や言動に秘密と謎が多く、背景が見えない人物でした。『赤い旅団』が結成される直前、クルチョ、フランチェスキーニと決別したあと、一旦は消えますが、1976年にはパリに『ヒペリオン』という語学学校を設立しています。

あらゆる全ての経緯を飛ばして結論を言うなら、この『ヒペリオン』というパリの語学学校が、秘密結社P2メンバーと関わりの強い国際諜報ベースだった、いや、武器の調達など各国のテロをオーガナイズするためのセンターだった、あるいはその両方だったのでは? という根強い疑惑があり、のちに捜査され、関係者は取り調べも受けています。しかしそのたびに有力者から圧力がかけられたり、証拠が消滅していたり、と確証がないまま現在まで至っている。この『ヒペリオン』という語学学校については、のちに少し考察しなければならないことになるかもしれません。

なおインテリでもあることで有名なシミオーニは、アベ・ピエール財団の副代表としてローマ教皇(ヨハネ・パオロ2世)にも謁見するなど、テロリズムとは無縁の宗教者のような晩年を送っていますが、彼が『グランデ・ヴェッキオ(赤い旅団を操った人物)』であるという疑いは根強く、『タンジェントーポリ(1992年の大汚職事件)』で断罪されたイタリア社会党のベッティーノ・クラクシーも、1980年からシミオーニ=グランデ・ヴェッキオ説を主張していました。

余談ですが、2003年、ドナルド・サザーランドが主役を務めた映画『Piazza delle cinque Lune(五つの月広場)』は、『アルド・モーロ誘拐・殺害事件』の背後に見え隠れするパリの諜報機関(?)『ヒペリオン』の存在からインスパイアされたと思われるフィクションです。その映画のストーリーに、罪悪感に囚われ『アルド・モーロ誘拐事件』への関与を告白する余命短いシークレットサービスの手紙という要素が盛り込まれていますが、そのフィクションが『現実』になるかのように、2009年には実際、病魔に侵された元シークレットサービスであったという匿名の人物から、新聞社に手紙が送られてくるという出来事があり、そのエピソードを裏付けることになりました。

そういうわけで、イタリアの70年代を知らなければよく分からないストーリーで、映画としては「すごく面白い」というわけではなくとも、なかなかミステリアスな顛末を持つ映画です。

 

 

来るべき日を青年たちに託したパルチザンたち

アルベルト・フランチェスキーニという人物はレッジョ・エミリアの貧しい農家の生まれで、祖父はイタリア共産党の結党メンバーのひとりです。祖父、父親ともに戦中はパルチザンとしてレジスタンス運動に関わり、ファシスト政権に身体を張って抵抗、父親は資本家への激しい反抗で投獄されたという経緯があります。したがってフランチェスキーニは、生粋の伝統的共産主義文化の中で育っている。

「強大な権力と闘うには武装しかない」と言い切るレッジョ・エミリアのパルチザン文化を背景に持つフランチェスキーニ一家は、ソ連共産党に極めて忠実な家族で、「イタリアのラジオなどには料金は払えない」という祖父の信条から、「ラジオ・モスクワ」と「ラジオ・プラハ」だけを聴いて日々を過ごしていました。一家は当然のごとく、全員がイタリア共産党に籍を置いていましたが、フランチェスキーニ自身は、ニクソンが訪伊した際、イタリア共産党がNATOに同意を示した際に「許しがたい大きな裏切り」と感じ、イタリア共産党から離れる決心をしたと語っています。

フランチェスキーニが成長の過程で大きく影響を受け、大好きだったと言う祖父は、いかにも荒くれたパルチザンという雰囲気を醸す破天荒な人物。妻を亡くした晩年、若い風俗嬢との付き合いが堅物の息子にばれて大反対され、風俗嬢とともに家出、駆け落ちしたというエピソードがあり、のち、フランチェスキーニ、つまり自身の孫が逮捕されたのをテレビで知って、「よくやった!俺の孫だ」と小躍りして喜んでいた、と祖父の晩年のパートナーとなった若い女性が、フランチェスキーニにしんみり語ったそうです。

当時レッジョ・エミリアで、イタリア共産党に失望して距離を置き、自分たちの政治活動を模索していた、フランチェスキーニを含めるパルチザン第2、第3世代たちが、ミラノのレナート・クルチョ、マラ・カゴールたちと出会うのは1968年、イタリア各地で巻き起こった大学占拠の時期でした。69年には『継続する闘争』のアドリアーノ・ソフリ、『マニフェスト』『労働者の力』らのメンバーとも出会う機会を得、青年たちは『革命』について真剣に話し合っています。

いずれにしても、『革命』を目指してファシストと闘い抜いたパルチザンたちは戦後、その思いをイタリア共産党に託しながらも、武装革命を完全に退けた共産党に「裏切られた」と感じてもいたので、その代わりにこの青年たちが、来るべき日のために、自分たちが秘密裡に隠していた『爆弾』『ピストル』などの武器を使うであろうことを予期し、自分たちの思いを彼らに託そうとしていた。

いまやイタリア中の都市に大型書店を構えるフェルトリネッリ出版の創立者でもあるジャンジャコモ・フェルトリネッリもそのひとりでした。材木商を代々営む非常に裕福な家族の出身で、パルチザンとしてレジスタンス運動に強く関わったこの人物は、イタリアに68年の激動が訪れた際、『イタリアの戦士』という武装マニュアルの本を出版。主だった極左グループに資金援助を惜しまず、レッジョ・エミリアのフランチェスキーニたちのグループにも、弁護士を通じて資金援助を行っていた。

いずれにしてもフランチェスキーニが、いまだレッジョ・エミリアで仲間たちと共同生活をしながら革命を議論していた頃は、イタリア共産党やイタリア社会党、さらに警察なども彼らを訪れ、一応は若者たちをコントロール下に置いていたそうです。また、この時期、極右グループ(アバンガルディア・ナチョナーレ)が「われわれはみな、アンチシステムであり、思想的にほとんど違いがない。共に闘おう」とフランコ・フレーダ (『フォンターナ広場爆破事件』の主犯と目される)が書いた小冊子を手にオルグに訪れたこともあったと言います。フランチェスキーニの祖父を崇拝するメンバーが多くいたイタリア共産党は、青年たちの過激化を心配し、「イタリアを離れてモスクワへ行き、よく考えろ」という提案も行ったようです。

やがて、前述した『赤い旅団』の前身となるCPM(collettivo politico metropolitana )が、レッジョ・エミリアのフランチェスキーニのグループ、トレント大学のレナート・クルチョ、前述のコラード・シミオーニのグループが合流して結成されたのは、1969年の9月。「メトロポリタン革命闘争」としての武装闘争Clendestinità (自らのアイデンティティを隠し、非合法に活動する)を決定したのが12月の初旬。カリスマ性のあるクルチョが公のリーダーを務め、シミオーニが背後で各国の武装闘争との国際的な連帯を探る役割を担っていた。

 

 

「会ったときから嫌な感じがする人物だった」とフランチェスキーニが言う当時のシミオーニは、アルジェリアの極左グループ『ブラックパンサー』や、フランスのマスクス・レーニン主義者とも強いつながりがあり、家族が裕福と言うわけでもないのに常に金回りがよく、上流階級の人物たちとの付き合いも多く、それをひけらかすような雰囲気の人物だった。また、非常にインテリで、学生や工場労働者にラテン語で話すような人物だったそうです。

NATOの元秘書官(!?)をしていたという人物を、『エージェント』だと紹介したこともあり、右翼も左翼も関係なく、多くの知り合いがいるようで、レッジョ・エミリアの荒くれたパルチザン文化に育った青年には、まったく理解できない、謎の深い人物に思えた。しかし、それでもクルチョとシミオーニの間には、強い連帯があるのだろうと想像していた、と回想しています。フランチェスキーニは、少し年上のクルチョとマラ・カゴールには強い信頼を寄せていたようです。

いずれにしても当時のシミオーニの周囲には、ピレッリの工場労働者をはじめ、企業家の息子であるヴァンニ・ムリナリス、ミラノの医者の息子であるドゥーチョ・ベニオ(有名なミラノの医者の息子。のちに父親のモサドとの連帯が指摘されている)フィルトリネッリのGAPとも強いつながりを持つイタロ・ソーニョやIBMのエンジニア、またフランコ・トリアーノ(カトリック関係)などがいたそうですが、のち、その多くはシミオーニとともに語学学校『ヒペリオン』の設立に関わっています。また、この時、アベ・ピエールの孫であるフランソワ・トゥッシャーもシミオーニの周囲にいた人物のひとりで、彼女がのち、『ヒペリオン』の学長となっている。

当時、シミオーニは非合法武装闘争のストラテジーを構想し、抗議デモなどで衝突が起こった際、それがさらに暴力的に発展するように抗争を激化させる機能を担うグループ、前述した精鋭武装グループをも構成していました。CPMの中にも『Zie Rosse (赤いおばさんたち)』という強力な非合法武装集団を構成し、クルチョのパートナーであるマラ・カゴールもそのグループのメンバーのひとりでした。

フランチェスキーニとクルチョが逮捕されたのち、『赤い旅団』の執行幹部となるマリオ・モレッティもまた、工場労働者のグループのひとりとして、CPMにも参加していましたが、この時は特に何の役割をも担うことはなかったそうです。しかも非合法武装ストラテジーを皆で話し合っているときに、「おしゃべりするだけで何もしないのなら出て行く」と、ある日プイッとグループを離れています。

その当時は特に何も考えずにモレッティと接していたフランチェスキーニですが、後から想いを巡らせるなら、シミオーニとモレッティには何らかの同意があったのではないか、モレッティはCPMを離れている間に、シミオーニの指示の元、のちに『赤い旅団』の主役となる非合法武装集団のオーガナイズを画策していたのではないか、と推測しています。また、シミオーニとモレッティの関係をフランチェスキーニに説明してくれたのは、自ら『Zie Rosse』に属し、シミオーニ周辺のこともフランチェスキーニ以上に詳しいクルチョのパートナー、マラ・カゴールだったそうです。

一方、シミオーニとの強い絆を、フランチェスキーニに疑われるマリオ・モレッティは、ロッサーナ・ロッサンダのインタビューでは「シミオーニのやり方に耐えられなかったんだ。彼らには何の明確な計画もなくおしゃべりだけだった。僕らの仲間たち(工場労働者)の頭の中には明確なアイデアがあったから、もし協力していたら、コントロールできない状況に陥っていたにちがいないんだ。シミオーニは秘密マニアで、虚栄心が強く、スパイ小説から影響を受けすぎていた。シミオーニがいなければ、クルチョとはやっていけると考えていた」と答え、そのほかには何ひとつシミオーニとの関係を語っていません。

モレッティはCPMを離れていた時期、南米からの革命亡命者たちと、強盗などを繰り返しながら次の動きを考えていた、ということでした。わたしが先にフランチェスキーニのインタビューを読んだからかもしれませんが、モレッティのインタビューは、どこを読んでも明確な掴みどころがなく、政治活動の動機もいまひとつ曖昧に思えます。モレッティはクルチョとフランチェスキーニがシミオーニと決別した後に、『赤い旅団』に舞い戻っている。

フランチェスキーニは、といえば、2016年の『モーロ事件に関する政府議会捜査委員会』で、「モレッティとシミオーニの間には葛藤もあったが、シミオーニはこの男ならやれる、と踏んでいたようだ。モレッティという人物は『スパイ』以上の人物だ。彼は心理レベルでは、自分がレーニンだと思っていた」と自らの意見を語っています。

いずれにしても青年たちが武装を決定した、まさに数日後、衝撃的な『フォンターナ広場爆破事件』が起こり、「急がなければ大変なことになる。今こそ自分たちのプロジェクトを遂行することが正義であり、必要だ」と、『武装革命』を急がせる決定打となった。フランチェスキーニは、しかし後から考えると、自分たちも、ちょうど『フォンターナ広場爆破事件』の直前に武装計画が練り上がっていて、『市民戦争』が勃発するには、まさに絶好のタイミングだった、と語っている。つまり、『フォンターナ広場』も自分たちの存在も、それが単なる偶然の一致だとは、今となっては捉えがたい、という気持ちを抱いています。

「それまで静かに燃えていた炎に一気に息を吹きかけたのは、一体誰で、何のためなんだ」

 

 

シミオーニとの決別から『赤い旅団』へ

シミオーニの号令で武装決起を宣言したのち、フランチェスキーニはミラノへと移動、クルチョ、カゴールと合流した後、工場労働者のコミューンに滞在しながら、仲間たちと工場のガレージに放火する、というちいさい抗議活動をはじめています。フランチェスキーニたちはこの時期、工場のリアリティに合わせたちいさいアクションからはじめ、それが人々を巻き込みながら大きな労働者の闘いへと変革していく、と考えていた。しかしシミオーニは最初からインターナショナルな衝撃を引き起こす、政治殺人のようなショッキングなシナリオを考えていたと言います。

フランチェスキーニは、そんなシミオーニに何か判然としない疑惑を抱き続け、ことごとく反抗している。たとえば、ある日シミオーニの提示した『質問票』に答えるよう指示され、その内容が、「マスターベーションをするのか」というような、あまりに個人的で、『革命』には何ら関係のないと思われる内容のものだったので、クルチョやカゴールに「大丈夫、私たちも答えたんだから」と説得されても憤然と拒絶。しかしこの時の『質問票』が、のちにシミオーニに大きな疑惑が生まれる原因ともなるのです。そのメンバーたちから集めた『質問票』は、なんと、70年代に暗躍した、君主専制主義パルチザンをルーツに持つ『緊張作戦』の隠れた立役者、エドガルド・ソーニョに近しい人物に渡っていたことが判明します。

また、こんなこともあったそうです。シミオーニは、ある日マセラッティに乗ってフランチェスキーニの前に現れ、「君はまだ少年だから、都会の生活というものが、どういうものなのか知らなければならないよ」と車に乗るよう促されていますが、それも断固として拒絶している。その後も何度か、ばかばかしいような方法で、シミオーニはフランチェスキーニが信頼に足るか、自分の思い通りに動くか、「試す」ような行動を取っています。シミオーニは、それぞれのメンバーが何を欲して、どのように懐柔すればよいか、心理操作に非常に長けており、ギリシャ演劇における『デウス・エクス・マキナ』のような存在として、メンバーたちをいつの間にか、彼に従わざるをえないような状況を作り上げようとしていた、というのがレッジョ・エミリアの青年の感触でした。

シミオーニは都会にも田舎にも何件もの家を持ち、そのうちのひとつの邸宅には、武装訓練が行われる広い地下倉庫も用意されていた。家族も、愛人もいる、非常に優雅な生活を送っているようで、基本的に『革命家』同志は、互いの職業や背景をあれこれ尋ねない、という暗黙の鉄則があったにも関わらず、ある日フランチェスキーニは、シミオーニにお金の出どころを尋ねています。その問いには「強盗をしながら稼いでいる」という返事でしたが、「臆病そうなシミオーニにそんなことはできまい」と、フランチェスキーニは信じていません。ちなみに『強盗』は、パルチザン以来の極左グループの伝統的な資金稼ぎの方法で、『鉛の時代』には銀行、商店で数限りない強盗騒ぎが繰り返されています。

「これから闘いのレベルが高まり、本当の革命家たちだけが残り、平和主義者たちは立ち去らなければならない」とシミオーニは折に触れ強調し、「ニクソンが訪伊した際に、ナポリでNATOの幹部を殺害する」との計画を話していた。また、『黒い君主ジュニオ・ボルゲーゼのクーデター』が起こることをすでに知っていて、その間に精鋭武装集団を作ってボルゲーゼを襲撃しよう、と青年たちに提案しています。

青年たちといえば、ボルゲーゼがそれほど重要な人物とは思わず、まさか本当にクーデターを画策しているとも知らなかったので、その提案を拒否。実際のところ、70年に未遂に終わった『ボルゲーゼのクーデター計画』は、74年にジュリオ・アンドレオッティがその文書を公開するまで市民には知らされず、当時はそんなことが密かに起こっていたことを誰も知りませんでした。なお、クーデター発覚後に開かれた裁判では、ボルゲーゼを筆頭に関わった全ての軍部関係者、極右グループは『無罪』の判決となっています。

また、シミオーニは「コンピューターで計算してみると、73年、74年が大きな不況(実際にはオイルショックが起こっている)に見舞われるので、74年に大きな事件を起こし、その後、あらゆる右翼グループに忍び込み、そこで市民戦争を起こそう」と言い出し、だいたいシミオーニがそんな情報をどこから得ているのか出どころがまったく不明で、青年たちはシミオーニと共に活動することに恐怖を感じはじめます。

決定的な決裂の原因となったのは、シミオーニがクルチョ、フランチェスキーニにはまったく秘密裏に、アテネのアメリカ大使館襲撃を画策したことでした。犯人はミラノからアテネに飛んだ過激派ということでしたが、時限爆弾が予定より早く爆発し、テロリストたちは自爆。しかもシミオーニは、その襲撃をクルチョのパートナーであるマラ・カゴールにも密かに依頼していたことが判明し、「こんな大切なことを秘密で計画するとは」とクルチョを激怒させた。結局、青年たちはシミオーニに「われわれはわれわれの方法で、道を進んでいく」と三行半をつけつけます。

この時クルチョがはじめて、「シミオーニはCIAのスパイだな」と言ったそうですが、その頃の青年たちは、国際諜報がどれほど複雑なシステムなのか理解しておらず、全ての謀略はCIAのスパイの仕業だと決めてかかっていた。しかし今になって思えば、フランスの秘密警察、モサド、あるいはKGBとも考えられる、とフランチェスキーニは振り返っています。「ひょっとしたら、アテネで死んでいたのは自分だったかもしれない」と、マラ・カゴールもまた、このエピソードに激怒し「シミオーニに復讐する」と探しに行きましたが、すでにシミオーニは、どこにも姿が見えなくなっていました。

シミオーニはしかし、この時すでに、青年たちの周辺で精鋭武装集団「スーパークラン」をリクルートしており、『Lotta Continua – 継続する闘争』など、ほかの極左グループに忍びこませてもいました。クルチョとフランチェスキーニは、「スーパークラン」と思われるメンバーをシミオーニとともにすべて排除。スーパークランたちはその時『継続する闘争』へ移動していますが、おそらくシミオーニは、各極左グループにスパイを置いておきたかったのではなかったか、とフランチェスキーニはインタビューに答えています。

『赤い旅団』がクルチョ、カゴール、フランチェスキーニに、1970年に正式に結成される以前、68年から69年の間に、のちの布石となると思われる、このような出来事があったわけです。

TO BE CONTINUED(不定期に)………..

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